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『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録(植村泰佳)
はじめに

 武蔵学園の創立七十周年を記念して1993(平成5)年に刊行された『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3 名、配属将校2 名、卒業生52 名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。

「相浦忠雄遺稿集」より 相浦忠雄と家族
1 .相浦忠雄の略歴

 相浦忠雄(旧制11期・文科)は、1919(大正8)年11 月23 日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。

1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。

1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。

1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。

1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている)

1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。

1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12 月25 日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。

1942(昭和17)年1 月6 日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1 月20 日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8 期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。

同年5 月16 日、カトリックの洗礼を受ける。

同年5 月20 日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1 課に配属。

1943(昭和18)年2 月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。1944(昭和19)年3 月、航空母艦雲鷹(うんよう)主計長。雲鷹は同年8 月7 日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9 月17 日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。

雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。享年24 歳10 ヶ月であった*1。

2 .相浦忠雄遺稿集

 『相浦忠雄遺稿集』(以下、『遺稿集』と略記)は、1950(昭和25)年9 月、彼の死を惜しむ武蔵の同窓後輩、海軍経理学校(主計科短期現役士官養成)の同期後輩、親族らの手によって編集刊行された。

 冒頭「編者の言葉」では、「相浦忠雄の戦死が人類の文化にとってどれほどの損失であったかは、遂に知ることができない。唯ここに集められた彼の遺稿はその損失が並々のものでなかったことを示している。」と述べている。

 編集委員は、赤沢璋一、小川政亮、大橋弘利、亀徳正之、相良一郎、早田和正、苫米地俊博、長橋尚、宮澤喜一、山下元利、吉國二郎、渡辺正雄の12 名。この内宮澤(大蔵省、後に内閣総理大臣)、大橋(弁護士)、長橋(通商産業省)が武蔵同窓。赤沢(通商産業省)、山下(大蔵省、後に衆議院議員)、吉国(大蔵省、後に国税庁長官)らはおそらく海軍主計科短期現役士官の同期後輩、苫米地は義弟と推定される。遺稿集の題字は、相浦が日米学生会議で渡米した折の日本代表団長であり、戦後成蹊大学総長となった高柳賢三の手になるものである。

 この時代の、日記、ノート、写真等の記録は、多く戦禍に遭って消失しており、相浦の場合も、武蔵の高等科*2 1 年から高校生時代に書きつないだノート一冊だけが遺され、遺稿集の母体となっている。幸い、このノートの余白には、相浦が雲鷹主計長に就任してから戦死までの約四ヶ月の日記が記されており、その意味でこのノートは、相浦の高校生時代と、主計長時代のそれぞれの時期の「肉声」を知る、よすがとなっている。このほかに、遺稿集にはもちろん、武蔵校内で刊行された諸雑誌への寄稿、日米学生会議の報告等、外部刊行物からの転載がいくつか収録されているが、中心はあくまでも前述のノートである。逆にこのノートがカヴァーしていない時期、たとえば海軍経理学校時代や雲鷹主計長就任以前の時期については、相浦の肉声は聞こえてこない。カトリックの入信についても、おそらく相浦はそれなりの信仰告白を記していたであろうが、記録は消失してしまっている。

 本稿に於いては、『遺稿集』を読み解くことを作業の中心としつつ、相浦の生涯を意味づけるいくつかの重要なエピソードについては、相浦の肉声を直接に聞いた他者(土田国保、近藤道生ら)の証言をまじえながら、相浦が何を考え、どのように死んでいったかを見ていきたい。

3 .愛日寮生相浦忠雄

 旧制武蔵高等学校には、尋常科*3 生徒のための慎独寮、高等科生徒向けに愛日寮、双桂寮の二寮があった。これらの寮は、元々山本良吉校長が、他の高等学校の全寮制とその風俗を嫌忌していたこともあって、全生徒が入るものではなく、いわば一部寮制とも言うべきものであった。

 相浦が高等科に進み、愛日寮生となったのは、おそらくは父親が明治鉱業に奉職して九州勤務が多かったことと関係があったのではないかと推測される。

 愛日、双桂の二寮は、武蔵校内でライバル関係にあり、両寮対抗で弁論大会なども開かれていたようである。前者はともすれば儒教主義的東洋思想的寮風、後者はルネッサンス的西洋近代主義的な寮風と思われていた。

 『遺稿集』では、両寮の対抗弁論大会において、相浦が愛日寮を代表して、双桂寮側の先輩竹田政民に反論する演説草稿が掲載されている。この内容を本稿に敷衍するには、あまりに難解かつテーマが広範であるのだが、一言でいえば、旧制高校生的な深い思索、思惟にこの頃の相浦が沈潜していたこと、さらに言えば、武蔵三理想*4 の一である「東西文化の融合」を(相浦に限らず)当時の高校生が如何に重要な思索のテーマとしていたかがわかる。

