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昭和43~47年頃の江古田の風景(大久保武)

 2018(平成30)年9 月29日土曜日の夕刻、大学1 号館2 階で開催された「武蔵学園生協50周年歴代理事長懇親会」に、お招きにより参加させて頂いた。かつて理事の末席に名を連ねていただけの私がご招待をいただいたのは、直接、間接に、生協との関わった期間が長かったという理由かと思う。それはおいて、私が入学したのは、大学生協が法人化した年と同じ1968(昭和43)年4 月。まだ学園の監事という職にいるので、私も武蔵に関わって半世紀以上経過したことになる。

 念のため武蔵大学生活協同組合の歴史について触れておくと、ゼミ室を利用して書籍部と購買部の営業を開始したのは、1967(昭和42)年4 月であり、当時、学生部長でおられた芹沢彪衛教授が、初代の生協理事長に就任されている。現在の大学2 号館付近に広さ約92㎡の専用店舗を構えたのが同年の5 月である。但し、「生活協同組合法」に基づいて法人化されたのは、翌年の1968(昭和43)年10 月なので、そこから数えて50 年ということである。なお、高校中学も加わる形で武蔵学園生活協同組合と改名したのは、1976(昭和51)年4 月のことになる。

 入学当時の大学生協への出資金は1 口900円、生協会員証は薄い紙製で濃い青色でその中央に1626 と人の手によるナンバリングが打たれていた。大学の学生証も同様に紙製で、学籍番号43038もナンバリングによる刻印式だった。

 食堂は、入学当時はアメリコという外部業者が経営しており、定食はA、Bの2 種類だけではなかったかと思う。1971(昭和46)年から生協に経営が移管されている。当時外食すると、ラーメンとかコーヒーが100 円、蕎麦が60 円という時代である。因みに、入学金は60,000 円、年間学費は授業料95,000 円、維持費40,000 円、施設費20,000 円、衛生費750 円であり、入学金を含む初年度納付金の合計は215,750円(現在は約120万円)。別途、諸会費が5,600円。受験料は5 千円(現在は、基本3 万円)であった。

生協購買部の様子
1968 年発行の大学生協の組合員証。紙製で、裏面には出資金額と払込年月日が記入され、諸注意事項が印刷されている。

 生協の話が先になってしまったが、私が、入試で武蔵の構内に初めて足を踏み入れて一番驚いたのは、中庭にあった水飲み場の水の味であり、口に含んだ途端、思わず吐き出してしまった。また、新入生名簿を見るまで全く意識がなかったが、経済学部だけということで学内がほぼ男子ばかりだったこと。翌年には、人文学部が新設されて構内は一変することになるのだが、そうとも知らず、女子(新入生は6 名程度、先輩方4 年生まで含めても30名弱)の名前らしきものを食い入るように探した。しかし、努力の甲斐もなく、実際に遭ってみたら男子で、薫だの真琴だの紛らわしい名前は避けるようにして欲しいと思ったものだ。

 そういえば、構内の東側の片隅に、暫く「いずみ会」という女子学生だけが利用する木造建物があった。男子禁制で、実際に入ることはできなかったが、中は6 帖ほどの畳の部屋で土間に長机と1 枚板の長椅子2 脚があったとのことである。

 主に授業やゼミで利用したのは、大学1 号館(現在の新1 号館と同じ場所)と、旧大学図書館とその隣の2 号館(現在の大学8 号館、5 号館付近)である。これらは、大講堂、高中校舎とともに鉄筋の建物であったが、その他の建物である守衛所、用務員室、大工小屋、体育館、学生食堂、学生本部室、部室などは、まだすべて木造だった。桜が散ってしまった後の構内の印象は、ヒマヤラ杉、スダジイ、シラカシ、松、椿、アジサイといった暗い緑色ばかりが目に入り、校旗で見たとおりの濃い緑色一色であった。高中校舎(現、大学3号館)中庭の欅の大木は別格として、植物にはほとんど手が入っておらず、枝をかき分けて歩かなければならない場所さえあって鬱蒼としており、お世辞にも都会的な雰囲気は感じられなかった。その代わり、田舎から来た者にとっては、妙に落ち着いた安心感があった。入学当初は、砂利の敷かれた構内を、水たまりをよけながら、素足に下駄で歩いていたが、周囲を見回しても、洒落れた感じの学生はほとんどいなかったように思う。

