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戦時下の武蔵―空襲を中心として―(庄司潤一郎)
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1944(昭和19)年7 月のサイパン陥落を契機として、米軍の日本本土への空襲が本格化し、当初は航空機生産工場(例えば、東京近郊では中島飛行機武蔵野製作所など)が重要目標とされたが、次第に一般の市街地にまで広がり無差別爆撃となった。したがって、武蔵も例外ではなかった。
武蔵が所在する練馬区(当時は板橋区。1947 年8 月に板橋区から分離独立)には、航空機生産工場は所在しなかったが、成増飛行場(光が丘)、造兵廠練馬倉庫(練馬北町)、無線電信講習所(高松)、電波兵器学校(上石神井)、中島飛行機社員住宅(関町)などの軍事関係施設があった*1。一方、戦時中、武蔵の敷地内にも、「久保部隊」と称する軍事施設が置かれていた。
「教務日誌」など武蔵の資料によると、1944(昭和19)年8 月に関して、以下の記述がなされている。
・8 月4 日:「防衛司令部(※)建築班に三階を貸与し机の移動を行えり」
・8 月22 日:「本校舎3 階の一部を陸軍防衛司令部建築班(久保部隊)に徴発される。(校長室は講堂に移った)」
・8 月28 日:「久保部隊在宿の下士十数名に限りプールの使用を許可した」
※正しくは「防衛総司令部」
防衛総司令部は、1941年7月12日、「関特演」実施に伴いソ連爆撃機の来襲が予想されたことから、本土防空を念頭に、「防衛に関し東部、中部、西部、北部、朝鮮及び台湾各軍司令官並びに所定の航空部隊を指揮する」ことを任務として、編成された。
1944 年5 月5 日、防衛総司令部は、本土防衛作戦を強化するため、新任務を付与され臨時増員がなされた。新任務は、「皇土(内地)の防衛」、すなわち防空、離島・本土沿岸要域の防衛などで、予想される本土決戦に備えるためであった。7 月17 日には、満州所在の防衛築城部が、防衛総司令部の編制に編入され、防衛総司令部の築城能力の強化が図られた(築城とは、要塞、陣地、砲台などの構築)。20日には「本土沿岸築城実施要綱」が指示されるに至る*2。
こうした経緯から、防衛総司令部の一組織が武蔵に配備され、資料では、「建築班」となっているが、同様に「久保部隊」とあることから、正確には「築城部」と思われる。すなわち、「久保部隊」の「久保」とは、久保禎三陸軍少将のことで、当時、防衛総司令部築城部長であった(のち中将、第4 野戦鉄道司令官)*3。
翌1945 年4 月1 日の「公文書綴 校舎転用関係書類」には、「転用先:陸軍防衛本部築城部隊築城班、及東京第二造兵廠。転用:一一七八坪(総坪数:二、八四〇坪の内)」との記載があり、6 日には、校舎2 階の一部が陸軍防衛本部築城部隊及び東京第二造兵廠に転用・貸与され、そのため、教頭室、教員室、教務室などが1 階に移った*4。
ちなみに、「防衛総司令部」が「陸軍防衛本部」と表記されているが、これは、防衛総司令部が、1945 年4 月に総軍に改編されたためである。
下士のプール使用の許可には後日談があり、学校側は、身体検査を受けてない者がプールに入るのは認めないことになり、軍側と対立したが、結局軍側が折れてプールに入らないことになったといい、「学校の強い姿勢は、当時としては考えられないものでした」と評された*5
一方、1945年1 月18日双桂寮が出火(半焼)した際、寮生はバケツリレーで消火に努めたが、「久保部隊」のポンプが来て「ほっとした」という*6。
