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通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

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資料編

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巻頭言
理事長 根津公一

 武蔵学園の創立者、初代根津嘉一郎は、「自ら考え行動し、誰にも頼らず、責任は自分で取る」という、独立心の強い、気性の激しい人でした。また、社会から得た利益は社会に還元せねばならないという公共心を持ち、世のため人のための寄付的行為に熱心な人でもありました。

 1909(明治42)年、米国内の四つの商業会議所の招きにより、当時、第一銀行頭取であった渋沢栄一が団長となり、東京・大阪など6 大都市の商業会議所を中心とした人々50名余りが、約3 か月にわたって、アメリカの主要都市を訪問しました。

 根津嘉一郎は、当時四十代の働き盛り。この「渡米実業団」の参加者としては、まだ若輩の一人でありました。その旅の中で、嘉一郎がもっとも強く感銘を受けたのは、「今は故人となられたロックフェラー氏に会った時、同氏が多額の金を儲けて、その多くを世の中のために散ずる主義を知って、大いに啓発された」ことであった、と後に述べています。嘉一郎が訪米によって得た最大の成果は、「社会から得た利益は社会に還元する」という信念を強固にしたことであったといえます。

 帰国後、嘉一郎はすでに1915(大正4)年ごろから、「現在社会の為に尽す事としては、教育事業に奉仕するよりほかに道がない」と決心して、そのことを友人の宮島清次郎氏に相談しました。はじめは、職業訓練学校的なものなど、いろいろなアイディアがあったようですが、先ず英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範をとった少数のエリート少年を教育する、本当の意味での「育英事業」を嘉一郎に提案したのは、本間則忠という人でした。そして、この提案を受けた嘉一郎は、すぐにそれを実行に移すのではなく、当時日本の教育をリードする人々に、本間の提案をどう実現していくかを諮ったのです。そして、根津嘉一郎と彼らブレーンたちが考えた「理想の学校」こそが、日本で初めての私立七年制高等学校として生まれた武蔵高等学校なのです。

 時は、第一次世界大戦が終わり、ヴェルサイユ講和条約の下で、明治維新以来アジアの一隅の小国であった日本は、五大国の一員として、世界の舞台に躍り出たかに見えました。しかし、実際の日本は、語学力だけではなく、人格、識見、教養から見ても、講和会議などの場で世界の列強を向こうに発言できる人材が不足し、その内実は極めて寒寒しいものであったのです。根津嘉一郎から諮問を受けた当時のブレーン達はこのことをよく知っていました。それ故、「理想の学校」武蔵高等学校に込められた根津嘉一郎とそのブレーン達の思いは、真に世界の舞台で活躍できる、ひいでた日本人を育てたいというところにあったのです。その思いは、後に初代校長となった一木喜徳郎の下で、いわゆる「武蔵の三理想」として結実しました。

 育英という言葉には、「ひいでたものを育てる」という意味があります。旧制七年制の武蔵高等学校開校以来今年で百年、大学、そして新制の高等学校・中学校と学制は変わりましたが、武蔵は一貫して、「ひいでたものを育てる」という課題を追い続け、その時々の日本に、そして世界に、きわめてユニークで、知性と教養にあふれた人々を送り出してきました。今、この『武蔵学園百年史』を紐解いて、卒業生の誰彼を思い、指折り数えても、この百年の武蔵が社会に送り出してきた数多くの者が、武蔵高等学校創立者とそのブレーンたちの思いに適う「ひいでた人」であったことを、私は胸を張って申し上げることが出来ると思います。

 ここに、『武蔵学園百年史』を刊行するにあたり、武蔵学園百周年記念事業に、ご寄付、ご支援をいただきました方々に厚く御礼申し上げますとともに、歴代の学園記念室関係者、百年史刊行委員会・作業部会等百年史の編集刊行に携わられた方々の辛苦に、心よりの謝意をささげて、私の挨拶といたします。

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