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終戦軽井沢の暗い思い出(牧野信彦)

【編者注:戦時下における武蔵高等学校(旧制)生徒の集団疎開・勤労動員の様子がうかがえる文章として、『武蔵高等学校同窓会会報』第58号(2015年)に掲載された回想を収録する。掲載を承諾下さった牧野氏に、記して謝意を表します。】

 軽井沢、私にとってそこは、太平洋戦争末期の惨めで切ない思い出につながる。華やかな高級リゾートのイメージには、古い傷跡が隠されているともいえよう。

 私たち旧制武蔵高校尋常科の3 年生は、2年生といっしょに1945年(昭和20年)4 月半ば、疎開を兼ねての勤労動員となった。軽井沢駅近くの矢ケ崎山寄りにあった青山寮と駅前旅館「一田屋」とに分宿。その直前には米軍が沖縄に上陸し、武蔵のキャンパスでも慎独寮・剣道場などが空襲で焼かれるという切羽詰まった時期であった。

 8 月半ばの終戦までわずか4 ヵ月だけのことだが、その間の飢えの記憶は鮮烈である。あの辺は溶岩だらけで、せっかく先生が率先して荒れ野開墾に挑んでも、多くの収穫は望めない。食える雑草を探したり、飼っていた羊を食用につぶしたりしても、たかがしれている。栄養失調で痩せこけ、ちょっとした傷でも膿んでしまう。夜ともなればけっこう寒く、シラミにも悩まされた。もうあと半年も戦争が長引いたらどうなったことか、ゾッとする。

 明治以来とくに外国人に好まれた避暑地のはずの町並みも荒れ果て、帰国し損ねたのかボロをまとった白い肌の子供も見受けた。程近い中山道の難所碓氷峠は傾斜が急なため、当時アプト式軌道で複数の機関車が引いたり押したり。「ピー・ボー・ビュー」と、哀愁を帯びた合図の汽笛がホームシックを誘った。日曜日は点呼がないというので早暁東京に行き、深夜にトンボ帰りする曲芸を演じた者もいる。

 こうした極限状態にあって、付き添いの先生方と生徒たちとの間に軋みが生じたことは否定できない。誰かが青山寮を「赤山獄」などといい換えたヤケッパチ・ソングをつくり、それをイギリス国歌の節で歌うのがはやった。しかしあの頃は、生徒を殴るのが当たり前の軍国主義教育が一般的だったのに、それとは一線を画し、規制も控えめにされた先生方の良識を、むしろ評価させていただきたい。

 既に故人となられた増井経夫(東洋史)、畑龍雄(数学)、矢島剛一(英語)の諸先生もあの頃はみな若かった。それなのに腹を空かし、生意気盛りの少年群の身柄を丸ごと預けられてどんなに苦労なさったか、今にして思えば感謝のほかない。

1943 年撮影、山上学校に付き添った畑龍雄教授(写真左)と玉蟲文一教授(写真右)。

 体育の杉本栄先生は家族ぐるみで私たちと行動を共にされたが、ご本人は途中で出征。奥様には母親のような優しさで、国民歌謡の合唱を指導していただいた。島崎藤村の『椰子の実』や『朝』などの歌詞は正確に覚えている。

 勤労動員としては毎朝、鉄道沿いの大道を右手に離山を望みながら西へ、隊列を組んで20 分ほど歩いた。そして日本大学の夏季学校を接収したという陸軍気象部軽井沢分室で、天気図を書き写すのが主な仕事だった。台風を利用して戦局の打開を図る「神風作戦」の基礎資料づくりとか噂されていたが、それも敗戦で無駄骨。せっかく描き溜めた大きな天気図の束は、そこの庭に山のように積んで燃やし、煙と消えた。

 終戦の詔勅は1ヵ所に集まって聴いた。理解を超える事態で、どう受け止めたらよいのか分からなかった。各自感想文を記して保存しておくように、と先生にいわれたが、私はそらぞらしい建前論を書いた気がして、後で破棄してしまった。

 廃嘘の東京に帰る者は後回しにし、他の地方へなら立ち去ってもよいとの指示が出て、私の場合は新潟に住む姉の許へと北上する方法を選んだ。自宅待機の空白期間を経て、曲りなりにも授業が再開されたのは、それから約1 ヵ月後のことである。

 昨今、世界は戦後形づくられた秩序が破綻し始めたようだ。テロや難民のニュースが増えるばかり。それだけに、武力衝突をテレビの映像でゲームのように見ている飽食世代が、われわれがかつて実感した戦争のあのおぞましさ、空しさを知っているかどうか心配である。

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