 環状七号線を挟んで(昭和39 年東京オリンピックの際の道路整備で売却するまでは武蔵の土地)はいたが、西の端に「武蔵第一学寮」があった。旧外国人教員宿舎をそのまま利用したもので、木造2 階建て、5 部屋20人収容で、1、2 年生各10 人が入ることができた。全く個人的な話だが、この旧制高校のような雰囲気を残す寮に入ることが、私の大学進学の目的の一つであったので、入寮が許可された時は嬉しかった。「寮祭」や学内運動競技大会への寮ソフトボール参加の思い出も色々あるが、2 年生の前期に、恒例の寮の「合同ハイキング」(趣旨は、現在の「合コン」)があった。ご近所ではない音大との間で実施されたが、後日、私を含め2 組がその行事の責任を取っている。ところで、大学の合格発表の後、寮の事前見学に出向いた際に、寮の管理人のおじさんと間違えてしまった1 年上の先輩から、寮OBの旅行先で、実は、面接後の選考の際に私を入寮させることに反対した人が結構いたと聞いて、びっくりした。今更、反省してみても仕方ないが、何が悪かったのかしら?

武蔵大学第一学寮。もとは1925 年に落成した外国人教師用の住宅であった。

 西武池袋線江古田(えこだ)駅は、1923(大正13)年12 月の開業とされているが、もともとは旧制武蔵高等学校の設立に合わせて、根津嘉一郎が株主であった武蔵野鉄道(西武池袋線の前身)が1922(大正11)11月1 日に「武蔵高等学校用仮停車所」として開業したのが始まりである。この仮駅は、現在の駅の場所とは少し違い、武蔵野稲荷神社(現存)近くの踏切寄りにあったもので、2 年2 ヶ月間だけ置かれた。近年、交通網が整備されるに伴って、新桜台駅、新江古田駅ができたため、それ以降の江古田駅の商店街は、決して賑やかとは言えない状況にある。江古田駅の1 日平均乗降客数の最多記録は、1974(昭和49)年が73,500人、2018(平成30)年の1 日平均乗降客数が34,021 人なので、私が入学した当時は、現在の倍以上の人達が利用していたことになる。環状七号線を越えて羽沢周辺、中野区江原町周辺の方からも人が通勤で行き交い、昼夜を問わずとても賑わっていた記憶がある。

 

 江古田駅の南口を降りると、正面に、果物店「百果園」、その左手には、小さな総合百貨店とでも云うべき「丸井林」(現在は、ファッションパーク「べべ」)が、先ず目に入る。

 大学に向かうには、「百果園」、「明治生命」の看板を横目で見ながら、細い道を右に折れる。その右側には喫茶「トキ」、お汁粉屋「安津喜」、寿司「立花鮨」と続き、左側には宝石・時計Nagano(現存)、花の「紫香園」(現存)、洋菓子「東雅」、「お豆腐屋さん」(平成30 年に閉店)などがあった。その豆腐店の角を左折、数メートル進んで「練馬旭丘郵便局」(現存)がある栄町大通りに出たところで、左手電気屋さんのところを右折する。通り向かいには「菊屋洋品店」(菊屋ビル)が見えるが、その右隣りの「小間屋呉服店」の角をすぐ左折して進む。右側に「三菱銀行江古田アパート」、左側に「日本石油江古田給油所」を見たところで、千川通りを右折、風呂釡を扱う「釡鈴」(現存)を経て「鈴木病院」(現存)の前を通るというルートが多かったのではないかと思う。

