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通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

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あとがき

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校名『武蔵』のこと(大坪秀二)
編者注

【以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『武蔵高等学校同窓会会報』第40 号(1998年11月20日)に寄稿されたものである。】

 

 前号に三理想の成立過程のことを書かせていただきました【編者注:『同窓会会報』第39号に著者が「三理想の成立過程を追う」を寄稿されたことを指す。「三理想の成立過程を追う」は、本主題編にも全文収録されている】。

 多くの方から読後感を寄せていただき感謝しております。図にのって今年【編者注:1998年】も、まともな史料集には載せられない、しかし、私にはかなり真実らしく思える物語として、「校名が武蔵と名付けられた経緯」を発表させていただきます。なお、文中、創立者根津翁、創立以来武蔵を育て上げた山本先生、その他全ての人々の敬称を省略しました。なにとぞご了承下さい。

 これまで、『武蔵七十年史』・『武蔵七十年のあゆみ』その他に書かれているとおり、財団法人根津育英会の設立申請は1921(大正10)年7 月25 日、同財団の事業としての七年制高等学校の設置認可申請は同年7 月27日で、申請書にある校名は『東京高等学校』でした。『武蔵七十年史』(写真集)には、この部分の写真が載せられています。育英事業を始めることを根津嘉一郎(先代)に勧誘し、その実現まで根津の手足となって働き、学校の開設準備万般の実行役を引き受けていた本間則忠の記録(『学園史年報創刊号』、55ページ)によれば、学校設置申請の直後に文部省から、東京に国が作る予定の第21 高等学校(はじめ三年制で作る予定を、大正九年に七年制に計画変更)に『東京高等学校』の名を譲ることを求められ、急遽新校名『武蔵』について関係諸氏の賛成を取り付けた上で変更決定したものとあり、「名称については深遠なる典故を有す」と付け加えられています。本間が書き残した『本校創立事情記録』の中の「校名を武蔵と名けたる事由」は、『武蔵五十年のあゆみ』(1972 年刊行)に初めて紹介されて以来、同窓生・在校生の多くの人々にとってなじみ多いものとなっていることと思いますが、本稿を読んでいただく便宜のために以下に引用します。

 これまで、『武蔵七十年史』・『武蔵七十年のあゆみ』その他に書かれているとおり、財団法人根津育英会の設立申請は1921(大正10)年7 月25 日、同財団の事業としての七年制高等学校の設置認可申請は同年7 月27日で、申請書にある校名は『東京高等学校』でした。『武蔵七十年史』(写真集)には、この部分の写真が載せられています。育英事業を始めることを根津嘉一郎(先代)に勧誘し、その実現まで根津の手足となって働き、学校の開設準備万般の実行役を引き受けていた本間則忠の記録(『学園史年報創刊号』、55ページ)によれば、学校設置申請の直後に文部省から、東京に国が作る予定の第21 高等学校(はじめ三年制で作る予定を、大正九年に七年制に計画変更)に『東京高等学校』の名を譲ることを求められ、急遽新校名『武蔵』について関係諸氏の賛成を取り付けた上で変更決定したものとあり、「名称については深遠なる典故を有す」と付け加えられています。本間が書き残した『本校創立事情記録』の中の「校名を武蔵と名けたる事由」は、『武蔵五十年のあゆみ』(1972 年刊行)に初めて紹介されて以来、同窓生・在校生の多くの人々にとってなじみ多いものとなっていることと思いますが、本稿を読んでいただく便宜のために以下に引用します。

  • 一、学校の設立せられたる国名に因みたり。即ち此の学校の位置が武蔵国に在るが故なり。而して郡町村の名に拘泥せざりしは、古来世に広く知られ、且尊き記録を有する国名を採るに若かざるを以てなり。
  • 二、学校の設立せられたる歳に因みたり。即ち此の歳には世界の大戦漸く戢まり、新たに平和条約の締結を見たり。依て戢武崇文の義解に随ひ武蔵と名けたり。
  • 三、学校訓育の要義に因みたり。即ち武蔵の往古には万葉仮名にて兂邪志と書かれたり。然るに人として邪志を有せざることは人格向上の基礎にして、学校訓育の要義に他ならざるを以て採りて校名と為したり。
「武蔵」校旗
◆旧制時代の伝承

 なお、この校名変更の一幕は前述の通り大正十年八月中のことで、創立以来武蔵の中心人物となった山本良吉教頭(後に校長)が開校準備に関係する以前だったわけです。その山本によって、この校名変更の経緯が生徒に語られた記録は、私の探し得た限りでは『校友会誌34号』(昭和12年6 月) にある「開校十五周年記念式山本校長式辞」だけで、それには次のように書かれています。

 「大正七年[筆者注:十年の誤り] に愈々本校を造る時には『東京高等学校』の名前で出願したのであるが、文部省の方でその名を欲しいといふので、東京よりは少し広い武蔵高等学校としたのであります、その時に日本高等学校とでもしたならばもっと広かったのですが。」

