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第3章 新校舎移転から20世紀末まで(1969-2000)
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正田建次郎が大学学長・高等学校中学校校長に就任した1965(昭和40)年4 月、大学と高校中学とを合わせた武蔵全体の新時代はこの時から始まったといえる。
新制の初めからの十数年間は、武蔵にとって、確かに第二の草創期であった。学校制度の中での、 そして社会に対しての位置という意味で、旧制七年制高校とは明らかに異なる立場に立たされたからではあるにしても、とにかく新制武蔵は旧制時代にない数々の個性を育んできた。しかし他方で、 施設改善を含む財務的経営の面での立遅れは次第に顕著となった。
ちょうどこの頃、武蔵大学と高等学校中学校とはそれぞれ、自分自身の道を次第に明確にして、 それぞれの方向にはっきりと歩み始めていた。新制の当初から続いた両者の混住体制のままでは、不必要な摩擦が起こるのは避け難いと思われたし、事実、小さなトラブルは各所に生じた。正田はまさにその時代に、時の理事長であった山本為三郎の懇請を容れて武蔵に赴任したのである。
いわゆる正田構想―大学の学部増設、江古田・朝霞両校地を含めての大学・高校中学の棲み分けを中心とした学園再編成計画―が、1966 年に打ち出され、1967 年には具体的な作業に入り、1968年に高校中学新校舎等の建設が始まった。
新校舎は1969年に竣工し、高等学校中学校は旧校舎(現在の大学3 号館)から移転し、濯川を境に大学とキャンパスを分けることになった。これは、大学の人文学部増設と同時のことであった。1975 年、学園長制度が発足し、初代学園長に正田建次郎が就任すると同時に、武蔵中興の祖ともいえる、教頭大坪秀二が新職制による初代校長に就任し、学園長制度以前の教頭時代とあわせて20年の長きにわたって今日の武蔵の礎を築いた。
小規模校ということもあり当初、教頭は空席とされたが、仕事量の増大等により、1987 年、大坪のあとを受けた小林奎二校長の就任からは教頭職も置かれるようになった。
正田校長は1965 年の就任早々、東京大学理学部数学科に所要の証明を申請して中学教諭の免許状を取得した。これは、私立学校の校長の資格には不必要なことであったが、正田校長は積極的に「中学生の授業に出てみたい」と考えてのことであった。中学1 年生への数学の授業は、1966年から1972年まで7 年間続けられ、その草稿が雑誌『数学セミナー』に連載されて、各方面からの反響を呼んだ。
1967(昭和42)年4 月、畑教頭に代わって、大坪秀二が教頭に就任、同時に新制発足以来続いた中学・高校の主事制が廃止された。そしてこの時から、教頭には1 期4 年、再任の場合は2 年ずつの任期制が定められた。
1975 年に学園長制度ができて、大学には公選の学長を、高校中学には校長を置くことになり、新しい選任規程に従って大坪教頭が校長に選任された。以後3 期12 年間、昭和62 年3 月まで在任した。
旧制以来の体育館・集会所・白雉寮(双桂・愛日の2 寮)と、戦後の新錬心館剣道場とが取り壊された。新しい体育館・プールはそのあと1970年に竣工したが、体育館内に含まれることになった剣道場には「錬心館」の名を残した。
また、プールは水泳・水球の両方に適合するように設計され、温水装置も付置されて、旧プールを造り支えた「しぶき会」(水泳部OB会)の精神を尊重した。
体育館・プール・集会所は山田水城(旧制19期・理)の設計になり、同窓会・父兄会両者の共同の募金によって建設された。当時、同窓生数は4,500名に達せず、総額5,000万円の募金は大事業であったが、田辺重明同窓会長はじめ役員幹事諸氏の熱意によって見事に達成された。
1970(昭和45)年4 月17 日、新施設披露の同窓会総会が開かれ、席上、田辺同窓会長、小林英二父兄会長から、寄付金目録が正田校長に贈呈された。
学生運動の波が高校生にまで及んだとき、武蔵でも外部のデモに参加したり、内部の生徒に呼びかけたりする者も、当然のように出てきた。生徒集会で、あるいはクラスの会合で、堂々と他の生徒に呼びかける者があったとき、その内容のいかんを問わず、学校として、また教師として、まずそれを制止せずにいわせようという態度がとられた。