多くの生徒は、この「久保部隊」の存在を認識していた。例えば、景山眞(19 期・理、旧姓佐々木)の1944 年8 月の日記に、「陸軍が校舎の一部(東側三階)を借りて入って来た(東部軍第〇〇〇〇部隊久保部隊との看板が校門に出た。○は数字。工兵部隊と記憶する)」との記述がある。また、1945 年4 月6日には、「陸軍久保部隊の領域が学校の二階まで広がるので引越しの手伝い」、8 月の終戦に際しては、「夜久保部隊の将校達何人かが軍刀を抜いて濯川のほとりの木々の枝を切り付けていた。私は寮の部屋で灯を消し息を潜めて様子を伺っていた」と記されている*7。また中山章(22期・文)は「何時の頃だったか、三階に軍隊が入居しました。対空防衛対策という事でしたが、高射砲とか、機関銃の類を見た記憶がないので、今でも、あれは何だったんだろうと思います」と回想している*8。
荒木正也(23期・文修)は、「昭和19年になって校舎の相当部分に陸軍の築城部隊が常駐する事態となり、校内にも軍部の影響が出てきましたが、暴力禁止は貫かれていました」と述べている*9。
一方、市民の回想にも「武蔵高等学校(現武蔵大学)の正門に『築城本部(工兵隊教育)』という看板があり、…当時、武蔵高校には軍人が多勢いて、周辺では、高射砲陣地だ、という噂もありました」というものがある*10。但し、当時練馬区には、練馬北町など数か所に高射砲部隊が配備されていたが、武蔵に所在していたと確認することはできない。
既に大東亜戦争開戦前から、武蔵では既に防空訓練が行われていた。例えば、1941(昭和16)年10月14日の「教務日誌」には、「午前一一時練馬署員臨検の下に防空訓練を施行、一二時一〇分終了す」との記載が見られる。1942年4 月18 日、空母「ホーネット」から、B25 中型爆撃機16 機が発進し、うち13 機が東京を爆撃、機銃掃射を行った。この空襲による被害は、死者約50 人、全壊全焼家屋は百数十戸であった。
東京では、荒川、王子、葛飾、牛込、小石川、品川などが爆撃され、武蔵は直接の被害を受けなかった。しかし、「教務日誌」には、「午後〇時二〇分東京市に敵機の空襲を受く。放課後なるも残留せし生徒を以て所定の配備につく。被害なし」と記されている。この日の授業は中止となり早退となった。
尋常科3 年の生徒であった景山は以下のように回想している*11。
「空襲警報が発令される前に敵機が東京に現れた。昭和十七年四月十八日(土)学校からの帰り道、江古田駅のホームにいた時、南の空、武蔵の方角に見慣れない飛行機一機(中型?)を見た。低空で西から東へ飛行、敵機ではないかと直感した。数分後味方の戦闘機が二、三機、頭の真上を東から西へと飛んだ。…軍の防空体制の大失態であったが、当時の新聞などにはそれを責める意見や被害の実態など載らない」
また、厚母榮夫(20期・理)は、以下のように回想している*12。
「1942年(昭和17 年)4 月18日(土曜日)のことであった。吾々は生物学担当の和田八重造先生と共に屋上で昼食を食べていた。12:15 分頃と思うが、突然の爆音と同時に爆撃機が現れ空襲警報が発令された。慌てふためきただちに室内へ退避した。…子供心にも日本国の将来について不安心を増大させた」ドゥーリットル空襲ののち、戦局の悪化にともない、武蔵でも、防空訓練・演習や待避壕の構築などの防空対策が頻繁に行われるようになる。
例えば、岸敬二(21 期・理甲)は、「広い校庭は軍の応急の生活資材が野積みされ、教室の窓ガラスには飛散防止の十文字の紙が貼られた。隣組では頻繁に消火訓練が行われた」と回想している*13。
文部省が1943年9 月に策定した「学校防空指針」では、校長のもと教職員、学生が一丸となって実施する「自衛防空」の強化が謳われ、中学3 年以上の生徒は「防空補助員」となることが義務付けられ、空襲時にも帰宅は許可されなかった*14。武蔵でも、生徒達は、「特設防護団員」、「防空警備補助員」として、警報発令時には夜間でも登校して部署についていたと言われる。
