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第1章 財団法人根津育英会の創立
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武蔵学園は、傑出した事業家である根津嘉一郎の社会への奉仕・貢献の志から生まれた。根津は、1860(万延元)年甲斐国山梨郡正徳寺村(現在の山梨市内)の旧家に生まれたが、30歳代のはじめから村会・県会の議員となり、また出身地の村長になるなど政界に頭角を現わす一方、理財の道を郷土の先輩に学び、東京に出て電灯・鉄道・ビール・食品・セメント・紡績・保険など多岐にわたる事業を経営し、大正年代の初期、50 歳代半ばには、すでに実業界に確固たる地歩を占めていた。卓抜した先見性・着眼点・経営の才能をもって、比類なき起業家・企業経営者として近代化途上の日本経済の牽引車の役割を果たす一方で、彼は、事業で社会から得た利得は社会に還元すべきものであり、それには社会の繁栄の源となる教育事業に貢献することが最善の道であるという志を内に育てていた。
根津が、教育を通じて国家に貢献する志を持った端緒は、1909(明治42)年、渋沢栄一が率いる渡米実業団(東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人50名)の一員としてアメリカに渡り、アメリカの富豪、実業家に親しく接したことを通じ、彼らの社会貢献と利益還元のありように深く感銘を受けたことにあると考えられる*。
その後、たまたま、1915 年12 月、別府温泉に在宿中、大分県理事官本間則忠が根津を訪ね、育英事業の創始経営について勧説した。本間はこれ以前、山梨県事務官であったことから、その時期に根津の知遇を得ていたと推測される。その後、本間が栃木県理事官に転任してからも、根津は毎月1、2 回は彼を自宅に招き、協議を重ねた。
当時は第一次世界大戦期にあたり、世界全体の変革期の中で、国内社会事情のより一層の近代化にあわせて、高等教育拡大を中心とする教育制度の改革が望まれていた。1917(大正6)年9 月、臨時教育会議の官制が公布され、その答申に基いて翌年、帝国大学以外に単科大学も含めて官・公・私立大学の設置を認める新しい大学令と、高等教育の拡大に対応するための新高等学校令とが公布された。新しい高等学校令第7 条では、「高等学校の修業年限は七年とし高等科三年尋常科四年とす」と定められたが、「高等科のみを置くことを得」と但し書きされ、中学5 年卒業者のみでなく4 年修了者にも高等学校の受験を認めることもあわせて定められた。これによって、三年制高等学校と七年制高等学校が併存する高等学校の制度が整えられたが、在来の三年制高等学校で七年制へと移行する学校はなかった。そして、この後約5 年にわたって、官立の三年制高校17 校の設置が予定されたが、七年制高校については、制度はできたものの実現への見通しはほとんど開けなかった。東京府立一中、京都師範などで一応検討されたといわれるが、実行には至らなかった。
(注)後出の、学園創立100 周年記念行事における、根津公一理事長による式辞、また、本百年史の『主題編』に収録の「社会貢献への目覚め―根津嘉一郎にとっての渡米実業団」も参照されたい。
1919(大正8)年10月、根津嘉一郎は友人の宮島清次郎・正田貞一郎と協議の結果、文部省事務官に転じていた本間の仲介によって臨時教育会議総裁であった平田東助を訪ね、根津家の育英事業について尽力して欲しい旨を懇請し快諾を得た。平田の推挙に基づき、一木喜徳郎・山川健次郎・岡田良平・北條時敬の4 名にも参画を求め協議会が発足し、官立以外に公立、私立でも認められた七年制高等学校の設立をめざすことが合意された。臨時教育会議で七年制高等学校制度化を推進した平田・一木・岡田らは、官立で難航しているその実現を根津嘉一郎の育英への情熱に託したものと思われる。
私立学校の中には、ある教育者個人が自らの理念に基づく教育を実現するために設立したものが少なくないが、旧制武蔵高等学校の場合はこれとは異なっていた。教育事業によって社会に貢献しようという根津嘉一郎の意思に基づき、臨時教育会議の答申に基づく教育改革を実行するものとして、この会議に参加した人々の関与のもとに、旧制武蔵高等学校が設立されたといえる(元武蔵大学長であった清水敦氏による「七年制高等学校の開設と臨時教育会議」『大学時報』2013年5 月号所収、84ページを参照)。この評議員会は、学校創立に至るまで約2 年半にわたり、発足の会を含め5 回、根津側だけの内輪の準備会合も含めれば37 回ほど開催された。高等学校を設置する財団法人の基本財産の額は50 万円以上であることが高等学校令第5 条に定められていたが、根津は寄付金360万円(地所・株券・現金)を用意し、それを基本財産として1921 年7 月25 日、財団法人根津育英会の設立を申請し、同年9 月28 日に許可となった。法人設立時の役員は下記の11人であった。