「学生運動の波の縁くらいが武蔵を通ったのは1970(昭和45)年を中心とする両3 年のことである(『武蔵七十年史』より)」
奈良・京都方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2 年生の修学旅行は、1951(昭和26)年、27期生から復活していた。ただし、「戦後の不自由から少しずつ立ちなおりかけた時期であり、戦前の国史とは異なる視点を得た戦後の日本史学習と相俟って、復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし、同時に、団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も、既にそこにあったと言えよう。その後、集団観光旅行が観光地に充満する時代の中で、武蔵の修学旅行は、コース選択制、グループ見学方式など再三の先駆的改善を行って来たが、ついに、修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった*」という批判も登場していた。そして、「集団の中に個々の責任が埋没してしまうような行事はむしろ進んで廃止し、そこで失われる修学旅行の美点は、全く別の形で追求すべきである」(同上書)という考えのもと、1978 年の54 期生の旅行を最後に修学旅行は廃止された。その後、2010 年代末に93 期生から修学旅行を復活させようとの動きがおこり、2018 年12 月には当時の高2(94期)有志が2 泊3 日の自主研修旅行(広島・愛媛)を企画・実施したことは記録しておきたい。
(注)『武蔵六十年のあゆみ』(学校法人根津育英会、1982年)より。
修学旅行廃止を受けて、山上学校・海浜学校や各部での生活などの意義が、新ためて大きな重みを持つことになった。
海浜学校では、下に示したような従来の距離泳に加えて、1974(昭和49)年から潜水とサーフィンを加え、2 期に分けてグループを細分し、水の中での安全教育であることを強く押し出していた。
また山上学校でも、同じく2 期に分けて、グループ規模を18名から12 名に縮小した。ほぼ同時に進行したこれら一連の方策は、活動の規模を小さくすることで個々人の責任をきわ立させ、自主性を高める目的のものであった。
特に記念祭は、その当日の2、3 日だけでなく、ほとんど1 年間にわたって生徒の生活の中に何かの形で生きている。文化部の多くは、日頃の活動をその機会に発表し、逆にその発表のために日頃の活動を形成する。部や同好会でない団体にしても、多くはかなり長期間を準備に費やす。祭の様子は時代によっていろいろと変貌したが、一切を生徒が取り仕切ることだけは、はっきりと根づいた伝統である。金銭にかかわることや対外的な責任を伴うことに教員が関与してはいるが、極力陰の責任者であり続けてきた。
このような慣習は、新制発足の初めから存在したわけではない。教師・生徒双方が意識的に努力し、育て上げてきたものである。
1943年に制定された山川賞・山本賞(第Ⅱ部第5 章を参照)については、1956(昭和31)年に賞規程の弾力化の申し合わせがあった。すなわち、部としての応募を認めること、1 年度の授賞数を制限しないことの2 点であった。このことの効果は急には認められなかったが、昭和40 年代に入って、にわかに応募が活発となり、優れた研究も数多くでた。
山川・山本賞は文化部の部活動への大きな刺激となり、その活発化を進めたと同時に、それがまた、個人研究への誘因としても働いた。個人受賞の中には、部活動の中で生じた個人研究も少なくなく、個人研究と部単位の研究とは相互に競い合い、刺激を与え合いながら、次々に新しいものが生まれている。
惜しくも受賞には至らなかった論文もかなりあることを考えると、これらの研究を生み出した武蔵の学校生活が、世にいう「受験にしいたげられた灰色の青春」という類型でくくれないことがわかるであろう。
論文の審査を校内の教員が行うのは、極めてまれである。多くは、同窓・保護者、その他教員個人の縁をたどって、問題の分野の専門の方々に依頼してきた。この制度が有効に発展している大きな要因として、このような審査方法を可能としている「学校の持つ人脈」をあげねばならない。