 大正期から昭和初期にあっても、この階級の人々の一般的な生活は、武士道あるいは儒教的な価値観をベースに営まれていたのであり、その一方で旧制高等学校生が日々学ぶ学問は、文系であれ理系であれ、ほとんど西洋の科学と思想の産物であったという事実が、この主題を、今日以上に彼ら旧制高校生にとって喫緊のものとしていた。21 世紀の今日の我々があまり深くは考えない、東洋的な生活感覚と西洋的な知性、理性との整合は、この時代には、教養ある若者たちが乗り越えなければならない大きな課題であったといえる。武蔵高等学校の愛日、双桂二寮は、その寮風のわずかな差異で東西のいずれかに偏っていたのであり、今日から見れば「似たようなもの」であったかもしれない僅かな差異をめぐり、堂々の論争がなされていたと見ることもできる。

旧武蔵高等学校校舎(現在の大学3 号館)横での旧制武蔵高等学校11 期生の集合写真。1933 年~1939 年の間の撮影と思われる。相浦忠雄は前列の左から3 人目で、右足を階段のふちにかけ、膝の上に右手を置いている。なお、右から7 人目は、第78 代総理大臣となった宮澤喜一。この写真は、生物学研究室に保管されていたガラス乾板を復元・現像して電子化した。
4 .武蔵高等学校外遊報告第十号

 1937(昭和12)年7 月、高等科2 年の時、相浦忠雄と宮澤喜一は、武蔵高等学校第11回外遊生*5 に選ばれ、中国視察の準備をしていたところ、折から盧溝橋事件が勃発し急きょ外遊先を満州(現在の中国東北部)に変更し出発することとなった。その外遊報告は、『2597 年度武蔵高等学校外遊報告』*6 という約50 頁の小冊子として、山本良吉校長の前文を付して翌年刊行された。幸い、武蔵学園記念室にはその小冊子が現在も保存されている。

 外遊報告は相浦と宮澤の共著であり、この報告のどの部分を相浦が執筆したかはわからない。が、いずれにしても、高校生のまとめた内容としては出色のレポートである。この中で日々の満洲訪問先での取材内容を記した部分(三理想の「自ら調べ」の部分)は、今日の武蔵高校生の国外研修報告と比較し、どちらも極めて優れているものと評価できる。むしろ現在の国外研修報告も、十分相浦、宮澤の域に達していると言うべきかもしれない。

 だが、この報告の中で特徴的なものは、「二三の考察」という最後のまとめの部分であり、ここでは漢民族の民族性についての二人の考察が書かれている。「矛盾に富む」「自己本位」「金銭への執着」「面子」「没法子」「社交性」等々、当時多くの人が言い、今日でもよく言われる批判的な特性が考察された後、漢民族の「同化力」についてが、特筆されている。

 その同化力があるゆえに、「支那は疲れた。早晩滅びる。」という人があるけれども私にはそうは思われない、との記述がある。この「私」は宮澤であったろうか、相浦であったろうか。

 また、「二三の考察」の中では満州における日本農業移民についても、深い考察がなされていて、これの成功への危惧が控えめにではあるが表明されている。事実の報告、要約、構成もさることながら、こうしたまとめにおける洞察(三理想の「自ら考える」部分)の点において、二人の人物がいかに傑出していたかを見ることができる。

5 .日米学生会議

 そして相浦の短い生涯の中で、再びの「海外雄飛」。 

 相浦忠雄は1939(昭和14)年東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米した。『遺稿集』には、帰国後学生たちが編纂し、日本評論社から刊行された『学生日米会談』に寄稿した相浦の一文「支那事変の投げる影」が転載されている。

 ここで述べられていることを要約すれば、当時の米国人が庶民の果てに至るまで、日本の中国侵略に対して、強い批判感情を持っていること。にもかかわらず、個々の米国人は個々の日本人に対して親切であり、国家レベルの批判感情を個人に及ぼさないこと。そして、米国人から生年、所属大学等を問われた後で、必ず「それでは間もなく貴方も戦争に行くのですね」と愛惜するように言われることなどである。

 これらを読んでも、相浦がもし彼か の戦争を生き延びて、日本再建の掌に当たることができたとしたら、米国人の良き友人として、この渡米の経験を活かすことができたであろうにとの思いを禁じ得ない。

6 .これが全部焼け野原になる

 1941(昭和16)年12月8 日、東京帝国大学生近藤道生(武蔵12期文、後に大蔵省、国税庁長官、博報堂会長)は、本郷の下宿「幸運館」で同級生高柳忠夫から日米開戦と真珠湾攻撃の成功を聞いた。かねて、日米開戦に懐疑的であった近藤は、高柳に「困ったことになるかも知れないぞ」とだけ言い残して外へ出た。

 

・・・・・

歩いて十分ほどで東大図書館に着いた。そこには旧制武蔵高校で一年先輩だった相浦忠雄さんがいた。誘われるまま二人で図書館の屋上に上がると、眼下に広がる東京の家並みを前に相浦さんは「君、これが全部、焼け野原になるんだよ」と唐突に言う。「そうでしょうか。日本の軍部もそれまでには手を打つでしょう」と、戸惑いながら相浦さんの横顔を覗き込んだ。相浦さんは迷いもなく「いやいや、必ずそうなる」と言って口元を引き結ぶ*7。

・・・・・

 

