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第2章 旧制武蔵高等学校の開設*

 財団法人発足の時から新設高等学校の校長に予定されていた一木喜徳郎は、枢密顧問官でもあったため、教頭に人を得ることが最重要課題であった。1921(大正10)年、北條時敬ほかの推薦によって山本良吉(元京都帝国大学学生監・前学習院教授、当時欧米視察中)に交渉し、翌年1 月1 日付で正式に教頭を委嘱した。また、同日付で教授ならびに生徒監を田村二十一(はたいち)に委嘱した。なお、一木喜徳郎の校長就任は1921年12月27日付で文部省から認可された。施設面での準備は、すでに根津理事長・本間理事を中心に早くから進められていたが、教務的な開校準備は、神田一ツ橋の帝国教育会の一部を借りて開始された。まず、尋常科1 年80 名を募集し逐次充実させる方針に従って、1922 年2 月に東京商科大学一橋校舎で入学試験を行った。応募者は1,102 名であった。中新井村の校地には、木造2 階建と平屋建の2 棟の仮校舎ができて、開校を待った。

 1922年4 月17 日(月)10 時半、仮雨天体操場において関係者多数列席のもとに入学式を行った。一木校長からは本校の成立、使命、生徒としてのあり方等について訓示があり、根津理事長からも以下の祝辞が述べられた。

開校1 年後の1923年4 月における学校敷地の略図

入学式祝辞 1922(大正11)年4 月17 日

根津育英会理事長 根津嘉一郎

 私ハ理事長トシテ所感ヲ述べテ祝辞ニ代ヘタイト思ヒマス。此ノ学校ノ設立ニツキテハ今ヨリ四年前ヨリシテ、一木校長ヲ始メ前ノ臨時教育会議総裁平田子爵及前ノ文部大臣岡田良平、当時ノ帝国大学総長山川男爵、学習院長北條時敬、高等師範学校教授佐々木吉三郎及宮島清次郎、本間則忠、正田貞一郎ノ諸君ニ御相談ヲ願ヒマシテ施設経営ノ方法ヲ定メ着々ト之ヲ実現シテ、本日茲ニ入学式ヲ挙グルコトヲ得タノハ誠ニ欣懐ニ堪エザル所デアツテ、御尽力下サツタ諸君ニ対シ深ク感謝スル次第デアリマス。扠私ノ資産ヨリ視レバ分ニ過ギタ寄付ヲシタノデアリマスガ、之ト云フノモ実ハ何カ社会国家ノ為ニ尽シテ見タイト云フ感念【ママ】ヨリ、其ノ社会国家ノ為ニ尽スニハ偉大ナル人物ヲ養成スルコトガ必要デ、其ノ偉大ナル人物ヲ養成スルニハ理想的ノ学校ヲ立テ理想的ノ教育ヲスルコトガ適当ナリトシテ此ノ学校ヲ設立シタノデアリマス。然ルニ唯今入学セラルル生徒諸君ハ千百有余名ト云フ多数ノ志願者中ヨリ抜摘セラレタ方々デアリマス。

 早イ話シハ其ノ入学試験ノ如キ人世行路ノ第一歩トシテ実ニ険阻ナル山モ打越ヘタノデアリマス。流レノ急ニシテ底深キ谷川モ既ニ渉ツタノデアリマス。而シテ激烈ナル競争試験ノ優勝者トシテ難関ヲ通過シタル勇武ノ士デアリマスカラ、諸君ハ将来世ニ立テ仕事ヲスル頃ニハ屹度私ガ希望シテ居ル所ノ偉大ナル人物ト為ラルルコトト信ズルノデアリマス。

 生徒諸君ヨ、私ハカク有望ナル生徒諸君ニ向ツテ、最モ祝福シテ已マザル所ノ一事ガアリマス。其ハ外デモアリマセンガ本校ガ校長ニ戴クコトヲ得マシタ所ノ一木博士ハ諸君モ御承知ノ通リ徳望一世ニ高ク学識内外ニ渉リテ博ク諸君ノ模範トシテ仰クベキ御方デアラセラレマス。又山本教頭其ノ他ノ教員諸君モ打揃フテ立派ナル教育者デアラセラルルノハ生徒諸君ニ採リテ何ヨリノ奉慶ト存ズルコトデアリマス。顧フニ財産ヲ寄付シテ教育事業ヲ興スコトハ資金サへ投ズレバ誰レニデモ容易ニ出来マスガ、斯ノ如キ崇高ナル校長ヲ戴キ斯ノ如ク打揃ツタ良教員ヲ得ルト云フコトハ金銭デハ容易ニ出来ナイコトト信ズルノデアリマス。