1960(昭和35)年、体育科に水泳が専門の高橋伍郎専任講師(翌61年に教諭)が着任、水泳部の顧問となった。かなりのレベルをもちながらも競泳ではなかなか芽の出ない折角の泳力を、全員でやれる水球に注いだら、という高橋教諭の提案で、1970 年、都大会(水球の部)に参加した。
初年度は参加9 校中7 位。しかし翌年からは連続6 年間優勝した。1975、1976 年と2 年続けて全国大会準優勝。それも1975年度は、優勝校岡山関西高と引き分け、決勝リーグでの得失点比による2 位であった。
水泳部水球の軌跡には、かつてのバスケット部の再現を見る思いがする。事実、高橋顧問は、畑教諭の苦心に成る武蔵バスケット部のフォーメーション・プレーや、きちんと考えてする練習に多くを学んだという。
1968(昭和43)年から1970年まで、3 年続いてインターハイに出場できた。これには、ディフェンスに3 面3-2 ゾーンと称するものを工夫・採用したのが大きな力になっている。
スポーツ名門私立高校の輩出する中で、武蔵のチームにできるのは他チームにない「うまさ」を創り出してそれを武器とすることである。これは、80 歳を過ぎてなおコーチを続けた畑元教諭の変わらぬ方針であった。
1978(昭和53)年、都の通信大会で斎藤一哉(中3、左写真中央)は3 種B(400m、走巾、砲丸)で優勝、400mで2 着となり、全国大会で3 種B2919点で惜しくも8 位となった。
1976(昭和51)年、青村繁教諭を顧問に囲碁同好会ができた。高校全国大会には1976 年から出場したが、1977 年から大会が文化庁・全国民放44 社後援に変わり、その第1 回大会団体戦で53校中3 位の好成績を得た。以後数年にわたり、団体戦や個人戦で上位の成績を収めた。
将棋同好会も1976 年の全国大会に団体第3 位、1978 年個人第3 位など優れた成果をあげた。
1979(昭和54)年3 月、東京代表となって出場した第1 回全国高校選抜大会の団体戦でベスト8 に進出、優勝校柳川高校に敗れた。翌1980 年の第2 回大会でも、同じく準々決勝で柳川と対戦し、4-1 で敗れた。この年優勝した柳川が失ったのは、武蔵とのダブルス1 試合だけであった。
それぞれのスポーツについて、高校段階ではいわゆるスポーツ名門校が数多く登場し、学校規模の小さな武蔵には極めて不利な状況となった。そのような時代になっても、各部が良い練習の伝統を失わずにいることの成果が、中学生の活躍として表れるようになった。
(注)制度創設以来の山川賞・山本賞の受賞者一覧表を、付録資料の一つとしてDVD に収録した。
1977(昭和52)年、正田建次郎学園長が在職のまま急逝し、翌1978年4 月、太田博太郎が学園長に就任し、1990年まで在職した。
創立50 周年記念事業として行われた学園総合計画で、大学の複学部化、大学と高校中学との棲み分けは完了していたが、それぞれの施設整備の課題は残されていたし、校地の環境整備や青山・鵜原2 寮の老朽対策も未解決の課題であった。これらの課題に対して、太田学園長は専門家スタッフをまとめ、長期計画を新たに策定し、実行していった。
1982 年夏休み中に校舎増築・体育館模様替えの工事を行った。国数英各科の研究室が拡大され、生徒の自習室が新しくなり、分割教室が2 室増えて6 室となった。
軽井沢矢ヶ崎の青山寮は、1980 年7 月の中1 山上学校を最後として、閉寮、処分された。1937 年の建設以来、山上学校の開催は38 年度にわたり、また1945 年には、尋常科2、3 年生がここで疎開生活を送るなど、この寮の存在は学校の歴史に深く刻み込まれている。同年12 月、根津理事長の寄付により、赤城山上の大沼畔に完成した新寮は、「赤城青山寮」と名付けられ、「青山」の名を残した。
青山寮に続き、1928 年以来、60 近い年輪を刻んだ鵜原寮が建て替えられることになった。時あたかも、学校山林の檜が2 度目の間伐時期であったため、これを寮の用材にあてた。利用量は全用材のおよそ3 分の1 にあたり、梁、柱など主要な構造材はすべて学校山林の檜で賄われ、改築工事は1988年に完了した。また、濯川蘇生計画(1986年に工事完了、本書第Ⅰ部において既述)は、江古田キャンパスの整備事業の点睛であった。