 相浦の戦争の結末に関する予想は、その後の戦死直前のものも含めて、恐ろしい程透徹している。しかもそれは、直感的、宗教的な「予言」としてではなく、あくまで合理的な「判断」としての未来予測である。にもかかわらず相浦は「敗戦必至」の戦争を、自らの義務として引き受け、海軍主計科短期現役士官を志願し、その義務を果たすことの中で24歳の前途ある身に死を課した。

 その心理の過程は、近藤が後に言う「開戦となったからには愛する者のために命を捧げよう」という程単純ではなかったかも知れないが、相浦の中に内在する「愛と献身」という心理的なモチーフが、主計科志願の動機の根幹にあったことは想像に難くない。

7 .海軍主計科短期現役士官

 当時の日本は、義務兵役制であり、帝国大学出身者といえども徴兵は猶予されていただけで、卒業すれば兵役に就かなければならなかった。検査に合格し徴兵されれば、通常は陸軍二等兵からそのキャリアを始めなければならない。そうした事情の中で、海軍主計科短期現役制度は、医学部出身者における軍医の場合などと同じく、大学の文科卒業生を採用と同時に海軍主計中尉に任官させ、経理学校での数ヶ月の教育を経てすぐに艦隊や省部に配属、勤務させるというもので、兵役に就く条件としては格別に優遇され、またそれだけに志願者も多かった。(倍率約25倍という)相浦は、東京帝国大学法学部卒商工省に採用された当時の超エリートであり、兵役に就くとすれば、この制度に志願するに最もふさわしい人材の一人であった。

 因みに、この制度に志願し採用された者の中には、後の内閣総理大臣中曽根康弘や、民社党委員長永末栄一をはじめ、戦後政界、官界、経済界などで重きを成した者が非常に多い。

 また、相浦より少し前1941(昭和16)年1 月、三菱銀行員から主計科短期現役士官に採用され、特設巡洋艦八海山丸の主計長として戦死した小泉信吉は、父である慶應義塾塾長小泉信三の著作『海軍主計大尉小泉信吉』の主人公として名高い。

 ただし、これらのエリートの中でさらに優秀な者には、僅かだが「兵役に就かない」という選択も可能であった。相浦と武蔵同期の宮澤喜一は、同時期に大蔵省事務官となり、同省から軍に対して「余人を以て代えがたい」と通知されることで兵役を免除されている。相浦にもその道がなかったとは言えないかも知れないが、同世代の大半の若者が兵役に就く中でそれを回避することは、たとえ「敗戦必至」の見通しを持っていたとしても、おそらく相浦忠雄の選ぶところではなかったのであろう。

8 .カトリックの洗礼を受ける

 相浦は、1942(昭和17)年5 月16日カトリックの洗礼を受けた。この時期相浦はすでに海軍主計中尉に任官しており、受洗の日は、海軍経理学校を卒業し現場に配属される4 日前であった。

 3.で述べた如く相浦は武蔵高校生の頃から、宗教に強く関心を持ち、今日から見れば、いかにも旧制高校生らしい観念論的な思惟としか思えないような思索に、深く沈潜した求道者であった。

 思考の出発点は、良心の根拠。限りなく小さい存在である一個人が、ともすれば道から外れそうになる時、行く手を照らしてくれる「大きな者」の存在であったろうか。相浦の宗教的関心の対象は、次第に仏教からキリスト教、「悟り」から「愛と献身」へと移行していく。おそらくは相浦の中には、すでに予め心的なモチーフとして「良き行い」「他者への愛と献身」があり、それが思考の方向を次第にキリスト教の方向に向けていったのではないかと、想像される。また彼の敬愛する長姉相浦清子の存在も、直接に彼のカトリック入信に影響があったのではないかと考えられる。

 いずれにしても、相浦のこの時期の受洗、カトリック入信は、「敗戦必至」を覚悟の出征を前にして、高校生時代からの彼の長い宗教的な思惟に「けじめ」を付ける意味があったものと推察される。

9 .雲鷹主計長の日記を読む

~精神を病んだ同僚の夫人への対応

  相浦が遺したノートのうち、雲鷹主計長就任後の日記の前半部は、相浦が同期生を代表して、精神を病んだ同僚の夫人と交渉する記録に割かれている。この事実関係はかなり煩瑣なものなので、略述すると、病人は、彼の精神疾患の原因となるストレスをつくった伯父と夫婦養子の関係にあり、その夫人は夫の病が嵩じた後、義父との養子縁組の解消をめぐってトラブルとなっている、というのがおよその事情である。日記から読み取る限り、相浦は同期生たちから「お前しかいない」と言われて夫人のもとに遣わされ、どうやら、夫人と養父との復縁を勧めに行ったらしいのだが、その理由や前後の関係は必ずしも全部記載されておらずやや不明の点もある。

 だが、そのこと自体は本稿の主題ではない。『遺稿集』のこの項から伝わってくるのは、相浦が、こうした難しいトラブルを抱えた友人の世話役として周囲から期待されていた、ということ(後述のサービサーとしての自覚にも通じる面がある)と、相浦がその夫人に向かって狷介な養父を「愛し許せ」と説くときの、殆どカトリックの司祭のごとき様態である。

