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太田博太郎―武蔵出身学園長の事績と「抱負」(畑野勇)
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1977(昭和52)年3 月に、当時の初代武蔵学園長であった正田建次郎が急逝した後、学園長の席はほぼ1 年間空席であったが、翌1978年4 月に太田博太郎(高校4 期・理、東京大学名誉教授、工学博士)が学園長として就任した。その学園長就任間もない4 月に、武蔵高等学校中学校の報道班の生徒が太田にインタビューを実施したが、その様子を太田は、就任した年と学園長を退いた1990 年の2 度にわたり、詳細に回想している。ここでは、後者の回想*1 から、該当部分を抜粋してみることにする。
……就任したら早速、中学の生徒が取材に来た。中学の新聞に新学園長の談話を載せたいというのである。「まず新学園長としての抱負を伺いたい。」
「抱負など来たばっかりでありませんよ。それに学校というものは学園長が変ったら、次々と大方針が変ったのでは困りますよ。教育というのは、長い時間かかるもので、人によってすぐ変ってはいけません。私はこれまでの武蔵の教育方針を引継いでいく考えです。」という意味のことを話した。
あとで届けてくれた新聞を見ると、「何でも聞いてくれる、気さくな学園長だが、抱負がないというのにはがっかりした。」というようなことが書いてあった。これは私の話し方がまずかったのだが、私は私立学校には建学の精神がある。そしてそれに基づいて築かれた長い伝統がある。私も武蔵高校で長い間お世話になり、武蔵の教育に感謝している一人なので少しでもお役に立てるならばと思って学園長をお引受けしたので、創立以来の伝統を守っていきたい。したがって、特に従来の教育方針を変えたりする考えはないのだということを話したつもりだった。
ここで太田が記事内容に触れている「新聞」とは、1978 年4 月28日発行の「武蔵」(校友会報)第94号であり、1 面冒頭に「新学園長直撃インタビュー」としてインタビュー記録が載っている。
その記事においては、聞き手(生徒)が「学長に就任されて、これからの抱負はどのようにお考えですか。」と尋ねたのに対して、太田は「今のところまだなったばかりで抱負を聞かれてもはっきり答えられません。これからじっくり勉強させていただきます。しかし、今大学には学長が、高校・中学校には校長がいるのですから、教育上の問題には直接私が出ることもないでしょう。もし、生徒にそのような問題があれば、組主任の先生や校長先生に相談した方がいいと思います。」と回答している。
そして聞き手の感想として、「私達が一番聞きたかった『この学校での抱負』をまだ決めていないとのことだったのでちょっと残念であったが、またいつかこのことを太田先生に聞いてみたいと思う。私は先生とお会いして、とても話しやすく本当に力になってくれそうなやさしい方という感じを受けた。だから、先生も言っておられたが、何か聞きたい事などがあったら是非話しに行ってみるといいと思う。」という文章で記事が結ばれている。
もともと太田が学園長に就任したいきさつは、太田自身の回想*2 によれば、根津嘉一郎(二代目)副理事長による懇請の結果であった。太田は、山川健次郎・山本良吉両校長や正田学園長の名を列挙して、「こんな大先生の後を勤めることなど、とても私はその任でありません」と固辞し、さらに「他に行くところもある」という口実まで述べたのだが、根津に「母校で来てほしいというのを、よそへ勤めるから断るという法がありますか」と叱られて断りきれなかった、そして学園長の職務については、「学校には学長も校長もいて、日常のことはそこで処理しているのだから、学園長というのは、学長や校長の相談相手になってくれればいいのだ」と言われた、ということであった。
このことを念頭に上記のインタビュー記事を読み進めると、太田が学園長の抱負について問われた時の回答は、根津の教示を受け継いだものであるという印象を受ける。そして太田は、自身の回答が生徒を満足させるものでなかったことを絶えず意識しながら、その後の在任期間を過ごしたように思われる。太田はこの記事を読んだ後、学園長としての自身の職務に関して、次のような自覚を持ったようである。「教育に関する限り、長となるものが、一人々々、特別な抱負を持つべきでないというのが、私の考えである。私学には建学の精神がある。それを堅持してゆくのが、後から長となったものの義務である。長になった人の考えによって、方針が変ってはいけない。教育は長い目でみ、長い間かかってする仕事で、学園長が変るごとにその人の抱負で学校の方針を変えるべきでないというのが、私の基本的な考え方である」*3。
その太田が12 年間の学園長在任中に成し遂げた事柄は多岐にわたるが、(1)大学施設の改築を中心とする江古田校地の施設整備(再開発)、(2)濯川の蘇生事業の2 点が特に有名である。本稿では、これら2 つの事業の実施において太田がどのような点を重視していたかに着目し、学園長として太田が達成した事績の意味を考察したい。