宮島清次郎(1879―1963):日清紡績社長、根津育英会理事・評議員、根津育英会理事長(1951―1963)を歴任。
正田貞一郎(1870―1961):日清製粉株式会社社長、東武鉄道株式会社会長、根津育英会理事・評議員を歴任。
平田東助(1849―1925):農商務大臣、内務大臣、内大臣、根津育英会評議員・顧問を歴任。
一木喜徳郎(1867―1944):文部大臣、内務大臣、宮内大臣、枢密院議長、武蔵高等学校初代校長、根津育英会評議員・監事、根津育英会理事長(1940―1944)を歴任。
山川健次郎(1854―1931):東京帝国大学総長、京都帝国大学総長、九州帝国大学総長、武蔵高等学校第2 代校長、根津育英会評議員・顧問を歴任。
一木と山川については、本百年史の『主題編』に収録の「一木喜徳郎と武蔵学園」・「校長山川健次郎―古武士の魂と科学者の合理性」も参照されたい。
岡田良平(1864―1934):一木喜徳郎の実兄。文部大臣、枢密顧問官、京都帝国大学総長、東洋大学長、根津育英会評議員・顧問を歴任。
本間則忠(1865―1938):文部省事務官、富士見高等女学校創立者、根津育英会理事・評議員を歴任。
北條時敬(1858―1929):東北帝国大学総長、学習院長、根津育英会評議員・監事を歴任。
根津啓吉(1874―1954):東武鉄道取締役、大日本麦酒取締役、根津育英会理事・評議員を歴任。
佐々木吉三郎(1872―1924):東京高等師範学校教授、根津育英会評議員を歴任。
1921(大正10)年12月12日に武蔵高等学校の設立が認可された。校地は閑静で便利な近郊という条件で選考され、根津理事長は当時の北豊島郡中新井村大字中新井字北新井の土地約2 万4,000 坪を買い受け、これを学校建設用地として寄贈した。武蔵野の面影を残して、敷地内には欅・櫟・白樫などの屋敷林が散在し、小川が流れ(後に濯川(すすぎがわ)と命名)、都塵をはなれた佳境であった。校地の北側には千川上水が流れ、その堤は春の桜が美しかった。学校の開設にあわせて、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の臨時停車場(後に、江古田駅が現在の位置で開業)が武蔵野稲荷神社のそばに仮設されて、登・下校時1 本ずつの列車がここに停車した。
根津育英会が設立を申請した七年制高等学校の名称は、当初「東京高等学校」であったが、文部省より東京に新設企画中の七年制高校(当初は三年制として計画されたもの)のために「東京」の名を譲って欲しい旨の申し入れがあり、検討の結果、武蔵高等学校という名称に変更した(注1)。このようにして決まった校名「武蔵」であるが、当時の記録には次のような校名の由来記が付されている。新たな校名に戢武(しゅうぶ)崇文(すうぶん)(注2)の平和主義を託した創立時の人々の考えをみることは興味深い。
学校の設立せられたる国名に因(ちな)みたり。即ちこの学校の位置が武蔵国に在るが故なり。而して郡町村の名に拘泥(こうでい)せざりしは古来世に広く知られ、且かつ尊き記録を有する国名を採るに若かざるを以てなり。
歳に因みたり。此の歳には世界の大戦漸く戢(おさま)り、新たに平和条約の締結を見たり。依って戢武(しゅうぶ)崇文(すうぶん)の義解に随い武蔵と名付けたり。
学校訓育の要義に因みたり。即ち武蔵の往古には万葉仮名にて无邪志と書かれたり。然るに人として邪志を有せざることは人格向上の基礎にして学校訓育の要義に他ならざるを以て採りて校名と為したり。
校章(徽章)も武蔵国に関する『続日本紀(しょくにほんぎ) 』の記録(上記1 の「尊き記録」)に基づいて定められた。当時の記録にはこうある。
大正11 年1 月15 日、本校の徽章を定む。徽章は雉武高を擁戴するの象なり。東京美術学校生徒一木隩二郎図案を創作し、東京帝国大学教授工学博士伊東忠太之を鑑査し、帝室技芸員新海竹太郎原型を作る。この徽章を定めたる事由次の如し。「続日本紀称徳紀に依るに神護景雲2 年(768年)武蔵国より白雉を献じたるを群卿に下して議せしめたり。左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、中臣清麿、石上宅嗣等之を解釈して、『雉者斯良臣一心忠貞之応。白色乃聖朝重光照臨之符。国号武蔵。既呈戢武崇文之祥』と奏上したり。蓋し雉は吉瑞佳祥の鳥なり。校名既に武蔵と称す。武蔵国にして斯の瑞鳥を産するが如く、本校亦国家有為の人材を簇出せざるべからず。相因して之を徽章と為したり」
(注)本百年史の『主題編』に収録の「校名『武蔵』のこと」も参照されたい。
(注)「戢」(しゅう)には「収める」、「仕舞う」、あるいは「止める」という意味がある。「戢武崇文」は、武器を収め戦いをやめ、学問を大切にするということ。