 相浦の友人のある者は、彼が戦死せず復員したとしても、必ずしも行政官や政治の道は全うせずどこかで教育や宗教の道に行ったのではないかとも言っているが、この精神を病んだ同僚の夫人への対応は、相浦がこうした評価を得るようになった生前の行動の一つとして数えることができるだろう。

 

~「日本の兵科将校」という気負い

  1944(昭和19)年5 月9 日、相浦は戦地から帰還した友人達を迎えて開催された、主計科短期現役8 期、9 期、10期合同のクラス会に参加。その時の感想が日記に記載されている。

 

・・・・・

 クラス会の成長そしてこれがやがて8 期、9 期、10期と繋がってやがて十年、二十年後に実を結び我国の充実せる発展の素地をなしてくれるようにと祈りてやまず。

 補修科学生出身の主計科士官は、なる程海軍にてはまさに単なる主計科士官かも知れない。併し我々は背後に単なる海軍のみに非ず、我が皇国を担負って居るのである。

 海軍兵学校出身者が、海軍の兵科将校として全海軍の中軸であるならば、補修科学生出身者と陸軍における一部の優秀者とは、正に相提携して日本の兵科将校として、全日本の中軸として働かなければならぬ人物なのである*8。

 ・・・・・

 

相浦にしてはやや珍しい、エリート意識を飾らずに述べている記載である。だが、相浦自身は置くとしても、主計科短期現役士官は、真に敗戦後の日本を担う中軸の人材として、一人でも多く生きさせたいと相浦が強く願っていたことがよく分かる記述でもある。このことは、戦死直前の雲鷹における土田国保との会話にも現れている。

 

~サービサーとしての自覚

  1944(昭和19)年5 月13日、相浦は、目黒海仁会病院に、盲腸炎で入院している友人A(主計科同期と思われる)を見舞った。その時の会話と感想が日記に記されている。

 

・・・・・

 A 「実際貴様は看護の妙を心得とる。看護人最適だ」

相浦 「そうだな。しかし看護だけじゃないぞ。俺にホテルのボーイや御用聞きをさせたら、世界一のボーイや御用聞きになるぞ、きっと。又実際、ホテルのボーイをやろうと思ったこともあるんだ。大学1 年の時に。そしてその為に髪迄伸ばして準備しとったら、案外アメリカに行くのに役立ったりしてね。到頭やらなかったけれども。」

看護、給仕、然り、余は終生それに甘んじ否その使命と役割をむしろ光栄として大切にして行くであろう。余の進み方は先頭に立ってついて来れと率いるのでもなく、是が非でもこれをやれと命令するのでもない。統帥の器は余の薄弱な意志と弱気を以てしては極めて乏しい。余は家庭に、学級に、学校に朋輩にさらに部下にも寧ろ看護人、給仕人たる心持ちであったようだし、将来も亦そうであろう。やがて我国全般の為の看護人となることがあるかも知れぬ。その時は上御一人の最も忠良なる臣民たると共に、最も卑賤の名も知れざる一小国民の為にも余はその給仕たり看護人たらねばならぬ*9。

・・・・・

 

 このサービスへの自覚は、相浦の短い人生を特徴付ける一本の筋でもあり、商工省の官吏たる職業意識でもあったのではないか。戦死の時の相浦の行動を考える上においても、相浦の持っていた「看護人、給仕人」としての自覚はきわめて重要な要素となっていると思われる。

 

~童貞感覚

 この時代の24 歳と、21 世紀の24 歳の間を最も隔てている感覚の一つは、性に対するものである。相浦忠雄は、同時代の学徒出陣で兵営に入った人々と比較しても、並外れて女性に対して純粋な感性を持っていたし、おそらくは童貞のまま戦死したのではないかと想像される。以下は戦死二か月程前の相浦の日記の記述である。

 

・・・・・

 1944(昭和19)年7 月2 日、3 日午後上陸して横浜に行く。~中略~横浜雪見橋際掃部山下の松の家電横浜(3)5542 通いも三度を重ね、始め偶然に来れる角兵衛(角チャン)ことG子(西区・・・・方)と褥を共にするも三夜となる。6 月21日、見送らむとて洋装に着換え山手の教会より桜木町迄従ひ来れる彼女は22 日は部屋に入るや、縋りつきヨーコソとそして三度目の2 日は休養中を出て来て掃部山を歩きそして3 日の朝は「角ちゃんは泣かないことにしてゐるの」とて涙も見せざりしその眼にキラリ赤く熱く潤みを帯ばせて「つまんないの」とそして横浜駅横須賀線プラットフォーム迄も送り来る。貴重の林檎や、バターをつけたパンの御馳走(22日)に、又態々アルバムよりハガしての心籠めての肖像写真の贈物に、そして、未だ失はぬ羞恥を捨てて縋りつき顔を埋める女らしい仕草の内に、又時折の喜びに輝く眼とそれにつづく怨めし気の自嘲と悲哀を湛える瞳に、不運を生まれながらに荷負ひつつもそれに打克とうと努めつつ明るく諦めを持って生きて行こうとする単純な教養乏しき、しかしいぢらしき女の心を見る。彼女の上に多幸あれ。