 いま読むと、これはかなり皮肉をこめた表現のようにも思われます。同様な話は、折にふれて、山本はじめ何人かから繰り返されたのでしょう。旧制時代の多くの人が記憶しているようです。生徒の一人としてこの話を聞いた私の記憶には、「東京より武蔵の方が大きい」という山本校長の一言だけが鮮明に残っています。そして「大きいだけか」という、何か割り切れない思いが残ったことも確かでした。

◆本間則忠は知っていた

 校名変更の話は、一見単純な瑣事でした。三年ほど前に思い立って、七年制高校誕生を導いた大正六~七年の臨時教育会議の詳細を調べはじめて間もないころ、これまで当然気が付いていてよかった筈の一事にはたと思いが及んで、校名武蔵のことを私は再考してみる気になったのです。そして、校名の由来をつくづく読み返すうちに、その第二項をこれまで全く迂闊に流し読みしてきたことに思い至りました。大正七年の新高等学校令で従来の第一から第八までの高等学校に加え新設されることになった高等学校には、新潟・松本・山口・松山……のように、設置する都市の名を冠する習慣が出来て、後にナンバー校に対し地名校と呼ばれるようになったのはよく知られています。そして、第21 番目に設置を予定された高校は東京に作られるものですから、当然それは『東京高等学校』と呼ばれるのが当事者間では自明のことだったでしょう。本間則忠は文部省事務官として当事者側の一人でもあったわけです。その本間が殆ど一人で切り盛りした「根津家設立の学校」の名にわざわざ『東京高等学校』と書いて出すことの裏には、何か理由がないはずがないということに、今更ながら気がついたというわけです。

 これから先のことは私の推理でしかなく、状況証拠以外のものは今のところ皆無です。本間は官立の21高校が東京高校になることを知っていた筈です。だから、根津が設立する七年制高校の名前を考えるときには、当然『東京』以外の名を選んだでしょう。そして、本間と根津との間に校名の相談があったのは、七年制高校創設について関係者の合意が出来たごく初期の段階(おそらく大正八年末か九年)であることを暗示するのが、上に引用した「校名由来」の第二項だというのが、私の推測です。学校設立の年は大正十年で、大戦終結・条約締結の大正八年ではありません。

 これを本間の思い違い、書き違いと言ってしまえばそれまでです。しかし、この時代に生きた人々が二年もの間違いをするでしょうか。事実、本間が書き残したもう一つの文書(『学園史年報第一号』61 ページ) には、「時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和条約の央(なかば)に属す。戢武崇文を以てこの学校の名となすこと、たまたま以て創立の歳を紀するの便も亦鮮すくなからざるなり」ともあり、より明確に大正八年を指しています。これらの文章から見ると、「学校の設立せられたる歳」とは、学校設立がはっきりと第一歩を踏み出した年と解釈できるのではないでしょうか。構想の初めからの二人(根津と本間)にとって、心の中に温めていた新事業がしかるべき後援者を得て動き始めた年(大正八年)こそ、記録すべき年だっただろうと思います。しかも、その時新制度「七年制高等学校」を国が設立する計画は難航し、五里霧中の状況でした。此の状況を傍らに見つつ、二人は「我等こそ新制度の先駆者」との思いが強かったことでしょう。

 これから先のことは私の推理でしかなく、状況証拠以外のものは今のところ皆無です。本間は官立の21高校が東京高校になることを知っていた筈です。だから、根津が設立する七年制高校の名前を考えるときには、当然『東京』以外の名を選んだでしょう。そして、本間と根津との間に校名の相談があったのは、七年制高校創設について関係者の合意が出来たごく初期の段階(おそらく大正八年末か九年)であることを暗示するのが、上に引用した「校名由来」の第二項だというのが、私の推測です。学校設立の年は大正十年で、大戦終結・条約締結の大正八年ではありません。

 これを本間の思い違い、書き違いと言ってしまえばそれまでです。しかし、この時代に生きた人々が二年もの間違いをするでしょうか。事実、本間が書き残したもう一つの文書(『学園史年報第一号』61 ページ) には、「時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和条約の央(なかば)に属す。戢武崇文を以てこの学校の名となすこと、たまたま以て創立の歳を紀するの便も亦鮮すくなからざるなり」ともあり、より明確に大正八年を指しています。これらの文章から見ると、「学校の設立せられたる歳」とは、学校設立がはっきりと第一歩を踏み出した年と解釈できるのではないでしょうか。構想の初めからの二人(根津と本間)にとって、心の中に温めていた新事業がしかるべき後援者を得て動き始めた年(大正八年)こそ、記録すべき年だっただろうと思います。しかも、その時新制度「七年制高等学校」を国が設立する計画は難航し、五里霧中の状況でした。此の状況を傍らに見つつ、二人は「我等こそ新制度の先駆者」との思いが強かったことでしょう。