(注)本百年史の『主題編』に収録の「太田博太郎―武蔵出身学園長の事績と『抱負』」も参照されたい。
1987(昭和62)年4 月、大坪校長に代わって小林奎二が校長に就任した。この年から数年の間に、戦後新しく新制高校中学の教師陣に加わった人たちが相次いで定年を迎え、武蔵は再び若返りの時代に入った。数年来の懸案となっていた選択制度の強化、選択クラスのサイズ縮小、第2 外国語の改善などが実行に移された。1986 年度から調査を進めていた国外研修の制度も実現し、個性化時代の新しい教育を創り出す努力が続けられた。
イギリスイートン校(Eton College)から生徒交換の提案があったとき、武蔵としては同時に教師交換を提案した。イートン校は1990 年に日本語コースを開設、そこへ武蔵から講師を派遣する約束ができて、教師交換の提案は、武蔵からの派遣のみ実現した。最初の講師として英語科の田中勝教諭が派遣され、開設時の困難な仕事を2 年間にわたり担当、1992 年9 月から同じ英語科の岸田生馬教諭に交替した。
1987(昭和62)年11月に「武蔵高等学校生徒国外研修規則」が制定され、翌1988 年3 月、この制度による第1 号の研修生徒たちが西ドイツ(2 名)、フランス(2 名)、中国(1 名)に短期留学を行った。第2 外国語を3 年間履修した者の中から希望者について選抜しているが、1989 年の第3 回から英国イートン校との交流も加わった。中国以外については、日本語選択コースをもつ学校をパートナーとして、生徒交換を行うこととした。
(注)本百年史の『主題編』に収録の「第二外国語と国外研修制度の展開」も参照されたい。
1990 年4 月、太田博太郎学園長が勇退した後、植村泰忠が学園長に就任した。翌年4 月、小林校長に代わって矢崎三夫が校長に就任した。
新しい学園長・校長の下で、70 周年の記念事業が企画され、同窓会の協賛・支援を得て進行した。1993年に刊行された『武蔵七十年史』は記念事業の一つであり、さらに学園の史料を収集・整備・保存・展示するための学園記念室がつくられた。
1992 年3 月16 日、学生・生徒・教職員100 余名の手で、学校山林内の空地にクヌギ・コナラの苗約1,000本が記念植樹された。4 月17 日には、同窓会主催で合同同期会が1,000 名の参会で盛大に行われた。
学則定員は、当初1 学年につき中学は150 名、高校は160 名で発足したが、実情は、中学・高校ともに50名の3 クラス制であった。しかし1 クラスの運営人数について、中学は山上・海浜学校の運営計画から48 名という数がやがて定着し、高校については、経営上の理由もあって53 名まではやむを得ないとする時期が長く続いていた。この時代には高校入学時に5~7 名程度の生徒を、他の中学校から試験によって編入させていた。その後、1クラス定員を減らそうという時代の趨勢に立脚して、1965(昭和40)年、中学は48 名3 クラスのまま、高校は45 名4 クラスとし、その差の分だけを高校で新入学させることとした。学則定員の変更は認められなかったが、1 割程度の差異は問題にされない時代であった。増クラス初年度は、1 学期間、新入生だけを1 クラスとしたが、内部進級者と少しでも早く馴染ませる方がよいとの結論を得て、次年度以降、入学時から新入生・内部進級者とも4 クラスに均等に配分してクラス運営を行った。その後、第2 次ベビーブームの時代には、臨時定員増が正式に承認された。しかし1985 年頃からの全国的な児童・生徒数の減少を背景に、それへの対処が東京都と私学側で協議され、申し合わせにより各私学は募集人員を一割削減するという趣旨に沿って募集を始めた。しかしなかなか徹底されず、受験生が学則定員に満たない私学も増加し、都側では学則定員の厳守を強く指導するようになった。武蔵も高校新入生16 名程度の入学しか認められない状態となった。また、特に数学、理科の公立中学との進度差の拡大の問題等もあり、1996 年、中学の学則定員を1 クラス40 名の4 クラスとして高校の学則定員に揃え、1999 年を最後に高校入試を廃止して、完全6 年制の中学・高校となり、現在1 クラス44 名を上限として運営されている。