 「小間屋呉服店」の角を曲がらずに稲荷神社の方に進む場合には、右側すぐに「八百屋さん」(現在、みずほ銀行ATM)があり、少し先の左側には「鳥忠」(現存)、レストラン「好々亭」(現存)、コーヒー「リスボン」(喫茶ではないが現存)を経て「山本文具店」の角を左折、中央通りに出るというもの。中央通りの左側には、喫茶「上高地」、囲碁クラブ「栄」、和菓子「三木屋」があり、右手角が「鈴木病院」、ここを右折して、千川通りを大学へと向かった筈である。

1960年頃の江古田界隈の様子。「スズキ病院」のある中央通り。

 もう一つの道は、駅南口からすぐ西武線の線路沿いを歩いて稲荷神社まで進み、境内を抜ける順路(現在は、通り抜け禁止)かと思う。駅から線路沿いに向かう道筋には、パチンコの「エデン」、喫茶「ユニヴァース」、「江田カバン店」、男物の洋品店「カワニシ」、レコード店「ワルツ堂」、味は抜群だったが夫婦喧嘩が気になるうどん屋「三国一」、名前を忘れたが「とんかつ屋」、ハンコの「甲陽堂」を経て、「東京都民銀行」(現存、きらぼし銀行)へ、その隣の「岩倉ラジオ」(現存、電気店)の角を武蔵野稲荷神社裏口を正面に見ながら左に曲がり少し進むと、左側に散髪「星野」(現存)、右側に「櫻井歯科」(現存)、「いなり湯」、雀荘「いなり荘」などを経て、千川通りへ出るというものだろう。

 都民銀行近くまで行っても学校の方には向かわずに、右手の踏切を北口側に渡ると、正面に本屋「青山堂」、そこから江古田大通り(現在、江古田ゆうゆうろーど)を桜台方向に歩くと、左側に、コーヒー豆を売る「Beans」(現存)、「浅見園芸」(現存)、「千葉屋果物店」(現存)、「押田家具店」(現存)、「魚政」などがあり、右側には「青山堂」の隣に「萩原パン店」(現存)、肉の「石川屋」、男物を扱う「森下洋品店」などがあった。

 駅南口の方に道順が戻るが、栄町大通りの「練馬旭丘郵便局」を左折して、東長崎方向に歩くと、左手に「武蔵堂ファーマシー」(現存)、「今井葬儀社」(現存)、「やなせ靴屋」(現存)、「足立金物店」(当時は通りの両側に2店、現在は1 店舗。大学OB)、そして「三菱銀行」(現在は、三菱UFJ銀行)へと進み、千川通り五差路に入る。お店自体は色々変わったが、江古田の道は、今でも昔の農道の時代のままである。

 

 当時の江古田は、大衆週刊誌上では学生の街ではなく、むしろ「夜の遊び場」として紹介されていた。駅の北側には「花嫁学校」があって、田舎者の私は、昼間の看板文字だけを目にして、そういう学校が本当にあるのだと思った。先輩と実地に出向いて現実を知ったのは、その翌日の夜だったが、その代わり、田舎の母から渡されたラジオが「セキネ質店」か「まるや質店」に入った。こうした類の店は別としても、一般的な飲み屋さんは、旭丘の映画館「江古田文化劇場」の向かいに昭和43年開業になる「江古田コンパ」(現存)、東長崎寄りの右手に「仲屋」(現存)、江古田交番近くに文化人が良く集まった「唐変木」(その後、大学寄りの線路沿いに場所が変わり営業していたが、廃業)、「乃がた」(現存)などがあった。栄町大通り沿いには、「鳥忠」(少し小さくなったが、現存)、この正面の線路沿いに「養老乃瀧」があり、そのまま線路沿いに出て左折すると「和田屋」(その後真向かい北口線路側に移転し、ご夫婦で営業されていたが令和元年に廃業)があった。また、稲荷神社手前の踏切を北口側に渡り、練馬税務署へ向かう手前の道を行くと、名前を失念したが剣菱が飲めたおでん屋さん、スナックと称されていた「ちぐさ」、「葦」など小さな飲み屋が数軒並んでいた。さらに先に行き、大学が左手に見える四つ角手前に天ぷらの「川松」などがあった。また、そこからかなり歩くことにはなるが、桜台駅近くには結婚式もできる「伊藤本館」、その地下に鍋料理「ふるさと」があった。

