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武蔵大学プレメディカルコース(医歯学進学課程)について(畑野勇)
山本良吉「と」武蔵学園(その2)―〈建学の三理想〉の系譜学―:山本没後―戦後の顕彰的語りと大坪秀二の学園史研究(吉川弘晃)
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1949(昭和24)年に開学した武蔵大学は当初、経済学部経済学科の単学部単学科によって発足したが、その中にあって、他大学の医学部への進学を目指す学生が多数入学し、教養科目を学んでいた。そして1950年台前半には、そのような学生のための課程(プレメディカルコース:医歯学進学課程)が本学に設置され、巣立った学生の多くが、開業医やいくつもの大学の医歯学部のスタッフとして活躍した。以下は、その背景と活動の紹介である。
いまでは想像しにくいことだが、開学当初の武蔵大学は、志願者を集めるのに大変な苦労を強いられていた。当時の経済学部経済学科の定員は1学年120名、4学年の定員総数は480名であったが、初年度(49年度)4月の入学生数は78名と、定員の半分強でしかなかった。このため5月に第2次学生募集(56名)を行い、国立大学1期の入試後の6月20日に入試を行うなどの措置が取られていたが、これ以降も定員数の確保は容易ではなかった。53年・54年・55年のいずれも3月に挙行された第1回から第3回の卒業式それぞれにおける卒業者数を見ると、66名・36名・53名にとどまっている。
ただ、このときの記録で目を引かれる事柄がある。「教養課程のプレメディカルコースを修了して他大学の医歯学部へ進学する」学生がそれぞれ42名・48名・45名あり、その修了者にも修了証書が授与されている(第1回の卒業式では、それ以前の同課程修了者49名にも授与がなされた)、という事実である。開学以来、第4回の卒業式がおこなわれた1956年3月までの卒業者数の合計は250名であるが、同じ時期のプレメディカルコースの修了者数の合計は225名であり、ほとんど同規模といえる。年度によっては、このコースの在学生の方がはるかに多いという現象も見られたのである。定員の確保が大きな課題であった初期の大学が、本来の経済学部での教育活動と同程度(あるいはそれ以上)に、いかにこのプレメディカルコースの活動に力を入れていたかがうかがえる。
プレメディカルコースの設置は、戦後初期の学制改革の産物といえる。まず、新制の大学で医歯学部の修業年限は教養課程(2年間)と専門課程(4年間)の6年制となっていた。そして49年6月に学校教育法(1947年制定・施行)が改正され、「医学又は歯学の学部を置く大学に入学し、医学又は歯学を履修することのできる者は、[中略]その大学の他の学部又は他の大学に二年以上在学し、監督庁の定める課程を履修した者[中略]でなければならない。」(第56条第2項)と定められたのである。この法改正の主旨として、第5回国会の参議院本会議における文部委員長(田中耕太郎)は以下のように説明している。
「医学又は歯学の大学につきましては、医師や歯科医の業務の特殊性に鑑みまして、特例を認めて、普通の場合よりも就学年限を長くいたしまして、他の学部又は他の大学に二年以上在学するということを要求いたしておるのであります。[中略]本法案に対する質疑によりまして明らかにされました点といたしましては、医学、歯学の修業に特に年限を延長するのはどういうわけであるかという点でありました。これは業務の性質が人命を預かる極めて重要な職責であつて、人格教養等が特に高いことが要求せらるるという理由であるのであります」。
この改正によって、医歯学部は自ら一般教育課程をもつことを認められず、学内の他学部でこの部門を履修した学生、あるいは他大学で履修した学生を試験によって選考し、専門課程に入学させることとなった。具体的な医歯学進学の資格は、1948年5月に大学基準協会で承認された「医学教育基準」・「歯学教育基準」によって定められた。そこでは医歯学教育の修業年限はそれぞれ4年以上とされ、入学資格として、修業年限4年の大学において2年以上の課程を修了し、物理学・化学・生物学・数学・人文科学・社会科学・外国語(英語に加えてもう一つの言語)などを含めて「64単位以上を履修して充分なる知識・教養を修得したもの」とされた。