まず前出の(1)について概観すると、太田は前任の学園長であった正田建次郎が企画した図書館・研究室・食堂などの増改築を引き継ぎ、中講堂棟・教授研究棟・図書館棟の新築、その他付帯工事を1982 年4 月までに完了させた。また高校中学でも各科研究室・分割教室・体育館・自習室等の増改築を行い、1982年9 月に完成をみた。
このとき太田は、江古田校地内のマスタープラン作成を、内田祥哉東京大学教授(高校17 期・理)に依頼し、その結果に基づいて、同教授を長とする設計チームに設計監理を委嘱した。1960 年代から1987 年まで武蔵高等学校中学校の教頭(のち校長)として正田に接していた大坪秀二(高校16期・理)によると、すでにこれに先立つ10 年前から、武蔵学園は太田と内田の助力を仰いでいた。「正田先生の下で1967 年から始められた学園再編計画の中に、高校中学の新築移転があり、建設会社との交渉の場で、学校側の立場に立って助言してくださるコンサルタント役の方を必要とした。私が武蔵在校生のころからの一学年下の友人で、当時東京大学建築学科教授だった内田祥哉さんをその中心にお願いしたが、創立以来初めての、高校中学を挙げての引越し大計画には、建築関係OB多数の協力を必要とすることだろうから、最高顧問にはぜひ、大先輩の太田先生に坐っていただきたいという内田さんのご提案で、正田学園長から太田先生に懇請があり、快くご承諾いただいた。それから移転が完了するまでの約二年間、設計、施工の段階で建設会社との折り合いに難儀することも幾度かあった。内田さんからは学問的、具体的な適切な助力が得られ、太田先生からは基本的、精神的なご指導を受けた」*4。
1960 年代後半のこのような経験をもとに、太田は江古田キャンパス内の施設整備の完成に向けて尽力した。
従来の建物自体が大学が大きくなるにつれて、空いたところへ無計画に増築しているという有様で、配管配線はタコの足のように、これも場当りに造られていた。将来どれだけの規模の大学にするという計画なしに拡張されてきたのだから、仕方がなかったのだろうが、取りあえず、全体計画を立ててから実施しないと、将来困ってしまうに違いないというのが、第一感であった。早速、高校OBの内田祥哉教授にお願いして、マスタープランを立て、個々の建築の設計をしてもらった。困ったのはお金である。法人に財産はあるがお金はない。お金を貯めてから建てたのでは、そのお金を出した学生生徒は新建築の恩恵に浴しない。借金で建てて永いことかかって返さなければ、不公平だという理屈で借金反対論を押し切った。よく容れものより、内容だといわれるけれども、新しい教育内容にはそれを行うための建物が要る。……私は「一箪(いったん)の食(し) 、一瓢の飲、陋巷(ろうこう)に在(あ)り、人その憂いに堪えざるも、回やその楽しみを改めず、賢なるかな回や」という論語の一節が大好きなのだが、「倉廩(そうりん)みちて礼節を知り、衣食たりて栄辱を知る」ということも、ことに今の御時世では考えなければいけないだろう*5。
その太田が武蔵の施設について、上記の「倉廩みちて礼節を……」の精神に則った積極的な意見を持ち、それを表明するようになったのは、実は1960 年代よりもさらに前の、武蔵大学創立の時期からであった。
〔武蔵〕大学が創立されたとき、私は評議員の末席に連っていたが、校舎増築に際し、こんなことがあった。宮島清次郎理事長は『教室に暖房など要らない。私の小学校のころは、教室には火鉢が―つ教壇の脇にあっただけだ』と発言された。『教育は施設ではない。内容だ』という主張に私も大賛成だったが、それでも暖房不要論には唖然とした。建築を専門とするものとして黙っているわけにいかず、反論して激論になった。30 代の若僧が実業界の重鎮に議論を吹きかけるなど、現在では思いもよらないことであるが、当時は敗戦による世代の交替という背景もあり、理事会評議員会も形式的でなく、自由で熱の籠った雰囲気だったからできたのだと思う。
その後、私は評議員を辞めていたが、二十数年後、思いもよらず学園長を仰せつけられ、大学へ行ってみると、暖房はあったものの、宮島精神は厳として生きており、いくらなんでも、この施設ではひどいと思わざるをえなかった。それから12 年、建物と環境との整備は十分とはいえないまでも、他にひけを取らない程度には進んだ。これからは想を新にして、内容の充実に邁進すべきだと思う*6。
太田はこのような、使命感ともいうべきものに基づいて、武蔵学園内の施設整備に尽力した。では太田は整備にあたってどのような方針を樹てた(あるいは何を重視した)のか。また、「日本建築史の第一人者」と評された太田の経歴が、そこにおいてどのように影響したのだろうか。
