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「武蔵は二にして一なるものの歴史」―「二」を継ぐ学園ゴルフ会の発足(阿妻耕次郎)
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1922(大正11)年に開設された旧制の7 年制武蔵高等学校は、学制改革により1948(昭和23)年に新制武蔵高等学校開設となり、1949(昭和24)年に武蔵中学校を新設した。また旧制武蔵高等学校を基盤として武蔵大学が1949(昭和24)年に開学し、武蔵学園は「高等学校・中学校」と「大学」の構成になった。同窓会組織については、旧制武蔵高等学校の同窓生は、新制武蔵高等学校の同窓会と一体となり、「武蔵高等学校同窓会」とした。一方、武蔵大学は1 回生が中心となり、1955(昭和30)年に「大学同窓会」を設立に至った。同じ経過で戦後、高校、大学と分離した成蹊、学習院等は、同窓会組織は一つである。
本稿の標題「武蔵は二にして一なるものの歴史」との表現は、1972(昭和47)年5 月発行『武蔵五十年のあゆみ』の「あとがき」で平井卓郎先生が記したものである。
その部分を引用する。
「50 年という年数が包含する歴史には起伏が多く、殊に太平洋戦争を境として学園の在り方も波瀾に富んだものであっただけに、これを細大漏らさず網羅することは容易な業ではなかった。その間武蔵学園は内容・外観共に充実発展して、中学校・高等学校に加えて大学をも新設した。この二にして一なるものの歴史の表現は性格的にも困難なものがあり、編集上の苦労があった。」
平井卓郎先生は、1934(昭和9)年武蔵高等学校に国語講師として奉職され、戦後は大学でも教鞭をとられ、1978(昭和53)年に武蔵大学名誉教授、1983 年3 月に引退されるまで、49 年にわたって武蔵の国語、国文学教育一筋に尽力された。
ここでは、平井卓郎先生の教育理念などを探ると同時に、両同窓会の交流経緯などを振り返ってみる。
平井卓郎先生の遺稿集「宮城野萩」がある。アララギ派の歌人として多くの歌を残され、その整理をお考えになったご家族と高校19期の方々が編纂されたものである。多くの教え子の中で、特に高校19 期の方々とは懇親を深められ、平井先生令夫人は「我が家の顧問」とも表現されている。
遺稿集に掲載されている日記(昭和16年から昭和22年)の一部を紹介する。
昭和19年8 月21日 曇
第2 学期開始。文一戸塚の日立工場へ通年動員。文一生は今回の出動に関しいささかのケレンなくいざゆかんの面構へにて文句一ついふものなし。頼もしき限りなり。かかる生徒の主任となりしは実によろこばしき事なり。
昭和20年3 月10日 曇
今晩12時頃よりB29約130 機帝都市街地空襲。2,3 千米の低空より焼夷弾を投じ火焔、炎々として練馬の空まで夜明の如し。時計の文字を読みうる程なり。入れ替り立ち替り襲う敵機の姿は実に悪魔そのものなり。本所、深川方面全焼なりと。
昭和20年5 月26日 晴
昨夜11 時頃より今未明2 時頃までB29 250 機帝都空襲。桜台付近より焼夷弾により発火。折悪しく東北方の風あり。次第に延焼し、吾が家の付近も危なき状態となる。荷物を壕に入れ、土盛りす。坂元晃平生駆けつけ手伝ふ。風向き東に変じ表通りの大道路付近にて漸く喰い止む。生徒の来たりし者、坂元、橋本、須田、今井、鈴木武男、久松、小島。(筆者注:高校19期の方々)
昭和20年8 月8 日 晴
敵B29 6 日の広島攻撃に新型爆弾を使用し少数機なれど相当被害の旨大本営より発表あり。原子爆弾かなど巷間の噂あり。
昭和20年8 月15 日 晴
正午。天皇陛下御自らラジオ録音を以って大東亜戦の終結を一億国民に告げさせ給う。工場に於て大報を拝す。噫、米英の誇る科学力に抗し得ずして、聖戦空しく挫折す。国民の責任を痛烈に感ず。