 夜遅くまで開いていた店としては、南口側には、「おしど里」(昭和48 年開業、平成30年夏に営業を終え、現在はセブンイレブン)のあった付近の路地に、バー「エイ子」、バー「ルミ」(どちらかが「トリスバー」と称していたと思う)、大学に近いその1 つ先の四つ角の、蕎麦「甲子」(現在、「あぶり屋」)の北向かいにバー「カジノ」、交番近くの「唐変木」の並びにはバー「澄」、交番前にはスナック「いさりび」、北口側の「まる屋質店」向かいにバー「リスボン」(喫茶店とは別)といった店などがあった。

 飲むことと切り離せないお店である酒店は、南口側には「秋山酒店」(現存)、「十字屋酒店」(現存、当時はやや手前の角)、稲荷神社脇の踏切を渡った北口側には「大坂屋酒店」などがあった。十字屋さんでは、店先のカウンター隅で常連客が缶詰めを開けてつまみにし一杯飲んでいる姿を良く見かけたし、大阪屋さんのご主人とは、卒業後だが、スナックなどで一緒になることが多々あった。

 

 飲食店は、南口側では、5 人で行けば1 人無料となる札幌ラーメンの「蝦夷」(喫茶ユニヴァースの階下)、現在、竹島書店のある場所に「立花鮨」、レストラン「好々亭」(現存)、栄町大通り中央には夜12 時まで営業のキッチン「だるまどお」、蕎麦「甲子」、その道路向かいに、中華「宝来」(現在、高層マンション)ここから線路方向に向かうと右手に「中央麺店」があり、さらに稲荷神社脇の踏切を渡って北口側に行くと、「乃んきや鮨」、「松葉食堂」、逆に桜台方向に行くと大阪屋酒店と田丸パチンコの並びには「サルタ食堂」、「愛情ラーメン」、右手のまるや質店の斜め向かいには「柏寿し」、江古田市場の西側には、蕎麦とイカ天丼の「花月庵」(現存)などがあった。千川通り鈴木病院(現存)の斜め向かいに蕎麦「増田屋」、やや離れるが、環状七号線高架下で千川通りが交差する場所に中華「メキシコ」(現在は、中華「茶平」)、ドライバーのオアシスと銘打ったレストラン&コーヒー「ルート7」(大学新2 号館の完成後はその中2 階で、一時期喫茶兼食堂を経営。オーナーは大学OB)などがあった。北口側線路沿いの音大通り入口には蕎麦の「栄屋」(現存)、音大方向に曲がるとその先に牛丼「松屋」(昭和41年開業の松屋第1 号店、現存)があり、曲がらずに日大の方に進むと、ペットショップ「なみき」(現存)、「江古田食堂」、「とん平」などがあった。

 大学の正門前の飲食店といえば、夏にはかき氷も売られていたと思うが、タバコとパンを売る「大羽ベーカリー」、桜台から移転した中華そば「富田」があり、正門から練馬税務署方向に向かって進むと左手に「南国食堂」、スナック「鈴」、ドイツ料理「ギッター」、踏切手前の角に古本屋「根元書房」(現存)があった。踏切を渡ると、左手の新日本印刷の平板工場(現在は、マンション)を過ぎて、とんかつ「おそめ」(現存)、中華「万福」、江古田大通り「庚申塚」のある五差路の角に蕎麦「福本」(現存、2019 年に新築され雰囲気は一新)があった。また蕎麦「福本」に至る一つ手前の税務署通りとの四つ角に小料理店「梅きち」が開業したが、それは入学後暫く経ってからだったと思う。

