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根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観(畑野勇)
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1936(昭和11)年に武蔵学園内に設置された根津化学研究所は、私立の旧制高等学校が高度な研究活動を展開すべく、特定領域の研究所を設置したという点で、きわめてユニークな存在であった。そして、その初代所長に就任した玉蟲文一(1898–1982)もまた、武蔵学園における化学研究と教育の高度化、そして新制大学における一般教育の充実発展に大きな貢献があった稀有の教員であった。世間ではじめて彼が有名となったのは、ロングセラーとなった岩波新書『科学と一般教育』を上梓した1952年以降のことと思われるが、本稿では武蔵学園での経験に関わりが深い事項を中心に、彼の足跡とその学問観・教育観の特色、さらには、当時の武蔵での教育の意義について考察してみたい。
玉蟲は1898(明治31)年宮城県生まれ、母方の祖父は玉蟲左太夫といい、江戸幕府が初めて米国と通商条約を結ぶため派遣した使節の一行に加わっていた。仙台藩に帰ってからは藩の学問所であった養賢堂の頭取となったが、戊辰の乱では仙台藩が幕府側に立ったため、戦争終結後に責任を負って切腹となり、玉蟲家は家財没収、家名略奪となった。家名の復興が許されたのは22 年後の1889 年、大日本帝国憲法発布の年になってからという。そして玉蟲の父は玉蟲家の養子となり、しばしば朝鮮・中国方面へ出張していたが、玉蟲が9 歳の年に京城(ソウル)で急病にあい、若くして客死したという。
東京にでて母の手一つで育てられた玉蟲は一高に入学し、ここで北川三郎(ウェルズの『世界文化史大系』の訳者)と親友となり、東京帝国大学に進学後は理学部化学教室で片山正夫教授に学んだ。1922 年に大学を卒業して財団法人理化学研究所の片山正夫研究室の助手に任用され、2 年間の助手生活を過ごした後、旧制武蔵高校の教員となる。
玉蟲の教授就任は、当時武蔵高校の顧問であった山川健次郎が、片山教授に化学教員の適任者の推薦を依頼し、片山が玉蟲を推薦したことによる。山川は会津藩の出身で玉蟲左太夫の事蹟を知っており、玉蟲文一の研究教育をこれ以降、強力に支援したという。
旧制武蔵高校における玉蟲の教員生活と当時の高校の雰囲気については、玉蟲自身の回想(『科学・教育・随想』岩波書店、1970年)において、以下のように精細に描かれている。
私が奉職した武蔵高等学校は最初に設立された私立の7 年制高等学校であった。そこでは、当時すでに和田八重造氏によって初年級(尋常1、2 年、現在の中学1、2年に当たる)の理科の授業がおこなわれていた。その授業は同氏の編著「科学入門」ならびに「生物」によっておこなわれており、前者はアメリカにおける一般科学(ジェネラル・サイエンス)の方法を入れたものであったが、著者自身の体験と工夫にもとづく独特の内容をもつものであった。その内容や方法に対しては、多くの批判や抵抗があったが、和田氏は信念をもってこの自著による理科教育をおし進めていた。同氏の献身的な努力と情熱的な指導によって、多くの純真な生徒は理科への興味にひき入れられた。私は実際、その影響力によっていかに多くの少年が後に科学に志すようになったかを知っている。私は和田氏の授業をうけついで3、4 年の生徒に対する化学と物理を主体とする理科の授業を担当した。
私が武蔵高等学校に就任した際の一条件は、1 人で化学と物理を綜合した教案に従って教えるという試みを実行するということであった。当時、一般の中学校では、文部省検定教科書にしたがって動植物、鉱物、化学、物理などがそれぞれ独立の科目として教えられていた。それに対して武蔵高等学校の理科授業は、科学入門(ジェネラル・サイエンス)、生物(ジェネラル・バイオロジー)、理化(フィジックス・アンド・ケミストリ)の系統にしたがって計画されたのであった。……初歩の段階であっても、化学と物理学を一つの綜合科目としてまとめ、かつそれを一人の教師が担当するという仕事は実際にいろいろな困難をともなうものであった。
……私はできるだけ労をいとわず生徒に実験と観察の機会を与えた。実験室で生徒の行動をみていると、その性格がよくわかった。ある生徒は与えられた仕事を順序よく迅速に片づけてゆくのに、他の生徒はそうではなかった。ある生徒は要求された課題の外にも自らの問題を見出しているのに、他の生徒は課題だけで追いまわされていた。しかし、概して生徒は実験の時間になると活気づいているのがわかった。そして実験のともなわない理科の授業がどんなに生気のないものであるかがよくわかった。