昭和20年8 月20日 晴
教授会にて全教授に今後の学校方針に関し意見開陳を求められる。授業を続行せよ、むしろ増産に従へ、の二方面に分かる。余は学徒の勤労疲労甚しければ相当日数の休業を与へ、而も親の膝下に於て(或る者は郷里)静かに時勢を考へ自己を省察する暇を与へ、然る後授業にても増産にてもその場合適切なる方向をえらぶべしと述ぶ。結局、8 月一杯は臨時休業となる。
昭和20年9 月3 日
学校本日より始業。8 時20 分、講堂にて校長より始業の話あり。会合出席をとり解散。
昭和22年3 月30日 曇
第19 期卒業式。7 年間中4 年間主任したる文三の連中28 名各々の志すところに合格して、晴れの卒業式なり。空襲に防空に勤労作業にと苦労を共にし、情熱をわかし、又兵隊に送り、果ては国防の礎として共に共に玉砕すべき運命を画きゐたるこの若人達と、この喜びの日をむかふべしとは夢想だにせざりしことなれば感無量なり。
ここまでが旧制武蔵高等学校時代に経験した一つ目の「大きな局面」と筆者は推察する。
次に1985(昭和60)年、武蔵大学通信に寄稿した「烏兎匆匆」の一部を紹介する。
私は武蔵学園に約半世紀に近い47 年間もお世話になった。7 年制の旧制高校時代から、大学は経済学部単学部時代、そして人文学部を加えての複学部時代に及ぶ。これらが重なり合って私の思い出は複雑に錯綜する。一日の授業が中学・高校・大学に跨ることもあった。(中略)
経済学部の教養課程では日本文学史を中心に講じたが、その他に一寸思いうかぶものでも、邪馬台国・歌垣・浦島伝・酒の歴史・日本の国歌・照葉樹林文化等々の考察にも及んだ。顧みて時宜を得たというよりも、むしろ一足宛時代の問題を先取りした講義だったとも言えなくもない気がする。(中略)
昭和44 年に人文学部が新設され、私はその中の日本文化学科に関与したわけだが、国文学科の新設を熱望していた私には、スケールの更に広大な日本文化という学科の編成は荷が重く、頗る悩まされた。これに伴う教員組織も容易ではなかったが、この方は苦心の甲斐有って可なりの程まで意中の方々を招くのに成功したと自負している。そのお陰で難題の山々も次々と解決され学科の運行は順調だった。誠に多士済々で私は日本の知恵袋と称していた。お陰で私はいとも気楽に万葉や源氏を講じ、演習生揃って鎌倉方面に古池を辿る泊りがけの忘れ得ぬ旅なども楽しめた。
本日は私のためにこのやうに盛大な会をお開き頂き、学園各方面の方々がご遠方からも大勢御出席下さいまして誠に有難うございます。
(中略)顧みまするに私は昭和九年三月、恩師倉野憲司先生のお口添へで山本良吉先生にお目にかかり、旧制の七年制武蔵高等学校に奉職いたしましたが、この時私の一生の運命が決ったのでございました。
大正の末期頃私は徳富蘇峰の豊富な文才に心酔した時期がありました。山本先生にお目にかかりました時、先生は、この学校では文章を非常に重んずるといふことを仰言ったことから色々と文章に就いてのお話になりました。倉野先生は山本先生について何の予備知識もお与へ下さいませんでしたので、盲蛇を怖ぢずで、山本先生を相手に随分勝手なことを申し上げました。蘇峰は曽て国民新聞の社長であり、先代根津嘉一郎翁はその相談役であられたやうです。「根津翁伝」によりますと、そのやうに記されてゐます。自分の抱負を新聞を通して世人に訴へるといふ点でお二人は見解を同じうしてをられたのですが、結局それがやがて見解の相違を来すことにもなり、蘇峰が国民新聞を去りましたのが昭和四年であります。かうした事は、私が武蔵に奉職しましたことと何ら関係ないのですが、その根津翁のつくられた学校に、蘇峰の文章を愛読し勉強した私が奉職するやうになりましたのは、やはり何かの因縁であったのではないかという気がいたします。
