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第2代校長山川健次郎―古武士の魂と科学者の合理性(三澤正男)
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明治維新から150 年にあたる2018 年1 月、安倍晋三首相(当時)は国会の施政方針演説で明治政府軍と闘った会津藩白虎隊の隊士だった山川健次郎の名をあげ、会津降伏後、エール大学に留学し日本初の物理学博士となり、東京帝国大学総長を二度務め、京都帝国大学(兼任)、九州帝国大学総長も歴任した山川の業績を讃えた。武蔵には東京帝国大学総長時代からその設立に関わり、晩年は第2代校長を務めた山川健次郎の武蔵創立前夜における行動と校長時代の足跡をたどる。
山川健次郎の暮らしぶりは、『男爵山川先生傳』(以降『山川伝』)や三女東照子の随筆集『吾亦紅』、後述の山川の日記などから知ることができる。
東京帝国大学総長山川健次郎は、毎夕晩酌を楽しむと早々に床に就いていたが、1919年9 月28 日は電話がその習慣を破った。灯りはすでに電燈であったが大正の夜は暗い。吹き抜けの渡り廊下を抜けて電話室に向かう健次郎の左右はまったくの闇だった。
健次郎の自宅は北豊島郡西巣鴨、現在の池袋駅の北西にあった。会津出身、白虎隊の生き残りであり、弱冠17 歳でエール大学に留学し、土木と物理を学んだ健次郎は、1910年に自ら設計してこの家を建てた。耐震と通気が精密に計算された構造は、採光にも優れ、南向きの居間には真冬でもおだやかな陽ざしがさしこんだ。敷地は男爵にふさわしく7000㎡ほどもあったが、内部は来客が驚くほど装飾がなく美術品の類いも一切見当たらなかった。建てた直後、周囲はまだ麦畑と水田に囲まれていたと照子は記している。
健次郎にとって家は住むことができればよく、広さは「来る者を受け入れるため」という持論によるものだった。事実、このとき健次郎は二度目の東京帝大総長の任にあり(50歳で一度退官、その後は明治専門学校総裁、九州帝大総長を歴任し58 歳で再び東京帝大総長に就任、さらには1 年間京都帝大総長も兼任)、理化学研究所顧問、帝大航空研究所所長(この5 日前に就任)など多くの要職を兼ねていたため、きわめて来客が多かった。この日は日曜日で健次郎は終日在宅したが、朝から学生が運動会の相談に来るなど(ていねいに話を聴き助言している)夕刻まで訪問者が絶えなかった。
電話の主は法学博士にして臨時教育会議総裁の平田東助だった。健次郎も同会議の委員であり、また学習院評議会の会員どうしでもあった。すなわち当時の日本の教育界の重鎮から重鎮へのホットラインである。平田は根津嘉一郎と文部官僚の本間則忠を紹介し、「両名が私立学校をつくることを計画しているので協力してほしい。ついては相談の会を10 月3 日午後4 時に青山の根津邸(現在の根津美術館)で開くので参加できないか」というものだった。平田はまた、会のメンバーとして北条時敬(学習院長)、一木喜徳郎(元文部大臣・枢密顧問官、後に武蔵高等学校初代校長)、岡田良平(文部大臣・一木の実兄)らの名をあげた。いずれも教育界を代表する顔ぶれである。なかでも岡田は文部大臣として臨時教育会議をおこし、義務教育の国庫負担への道を開こうとしていたが、官立の旧制高校しかなかった高等教育の拡充という大仕事もこの会議のタスクとしていた。
武蔵高等学校の誕生は、根津嘉一郎という一個人の社会貢献への篤志と、その思いを学校というかたちで実現させるべく勧奨した本間の情熱のコラボレイションにあるが、時代も国もその志をささえるべく動きだしていたといえる。
古武士の精神と物理学者の合理性を兼ね備えていた山川健次郎の決断ははやい。その場で平田に承諾する旨を伝えた。しかし、健次郎はめずらしくその晩に風邪をひき翌日から2 日間、休みをとった。
武蔵高等学校設立の経緯は、財団法人根津育英会設立以降は克明な記録がのこされており、『武蔵学園史年報』や『武蔵七十年史』などに紹介されている。しかし、財団設立以前の経緯については根津嘉一郎に熱弁をもって学校設立を決意させ、実務を取り仕切った文部事務官の本間則忠が理事会宛にのこしたメモ(『武蔵学園史年報』創刊号)と関係者の日記や伝記などをたどる以外になかった。