戦後初期の玉蟲は武蔵高校のゆくべき道として、武蔵・学習院・成蹊・成城の旧7 年制高校を土台とする「東京連合大学」の設置に向けて奔走した。これはもともと、当時の学習院教授であった天野貞祐が提唱したものであったが、この構想に共鳴した玉蟲は「その可能性を打診するために二、三心当りの方面に当ってみた」という。
玉蟲による自身の奔走についての回想は上記のように控えめであるが、この構想については、4 大学それぞれの専門学部設置構想を記した「協定案」が作成されるまでにいたったことが知られており、(『武蔵大学五十年史』)。近年では、教育史の研究者である天野郁夫氏が「自発的に模索された私学間の連合化・共同化の試みとしてしかるべき構想」(天野『新制大学の誕生 下』名古屋大学出版会、2016年)と評価している。この構想が、学園間での検討段階に至るまでに玉蟲が果たした役割はきわめて大きなものがあったはずである。
「しかし、当時の各学校の内部事情はそのような1 つの理想案を検討する余裕もなく、その意欲すらもちえないことが明らかになった。つまり、この構想は天野博士を中核とするきわめて少数の人々の間での話題となったにすぎなかったが、それもいつの間にか忘れ去られたのである。……やがて学習院も成蹊も成城も、また武蔵もそれぞれの方途に従って新制大学となった。それが自然の成行きであったのである。武蔵では宮本学長の下に経済学部が設置された。そのさい私自身の立場は学長の補佐役であったが、新設学部に対しては傍観者であるにとどまり、いずれは自分自身の行く道を定めなければならなかった」(前出『一化学者の回想』による)。
玉蟲は戦後、1949 年の旧制武蔵高等学校の廃止に伴って東京大学教養学部に転じた。1959 年に東京大学教授を定年で退職して後は東京女子大学教授就任、そして69 年にふたたび武蔵学園で教鞭をとり、あわせて根津科学研究所の所長に復帰した(翌年から名誉所長)。1975年まで再び在職した武蔵学園で、玉蟲は新制武蔵大学の人文学部教授として、人文系の学生に対する一般教育として科学史の講義を担当し、人文・経済学部の共通科目としての科学概論を演習形式で行った。そしてこの時期の玉蟲は「大学における一般教育のあり方」に対する積極的かつ具体的な提言を行い、教育界にきわめて大きな光を放ったことが知られている。
現在我々が容易に入手しうる玉蟲の提言として、ここでは武蔵大学での教育経験に根ざした「科学史と科学教育」(『自然』1973年3月所収)に焦点を当ててみたい。この文章において玉蟲はまず、高等学校までに科学についてある程度の一般的知識を学んでおり、かつ科学を専門としない(もっぱら文化系の)学生に、何を教えればよいかを問う。「高校の教育はもっぱら一般人のための教育であるから、科学者にとって重要であり、興味あるものであるとの理由によって教材が選ばれてはならない。生徒に対して期待すべきことは多くの科学的事実や技術を習得することではなく、むしろ彼らが将来科学という学問への関心を向け、それについていくばくかの理解をもちうるような素地を養うことである」。そして、玉蟲が科学史の講義で取りあげるテーマは、たとえば“ 酸素はいかにして発見されたか”、“ エネルギー保存の法則はいかにして確立されたか”というようなものである。この点についての彼の主張を以下に取り上げてみよう。
空気中に酸素があることは小学生も知っている。しかしそれが初めて確認されるまでに、いかに多くの錯綜した道程があったかは、大学生も知らない。そこで18 世紀末期にプリーストとラヴォアジエの二人の人物を中心として展開された問題を歴史的資料にもとづいて解説することは、科学における研究や発見の実態を知らせ、科学的方法についての理解を与えることに役立つと思われるのである。また、エネルギー保存の法則については高等学校の物理で教えられているが、どのような人間の経験と推論によってこの法則がみちびかれたかは必ずしも数えられていない。このことについていくらかの解説が与えられないで、この法則の正しい理解がえられるであろうか。落下した物体はひとりでに上ってくることはないという事実は原始人も知っていたにちがいないが、人間は長い間いわゆる“ 永久機関”をつくることに腐心したのである。この経験の歴史からファラデー、ジュール、マイヤーのような科学者がどのような実験と考察によって、自然界における諸力―当時の語法による―の間の関係を求め、保存の法則に達したかという思索の過程は科学の進歩の実際の状況を示し、この法則の意義を理解させる上に役立つのである。