私は怖いもの知らずの坊や育ちでしたから、武蔵の気風になじむ迄には随分自分と学校との間で、また、生徒と学校の間の板挟みになって困惑したものです。然し生徒諸君は頗る賢明でさうした諸君と私とは却って強い愛情によって結ばれました。また就任早々から弓道部をあづけられましたが、弓の道は仁の道でございまして、武蔵の弓道は正しく仁道を歩んでゐましたので、私は弓道部の諸君とは爾来君子の交りを続けて参りました。
高校専任時代の私には、大学への進路指導をはじめ思ひ出は沢山ありますが、その中の一つは戦時中の勤労動員で、爆撃と銃火を浴びて文字通り生徒とは生死を共にいたしました。そこに生じたものは師弟の間柄などを遥かに超えた強靭でしたたかな切っても切れない間柄でございます。
その後大学の経済学部には二十年余日本文学を講じて参りました。これも最初は日本文学が他の外国語等と組合せられ、毎年交替に講ずる仕組みでしたが色々の経緯があり、いつの間にか私が日本文学を毎年講ずるやうになり、私はそれで一向構わぬものですから大変愉快に継続してゐる中に二十年たってしまひました。お蔭で学生諸君とは非常に親密にになり、泊りがけの旅行など計画して誘ってくれたりしたのは大体この学部の諸君達でございました。高校専任時代は非常に忙しく、毎日が精一杯で自分を顧みる暇がありませんでしたが、少し落着いて、勉強もいたしまして、どうやら自分の学問の方向を見定めることができるやうになりましたのがこの経済学部時代になってからでございます。
人文学部の設立は昭和四十四年ですが、私は逸速く神田・福田・鳥居先生といふ、かねて望んでをりましたお三人の先生をお招きすることが出来まして、万事これらの先生方の御協力によって初期の日本文化学科のカリキュラムを構成することが出来ました。「日本文化」の内包する範囲やその取扱ひ方では大分苦心いたしましたが、その後教授陣容も充実し、私も既に六十五歳の規定の定年に達しましたので第一線を一歩後退いたしました。神田先生が私に向かって「後は万事我々にお任せ下さい。先生は奥の院に鎮座ましましていらっしゃい。」と仰言って下さいました。何か院政を思はせる……と申しましてはおほけなき限りですが、院政よりは実害のない存在であったと存じます。人文学部では日本文学を軸といたしまして多くのすぐれた友人達と、それから、志を同じうする若い学徒とを得ましたことが私の生涯に特筆すべきことでございます。
日本文化の方向に就きましては私の最も尊敬してをりました正田建次郎先生が随分お力になって下さいましたが遽かに故人となられ残念至極です。然しこの度新学園長として太田先生をお迎へ出来ましたのは望外の喜びと申すべきで、これからは先生の深い御造詣による御力添へをお願ひ申し上げる次第でございます。
元来私は学生・生徒諸君に接するに当り、その人間性を尊重するといふことを建前として参りました。どんな人にでも、そして、その人がどんな立場にある時でも、人間として与へられた玉のやうなものを持ってゐる筈です。それを見つけ出して磨きをかけてやるのが教育者の使命でせうが、私にはそこ迄やるだけの力がありません。只いかなる場合にも若い人達がさうした玉の持主であることを忘れずに、そっとしておき、自然に輝き出す時を待つといふ行方でした。これは御批判の余地が十分ありますが、私の性格上精々そこ迄で、それ以上のことは出来なかったのであります。