それらを詳細に照らし合わせていくと、できごとの日時や話し合いの経過などにくいちがいが散見される。なかでも本間メモは、これまでの研究で意図的かどうかは別として日時の誤記と思われるものがあるとされてきた。
こうした謎を解くのは、より信憑性の高い同時期の記録を見つけだすしかないが、有力な史料が2012年に秋田県公文書館で発見された。それが『山川健次郎日記』の写本である。
健次郎の日記は手帳とともに『山川伝』に存在が示されていたが、東京大学、京都大学、九州大学、武蔵学園、福島県立博物館など、健次郎の史料を保管している施設には日記と手帳に関するものはなかった。2001 年に古本市に出たという情報があるのみで、健次郎のこの時期の直筆による日記と手帳は未だに発見されていない。
発見された今回の日記は写本ではあるが信頼のおけるものであることが判明した。日記はときとして文学者のそれのように「読まれること」を意識して創作要素が含まれるので注意が必要だが、健次郎の日記は歴史的事実と整合し、さらに、これも史料価値の高いとされる北条時敬の日記とも一致する内容がある。また、『山川伝』には山川健次郎没後、長男の洵が日記や手帳の貸し出しを許したとある。ただし、この写本がなぜ秋田県公文書館に保管されていたのかはさらなる調査を待たねばならない。
日記には10 月3 日の根津邸での会合についても書かれている。この日付は北条日記とも一致し、本間メモの「初の協議会は12 月28 日」という記述は誤りであることがわかる。この日は金曜日で健次郎は朝から東京帝国大学に出校し、総長室や食堂などで来客に追われているが、午後4 時の会合には間に合い(時刻も記されている)、健次郎は学校をつくるなら実業補習学校のようなものと意見を述べている。根津嘉一郎が用意する資金は200万円(実際には360万円超)で、1 万坪の土地は取得済みであるとの記述もあり、健次郎はそうしたドキュメントを手帳に記録、帰宅して日記に書きなおしたと思われる。会議は各自が意見を述べるのみで終わり、次回を約束して宴会になった。「根津氏の丁重なる饗応」と健次郎は書き、北条も「日本式念入りの馳走」と記している。
夜更けて、健次郎は根津家の自動車で北条時敬とともに帰宅する。車は青山から目白の学習院を経て池袋の山川邸へ深夜の東京を急ぐ。その加速は動きはじめた日本の高等教育のそのもののように思える。車内で健次郎と北条はどんな会話をしたのだろうか。
この会合で結論は出なかったが、根津嘉一郎と根津の相談相手で親友の宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉創業者)は「七年制高等学校」という本間が建てたプランで進めるという基本構想をすでに合意していた。健次郎の日記にも北条の日記にも、2 日後の10 月5 日の日曜日に、本間則忠が学校設立の具体的計画を大量の資料を携えて説明しに来宅したとの記載がある。そうした本間のすばやい動きは本間メモにはない。
翌1920(大正9)年、健次郎は66歳で東京帝大総長を退官する。その翌年秋、財団法人根津育英会が設立され、健次郎は顧問となった。
武蔵高等学校の顧問となった山川健次郎は、その設立にむけて最も尽力したのは教員の選定である。初代校長は財団法人根津育英会設立の時点で一木喜徳郎に決定し公表されていたが、官立高校教授に匹敵する教員を集めるには、教育現場に長く携わった経験と教育界に幅広い人脈を持つ健次郎の力が必要だった。『山川伝』によれば、武蔵開校前年の1921 年6 月17 日、一木は池袋の山川邸を訪ね、教師選定の依頼をしており、その9 日後には健次郎自身が候補者と面談している。そのなかでもっとも重要だったのは教頭の選定で、一木の負担を軽減できる教学・経営全般にリーダーシップをとれる人材であることが第一条件だったが、健次郎は京都帝国大学総長時代、学習院評議会でもその能力を知っていた山本良吉を強く推薦した。
