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通史編

本扉

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III 武蔵大学の歴史

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年表

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主題編

本扉

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田中郁三理事長・学園長(武蔵学園記念室)
編集者注

【編者注:田中郁三氏(1926-2015)は東京府出身、旧制武蔵高等学校(17 期理科)を卒業後、東京帝国大学理学部を卒業し、1958 年東京工業大学教授、1985 年東京工業大学学長。光エネルギーと分子の相互作用を長年にわたり研究。光源としてレーザーを導入する手法を開発し新しい光工学を確立した。その後1998 年4 月第4 代武蔵学園長、2000 年5 月に学校法人根津育英会第9 代理事長を兼任し、2006 年3 月の退任まで武蔵学園の経営と運営にあたった。主な事績として、それまでの学園協議会中心の運営から常任理事会中心の運営へと、現在の学園運営の基礎をつくったことが挙げられる。

田中氏が研究の専門分野以外、とくに学園の運営や教育について公にした文章はきわめて稀であるが、武蔵高等学校中学校で在学生・その保護者向けに毎年発行されている冊子『大欅』において、学園長理事長の在任中、数号にわたり執筆した巻頭言が存在する。武蔵入学生・卒業生に対する貴重なメッセージと考えられるので、そのいくつかを以下に紹介する。】

田中郁三学園長
入学式に当たって

昨年【編者注:1998年】の4 月1 日に植村泰忠前学園長の後任として武蔵に来てから一年経過した。まだ新入生気分が抜けていないのに、入学に当たってのお祝いの言葉二回と卒業式での祝辞を述べる機会を与えられた。私にとって大切な青春時代を過した武蔵であったが、半世紀を過した環境が大学であったため、生徒皆さんの気持ちを理解しながら話すことは極めて難しいことであった。

今年度から幸い授業の形で、生徒と直接話す機会をつくって戴けそうで、私として期待している。然しこの度の入学に当たっての祝辞は、残っていたその当時の日記と今でもフト思い浮かぶ昔の師や友人の言葉を中心に、平凡ながら自分の経験をもとに作ることとした。時代が違うし私として自信のもてるものはとても出来なかったが、時代を超えた部分も幾らかはあるのではないかと考えたのである。

目標を立て、その目標に向かって努力していくことは私共の人生の道を歩んでいく際によく行われることである。特に学校の場合には入試があり、また幾つかの関門になっている試験もある。その意味では比較的容易に目標を決めることが出来る。そこで多くの場合その目標に向かって努力し遇進するであろう。然し実際はそう簡単ではない。

希望に燃えていた明るい時期から一転して、自らの目標を失い自らの進む道を失ったと感じて、毎日何もしたくない、また何かをしようとしても何も出来ないといった憂欝な時期を経験することがある。このとき最終的に崩れることから防いでくれたものは、私の僅かな経験から次の事が大切であったように思う。

少数ではあっても共に歩んでくれる人がいること、熱中できるもの、全身で打ち込めるものがあること、自然が解決するまでじっと待つという、時の経過の大切さ、等が立ち直るのに力を発揮したと今でも思い出すのである。

武蔵に入学したことは恐らく一つの重い目標を達成したことで、おめでとうと心からお祝いすると同時に、次は新しい目標を各自自らが定めて進んで欲しいと心から思わざるを得ないのである。その反面、多くの学校で目標が強く決められており、それを中心に邁進することが昨今世間で特に強調されているように見える。一見学校側にとって目標を強くかざして進む方が能率的でしかも統一し易いかもしれない。然し生徒側の自由で自主的な判断が出来るよう少しずつでも努力することが大切ではなかろうか。

自主的に考えていく回りくどい道のりを選んで、いったいどこに差がでるのであろうか。この差は種々の場面で起こると考えられるが、その内の大切な一つについて述べたい。学んでいく過程で「分かった」と思う気持ち、意識をもつことはよく体験することであろう。それは分からないままに先に進もうとすると、その先の理解をする事は出来ずほぼ棒暗記で進むことになるからである。「分かった」との体験はさらにその中にいくつもの種類・段階があることを知ることが出来たなら幸いであると思う。

このことは知識の上にさらに大きい知識が存在することを知ることと同じである。高学年に進みまた大学に進学して、例えば単振動、分子といった単語のもつ意味やもっている内容は著しく異なることが分かるであろう。知識と同じように物事の筋道を与える論理も段階があることを知らなければならない。その時自分自らの体験を通じて知ることが大切である。

ここで昔武蔵の生徒であった時代に、今でも鮮明に覚えている言葉がある。授業時間に先生のお名前は忘れてしまったが、先生が自分の体験を通していろいろ親切にアドバイスをされ、それを見習おうとしていた私に向かって、私の友人は「先生は先生の仕方、自分は自分で」と独り言のように眩いたことである。