次に学園の中に在りましては、私は中学・高校から大学迄の相互協力といふことを望みながら行動して参りました。この点最近は双方の同窓会なども互ひに歩み寄りを見せるやうになって参りましたりして、大変喜ばしいことであります。只先年「武蔵五十年のあゆみ」を編纂しました際、そのあとがきに「高中と大学と二にして一なるものの歴史」といふ文句を私が書きましたのに対し、その「二にして一なるもの」といふ点にひっかかった方もあるといふことを耳にいたし、武蔵の発展のために誠に残念だと思ひました。私共はもっと広い視野に立って学校を考へ、更に融合の心をもって愛校心を涵養することが武蔵の発展につながるものであることを痛感してをります。私は及ばずながらその生涯を武蔵に捧げて参りました。武蔵一筋に生きて参りました者の声としてお耳に留めて頂ければ幸でございます。
扨私もこの七月で満七十一歳になるところで、愈々馬齢を重ねて参りました。今年が午年に当りますのも皮肉に感じます。七十ともなりますとやはり心身の衰へは争へませんが、最近は日本人の平均寿命も延びて参りまして、七十位で余り老人めいた繰言など言へなくなりました。実のところ私も未だそんな老境にはまり込んでしまふ程の余裕はございません。目下三年がかりで取りかかってゐる加茂真淵全集の中の真淵書人の古今六帖の刊行が予定されてをりますし、それを済ましましたら万葉の花についてまとめてみたいと思ってをります。六帖の研究もまだまだです。
もう少し生きてをりまして、やりさしの仕事を私なりに仕遂げたい所存で、この度頂戴しました記念品代はかうした仕事に使はせて頂きたいと思ひます。思へば毎年々々入学試験などで心を悩まして参りましたが今度こそやりたい事がやれると楽しみにしてをります。それにつけてもお若い皆さん方のこれ迄に変らぬ御元気な御声援をお願ひ申し上げる次第です。
大変大雑把な話を長々申し上げ、尚かつ不備だらけのものとなりました。お許し願ひます。最後に本日の会のために発起人・実行委員として御尽力下さいました方々、更にまた煩雑な事務や折衝などで終始お骨折りを頂きました方々に心から御礼申し上げます。それから私がこのやうなよい学校に一生を捧げさせて頂きましたことに対し、もう一度感謝の意を表しまして私の御挨拶といたします。本当に有難うございました。
(昭和五十三年五月)
ふたつの同窓会の設立から交流に至る経緯を振り返る。
1922(大正11)年
旧制武蔵高等学校開学
1931(昭和6)年
武蔵高等学校同窓会発会
1948(昭和23)年
新制武蔵高等学校開学
1949(昭和24)年
武蔵大学開学 新制武蔵中学校開学
1955(昭和30)年
武蔵大学同窓会発会
1960(昭和35)年
4 月28日大学同窓会年度第一回幹事会開催
高校同窓会との合併問題が議題となる。要旨は「学内では学園一本化の方向に急速に進んでいること、また在学生から同窓会の一本化を要望する声が強くなっているので、幹事会で慎重に検討した結果、幹事会としては基本的に一本化に賛成するが学校側、高校側同窓会の意向を知るために学部長の斡旋で武蔵高校同窓会幹事と懇談の機会をもつこととし、その旨学校側に申し入れることにした」(『武蔵学園史年報』第13号)
1965(昭和40)年
学長、校長に正田建次郎先生就任
1974(昭和49)年
7 月5 日大学同窓会と高校同窓会の初の交流実現
5 月の高校同窓会総会で役員が改選され、その結果選出された新役員から、大学同窓会と接触を持ちたいとの意向が、伊能敬教授を介し伝えられ、正田建次郎学長の支援を得て、学士会館において初顔合わせが実現したもの。
【当日の出席者】
大学側
正田建次郎学長、校長 兼両同窓会名誉会長
伊能 敬教授
櫻井 毅教授
向山 巌教授 兼大学同窓会副会長
高校同窓会
明石景明会長
尚 明 副会長
渡辺正広副会長
大橋弘利幹事長
大学同窓会
石田 久会長
渡辺 稔副会長
丸 和男副会長
中西 洋副会長
1974(昭和49)年
11月9 日 第1 回オール武蔵ゴルフ会開催大学、高校同窓会の正田建次郎名誉会長の仲立ちで、両同窓会の交流を目的として企画された。東武カントリークラブにおいて開催され、51 名が参加した。
1975(昭和50)