 

 三夜を共にしつつあれ程にも彼女の腕を、胸を腰を掻き抱き愛撫しつつ、結局は身体の関係を結ぶこともなく別れて了ふに到ったのも一つには我が生命なる息子達娘達の性をあだ、おろそかに頒かち難く罪を恐れたにもよれど、亦彼女の顔、瞳の上にやがてまともの結婚により幸ひの道を行く可能性ある心を見得た為でもあらう。それにしても母上の「病気にならぬように」の御注意はさることとして、姉上の「心を奪はぬやうに気をつけて上げなくては悪い」との御言葉、ああこれこそ真にその身体を愛せずその心を愛する切なき真人の道徳であるべきに余は背きたるに非ざるか、忙しがはしく入り交り立ち交る男達に弄ばれて余を忘るること幸いなれば忘らしめ給えへ。また若し、その財布の内にひそめし徒書の署名(松寿老人)と今宵奪われし名刺との記憶が彼女の心の幸ひに役立つものならば永く留まって慰めと励ましを注ぎ男に対する一脈の信頼を繋がしめ給へ。~後略~*10。

・・・・・

 

 21 世紀の価値観からすれば、「何なんだこれは」とやや違和感を持たざるを得ない記述であるが、第二次世界大戦時のひとりのナイーヴな若年海軍士官の心事として、ありのままをここに採録した。

 また、このノートにG子の電話番号、住所等をかなり精細に遺しているのも、戦死後周囲の誰彼に思いを寄せた相手がいたことを知ってほしいとの相浦の潜在的な意識の為せる業であったと考えてもよいかもしれない。

 

~生死、揺れる思い

 以下は1944(昭和19)年7 月14 日の日記の記述である。

 

・・・・・

俺は帰らねばならない、余は人々が予期しない不幸に動天狼狽するを見るに忍びない。それを防ぐに必要な手段のいくつかを、そしてそれを実施すべき時機を知つてゐたにも拘わらず、施す術もなくなす事なかりし罪をはづるが故にそれを見るに忍びない。しかしそういう時期こそ神は、そして我々の最上の天子様は余を必要とされるのだ。これは自惚れであらうか、この使命の予感は虚像であらうか、若しそうならば嘗て予感せる如く余は二十五歳の一生を終わらぬ内に召されるであらう。それで何とて悔いの残ることがあらう。それ程この短い一生は恵まれた申し分のない人の生命の秘奥を開示されたよい一生であつた。総てに感謝を捧げ得るよい一生であつた。・・中略・・

 余にはあらゆる困難と混乱の内からこの事態を収拾し、多くの人々に恩恵を相頒つべき、苦しい、しかし重い使命が課せられているのではないか。若し許される事ならば、斯くも大きな重い使命の十字架を免除して、あの清い懐かしい且つは豊かな恋の故郷(?)なる太平洋の底に永久に眠らしめ給へ。又若しこの十字架が御命ならばそれを背負ひ完遂すべく意志と才能との力を授け給へ。

・・・・・

 

 かつて太平洋上での戦死を夢見、充実した人生であった事まで回顧していた相浦が、ここでは、戦後の混乱する日本の事態を収拾する責務が己に課されているのではないかと自問する姿がある。

 そして、後者の方がより苦しい使命であるとも述べている。この頃、相浦の透徹した見通しが、戦後日本の混乱と再建を予測していたということなのであろう。いずれにしても、戦場での生死は自己の意志や努力を超えたところにある。透徹した見通しを持つ相浦といえども、自己の戦場での運命を予測する事は出来なかった。

10.沈没前夜

 1944(昭和19)年9 月6 日、日本占領下のシンガポール、セレター軍港に一隻の航空母艦が入港してきた。航空母艦雲鷹である。雲鷹は日本郵船の豪華客船八幡丸を改造した空母だったが、第一線の機動部隊と行動を共にするには、やや鈍足で、主に航空機輸送の任務に就いていた。

 この年8 月雲鷹は正式に第1 海上護衛部隊に編入され、巡洋艦香椎以下のヒ73 船団に同行して、この日護衛空母としての初の任務を果たし、シンガポールに入港してきたのであった。

 艦長は木村行蔵大佐、主計長は相浦忠雄主計大尉であった。

 土田国保(東京高校、東京帝国大学法学部卒、内務省、主計科短期現役第10 期、後に警視総監、防衛大学校校長)は、戦艦武蔵に勤務していたが、東京の海軍経理学校に転勤の命令を受けて、帰国のため便乗する艦船を求めているところであった。土田が便乗を求めて雲鷹を訪ねてみると、主計長は旧知の相浦で、二人は思わぬ邂逅を喜び合い、相浦は土田の雲鷹便乗を快諾した。

 雲鷹は、引き続き本土に必要な軍需物資を運ぶヒ74 船団に同行し、9 月11 日セレター軍港を出航した。以下は、1988(昭和63 年)3 月、雑誌「水交」第406 号に掲載された土田の回想である。

 