このような科学的事例は、現代ではすでに“ 常識化” したものであり、学生にとって“ 古くさい” という印象を与えるかも知れない。学生はむしろ“ 素粒子” の話とか、遺伝のしくみにおける“ 二重ラセン” の話のようなものに魅力を感ずるであろう。しかし、これらのように現に進展しつつある科学の新しい問題は、専門外の者にとっては難解な基礎的知識なしには扱うことができないものである。もちろん新しいものでも事例によっては教育的に適切と考えられるものもあろう。しかし、科学史によって科学の方法やその本質を理解させるという観点から見れば、すでに常識化しているような話題についての歴史的扱いの方がより実際的でもあり、適切であると思われるのである。いわゆる“ リベラル・アーツ” の一科目としての科学史においては、科学史を通じて科学への理解を与えることが重要であるが、その“ 理解” は単に科学的方法への理解というばかりでなく、さらに広い意味に解さるべきである。それは、科学は元来人間の本性―ヒューマニズム―と結びついたものであること、科学は人間の社会生活や一般的思想と関連したものであること、科学は人類の文化的遺産の重要な部分であること、などに対する理解を与えるものでなければならない。そして科学史はその扱い方によってこのような目的にかなうものとなりうるのである。(以上、「科学史と科学教育」より)
なお、玉蟲は上記の提言と同じ年に「大学における一般教育の立場から見た現下の教育問題」(『教育委員会月報』1973 年9 月所収)という文を発表している。これは戦後の新制大学における一般教育の開始と展開、そしてその問題点をカバーしたものであるが、「国語にせよ、数学にせよ、理科にせよ、人間性に無縁のものはない。例えば、筆者の専門の化学は理科の中の一科目であるが、既知の事実や慨念や法則のみを教えるものではない。それらが知られるにいたる過程を通じて人間の理性の働きとその背景にある社会的・文化的事情についての理解を与えるものでなければならない」とも述べている。
参照文献からの抜粋が多くなったが、玉蟲が遺したいくつかの文章を概観して、「科学が人類の社会生活と深い関わりを持つ」という玉蟲の科学観・学問観が、ある程度浮き彫りになったように思われる。
最後に、上のような科学観・学問観が、いつから玉蟲に育ち始めたのかを考察してみたい。そして、彼が教育の第一線にあった時期の武蔵学園の社会的意義もまた、その作業を通じて、いくらかは明らかになるだろう。
玉蟲は逝去の前年に、「ワイマール末期(1927–29)のベルリン」と題する見聞録を発表している(『思想』1981年10月号所収)。表題の年代から、彼が武蔵高校教授在職中にドイツに留学した時期の思い出を記したものであることは一目瞭然である。そして、彼はそれまでも、この留学時の経験談(研究活動や音楽・オペラ・演劇の鑑賞ぶり)を詳細に記した回想を何度も発表しているが、この文章の末尾において、いままでの回想になかった以下のような考察がある。
……右の時期はベルリンの“ 輝かしい時期” というに適わしく、科学に於ても、芸術においても世界の文化史に残る果実を生んだ。先に引用した物理学者エルウィン・シュレーディンガー(1887–1961)は1932年、“ 科学は時代の流行か” と題するプロシア・アカデミーでの講演の中で、“ 芸術は人間気質を透して見た自然である” というゾラの言葉を引用しつつ、科学もまた、その時代や環境と無縁のものではないことを語っている。私が1927–29 年ベルリンで体験したことは、このシュレーディンガーの言説を裏書していたかのように思われる。物理学における量子力学や波動力学の勃興は芸術における新即物主義の展開と無関係ではなかったのではあるまいか。ドイツにおけるワイマール末期の芸術や科学がその短期間にいっせいにその花を咲かせ、実を結んだことは偶然ではなかった。それは共にそれらの底流に流れる時代精神の現われであったと言ってよかろう。
玉蟲はすでに1958 年に、自身の武蔵高校での教師生活を回顧して「私は理科教師としてたしかに恵まれた境遇にあった。現在は過去とは非常にちがうことは明らかである」と述べ、続けて次のように記していた。
理科教育の内容や方法は文部省の指導要領や検定教科書で制約されている。それは一つの基準としては有意義なものであるが、それによって教育が画一化される傾向の強くなることは問題である。人間に思想の自由がなければ、文化の発展は望みえないと同じように、教育者に自由が与えられなければ、教育の効果を期待することはむずかしいのである。……過去をそのまま現在に移すべきではないが、教育におけるかつての自由主義時代の経験は、現在において、とくに尊重さるべきではなかろうか(前掲『科学・教育・随想』に所収)。
この2 つの文章から、以下のような解釈が可能なように思われる。「玉蟲は、ワイマール末期のドイツにおける人文・自然両文化の隆盛を目の当たりにして、自身も精力的にかかわっていた武蔵学園における『自由な教育』が、場所や時代を超えて、普遍的な意義を持つことを自覚し、その文化的意義が戦後の教育界においても埋没しないように努め続けた」、と。
玉蟲の逝去から半世紀近くが経過した現在でも、彼の研究と教育の経験から生まれた教育界への提言は今なお、尊重されるべきメッセージではなかろうか。