 生徒諸君ハ今ヨリ此ノ学校ニ於テ斯カル立派ナル校長ノ徳化ト斯カル立派ナル教員ノ薫陶ヲ受ケテ、各其ノ天才ノ発達ニ努メタナラバ必ヤ将来社会ニ立ツノ暁ハ或ハ権威アル政治家ト為リ、或ハ古今ヲ照ラス学者ト為リ、或ハ経済界ノ覇者ト為ル等社会国家ノ為ニ最モ有益ナル人物ト為ラルルコトト思ハレマス。今ヨリ十分ノ実績ヲ挙ゲラルル様心懸ケラレンコトヲ望ミマス。

 終リニ私ノ経験談ヲ付ケ加ヘテ留意ヲ促シテ置キタイト思ヒマス。私ハ本年六十三才ニ為リマスガ、私ノ経験ニ依リマスト幼少ノ折リニ習ヒ覚エタ事程イツマデモ能ク記憶シテ居ルコトハアリマセン。又其ガ事ヲ為スニ方リテ最モ役ニ立ツノデアリマス。然ルニ四十、五十ノ歳ニ為ツテカラハ、イクラ骨ヲ折テモ覚エル先カラ忘レル様ナコトデ如何トモ致シ方ガアリマセン。私モ先年洋行*ヲスル際ニ外国語ノ稽古ヲシタコトガアリマシタガ、習フ先キカラスグ忘レルト云フヨウナ次第デ、深ク此ノ事ヲ感ジタ様ナ訳デアリマスカラ、生徒諸君ハ今ノ時ニ方ツテ特ニ茲ニ留意シ将来大成ヲ為スノ基礎ヲ作ル上ニ非常ニ大切ナ時期デアルト云フコトヲ牢記シテ貰ヒタイノデアリマス。此ノ芽出度入学式ヲ挙ゲラルルニ方リ以上私ノ所感ヲ述べテ祝辞ニ代フル次第デアリマス。

1922年4 月17日 開校日入学式の記念写真
1938 年に、当時の山本良吉校長によって記された「三理想」の英文表記。

 また、本校の校是(建学の精神)とも言うべき「三理想」は、この入学式に先立つ教師会において、一木校長が「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、世界に活動する体力を有す」と訓示されたものを原型とし、一木校長と山本教頭による表現の工夫を経て、1928 年に現在の形となったものである*。以来、この精神は、武蔵大学、武蔵高等学校中学校からなる今日の学園にも絶えることなく受け継がれている。

 施設の整備も着々と進んだ。1923年4 月には本校舎(現・大学3 号館)正面が作られ、同年9 月の関東大震災の被害も幸い軽く済み、1925 年3 月には本校舎の東西両翼が完成した。1922 年に尋常科の寮、1927年に高等科の寮が落成した。その他、化学教室・講堂・生徒集会場・剣道場・弓道場・屋内体操場等も1928 年までに逐次整備された。また、1931 年、父兄会の寄付でプールも竣工した。初代校長一木喜徳郎が宮内大臣に就任したことから辞任し、1926年、第2 代校長として山川健次郎(枢密顧問官、元東京帝大・京都帝大・九州帝大総長)が就任した。1928(昭和3)年4 月15 日、七年制高等学校としての全学年がそろい、また施設もほぼ整ったので開校式を挙行した。このとき初めて「武蔵讃歌」(作詞:長崎太郎教授、作曲:田中規矩士(きくじ)講師)の斉唱が行われた。総理大臣田中義一、宮内大臣一木喜徳郎(前校長)、子爵渋沢栄一、東京帝国大学総長、京都帝国大学総長等も列席し盛典であった。

 翌1929 年3 月には、第1 期卒業生38 名を出した。卒業式に際して根津理事長は、全卒業生への祝賀の意を込めて、代表者2 名に記念品を贈った。これは以後恒例となり、現在の大学・高校それぞれの卒業式にも引き継がれて、「根津賞」の名で呼ばれている。

1928(昭和3)年4 月15 日の開校式における根津嘉一郎理事長の式辞光景

(注)当時の官立の高等学校と比べても、旧制武蔵高等学校の教育は、生徒一人あたりにはるかに多くの額を費やした事実が、諸史料からうかがえる。たとえば「武蔵高等学校一人当たり費用概見表」(武蔵学園記念室所蔵)を見ると、1927 年において「一人あたり374 円」とあり、同年におけるナンバースクールをはじめとする官立の旧制高等学校のいずれの学校よりも多額であった(なお、後者の平均値は約277 円。以上は、文部大臣官房会計課による『学生生徒一人当所要経費に関する調査』1927 年度版を参照)。

(注)1909(明治42)年に、前出の渡米実業団の一員としてアメリカに渡ったことを指す。

(注)本百年史の『主題編』に収録の「三理想の成立過程を追う」も参照されたい。なお、本文中に掲載した写真中の三理想英文表記は下記の通り。

The Three Ideals of the School

1. To be properly equipped for the realization of our national ideal which consists in the harmonization of Oriental and Western culture;

2. To be prepared to act on the world-stage;

3. To cultivate the habit of original research and independent thinking.

現在の三理想は、本書冒頭に掲げた。

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