 喫茶店は、当時、現在のラーメン店に匹敵するくらいの数があり、江古田駅前の「丸井林(家具)」の隣には昭和33 年開業の「トキ」、「シャルマン」、駅正面の中央ビルと丸井林・江古田サーキット(現在は、百貨店べべ)の間の道を進むと左手にサイフォンの店「のら」。南口から線路沿いに少し進んだ2階に「ユニヴァース」、コーヒーと音楽の殿堂「ジュリアン」、「ニュー・プリンス」、「エリーゼ」など。栄町大通りにあったメガネ店「サワノ」の隣には「こうばい」、斜め向かいに「リスボン」、学校に向かう中間点の中央通り左手には「上高地」があった。そして南口交番の向かいに「シベール」、武蔵野稲荷神社脇の都民銀行傍にタレントスナック「リクエスト」、正確な位置は忘れたが、名曲とコーヒー・エリートの憩いの場と銘打った「SALVIA」、五つ又近く環状七号線寄りにはコーヒー・音楽・バナナ付120 円で夜中2 時まで営業の「SOMEYA」、さらに環七を渡って桜台に向かう途中の左手には、時折レコードを持ち込んで通った「まりも」などがあった。開業は入学から少し後にはなるが、大学の正門通りを進み踏切を過ぎた四つ角には、雑誌プレイボーイでイラストレーターをしていた方が経営する一風変わった喫茶店「らんぷ」があった。大学の正門前の桜台寄りには「れもん」、「チャム」があった。

 こうした喫茶店の触れ込みから分かることは、当時は、まだ音響製品が高価で、学生が個人で上質な音を楽しむことはできなかったため、自分でレコードを持ち込んだのである。事実、下宿で一緒だった日芸の放送学科生(吉崎君)は、高級テープデッキ1 台を買うために、日清の即席ラーメンだけで半年過ごして、結局、栄養失調になり、道路向かいの練馬病院(現在は東長崎に移転、跡地を日芸が購入)にお世話になる羽目になった。

 甘味処としては、南口側には、おしる粉で有名だった木造2 階建の「安津喜」(喫茶「トキ」と「立花鮨」との間)、庚申塚五つ又の環七寄りには「筑紫」(喫茶「SOMEYA」の道路向かい)、名前は失念したが、音大方向にも確かもう1 軒あった。

 菓子店は、洋菓子では「東雅」(以前は、南口の線路沿いにあったが駅近に移転。現在のドコモ店がある位置)は、チーズケーキが有名だった。和菓子の「三木屋」(現在は、ラーメン店「風雅」)、「新月」(蕎麦「甲子」の四つ角を、線路沿いに向かった角)、学校式典時の紅白饅頭を作っている和菓子「ささ屋」(現存。江古田大通り庚申塚五つ又の共栄信用金庫。現在、西京信用金庫の斜め向かい)などがあった。北口側では、青山堂ビルの隣にパン屋さんの「萩原」と並んで和菓子「萩原」、食堂経営とは別に北口駅前には和菓子店「だるまどお」が開いていた。

 