武蔵大学が医歯学部進学者のためのプレメディカルコース(医歯学進学課程)を設置したのは、改正された学校教育法が施行された50年4月のことである。もっともそれ以前から、前出の「医学教育基準」にしたがって大学の授業を履修し、医師学部進学を目指す者もすでに在学していた。このとき武蔵大学は旧制高校時代の遺産として、すぐれた教師陣と設備が残っており、講義や実験を基準に沿って行うことに支障はなかった。
1949年度においては、特にプレメディカルコースの課程を設けなかったものの、翌年度に講義内容を医歯学部進学に対応させるために充実させ、募集に際してその旨を強調するという方針であった。50年度以後はプレメディカルコースを開設し、経済学部の経済学科と区別して学生を募集することとなり、はじめの数年間は毎年、40名内外の学生が入学していた。経済学科への入学者とほとんど同数の学生を確保できたことは、学園経営のうえでも大きなメリットがあったと想像できる。
当時の入学試験は、1950~52年度について見ると学科試験(国語・数学・外国語:英語または独語、いずれも必修)と適性検査、口頭試問(面接)、身体検査からなっており、これは経済学科とプレメディカルコースとで共通であった。翌53年度から経済学科の入試科目は国語・社会(2科目)・外国語に変更され、プレメディカルコースでは数学・国語・外国語のほか理科が追加された。入学後については経済学科とプレメディカルコースとはクラスが別に編成され、それぞれ独自のカリキュラムで授業が行われた。
時の生物系科目の担当教授であった故岡山光憲氏の回想によれば、プレメディカルコースに入学した学生には厳しい勉学が課されたという。自然科学部門の各科目の担当者は指導教授を兼ねており、教員による学生への指導は密接であった。「カリキュラムはきびしく、特に自然科学では、数学、物理学、化学、生物学がおのおの四講座と実験、演習(数学)が必修として課されていた。1学年2級制で、佐藤(独)、上野(数)、依田(化)、岡山(生)の四教授が指導教授となって面倒を見ていたが、実に皆よく勉強したものだ」(光憲「プレメディカル・コースのこと」(武蔵大学同窓会『VOIR』武蔵大学創立40周年記念誌所収)。修了後に学部に進学した学生数について、『武蔵大学新聞』に掲載の記事によれば、1951・52年度の2年間で医歯学部に進学した学生は20名以上(修了者数は計49名)、53年度には15名(同36名)、54年度には26名(同42名)とあり、年度の経過につれて好調な実績を収めていることがわかる。このため、他大学の医歯学部に進学する目的で武蔵大学に入学する者も多かった。ただ、医科大学の進学に失敗した、あるいは途中で文科系に志望を変更した学生で、武蔵大学経済学部に転部して卒業した者も一定数存在したようである(1951・52年度の2年間で9名の転部が判明している)。
プレメディカルコースの修了者に対しては、1951年1月の時点では、修了式、証書授与等は行われず「送別会は適当な時期に行うことにしたい。同窓会員とすることを考慮することにしたい」という旨のみが教授会で決められていた(『成蹊学園史年報』第3号所収)が、翌52年4月には、修了者の扱いを卒業者に準じる措置とすることが決まり、その翌53年の第1回卒業式以降、前出のように修了証書が授与されている。
かつての私立旧制高等学校(七年制)から新制大学設置に踏み切った成蹊大学・成城大学も、武蔵大学と同様にプレメディカルコースを設置していた。なかでも成蹊大学は、政治経済学部の単学部制で1949年に開学したが、この年のうちに政治経済学部の中にプレメディカルコースを設置し、1964年3月に廃止されるまでの間、課程を修了して国公私立の医歯学系学部へと進学した者は637名に及ぶ(『成蹊学園六十年史』より)。
創設当時、政治経済学部とならんで工学部の設置を要望していた成蹊大学において、同コースは、「一般教養の自然科学系を増やすことができ、旧制高校の理科系の教授や工学部設立予定で採用した人材をプールできた」(『成蹊学園百年史』より)という点で、メリットは大きかった。のち1962年の工学部設置実現にあたって、これらの設備や教員などが役立ったことは容易に想像できる。
なお成城大学については、1950年4月に経済学部と理学部の2学部制で開学したが、その2年後の52年4月にプレメディカルコース(医歯学進学課程)が開設されている。ただ、翌年の3月に施設・設備の資金難という事情で理学部が廃止され、その翌54年 3月にはコースが廃止されている。この2年間における同大学でのコースの活動や成果について、刊行されている年史類(『成城学園五十年』・『成城学園六十年』・『成城学園七十年のあゆみ』・『成城学園八十年』など)ではこれ以上のことは確認できない。