1922 年4 月、武蔵は開校したが、健次郎は教師の選定や学校運営についてたびたび助言をもとめられた。1925 年3 月、一木喜德郎校長は宮内大臣に就任。翌年には校長を退任することになり、後任の校長選定が急務となった。理事会、教授会、また外部からも山川健次郎を推す声が高まり、同年12 月23 日には宮中で一木大臣から校長就任を懇請されたが、健次郎は時間をいただきたいと回答を留保した。その2 日後には山本良吉が校長就任を正式に要請するために訪問、就任に際しては根津理事長に条件を提示してはとまで進言したが、健次郎はその場での回答は控えた。各方面からの要請、また一木はすでに宮内大臣に就いており、事実上、校長空位の状態が続くことを是とすべきでないことを認識しながら、健次郎は1 か月以上態度を明確にしなかった。その理由について『山川伝』では、「學校内の複雑な関係を知悉して居られるだけに、軽々しく之を引き受くるべきにあらずとして」(P.365)とある。この複雑な関係の中身は、山本良吉、本間則忠などの強力な個性と実行力をもつ人物の顔が浮かぶが、推測の域を出ない。
年明けて1926年2 月5 日、根津理事長が突然山川邸を訪問、校長就任を懇請した。ここにおよび、健次郎は後日伝える条件が認められれば校長を引き受けるとその場でこたえた。
『山川伝』では、その背景として、度重なる要請と学校の状況、さらに「根津理事長の白虎隊墳墓改修への多大な便宜への恩義」を考えての決断と述べている。2 月8 日、健次郎は根津宛に4 項の条件を提示した書状を送る。そのなかには「教員の恩給制度制定」「教員の海外留学を許可」が含まれていたが、根津は宮島、正田と相談のうえ、3 月の理事会で健次郎の条件を認諾することを決定。4 月1 日、山川健次郎は武蔵高等学校第2 代校長となった。ときに健次郎71歳である。
校長就任後は、基本的に教学・運営は山本教頭に委ね、大所高所から見守る立場をとり、生徒に対しては主として精神的な訓話を中心に向き合った。しかし、健次郎は月曜、木曜、土曜は必ず出校して執務し、それ以外の日は文部省や多方面からの依頼をこなした。どうしても学校に来られない日は、別日に代替して出校した。また、教員の選定については、校長自身が長時間の面接をした。
就任条件にあげた「教員恩給制度」は1929年に理事会で可決。教員留学については文部省と交渉を重ね、1927 年、「官立高校教授と同様の官費による洋行」の検討開始を約束させた。また、生徒の「外遊制度」も発案し、自らも基金を毎年200 円提供、外遊生の壮行会では自身の留学体験を語り、外遊先各地の関係者に紹介状を送るなど、健次郎は自身の留学体験をふまえ、「世界に雄飛するにたえる人物」を強く意識していた。
山本教頭に教学・運営は任せながらも、山川校長は生徒の衛生面、栄養には細かく目を配った。とくに学寮には常に関心をもち、水質検査などを行い調理場の清掃には自ら生徒を指導した。また寮生の栄養に配慮し、故郷の会津や各地の野菜・果物を取り寄せた。
健次郎は「書を本格的に訓練していないから」との理由で、あらゆる揮毫は固辞したため彼の書は少ない。しかし健次郎が命名した「愼獨寮」には、大正天皇の勅命で上げた書の下書きが贈られた。これは健次郎の性格からして異例のことだと『山川伝』は記している。
山川健次郎を語るとき、彼の会津藩への思いを切り離すことはできない。朝敵の汚名を晴らすことと白虎隊の悲劇を語り継ぐことは彼の後半生の最大テーマだった。博士となり帝大総長となった健次郎を会津の人びとは頭上で輝いて道を示す「星座の人」と呼んだ。その学識とマネジメント力、そして何より高潔な人格は、当時の教育者、科学者、学生、さらに武蔵にとっても、オリオン座のように凛烈な冬空に雄雄しく舞い立っていた。
健次郎の会津と白虎隊への深い思いに感動した根津嘉一郎は、健次郎が武蔵校長就任の年、荒れ果てていた白虎隊の墳墓の整備資金を寄付するが、健次郎がその報告を一木喜徳郎宛にしたためた手紙の草稿がいまも残る。それには、根津への感謝と自らの非力への悔恨がにじんでいる。
山川健次郎は1931 年の年明けに病を得て入院、3 月に武蔵校長を辞任する。桜の頃には一度退院するが再び悪化し、6 月26 日の午前、息をひきとった。幕末から昭和まで走りぬけた77年間の激動の旅だった。