・・・・・

 出港直後から、アメリカ潜水艦の偵察無線報告が傍受されたという噂が、便乗組の我々の間にも伝えられ、兵科の若手士官は便乗組でも交代で、飛行甲板上に点在する見張りの臨時指揮官となり、私も乗艦中は、相浦主計長から、戦闘記録作業の指揮官(同艦庶務主任病気中のため)を命ぜられた。“ 合戦準備夜戦ニ備ヘ” の毎夕のラッパの後は、夜毎、“配置二付ケ”の令に緊張を重ねる日々であった。・・中略・・ 9 月15 日になった。敵潜水艦のホノルル宛緊急信が判然と傍受され、当然ながら、前面海域での待ち伏せが予想される事態となった。15 日は無事。高雄に近接していく16 日の夜あたりが一番の山場と、誰もが予想していた。

 館内の便乗士官の溜まり場に居た私に、相浦主計長から呼び出しがあった。9 月16 日午後3 時頃である。入室すると“ 高雄入港が迫った。入港すれば、君たち便乗士官は退艦となるかも知れないから、今日はゆっくり話をしたい” とのことであった。それから夕食の時迄居て、夜また出掛けた。・・中略・・

 “ 大東亜戦争開戦のあの12 月8 日、私(相浦)は東大の図書館に居たが、ラジオ放送を聞いてから屋上にのぼって、じっと東の方を望みながら、沁じみと大変なことになったと思った。私は高柳賢三先生の引率の下に日米交換学生として米国に渡った経験から、彼等はその物量と技術にものを言わせて、やがて我が国を滅ぼしてしまうに違いないと考えている。この卓上の洋書を見給え。これはアメリカの技術の本だ。私は海軍省人事局に勤務した関係から、同省の上司上官からもいろいろ耳にしていたが、今やサイパンを襲ったあとの敵は、これから比島方面に来襲し、そして沖縄を攻めてから中国大陸に渡り、西と南の両面から内地を攻めるであろう。そしておそらく来年の今頃(昭和20年9 月頃)迄には、東京は米国の兵隊で充満しているに違いない。日本人か外国人か、わけのわからぬ子が沢山出来る。この期になっては、いかにして民族の生存を保つかが残された問題なのだ。この艦はこれから君達を降ろしてから、比島方面に向かって出撃することになっている。おとり艦として、撃沈される運命なのだ。私は志願してこの艦に乗り込んできた。私は艦と運命を共にする覚悟だが、君はこれから内地に帰って我が国行く末を見守ってくれ給え”

 相浦さんは、その夜、以上のような内容のことを繰り返し、繰り返し、私(土田)に説いて聞かせたのであった*11。

・・・・・

 

11.雲鷹沈没

 土田国保の回想続く。

 

・・・・・

 そして真夜中となった。この調子では今夜もなんとかうまくゆくのではないか思っていた矢先のことである。突如ドーンという爆発音が身近に聞こえた。本艦ではない。爆雷音でもない。僚艦に魚雷命中と直覚した同時に、“ 配置ニ付ケ”。主計長室を飛び出し、中甲板を艦橋に向かって駈け出して20 米、轟音、激動!そして又一発。下からは異常なる煙!・・中略・・

 さて、相浦さんである。一度部屋にとって返し、自らの戦闘服装を完全に整えて戻って来て、携行してきた自らの救命胴衣を、私によこしたのである。“ 是ヲ持ッテ居レ、俺ハ良イカラ”。

 当時、空母雲鷹は、日本郵船“ 八幡丸” の改造空母であったことから、乗組員はコルク製の救命胴衣を所持していた。然し我々便乗者迄には配給はなかった。当日の海面は、後刻救助してくれた海防艦のスクリューが、折々ガラガラと空中で音を立てる位の荒天であったので、ひ弱な身体の相浦さんでは30 分と持たない位だったろうと、後になって思った程であった。私も正直のところ、命は惜しい。理屈になるけれども、私自身の任務は、生きて内地に帰ることである。然し、“ ハイ有難ウゴザイマス” では、なんと言っても男がすたる。・・中略・・私は何回も相浦主計長に“ 私ハ大丈夫デス。要リマセンカラ” とかなんとか言って渡そうとしたがその都度拒否されてしまったので、艦橋の隅に置いておいて、明け方になってから付添の主計兵に、イザという時、必ず着せて差し上げるようにと言って、渡しておいた。・・中略・・

 図らずも愛知県知多市知多町の関徳男氏(当時主計科庶務係)が主計長の最後の模様を目撃しておられると伺ったので、雲鷹沈没後36 年の歳月を経た、昭和55 年4 月同氏の御宅を訪問し、直接御話を伺う機会を得た。関徳男氏は次のごとく語られた。