武蔵大学の初期の教育において重要な役割を果たしたプレメディカルコースであるが、1955年度をもって経済学科とは別枠での入試を停止し、62年3月には廃止された。このコースの縮小や廃止をもたらした原因は医歯学教育制度の変更にあった。1954年2月18日発行の「武蔵大学新聞」13号には、「プレメ廃止か 医歯学部教育方針変わる」と題する、以下の記事が掲載されている。
「大学の医歯学部の教育方法改善のため文部省では昨年末医[学]、歯[学]視学委員会にその具体策を検討するよう諮問していたが、8日の中央教育審議会でその改善方法が認められ学校教育法改正をはかって30年4月から実施することになった。この改善方法によると ①新しく6年生の医科大学、歯科大学または医学部、歯学部を設け高校と直結させ、進学課程2年、専門課程4年とする。②進学課程をおかない総合大学の医歯学部では他の学部に進学課程を置き、また単科大学では他の大学と協定して進学課程を置く。
これによると本学のプレメは②の他大学との協定によって存続させるか、あるいは調停せずに廃止するかの二途専一を迫られるわけである。現在のところ、学校、教授側はこの協定による存続に消極的で、プレメ学生募集は今年で終止符が打たれるものとみられている」
この新聞が発行された1954年2月は、ちょうど第19回国会において学校教育法の再度の改正が審議されていた時期である。この中で医歯学教育に関する条項の改正案は、第55条・第56条を対象として、「1955年度から、修業年限は従来同様6年以上として、これを4年の専門課程と2年以上の進学課程とに分け、医歯学部において6年一貫の教育を実施することを可能とする、ただし特別の必要があるときは専門の課程だけを置くことができるようにする」という主旨であった。この修正案は3月に可決成立し、同年12月には大学基準協会において「医学教育基準」「歯学教育基準」それぞれにおいても、6年一貫の教育が行えるように改められている。
この動きは、先の「武蔵大学新聞」記事にもあるように、武蔵学園の外部から起こってきたものであった。たとえば右の学校教育法改正の主旨について、第19回国会の参議院文部委員会では政府委員(稲田清助)から以下のように説明されている。
「……医学又は歯学又は歯学の単科大学におきましては直接高等学校の進学者と結びつかない点からいたしまして、必要な優秀な志願者を得にくいというような事情を訴える向が相当あるのであります。又総合大学等におきましては、この医学、歯学の進学課程と他の学部の課程とが年限において相違いたしまするというような点からいたしまして、すでに農学部或いは理学部等他学部に入つております者が、途中から医学又は歯学に入つて来ることによつて、農学教育或いは理学教育が撹乱されるというような弊を訴えられる。そういうような点からいたしまして、どうせ進学課程と専門課程と両課程を設けることならば、これを一貫的に六年の学部とするのがいいのじやないかということが、その方面の当事者から切実に要求がありまして、まあそういうことで改正いたしたわけであります」。
この説明から、医歯学部の従来の4年の課程を6年に移行させることが、修正の眼目にあったことがうかがえる。なおこの日の質疑で、文部大臣(大達茂雄)は「本問題は中央教育審議会の答申の大綱をそのまま容れて立案した」と説明している。
このような医歯学部進学の制度改変にともない、武蔵大学では経済学科とは別枠での医歯学進学課程の学生募集に関しては、1955年度をもって廃止した。ただ、この時点では東京慈恵会医科大学・日本医科大学など、進学課程を設置していない医歯学部も多数あり、それらの専門課程進学のために必要な科目単位の修得ができるカリキュラムを残置し、募集人員の制限もおこなわず、入学案内に医学部受験の単位を取得できる旨を記載していた。そして59年4月の経済学部内での経営学科開設に際して、学科内に経営管理コース・工業経営コースとならんで「プレメ・コース」が設けられている。
経営学科の学生募集にあたって、当時の大学が発行したリーフレットでは、将来の展望として、近い将来には、理論を主体にした理学関係学科と、応用を主体とした工学関係学科をもって理工系の新学部を増設すること、その時は工業経営学科に発展せしめる予定であることが記されていた。そしてプレメ・コースについては、経営学科と直接の関係はないが、このコースに進む学生の履修科目が工業経営コースの場合とほとんど同じであるため開設したこと、希望により工業経営コースへの進学も可能であると説明されていた。この内容は、成蹊大学の工学部設置時にプレメディカルコースが有した資産を活用し得た前出の事例を想起させる話である。