空襲警報発令時に学校を守るため動員され、教室で何度か夜を明かした水島恵一(20期・理)は、その時の体験を「実は、それはむしろ楽しい思い出である。ことに1943 年冬には学級長をしていたので、その責任がかえって嬉しかった」と回想している*15。
一方、校内における防空壕の構築に際して、一部の先生から当然生徒も作業すべきとの意見があった。これに対して、創立以来のベテランの先生が、「生徒は学問を学ぶため、この学校に来ている。…生徒の命を守るのは学校の責任であり、生徒にやらせてはいけない」と強く反対した結果、防空壕は用務員と先生が協力して作ることになったという。荒木は、「これぞ武蔵というエピソードでした」と評している*16。
1944(昭和19)年7 月のサイパンの陥落ののち、米軍はB29の飛行場を、サイパン、テニアン、グアムなどに設営した。11 月1 日からは、B29の偵察飛行が東京上空で行われるようになった。11月1 日の「教務日誌」にも、「午後一時四〇分頃空襲警報発令され、下学年生徒は直ちに待避す。午後二時五〇分解除」と記されている。すなわち、空襲警報が鳴り、授業は中断し、避難を余儀なくされたのであった。
11 月24 日、88 機のB29 は、武蔵野の中島飛行機工場を爆撃した。B29による最初の東京への空襲であった。練馬区内では、大泉・石神井方面に焼夷弾3、爆弾8 個が投下されたが、死傷などの被害は生じなかった。これ以降、空襲が本格化することになる。
ついに、1945 年3 月10 日の東京大空襲を迎える。約300機のB29が、台東区、墨田区、江東区などの下町に対して、低空から焼夷弾による絨毯爆撃を実施した。練馬区では、田柄町に焼夷弾が投下されただけで大きな被害はなかった。そのため、武蔵の資料にも、目立った記述は確認されない。しかし、電車が不通となったため、休校となった。
主な被災地は下町地区であったため、寮の学生は遠くから大空襲の模様を眺めることになり、清水利男(23期・理修)は「この寮(慎独寮)から遙か東の空が真紅に染まるのを、寒さに震えながら見守ったことは強烈な印象として残っています」と回想している*17。
また、寮で勉強していた景山は、「地上から火の手は上がり、やがて煙が入道雲のごとく起つ。空は探照燈も要らぬほど明るくなった。…火は水平視角九十度位まで広がり、赤い光が寮の窓に映じた。机の上で化学ノートを広げたら「平衡移動の法則」という字が読めた。朝東南の空はまだすごい雲」と回想している*18。
東京大空襲では畑先生が罹災したが、3 月16 日の授業は、出席者が少ないこともあり、罹災した状況の話をされた*19。
終戦の日までに、東京全域で約100回を超す爆撃が行われた。練馬区での空襲は、最初の1944 年11月24日から19回に及び、練馬警察署の統計によれば、投下爆弾976 個、投下焼夷弾7574 個、死者160 人、全焼857 戸、罹災者数4088人に達している*20。そのなかで、武蔵の近辺に当たる豊玉、江古田地区は3 回空襲の被害が生じているが、武蔵が直接被害を受けたのは、1945年4 月13日の空襲であった。
4 月13 日の空襲は、約150 機のB29によって、23 時から約3 時間半にわたって、赤羽の兵器廠を中心とした広範囲に、爆弾と焼夷弾が投下された。練馬区では、豊玉上町、豊玉北町、練馬北町、練馬南町、江古田町、田柄町が被災した。練馬警察署の統計によれば、死者は11 人、全焼597 戸、罹災者数約2500人であった*21。