 艦が沈む時の私(関)は、戦闘記録作製の当番勤務で、艦橋の中に居た。前任者との交代は午前6 時頃だったと思う。そのあと、ずっと相浦主計長と行動を共にした。艦長は、副長に、下に行って補強箇所の状況を見に行くように指示された。副長は降りて行かれたが、やがて帰って来られて、“ 最早補強は全然駄目です” と報告された。艦長は榊原鉦松従兵兼伝令に命じ“ 総員集合上甲板” を下達され、榊原氏は艦橋右舷から外に飛び出して行った。副長も出て行かれた。艦長は、残っている主計長に傾斜の度合を示す計器の目盛りを何回も訊かれ、その都度主計長は報告しておられた。その後は艦長も主計長も無言のまま。艦長は羅針盤を背にして、洋刀を持って直立され、主計長は、海図台の前に、戦闘服装に軍刀をついて、前方をじっと眺めて直立されていた。その間は5 分くらいだったと思うが、1 時間も長く感じられた。(土田註、雲鷹戦闘詳報の記すところによれば、“総員上れ”の下令は0748、沈没は0755となっている)

 突如主計長が叫んだ。“ 関!出ろ! ” 私(関)は戦闘記録の用紙をとっさに胸ポケットに入れて、艦橋左舷から飛び出した。・・中略・・私が上甲板に到達するかしないかに、艦は後部からどんどん沈み、私も渦の中に巻き込まれてしまった。艦橋における木村艦長と、相浦主計長の姿は、神そのもののごとくでありました*12。

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右に見えるのが航空母艦雲鷹。左は航空母艦沖鷹(呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長・戸高一成氏提供)。
12.主計長の救命胴衣

 土田国保の回想続く。

 

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 ところで、相浦さんの救命胴衣はどうなったのであろうか?この回答は、42 年の歳月を経た昭和62年1 月になって私(土田)の手元に飛び込んで来たのである。・・中略・・当時士官烹炊所に一等主計兵として勤務され現在名古屋市にご健在の柴田鈴嘉氏からの御手紙によってであった。それによれば被雷後、夜明けと共に主計兵長の人と御本人(柴田)の二人で、主計科事務室に総員名簿を取りに艦内に入り、乾パンとサイダー瓶も抱えて艦橋に上り、主計長に総員名簿と持参の糧食を届け、“ 柴田一主、帰ります” と申告したところ、“ おまえは水泳不能者だったなあ、これを持ってゆけ” と士官用マークの入った救命胴衣を差し出された。兵の私が、とためらう柴田氏に、主計長は“ 早く持って行け”と言われて、有難くいただき、その救命胴衣のお陰で、命を全うすることが出来たとのことである*13。

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 これを要するに、相浦は雲鷹被雷に際して、自分の救命胴衣を、初めは便乗者である土田主計少尉に、土田に辞退されると後に水泳不能者の柴田一等主計兵に譲り、柴田一主は、この救命胴衣によって命をながらえることが出来たということになる。当時軍艦の戦没に際して、艦長が艦と運命を共にするのは、謂わば、海軍の慣行であったが、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。相浦が艦と運命を共にすることを選んだのは、何故だったのであろうか。

結び

 さて、相浦の戦死をめぐって、いくつか彼の心事を考えてみたい。

 まず、救命胴衣を他者に譲った行為について。

 

 既に本稿において取り上げてきた「サービサーとしての自覚」「愛と献身」という心的なモチーフが、相浦をして救命胴衣を他者に譲るという行いを為さしめたことは明らかであろう。これら心情は、おそらく相浦の高校生時代からの思惟やカトリック入信などよりも前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれたものと考えられる。相浦の場合、「よき行い」「あるべき行動」の倫理感の方が先にあって、それを裏付けるために哲学的、宗教的思惟に沈潜し、ついにカトリックの信仰に到達したのではないかと考えられる。さらに、既に相浦は、便乗者土田に救命胴衣を譲ろうとした時点で、「艦と運命を共にする」ことを覚悟していて、救命胴衣は彼にとって不要のものであったとも考えられる。

 次に、カトリックの教義と「艦と運命を共にする」覚悟について。

相浦の戦死の様相から、沈没に際して彼が進んで艦橋に残り、「艦と運命を共にする」ことを選択したのはほぼ明らかである。しかし、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。「艦と運命を共にする」ことは相浦の主体的な選択であった。

 一方で、カトリックの信仰は自殺を禁じている。古くは、関ヶ原合戦の前に、西軍の人質となって大阪城に入る事を拒んだ細川ガラシアが、キリシタン故に自害を選ばず、(形式的ではあるが)家臣に座敷の外から自らを刺殺させた話は有名である。相浦の「艦と運命を共にする」行為は、カトリックの教義上の自殺に当たらないのか、あるいは救命胴衣を他者に譲った行為は「愛と献身」として正当化されうるとしても、相浦は艦橋を出て、及ばずとも泳ぐべきではなかったのか。

 これについて、相浦が書き残したノートから、あるいは土田らの証言から想像しうる相浦の心事は、「自分は志願して雲鷹に乗艦してきたのだから、艦と運命を共にする」というものである。雲鷹主計長の前の相浦の軍歴は、海軍省人事局勤務、海軍経理学校庶務主任、分隊士など内地勤務ばかりであり、武蔵同期の宮澤ほど明示的ではないにしても、海軍の人事によって選別され、内地に残されたと解釈しうるものであった。相浦はおそらくこれを潔しとせず、敢えて「第一線熱烈志望」の声を上げて雲鷹に配置されたとされている*14。「敗戦必至」の透徹した認識を持ち、敗戦後日本再建の責任まで引き受ける事をも考えていた相浦が、一方では敢えて戦場に自らの身を捧げる覚悟を持って、第一線を熱烈志願したのは、自分と同世代の若者達が多数戦場に倒れて行く中で、自らが殊更に優遇されているのではないかという疑いに耐えられなかったからではないか。これもおそらく、哲学的宗教的思惟や信仰の以前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれた、彼の倫理感ではなかったのだろうか。