年4 月1 日 学園長制創設と学長公募制により、学園長に正田建次郎先生就任、学長に鈴木武雄先生就任、校長に大坪秀二先生就任12月1 日 武蔵学園後援会発足 会長に植村甲午郎氏就任
1976(昭和51)年
2 月5 日 学長に岡茂男先生就任9 月18日 同窓会館「武蔵クラブ」オープン大学同窓会発会20 周年事業として提唱された同窓会館が、同窓会副会長松山孝氏(大学8 回生)のご尽力でスウェーデン製別荘風のサロンとして出来上がり、武蔵学園の中の建物の一つとして、「武蔵クラブ」の名称のもとに、学園関係者のすべての人々が利用出来るような役割を目指すとした。
1975(昭和50)年1 月発刊の『大学同窓会報』第21号に、正田建次郎学長から『学園組織の充実へ』と題して年頭所見が寄稿されているので紹介する。
「武蔵大学に人文学部が創設されてから六年、この春には経済学研究科博士課程が、人文学研究科に修士課程が完成するまでに成長した。この機会に学園の組織を改め、学園長を置いて武蔵学園の研究教育を総括し、大学、高中にそれぞれ学長、校長を専任することになった。そして私が学園長を引き受け、学長・校長は規定に従い近く選出されることになっている。私はこの組織の変更が、学園の充実発展に寄与することを望んで止まない。
私立大学も公的な教育研究の場であるから、それに対する国及び一般社会からの支持を期待するのは当然であるが、同窓生諸君の母校愛からなる協力を必要とする度合は国公立大学の比ではなく、そしてそれこそ私学精神の一つではなかろうか。武蔵大学も財政的な面だけでなく、多くの問題をかかえている。それを乗り越えていくには、私達教職員や学生が努力すべきは勿論であるが、同窓生諸君の物心両面の協力に期待するところは大きい。同窓生諸君が各自の職場で大いに活躍されることを祈るとともに、母校武蔵大学の将来に多大な関心を持たれることをお願いしたい。
武蔵学園に於ける大学と高中との関係は多くの大学のそれと異り東京教育大学やお茶の水大学と類似している。そしてこの両者に於けると同じように武蔵学園でも同窓会が二つに分れている。しかし本学園ではこの二つの同窓会の交流が生れてきている。真に喜ばしいことである。昨秋には協同でオール武蔵ゴルフ会も催された。私は今年この交流がますます盛んになり、共通な武蔵意識をもって活躍発展されることを希望したい。」
1976(昭和51)年12月15 日発刊の『大学同窓会報』第24号に、岡茂男学長から『同窓会の発展を喜ぶ』と題して寄稿されているので紹介する。
「みなさん待望の同窓会館が、ここに『武蔵クラブ』として立派に実現したことを、心からお慶び申し上げます。
武蔵大学同窓会が、会の事務所を含む独立の施設をもちたいという希望は、かねてからよく聞いていました。私も同窓会の重要性を知っていましたのでなんとかして会館を実現できないものかと、ひそかに案じていた次第です。それだけに、スマートで、さっぱりした『武蔵クラブ』の建物が完成したことは私にとっても大きな喜びです。
たしかに、施設の規模は小さく、期待にはほど遠いかもしれませんが、これは将来の発展への第一歩にすぎない、と思っています。同窓会の現状からすれば、これだけの会館を建設するだけでも、たいへん困難な仕事であったにちがいありません。ことに会長以下、幹事の方々のなみなみならぬ努力と苦労をしばしば拝見しているだけに、みなさんの喜びもさぞかし大きいものと思っています。
このように同窓会館が、同窓生自身の力と努力によって見事に実現したことが、私にとって第一の喜びです。
それに、同窓会館が、母校のキャンパスの一隅に建設されたこと、しかも建設の大部分がすべての学生と教職員にも開放され、終日、大いに賑わっているのを見ることができるのも、ひそかな喜びの一つです。