武蔵は、本空襲により、慎独寮、剣道場、弓道場、木工金工室、不退堂など約800 坪を焼失した。校舎は難を免れたが、屋上で炎をあげていたという。慎独寮の学生は、一時学校西隣のアパート「水郷荘」に寄宿、その後6 月から荒牧鉄雄教授(武蔵の元英語教師。当時は航空科学専門学校勤務)宅を借用して、翌1946年3 月まで居住した*22。
当日の「教務日誌」には、「夜十時五〇分より翌一四日午前三時半頃まで空襲。交通一時途絶。災害を受けたる教師・・玉蟲教頭、小野嘱託、佐藤新一教授、加納教授、進藤教授。この他、他の日に罹災の者・・畑教授(三月九日)、三木教授(四月十五日)。尚、この日の罹災者中に本校教科書販売店丸善書店あり」と記載されている。
景山によれば、寮生はみな陸軍が造った防空壕に待避し、空襲ののち寮の前庭から見ると、慎独寮など学校に大きな火の手が上がっており、「早速半数の人員を応援に差し向けた。残りは未だ続く空襲に備え愛日(寮)で警備、裏の双桂寮あとと賄いのオッチャン、オバチャンの無事を確認」とある*23。また、爆弾の処理など空襲への対応では、「久保部隊」の協力を得ている。
剣道部員であった厚母は慎独寮や剣道場が全焼したことに、「自然と涙がこぼれ落ちた。日頃からお世話になっていた剣道着も竹刀も何もない。ただ面がねのみが虚しく散らばっていた。これらを数名の部員と共に拾い上げた哀しい思い出がある。後日、先輩から優勝旗(旧制高校全国大会)のことを聞かされたが、当日は残念ながら発見できなかった。これはわれわれにとっては痛恨の思い出である」と回想している*24。
このように、武蔵にとっては、東京大空襲より4 月13 日の空襲の方が、実態上の被害を及ぼしたのであった。一方、一連の空襲で教員は7 名罹災したものの、武蔵全体では、幸いにも人的な被害はなかった。
当時武蔵には、景山が、「(防空演習において)一年上の氏家昭美さんはバケツの水を遠くにかけるのが上手で、学校の演習では指導者になり、防空の本まで著した」と評した*25、氏家昭美なる生徒がいた。
氏家は、学校で「防空狂」と呼ばれていた。彼は、高校在籍時の1944(昭和19)年に『隣組防空の新体験』と題した100 ページに及ぶ本を、精文社から刊行した。同書には、防空総本部総務局長の上田誠一が「序」を寄せて、「家庭防空を兎角『強いられたもの』として受取る人の多い中に、之を『おのれのもの』として学業の余暇自ら究め且つ自ら戦ひ抜かんとする筆者の純一無雑な熱誠を、私は此上なく尊いものとして最も高く評価する」と、まさに時局の要請する人材であると絶賛した。そして、最後に、「決戦家庭建設の参考とせられんことを」と結んでいた。
本書は、空襲が必至の現下の状況において、果たして現在の隣組の防空訓練は十分か、今後の防空はいかにあるべきかとの問題意識から、資材、計画、訓練の3 つの観点から論じたものである。
「結論」では、防空に対しては、いい加減なお祭り騒ぎではなく真摯に向き合わねばならない、すなわち「人格を完成する為に防空するのである」と結んでいる。さらに、「教養のある人々が防空に対し冷淡であり不熱心な場合が多い」と知識人の姿勢を批判していた。
また、「結論」のあとに設けられた「高等学生論」では、高等学生の本分は、「正しく清く高い学問」をすることで、特に戦時なればこそ、形式に流されるのではなく、正確に認識し学問に精進するべきであると述べている。
巻末には、逝去した山本校長への報恩、級友や愛日寮生への謝意が述べられている。
①空襲への疲れ
当時の生徒は、勤労動員に加え、夜間は空襲で眠れない日々が続き、肉体的、精神的に疲労がたまっており、十分に勉学にいそしむことは難しい状況であった。
例えば、能登隆一(18 期・理)は、「(勤労動員から)疲れ果てて帰って来て夜間の空襲で起され、また翌日の労働が続くので疲労が溜まり、帰宅後は碌に勉強ができなかった」と述べている*26。