このときの事情について、1991 年度から1996 年度まで校長であった矢崎三夫は、以下のように回想している**。
……高校、中学の経営は東京都から援助される助成金だけでは到底成り立たず、武蔵大学の経営が順調になってからは、その財力に頼らなければ運営は困難であることは明白であった。しかし、いつまでも大学側に寄り掛かるわけにもいかず、1987(昭和62)年に大坪校長から小林校長に引き継がれた頃より、高中は自力での経営努力を迫られることになった。その後を受け継いだ者にしても、何らかの経営努力をしなければ、赤字が増えていくのは目に見えていることで、バブルの当時ではあっても毎年のように学費を値上げしていくこともできないのは当然であり、ついに平成6 年頃から、従来表立ってお願いして来なかった在校生及び新入生からの寄付にも頼らざるを得なくなった。
しかし、次第にバブルははじけはじめ、さらなる学費の値上げは不可能であり、また寄附金の増額もお願いできない状況にあった。武蔵も一私学であり、教育内容で一段と優位に立つためにも、教職員の待遇を改善し、施設面での改善も必要があったが、その際の裏付けとなる資金を、どこから調達するかの問題で、壁にぶつかるのは必然のことであった。1989(平成元)年あたりを頂点にして、全国的に高校受験生の数が減りはじめ、どの私立高校も経営的に容易ならざる局面を迎えることは明らかであった。……このような事情から、武蔵として経営改善への残された手段としては、中学の学則定員150 名と高校の定員160 名との差を利用して、当時定員増が認められていた中学の定員を高校の定員と同数にして、学校全体で30名(実際は各教室の収容能力から計算すると、〈160 -(48×3) 〉の3 学年分、48名)の増員を諮る方法が一番現実的であるように思えた。
少子化が加速度的に進行していくことに加えて、バブル崩壊による景気後退が相まって、私立ブームではあっても、高校受験生の母集団の縮小を背景に、入試で好成績をとる優秀な受験生たちは、たいてい国、公立の高校を第一志望としているために、苦労の末の入試であっても、成績の上位の者の多くが入学辞退をして去っていく有様であった。受験生の総数も減り、入試成績上位の者たちが何人も抜けていくと、その分を見込んでかなりの人数を正員として入学を許可するにしても、補員の相当下位の者にまで、入学許可をしなければ高校学則定員の160名を埋めることは不可能となってきた。このことを考えて中学での定員増をしておけば経営的に少しは改善されるであろうとの観測を基に、専任教職員全員で協議した結果、幾つかの異論や懸念が表明されたが、結局中学の4 クラス制は、中高一貫校として、特に理数科方面では、円滑なカリキュラム実施の面から考慮しても、やむなしとの結論に到った。
しかし、従来のように高校でかなりの人数の編入生を入学許可しないと、中1 からの在来生の間に生じる「中だるみ」の可能性もあり、それ以外にも中1 時代から、常にほとんど同程度の家庭環境に育った仲間たちのみとの付き合いを強いられる弊害もあることを考慮すれば、外からの刺激が失われる可能性は一つの大きな弱点であることは否定できないことであった。さらに、いわば目一杯吊り上げた学費を以ってしても、定員増に見合う教職員の増員は、バブル崩壊後という こともあって、簡単なことではなかった。
これらの諸点から鑑みると、中学4 クラス制は、ことによるとプラスマイナスゼロというよりはマイナス面の方が大きかったのではないかと今にして反省させられるが、かといって他に考えつく速効性のありそうな、高中の独立採算に寄与する手段もなく、結局仕方の無いことだったと思われる。しかしそれ以上に従来から優秀な編入生たちに出会ってよい刺激を受ける機会が失われた武蔵中学卒業生には気の毒な結果になったと思われる。
結論的にいえることは、如何なる制度にも長所と短所があるので、その要諦はその制度に係わる者たち全てが、叡智に裏づけされた努力をすることによって、いかに長所を活かし、短所を抑えることができるかであり、結局はもともと不完全な人間が不完全な制度を運用する以上は、関係者一人ひとりが相当な覚悟をもって、改善への道を歩み続けるしかないのでは、との思いが深まるばかりである。
(注)全文は『武蔵学園史年報』第23号に収録されており、本百年史付録のDVD で閲覧可能である。