1960 年頃の撮影、江古田周辺の飲食店の様子。
1952 年撮影、江古田駅北口周辺の蕎麦屋「花月庵」

 生活雑貨や日常の食料品購入には、駅北側にある「江古田市場」とその周辺は便利だった。昭和27年開業の江古田市場は、2014(平成26)年12月末で惜しまれながら閉鎖されてしまったが、踏切を渡って正面の本屋「青山堂ビル」(現在、1 階にハックドラッグ、3 階に昭和53年開業の吉野整形外科が入るビル)の裏手に位置していた。江古田駅北口を降りて、市場に入るには、青山堂ビルと八百屋の「八百喜」(現存)との間の狭い道を右に折れて入ることになるが、「八百喜」の先には、中華「万亀」、「倉田洋装店」、角に魚屋「魚勇」、右に折れると、フルーツ「オギムラ」、お茶の専門店、米屋、左手西側に折れると、味噌専門店、煮物店、野菜専門店、おでん種練り物の「九州屋」、菓子専門店、子供服店などが立ち並んでいた。私は、これら全体が江古田市場だと思っていたが、地図上では青山堂ビルの裏手(北側)だけが江古田市場となっている。いずれにしても、秤買いができる店も多くあり、冷蔵庫の買えない学生には便利だった。市場の北東側には、生活雑貨から食料品まで扱う2 階建ての「青楓チェーンストア」、西側の奥には「ムサシノ百貨店」があった。

 

 文具店は、大学に向かう途中に「山本文房具店」(蕎麦「甲子」の向かい角)と江古田大通り庚申塚五つ又に向かう手前に「西村」(現存)の2 軒だけだったと思う。

 

 カメラ店は、デジタルではないフィルム式カメラの時代のため、旅行や就活でプリントが必要な際には良く利用した。南口側の稲荷神社踏切手前に「さくら写真館」、北口側には「ムサシノ写真館」があった。同写真館の並びには、お菓子の「だるま堂」、「ムサシノレコード」、熱帯魚等を扱うペットショップ「なみき」(現存)などが並んでいた。

 

 銭湯は、「稲荷湯」、「浅間湯」(現存)、「武蔵野湯」(現存)などが大学に近いが、日大芸術学部裏手の線路の反対側には「富士湯」、桜台駅の北口には「さくら湯」(現存)などがあった。

 

 銀行は、旭丘五つ又角に「三菱銀行」(現在、三菱UFJ 銀行)、南口駅前の右手に「住友銀行」(現在、三井住友銀行のATM)、踏切を渡る手前左手に「東京都民銀行」(現在は、「きらぼし銀行」)、桜台駅を少し越えた先の「第一勧業銀行」くらいだったと思う。銀行印が必要になり、最初に立ち寄ったのが昭和初期創業になるはんこの「甲陽堂」だったが、近年になって甲陽堂さんから長いお付き合いのこともあってか個人的に印鑑を贈られたこともあった。

 

 病院は、「鈴木病院」(現存。全面改修され建物は一新)、「平塚医院」(現存、先生は武蔵高校OB)、「櫻井歯科」(現存)、「森永歯科」、「井原医院」、「菅原医院」、「山田耳鼻咽喉科医院」(平成30 年に、ご子息が整形外科医院を開業)、「篠田眼科医院」(現存)など、薬局としては、練馬旭丘郵便局近くに「武蔵堂ファーマシー」(現存)、漢方の「東郷堂薬局」(現存)、青山堂ビル近くに「折井薬局」(2020年に廃業)などがあった。 

 

 パチンコ屋さんは、南口側では、駅前右手に「双葉会館」(現在、スーパーの「マルマン」)と、線路沿いに「エデン」、北口側で「大和ホール」。稲荷神社脇の踏切を渡って江古田大通りの左手、大阪屋酒店の隣には「田丸」があった。ところで、当時のパチンコ台は、まだ機械化されておらず手打ちであったため、釘師も、パチプロもいた。サラリーマンの月収が4 万円弱の時に、聞けば、彼らプロは15万円位とのことであった。退職金や保険などはないものの、夫婦?で働けば月収30万円になると、一時は真剣になり、下宿に台を2 台買い入れて、なぜ、集中して出たりまったく出なかったりするのか研究?もした。2 ヶ月ほどの夏休み研究の結果分かったことは、定期的に台の清掃が必要なこと、玉に至っては磨いて汗を取っておかないと数日で錆びてしまうこと、時折、チューリップが開いた時だけはチーン・ガラガラという音がするが、ほとんどはカタカタという寂しげな音が響くため、景気の良い大音量の音楽が必要になるということだった。構造はともかく、お店に釘師が周期的にいつ入るのかを知り、球が出る台を記録し、朝早く起きて行列に並びその台を確保しない限り大きくは勝てないことをプロから教わった。3 年生から、気が向いた時にだけ週2 回ほど店に出向いた結果だが、約2 年間で3 万円弱のマイナスとなって終わった。