 最後に、小泉信吉との比較。

 以下は少し本稿筆者の独断になるかもしれないが、小泉信三著『海軍主計大尉小泉信吉』を読み、『相浦忠雄遺稿集』を読むと、二人の個性(小泉は明るい慶應ボーイ、相浦は武蔵―帝大の一つの典型である深く思索に沈むタイプ*15)を超えて、微かだが社会階層的な、あるいは出身家庭による差異があることに気づかされる。それは、封建時代で言えば、同じ武士階級の上士と下士程度の僅かな差異に過ぎないのだが、二人の家庭が育んだモラールには、やはり少しだけの違いがあるようだ。

 小泉の家庭は、いわば近代社会におけるブルジョア階級であり、経済的にはきわめて恵まれていた。「海軍主計大尉小泉信吉」の中で、信吉が訪ねる叔母の嫁ぎ先安川家は、相浦の父の勤務先、明治鉱業のオーナー、炭鉱主である。一方相浦は炭鉱の社宅で生まれたホワイトカラーの出身。昭和になって、東京で言えば山手線のターミナル(池袋、新宿、渋谷など)から西に延びる郊外電車の駅近くに住宅を持ち、いわゆる労働者、農民階級からは一線を画すが、資本家階級でもない、新しい中産階級、サラリーマン階層が相浦の立ち位置である。(相浦家は吉祥寺に居を構えた)

 この時代、前者の中で良質な人々は、いわゆるNoble’s oblige の倫理感で戦争に参加していった。個々の政府施策への批判は置いても、戦争は彼らの戦争であり、守るべき国家は彼ら自身のものであった。第一次世界大戦に於いて、英国のパブリックスクール出身者が、塹壕を飛び出し、ラグビーボールを敵陣に蹴り上げて、部下に先んじて突撃していった*16 ような、スポーツ感覚とユーモアが、小泉信吉のとくに巡洋艦那智勤務時代の日記や書簡からは読み取れる。

 一方後者、山の手サラリーマン階級の倫理感は、この階層が子弟に与えた深い教養に根ざしている。本稿筆者は、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の主人公コペル君と叔父さんとの会話、手紙のやりとりの中に、相浦や当時の武蔵生達の与えられた教養や、育まれた倫理感を見ることが出来るような気がしている。便乗者や水泳不能者に、「オイ」と軽い調子で救命胴衣を譲って、自らは艦橋に残るという、雲鷹沈没時の相浦の行為の背景には、昭和期になって新しく勃興してきた勤め人階層の、深い教養に裏打ちされた「コモンセンス」の文化があったのではないだろうか。

【註】

*1 相浦忠雄遺稿集刊行会編『相浦忠雄遺稿集』(1950年印刷、1951年刊行)3~4 頁。

*2、*3 高等科と尋常科:1918(大正7)年に公布された高等学校令によって、「尋常科4 年、高等科3 年の一貫教育」を旨とする七年制高等学校の制度が定められた。1922(大正11)年に設立された武蔵高等学校(旧制)はこの制度に基づくもので、尋常科は旧制中学の課程に相当し、その課程を修了した者は高等科に進学することになる。

*4 武蔵三理想:武蔵の建学の精神と言うべきものとして創立初期から定着し、現在まで絶えることなく受け継がれている。その内容は、「1.東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物 2.世界に雄飛するにたえる人物 3.自ら調べ自ら考える力ある人物」である。

*5 外遊生:生徒のうち成績優秀な者1、2名を選び、夏休みに国外を旅行させる制度で、第1 回(1927年)から第17 回(1943年)まで、合計25名の外遊生を派遣した。戦時中に実行不可能になり自然消滅していたが、1988(昭和63)年に「生徒国外研修制度」が発足した。毎年各国へ2~4 名ずつがそれぞれの提携校へ留学し、先方からも留学生が派遣されてくる形を原則とする制度が定着して、現在に至っている。

*6 元号表記には皇紀が用いられている。なお、皇紀2597年は1937(昭和12)年。

*7 近藤道生「私の履歴書」第1 回(『日本経済新聞』2009年4 月1 日朝刊)。

*8 前掲『相浦忠雄遺稿集』142頁。

*9 同上、148頁。

*10 同上、250頁。

*11 土田国保「相浦忠雄主計少佐の最後」(『水交』第406号、1988年3 月)。

*12 同上。

*13 同上。

*14 前掲近藤「私の履歴書」第1 回

*15 日米学生会議で渡米の折、船内で相浦に「好かれた」と主張しているある女性は、彼のことを「なんだかモッサリしていた」と述べていたという。

*16 池田潔『自由と規律』(岩波新書、1949年)。

相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代
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