「してしまった失敗を悔やむより、したかったのにせず、可能性をゼロにしたほうが、悔やみが大きい」との賢人の言葉を持ち出すまでもなく、「基礎的な質問、やさしい質問を恥ずかしがるな」が学ぶ者にとって大切な言葉であろうと思う。これは質問を受ける側にとっても、その質問によって如何に問題点を明確にすることが出来たか、知識、理論のどの段階による理解、議論であるのか等いろいろ学ぶことが多いのである。

最後に私の体験と意見が必ずしも直接最近の生徒皆さんの参考になるとは思えないが、皆さんが常に希望を持ち続けて活躍することを期待すると同時に、私も皆さんと共に歩んでいきたいと考えている。(『大欅』No.39(1999.7.1)掲載)

卒業式にのぞんで

昨年大欅に「入学式にあたって」を書く機会を与えられてからほぼ一年になる。この度は「卒業式にのぞんで」と題して、半世紀以上前の同じ講堂で卒業した自分の貧しい体験を含んでここに書いてみようと思うのである。

まず最初にすぐ浮んでくるのは何人もの先生のお顔である。またその先先方の短い一言が生涯の節目節目に横切って自分を振り返る機会になった。その中で幾つかを選んで書いてみよう。私達の国語を担当していただいた先生に重友毅先生がおられた。高校では日本文学も教えられたが、一番印象に残っているのは作文である。私の書いた作文に対し先生の推敲後のものは全体隅から隅まで真赤になっており、しかもそれを読んでみると確かに稚拙な文から確かな文に変わっていた。

先生のいわれた言葉に「人は時折転換期を迎えるときがある。しかも急なことが多い。それまでいくら優れていても、その時に発揮する力がなければ弱い人間としか思えない。」これは当たり前のように響く言葉ではあっても私の人生にとっても重い一言であったように思う。学問においても、人生行路においても狭い範囲でしか成長してこなかった人間が転換期に遭遇すると必ず体験する事ではないだろうか。

私の武蔵高校時代の化学には玉蟲文一、都築洋次郎、掛川一夫の三人の先生がおられ、私は幸運にもその何れの先生方からも化学を教わり、また卒業後も同じ分野であったこともあり、多くの機会でお世話になった。玉蟲、都築の両先生は残念にも故人となられたが、掛川先生は信州大学の名誉教授としてお元気で活躍されている。

先生から化学は勿論いろいろのことを教わったが、ここで私達何人かと玉蟲先生とで話し合ったことの思い出について触れたいと思う。玉蟲先生が1927 年春から1929 年の初冬までの2 年間ベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所でフロイントリッヒ教授のところで物理化学の研究をされた頃のことについての話であったように憶えている。その時いったい向こうの研究者とどこが違うのでしょうか。との質問に対して先生は次のように答えられた。「研究能力などそんなに変わらないが、一つのことに実に粘り強く考える。特にその当時ドイツの研究指導者に多かったユダヤ系学者にみられる。そこが我々の心すべき事ではないか。」

先生のお話は粘り強くというより粘っこい思考といったニュアンスがあったように思う。我が国では昔から性格的にもあっさりしているほうが好まれるし、また一つのことにあまり強く追求することにある躊躇がある。これは私共の社会が争い事を極力避けようとしたのに依るように思う。私達は今後この特徴を良い面として失うことなく、他方、物事の内容によっては結論を得るのにより深く粘りのある思考でなければならないと自省している。

数学、物理、英語、ドイツ語等の分野の先生方にも同じように私達は生涯において大切なことを學んできた。これらについては別の機会にお話が出来たら幸いだと考えている。

最後に今年の卒業式にあたって卒業の日を迎えた生徒諸君に何か一言求められればとして、次のことをお話しした。

自分として正しいことをしていれば黙っていても最後には皆が分かってくれる。これが私の育った時代の教えであったように思う。然し今日では次のことをさらに付け加えて考えなければならないだろう。この正しいという自分の判断が実は狭くかつ閉じた範囲の中における判断ではなかったか、ともう一度疑いかつ最初に戻って考える必要がある。そして更に正しいと思って自分がしたことについて、いつでもまた誰に対しても求められればその理由を明らかにする責任があるように思われる。

昔と比べて現代は、多くの情報がとれるよりオープンな社会になっていること、また目標と結果に対してより的確な評価がし易くなってきていることにその特徴がある。このことは私達の行為にっいてつねに社会からの評価があり得ることを意味している。そこで私達は社会から的確な評価を受け、それにより更に成長と発展を願って明日に進むのが私達のとるべき道であるように思う。(『大欅』No.40(2000.7.1)掲載)

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