 

 また、今の学生はほとんどやらないようだが、当時はビリヤードと並んで麻雀が流行っていた。雀荘には、旭丘郵便局の向かいに「ピース」、学生25 円で紅茶サービスありの「西風荘」、「ふじ」、「駅前クラブ」、お稲荷さん本通り稲荷湯の横に「いなり荘」、栄町大通り五つ又手前の文具「西村」の向かいに「国士荘」などがあった。大学に来ても、駅からまっすぐに雀荘通いをしていた人も大勢いた様だが、私自身は、何故か、銀行に就職が決まってから下宿先(日芸の正門向かい)ですることの方が多かった。ビリヤード場は、駅前「中央ビル」(映画「シャル・ウィー・ダンス」の舞台になったビル)の上階に「トーヨー」、線路沿い南口近くの2 階に「栄光」があったかと思う。

 

 自動車教習所としては、「練馬」、「北豊島園」、「石神井」、「ホンダ」などがあったが、当時は免許取得希望者が現在の2 倍以上いた時代のため、決して親切・丁寧な指導ではなく、私の友人には2 度とも教習員に手を出して免許が取得できない者がいた。私自身も、初回に、いきなり「はい、エンジンかけて」と言われ、ウロウロしていると「なんだよ、運転したことないのか」と馬鹿にされた記憶がある。

 

 当時のアルバイトは、私の場合は、通常時は、「島津産婦人科」(現存、江古田駅北側)、うなぎの「宮川」(桜台)、金子さんだったかお名前を忘れたが豊玉北の環七に近くで広い土地を持つお宅での家庭教師などをしていた。お中元の時期になると、柔道部にぶら下がりで東長崎の「西武配送センター」での商品配送業務に就いたが、非力で役に立たなかったせいか苦情電話係にされ、それが2 回ほど続いた。苦情を言う人の中には、とんでもない言いがかりをつける人がいることを、そこで知った。当時のアルバイト募集記事によれば、日給は事務が1,300 円、倉庫配送が1,500 円と記されている。時には、仕事は楽だし3 食付きでしかも涼しいと先輩に上手に誘われて、友人3 人と「箱根龍宮殿」の屋上に幽閉されてみたり、車の運転手が欲しいとの急な話で、免許取り立てにも拘わらず真冬の崖道を通って秩父の山奥まで行き、今思い返せば、障がいを持たれた方達が働く施設だと思われる場所で、数日間、鉛筆箱の制作を手伝うことになったりもした。

 

 入学した年の昭和43 年4 月15 日から21 日までのテレビ視聴率ベストテン(ビデオ・リサーチ調べ)が、「武蔵大学新聞」に掲載されていたので紹介すると、①ザ・ガードマン(TBS)36.5% ②プロレス中継(日本テレビ)35.3% ③素浪人月影兵庫(テレビ朝日)34.8% ④土曜劇場・花いちもんめ(フジテレビ)31.5% ⑤意地悪ばあさん(日本テレビ)27.2% ⑥肝っ玉かあさん(TBS)26.5% ⑦プロレス中継(TBS)25.4% ⑧ふるさとの歌まつり(NHK)25.2% ⑨ニュース・スポット(日本テレビ)25.1% ⑩ウルトラセブン(TBS)24.9% というものである。プロレスの中継番組が2 つランクインされていて、当時、人気が高かったことがわかる。

 