また、岸も、「尋常科の4 年間の戦時中をふり返ると、空襲に怯え、避難と防空壕生活を余儀なくされ、食糧難、生活物資難の生活に耐え、落ち着いて勉強できるような状況ではなかった」と回想している*27。
②「傍観者」として
一方、学校地区が直接大きな被害を受けなかったことから、「傍観者」としての立場が散見され、一般的な東京大空襲の記憶とはやや異なったものとなっている。
長谷部和夫(20 期・理)は、「たまたまその日は見事に澄み切った青空でした。やがて南から飛行してきたB-29 の爆弾倉が開くのが見え、次に爆弾が数発、始めは水平にそして斜め下に向きを変えたあたりからみえなくなり、やがて地上に白煙がパッパッと上がりました。これを眺めて実に綺麗で美しいと見とれてしまいました」と回想している。長谷部は、東京大空襲に際しても同様に、慎独寮からの光景が「実に綺麗で美しいと見とれていました」と語っていた。同時に現在の視点から「両者のどちらの場合も其の下では多数の方々が犠牲に成っておられると言う事には思い至りませんでした」と述べている*28。
さらに、4 月13 日武蔵が直接空襲を受けた時でさえ、中園啓一(21 期・理)は、「焼夷弾が空から落ちてくるさまは花火が上がって落ちてくるのに似て、大変綺麗でふわりふわりと時間をかけて落ちるので、防空壕に入らず呆然として見ていて、いざこちらに来るとなったときにあわてて避難した」と回想している*29。
このように、空襲の際に感じた鮮やかな光景に関する言及が、学生の回想・記憶に散見されることには、驚きを禁じ得なかった。
③学生らしい感情
学生たちは、体当たりなど迎撃する日本軍機と米軍の爆撃機との空中戦も目撃していた。景山は「空は探照燈も要らぬほど明るくなった。と見よ、敵一機、真っ赤な火の玉となり、あたり一面輝くばかりの光を発し、バラバラに分解して落ちて行く、歓喜!」と、墜落する敵機に喝采を送っている*30。中山は「時々迎撃に上った戦闘機との空中戦を見ましたが、堕ちるのは我が方の事が多く、口惜しいと同時に、戦闘能力の格差を感じました」と、日米の戦力差を痛感していた*31。
一方、学生らしい回想も見られる。中山は、試験が警戒警報の発令により中止となったことに、「全員立ち上って万歳こそないものの、試験用紙を破り捨てたのは、嬉しかったと云うべきか、そうでないのか、言葉を知りません」と語っている*32。
また、山口潜(20期・理)は、「(空襲)警報が鳴ると一番始めに防空壕に持って入ったのが好みのレコード―特に Arthur Schnabel 演奏の Beethoven シリーズであった」と回想している*33。
戦争中の武蔵は、「久保部隊」という軍事施設が所在していたものの、4 月13 日を除けば、空襲の直接的な被害は受けなかった。さらに、13 日の空襲でも、慎独寮などが焼失したものの、人的被害は生じなかった。したがって、学生の空襲の体験や回想は、個々の学生の個性を反映したのか多岐にわたっており、東京大空襲に象徴される平均的な日本人の空襲体験とはやや異なっている面が散見されるのは否定できない。
④終戦と空襲からの解放
ただ、終戦により、空襲もなくなるといった安堵の感情は、多くの日本国民同様学生すべてが抱いた偽らざる感情であった。景山は、「敗戦の日の日記には建前ばかり書いているが、実を言えば、もう空襲もない、助かったと、ほっとした感情があった」と語っている*34。
さらに長谷部は、死から生への思いを、「8月15 日終戦の日、灯火管制の無くなった夜の部屋に点けた電燈の光が如何に明るいと感じたか、そしてつくづく自分は生きている、しかも死の心配から解放されたのだと思い至った時の安堵感は一生忘れる事は無いでしょう」と記している*35。