また、会館の名称が『武蔵クラブ』と名づけられたことも、いま一つの喜びです。おそらく『武蔵大学同窓会館』といった名称になるものと、勝手に考えていましたので、当初は、やや意外に感じました。でもその理由を聞いてみると、武蔵大学だけでなく、武蔵高等学校の卒業生もいっしょに利用出来る施設にしたい、という深い配慮がひそんでいることを知りました。このこともまた、まったく予期しなかった大きな喜びの一つです。
武蔵大学同窓会が、このたびの『武蔵クラブ』の完成を契機として、いよいよ結束を固めて発展されるとともに、高校同窓会との交流および親睦を深め、『武蔵学園の同窓会』としての連帯感と一体性を、いちだんと強められることを、心から期待する次第です。」
高校同窓会会長を務められた明石景明氏(高校4 期)は、1984(昭和59)年12月に武蔵学園後援会長に就任。1989(平成元)年発刊の『武蔵大学創立40周年記念誌』に「武蔵大学と武蔵高校」と題して寄稿されているので、その一部を紹介する。
「昭和24 年に創設された武蔵大学は、今年40 周年という記念すべき年を迎えた。ここに心からお慶び申し上げます。
戦後のまだ混乱していた時期に独自の学風をめざして発足した新しい大学は、既に多くの人材を社会に送り出し、学界、教育界に大きな寄与を果たすに至っている。少数精鋭の教育を行うこと、教師と学生との人間的な触れ合いを重んずること、ゼミナールを中心とした卒業生の結びつきの強いことなど武蔵大学の特色といえると思う。(中略)
大学、高等学校、中学校で武蔵学園がつくられており、大学には学長、高中には校長が置かれ、学園長が学園全体を統括している。学園の運営を円滑化し、その発展を図るためには、これらの一体化が必要である。故正田建次郎学園長はこのことを強く留意しておられたが、その一つの表れとして、昭和49 年私が武蔵高等学校同窓会会長のとき、武蔵大学同窓会との連携を考えることを勧められた。
それまで両同窓会の間にはほとんど連絡はなかったが、同年7 月両者の役員が集まり、正田先生にもご出席いただいて、今後いろいろの面で交流してゆこうという話し合いが行われた。
それからは役員間の懇談、資料情報の交換、それぞれの総会等の行事への招待、オール武蔵ゴルフ会の開催などが次第に活発に行われるようになった。ともに太田学園長を名誉会長に戴いている両同窓会がこれからも緊密に連携し、武蔵学園の進展に寄与してゆくことを希望している。」
オール武蔵ゴルフ会の1974 年第1 回開催から1986 年までは年一回の開催であったが、1987 年からは春と秋の年二回の開催となった。その中で、1978 年第5 回開催は、『正田牌』の取り切り戦となり、優勝は正田喜代次氏(旧名、大学10 回生、現名喜代松)に輝いた。正田氏は第1 回からの参加者で、第1 回開催時の思い出として、「大先輩方の手厚い運営に接し、開催当日に自身が最年少の参加であることを知り、役割のお手伝いを申し出た。第2 回開催時からは大学同窓会が運営事務を引き受け、開催当日はゴルフ場開場と同時に参加者をお迎えする受付等の準備の役割を担った。そしてこの大会の参加が自身の同窓会活動との関わりの始まりになった」と振り返られている。その後、2000(平成12)年~2005(平成17)年の期間、大学同窓会長を務められた。
武蔵学園創立70 周年を機に、『武蔵学園ゴルフ会』へと名称が改められ、1993(平成5)年5 月12 日に第1 回が開催された。以降、年2 回の開催を重ね、2018(平成30)年5 月の開催は第50 回となった。そして同年11 月開催からは、オール武蔵ゴルフ会からの通算としての回数標記となり、直近2019(令和元)年11月開催は第78回に至った。
なお、2020 年、2021 年は新型コロナウイルス感染拡大の影響から中止を余儀なくされている。