◆文部省には貸しがあった

 しかし、文部畑に長くいた本間は、此の国の官民の格差がどれほどのものかを熟知していました。そもそも、七年制高校は新高等学校令で高等学校の正規の姿として定められながら、国としてこれを実現する意図はもともとなかったようです。根津家の企てや甲南中学の七年制への移行計画などが文部省を揺さぶって、やっと一校だけ官立で作る決定はしたものの、その具体化は前述のように五里霧中でした。そんな事情があるのにその後の進行では、後発の官立七年制高校が全ての面において根津の私立高校に一歩を先んじる形の措置がとられています。学校の設置/設立認可の時期、校長の任命/就任認可の時期、開校日、そして、武蔵が一年生のみ募集したのに対して官立は一、二年生を同時募集して一年早く卒業生を出すなど、今の目で見るとき幼児のような優越心の表明らしいものさえあります。そのことを知りつくしていた本間にとって、ひとつだけ出来る悪戯は「校名の先取り」だったのではないでしょうか。『武蔵』という校名は、とうに根津との間に決定ずみであったにも拘わらず敢て伏せておいて、設立認可申請には文部省予定の『東京高校』で出す。「国も一度くらいは先駆者の根津育英会に頭を下げたらどうだ」と!本間の記録には、文部省からの要請により(校名につき)更に研究を重ね、急速の間、本間案を逗子滞在中の平田総裁の邸を始め各評議員邸を持ち回り云々とあります。根津・宮島・正田・本間の四人の相談について一言の言及もないのは、その部分が校名決定の核心に触れるから敢えて避けたのではないでしょうか。

◆熱い思いと冷めた思い

 根津や本間が校名にこめた思想をあらためて要約してみると、それらは、古代伝説も含めた武蔵の国への愛着、平和主義、邪志なき誠意の三つであり、全体を一括して武蔵の国という名と実への愛情が読みとれます。殆どが文字の上の遊びとはいえ、新設校への根津とその周辺の思い入れを表していたと思われます。本間が山形県の出であることを除くと、宮島は栃木県、正田は群馬県出身で、大きく言って皆「東国」の人達です。根津自身は山梨県人ですが、幕藩時代から甲斐は江戸と直結の地ですから、創立に関わった根津側の四人が、東国の中心である武蔵の国という名に西の人間よりも大きい愛着を持ったであろうことは推測できます。別の資料から見ても、根津は会津の白虎隊顕彰碑建立に私財を寄付したり、創立後の武蔵に御真影奉安殿を造るという学校側の提案を理事長決定で凍結したりで(『学園史年報第三号』185ぺージ)、政治思想として明治新政府を好まなかったらしい節が見えます。この側面から見ても、もし、「東京」か「武蔵」かと並べたとしたら、殆ど確実に「武蔵」が選ばれただろうと思うのです。

 創立後の武蔵には、このような思想は継承されませんでした。それは、山本教頭の思想との齟齬に起因すると思われます。『晁水先生遺稿集』(正続)、『校友会誌』などに残る山本の話を検討してみると、平和主義に関するものは殆ど見あたりません。自由主義についても、青年期のことは別とすれば、かなり否定的な見解を持っていたようです。大正デモクラシーを特徴づけた自由主義教育などは、山本から見れば「先年初等教育界に盛んに行われた一弊風」であったらしく見えます(山本良吉『若い教師へ』大正十一年刊行)。山本は金沢に生まれ、京都での生活が長く、基本的に京都文化圏に浸って過ごした人です。彼にとって「武蔵」という名に特別の思いはなかったでしょう。しかし、山本は本間の残した『本校創立事情記録』を読んでいました。読んではいても、根津・本間の気持ちに共感を持たなかった山本は、言葉の上でのこじつけのような「校名の由来」を尊重する気にならなかったのでしょう。

◆武蔵は初めから武蔵

 以上、推測で固めた私の小論を、同窓各位はどう読んで下さったでしょうか。どうせ証拠はないことで、ただ、それらしい状況があるだけです。それなら、「武蔵は初めから武蔵であったらしい」ということ、そして、武蔵創立に関わった人達は武蔵野の大地とそこに結びつけられた古代の伝承を愛し、人間のまっすぐな誠実を愛し、大戦の後に漸く手にした平和を心から喜んだ人々であったという推理を真に受ける方が素敵ではないでしょうか。そして、武蔵の歴史を読むときに、創立者根津嘉一郎の社会貢献の志とともに、校名『武蔵』にこめた創業者たちの思想にも思いを馳せて頂けたらというのが、実り少ない史料あさりを懲りもせずに続けている私の些か厚かましい願いでもあります。

 (筆者より:七年制高等学校を制度の中心に置いた大正七年の新高等学校令の成立や、それを審議した臨時教育会議の全体像については、日本の教育史上の重要事としてより詳細に論じる必要がありますし、資料も沢山あります。しかし、本稿ではそれらを一切省略しました)

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