しかるに、工業経営コースが設置7年後に廃止の憂き目を見るよりも早く、プレメ・コースは経営学科内に設置されて3年後の1962年3月末日をもって廃止されることとなった。先述の医歯学教育制度の転換以降、武蔵大学の経済学部を経て医歯学部の進学を志望する学生は減少を見たからである。このころには、プレメディカルコース修了者にとっての主要な進学先であった東京医科歯科大学・東京医科大学が1955年に、また東京慈恵会医科大学が1960年に、それぞれ医学進学課程の設置認可を得て6年制へ移行していた。
武蔵大学のプレメディカルコースの変遷は、高校教育と大学専門教育の間に位置する進学課程(=教養課程)の位置づけをめぐる教育界の混迷という波を、正面から受けたものといえる。たとえば1949年の学校教育法改正を審議した第5回国会で、政府委員(剱木亨弘文部省学校教育局次長)は、2年間の医学進学課程が医歯学部以外の学部(あるいは学校)に設置された背景として、医科のように説明している。「医学の入学資格はそれはPHW[Public Health and Welfare Section:公衆衛生福祉局]の中に設けられました医学[教育]審議会から、日本の医学教育の刷新につきまして、他の大学若しくは学部の3年以上を終了した者について入学せしめるようにするというように勧告があつたのでございます。併し日本の実情から申しまして、一面これは相当医学の教育について、長い年月を要しますので、教育刷新委員会におきまして、この問題を取上げていろいろ論議いたしました結果、刷新委員会の原案といたしましては、6年の大学ということが適当ではないかという御意見があつたのでありますが、それで今の医学[教育]審議会と刷新委員会としばしば会議をいたしまして、両者の意見の相違を妥結するように努めたのでございますが、その結論といたしまして6年の大学は認められない。他の大学もしくは学部の2年以上を終了した者について、入学資格を認めようということに結論として妥結いたしましたので、その結論に基いて、この法案を作成したのでございます」(1949年4月26日の参議院文部委員会における答弁による)。
この答弁を見ると、もっぱら占領軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの一部門であったPHWの強い意向によって医歯学進学課程が設置され、占領終了後ほどなくして教育刷新委員会の唱えた6年制一貫課程への移行がなされたことになる。ただしそのような時代背景のもとで一時的に設置されたプレメディカルコース制度も、普遍的な価値を有するものとして現在、リベラルアーツを再考する上での検討に値するものではないだろうか。上記の参議院文部委員会の席上、剱木政府委員は上記の発言に続けてこのようにも述べている。
「6年の大学を他の大学というふうに限定いたしました理由は、その医師という職業を決定いたしますのが、できるだけ高年齢において決定するをまあ適当と認めるという理由が一つになつておるのでございます。もう一つは先程申上げました、やはりこの広い視野に立つて医師のコースというふうに、決定したコースによつて勉学しないで、いろいろな職業につくものと同じような扱いで、共に勉学をして、それから二ケ年以上たつて医者になるというふうに方向転換をする。これが最も適当であるというふうに考えられたからでございます。
現在の大学におきましては、そういうふうに決めましても、一定の単位を要求されますので、その如何なる学部でもそれを、要求を充たすだけの学科課程、学識組織がございませんので、例えば総合大学でございますとか、今般国立で申しますと、高等学校と他の專門学校と一緒になりましてできました文理学部を持つような大学でございますとか、或いは又一般教養におきまして、相当大きい一般教養のコースを以て医学に対しまする進学者の必要とする科目を備えておる大学等が、医学歯学への学部を有する大学と考えられると考えるのでございます。」
当時の武蔵大学の教育設備やスタッフは、この発言(とくに、「一般教養におきまして、相当大きい一般教養のコースを以て医学に対しまする進学者の必要とする科目を備えておる大学」という部分)に最適な資源を持つ学校の一つと評価されていたことになる。
こんにち武蔵大学のプレメディカルコース出身者の年齢は、すでに70歳代後半から80歳代に達しつつある。そのうち多くの者が大学同窓会に加入して、いまもなお同窓会は続いている。人格教養すぐれた医歯学進学者たるべく、旧制武蔵高校の遺産を受け継いだ良質の教育を受けた人々の、変わらぬご健康とご活躍を祈念する次第である。