1960 年頃の撮影、青山堂書店内部の様子。江古田駅の近く、桜台寄りの踏切を北側にわたってすぐの場所にあった

 大学に人文学部が誕生した1969(昭和44)年、2 年次生になったばかりなのに、6 月に、行き掛かり上、私は学友会長に就任することになった。その年度末の1970(昭和45)年3 月31 日には「よど号ハイジャック事件」(よど号とは、機の愛称)と呼ばれる共産主義者同盟赤軍派による日本航空国内便のハイジャック事件があり、事件を起こした9 名全員が4 月3 日に北朝鮮への亡命を果たしていた。北朝鮮の体制に憧れた訳ではなく、自らの闘争拠点として変革することが目的だったようである。また、同年11月25日には「三島事件」と呼ばれる三島由紀夫氏ほか「楯の会」のメンバー4 名による自衛隊市ヶ谷駐屯地占拠事件などがあった。三島氏は、自衛隊はアメリカのための軍隊ではないとし、隊員にクーデターを起こすよう促す演説をした後、天皇陛下万歳を三唱して割腹自殺した。

 さて、紛争という言い方はいささか一方的な気がするが、とにかく私達は「学生紛争」の時代に生きた。私の3、4 年生次の下宿(トイレ共同の2 階建アパート全8 室、4 畳半)は、日大芸術学部の正門左手の映画スタジオ前の飯田計二様方の敷地内にあったが、当時の「日芸」は、東大紛争と並んで学生紛争が激しく、学校の周囲は高さ3 メートルの塀で囲まれていた。なお、芸術学部とは関係ないが、理事長逮捕のニュースを聞く3 年前の2018 年5 月、同大学のアメリカン・フットボール部の監督・コーチが、試合中、所属選手に相手校選手への危険タックルを指示し実際に怪我を負わせたという残念な報道があって、その経過や大学側とのやりとりを聞いていた時、あれから半世紀も経つのに、同大の経営陣には当時のままの感覚を引きずっている人がまだ残っているのかしらと驚いた。武蔵大学における学生運動も、同大学を含む全共闘運動に全く影響を受けなかった訳ではない。しかし、授業ボイコットや建物封鎖などはあったものの、決して学校の施設や設備を壊すような行為はなかったし、教員は学生を、学生は学校を大事にしており、少なくともこの時点までは、互いの信頼関係が残っていたように思う。武蔵には、高等学校にも大学にも、いわゆる「校歌」が存在しない。あるのは学校への「讃歌」である。特に、武蔵大学讃歌は、作詞、作曲とも卒業生の手によるものである。表には見えないものだが、こうした校風は、誇りに思って良いのではないかと改めて思う。

 

 当時の学長は、大阪大学で学長を務められた数学者(代数)の正田建次郎先生(1965年4 月から1975年3 月まで学長、校長)であった。朝霞への学寮移転の際に使用されるプレハブの建築物見学の帰り、岸本君、浮田君、吉岡君の同期4 人で、新宿西口のお寿司屋さんでご馳走になった。食事後には、小日向台のお宅にまでお誘いいただいて、色紙(「祥雲」の書)と自宅の窯で焼かれた焼き物を頂いて帰った記憶がある。身体の大きさを感じさせないスラリとした風貌、特徴のある髪型、ゆったりとした口調で優しく話をされ、学生にはとても印象深かった。我々20 回生の卒業記念にあたり、先生の「胸像」を学園の「すすぎ川」沿いに建てさせていただいたが、その事前相談に伺った折、先生は、「人も、像が立つようになるとね…」と半分遠慮されていたのだが、それから僅か5 年後の1977 年3 月20日に、突然倒れてしまわれた。経営が苦しかった時代、学部増設、学費の大幅値上げ、学生紛争などの疲れが溜まった結果かも知れない。また、その2 年前には、初代経済学部長であり、1975年4 月から公選制度になって初の学長を務められていた鈴木武雄先生が、年末12 月6 日にやはり突然亡くなられている。お二人のご逝去は、身近で接していただけに、とても悲しい知らせだった。

 

 思い出話には、きりがないので、このあたりで終えたい。

1970 年頃の学生運動、講堂での学生集会の様子
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