まず太田の日本建築史研究者としての出発点を確認してみる。本冊中の井上翔氏による「オンケルの遺産 『民文』の礎を築いた原田亨一」にもあるように、旧制武蔵高等学校時代の文化学部(のち民族文化部となり、現在に至る)は、原田享一教授の就任によって活動が活発になった。奈良薬師寺境内にある無住塔頭「法光院」の利用を許され、ここに「武蔵高校文化学部奈良研究所」を置き、これを中心として数年にわたる調査活動を開始した。この活動の中から育った太田は、原田を中心とするグループの中心的存在となっていった。太田の三年後輩として文化学部に所属した吉野俊彦(高校7 期・文、のち日本銀行理事)は、「太田さんが東京帝国大学の工学部に入り日本建築史を専攻するについては、原田先生の平生の指導や薬師寺で過した日本文化史探究の旅が大きな影響力をもったであろうことは十分に推測できる」と述べている*7。太田は1935 年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した後、1937 年から東京帝国大学助教授に就任する1943 年まで、法隆寺その他の文化財建造物の修理と調査に従事して、国宝建造物の保存や研究につくした。
次に、1977 年から武蔵大学江古田キャンパスのマスタープラン作りを任された、内田祥哉による回想*8をたどってみる。
……日本の大学キャンパス計画は、ほとんどが更地の計画で、市街地のキャンパスを再開発した例は少ない。しかも使いながら再開発というのは木造校舎の改築以外には極めて珍しいように思う。
ところで、基本計画を始めるにはキャンパスについての資料が殆どない状態だったので、まず基礎的な調査を行うことにした。第一は敷地の精密な測量図を作ること、第二は建物の老朽度調査で、これには最近よく行われる耐震診断を当てることにした、第三は精度の高い植物の植生調査で、灌木も含めて、位置大きさ、移植の可能性と活力を調べることにした。またそれらとは別に、記念碑、記念物等動かすことのできないものも確認した。
今回の計画は、このキャンパスの骨格となって来たものを見出し、それに新しい肉づけをして環境構成の目標にすることとした。キャンパスの中の自然で、動かすべからざる歴史の重みのあるのは、すすぎ川と中庭の大欅であろう。また、建物では、三号館、講堂、それに根津研究所で、これらの関係が将来も主要な骨格になると想定した。三号館は将来建て替えられることが予想されるが、その場合でも、この建物がキャンパスに刻み込んだ彫の深さ跡は次に建てられる建築にもうけ継がれるに違いないと想定した。したがって三号館前面の目白通り〔引用者注:正しくは千川通り〕に沿った東西の通りと、三号館東側の南北の通りは、将来も主要な交通幹線となるものとして整備した。
このマスタープランに則ってなされた江古田キャンパス再開発計画は1982 年に完了し、翌1983 年に日本建築業協会賞が与えられたが、太田と内田が計画実施にあたって重視したものが、以下の太田の説明から読み取れる。「この賞は日本の建築に対する最高の賞の一つであって、たんに設計がいいというだけのものではなく、建築主・設計者・施工者の三者に対して贈られるもので、企画・設計・施工とその後の管理を含んで審査されるという、建築に関する綜合的な賞とでもいうべきものである。この賞は普通、新築の建物に対して与えられ、武蔵学園のように、従来の建物を活かした再開発が対象となったのは初めてのことである。そのような意味でも、この事業のもつ意味は大きなものがあった」*9。大坪秀二が前出の回想において、このプランを「古い建物もうまく利用しての、環境にやさしい再開発だった」*10 と評したが、まさにその通りの評価を学外からも得られたといえよう。
なお、事績(2):濯川の蘇生については、本冊に収録した阿妻耕次郎氏の執筆による「語り継ごう濯川」に詳細な経緯が記されているため、ここでは最小限の言及に止めることとするが、太田の説明によれば、これは(1)の再開発計画が経費の都合でカバーしきれなかったものを、同窓会に協力を仰いで実現にこぎつけたものであった*11。
大坪秀二は前出の回想において、「先生〔引用者注:太田博太郎学園長のこと〕は募金の会合に積極的に出席され、設計計画にも深く関わり、川幅や深さなどを加減しての流量や漏水の実験などにも喜んで参加された。二年がかりの工事で両岸の整備と、水の環流とが実現し、中学の生徒たちが裸足で流れに入って遊ぶ様子とか、生徒の部活動の一つ『豊作会』で飼っているアヒルたちが流れを泳ぐ様、放し飼いの鶏たちが両岸で遊ぶ様を、心底から嬉しそうに見ておられた」*12 と記している。
最後に、太田が学園長在任時代に「武蔵学園創立百年にあたっては、後世に残る百年史を刊行したい」と内外に表明し、1986年に学園史料室(現在の武蔵学園記念室)を正式に設置して学園アーカイブの活動を開始させたこともここで紹介しておく。
学園長としての太田の事績は、「特別な抱負」を持ってなされたものではなかった。しかし、それは自身が「私学には建学の精神がある。それを堅持してゆくのが、後から長となったものの義務である。長になった人の考えによって、方針が変ってはいけない。教育は長い目でみ、長い間かかってする仕事で、学園長が変るごとにその人の抱負で学校の方針を変えるべきでない」*13 と説明しているように、「あえて『特別な抱負』を持たない」という、これもまた一つの「抱負」の表出であったということも可能である。それは具体的には、就任の1977 年から1982 年までの学園再開発において貫かれたような、既存の施設(あるいは、学園の伝統)を損なわずに適切に活用しながら、学園発展の道を開くという方向性の維持であったというべきかも知れない。