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III 武蔵大学の歴史

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VI 武蔵学園データサイエンス研究所

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第4章 課外活動と学校行事

 20 世紀末までを対象とする第3 章と、21 世紀以降を対象とする第5 章との間に位置する本章では、課外活動、校外学習、校友会活動、学校行事(記念祭・体育祭・競歩大会)のように、20世紀から21世紀にまたがって継続しているものを扱っている。

 これらの事項(あるいは活動)は、世紀の転換を境として内容を2 つに分けて記すのが分量的に困難であるという事情で、やや変則的ではあるが、これらを独立した1 つの章の中で記述することとした。

課外活動の奨励
【野外研究奨励基金】

 野外活動奨励基金制度は、「本物教育」の一環として1999(平成11)年に始まった。

 契機となったのは以下の事故である。1997年初め、日本海で「ナホトカ号」が重油流出事故を起こし、沿岸に深刻な被害をもたらした一件があった。当時の高1 生3 名が休校日を利用して福井県まで駆けつけ、寒風のもと、漂着する重油を柄杓で掬い、岩に付着した重油を素手で拭い取るという作業に参加し汗を流してきた。その体験談は大変興味深いものであった。この様な活動について、学校として何らかの手助けができないものであろうかと議論になり、1998 年秋以降具体的に検討した結果、以下のような制度として発足した。

  1. 本校の教育目的に則り、生徒の自主的・個人的野外研究・実地活動を奨励し、その費用を補助する。
  2. 基金は本校関係者の寄付によることを基本とし各年度50 万円を目途とする。
  3. 交通費、宿泊費、調査研究費の一部を補助する。

 さいわいにも多くの学校関係者の賛同を得て、生徒たちの活動に充分に対応できる状態になった。一時基金が不足気味となったものの、同窓会からの援助によって原資が確保されることとなった。自分の目で見て確かめ、触り、自分のすべてを総動員して体験すること。そしてその体験を自分の中で咀嚼し、自分独自の創造として人に伝えること。ここまでできて初めて、学びは「本物」となる。「学び」が社会と隔絶されたものであったり、ただ知識量を誇るだけでは意味はない。

 以下はこの基金を利用した近年の活動の記録である。

2006年

〈高1〉3 名 アイヌ民族研究

2007年

〈高1〉1 名 太地・捕鯨研究

〈高1〉2 名 奥入瀬・生物調査

〈高1〉4 名 佐渡・トキ研究

2008年

〈中3〉2 名 太宰府調査

〈高1〉1 名 白虎隊と会津藩

〈高2〉5 名 海軍および自衛隊と広島県

〈高1〉3 名 宮崎県椎葉村の焼畑調査

2009年

〈高1〉2 名 京都の新方言調査

〈高2〉2 名 福井県旧美山町焼畑調査

2011年

〈高2〉1 名 中国地方における屋根の地域性

〈中3〉1 名 京都・奈良 尼門跡の変遷

2012 年

〈高2〉4 名 大船渡ボランティア

2013年

〈高2〉2 名 河内王朝論

2015年

〈高1〉2 名 富山ライトレール事案からの考察

〈高1〉3 名 淡路島の観光実態

2016年

〈高1〉2 名 関東のフナムシの形態的差異

〈高1〉2 名 沖縄にみるやぎの活用法

〈中1〉1 名 赤城山の山岳信仰と岩石信仰

2017年

〈高2〉4 名 東北・復興の問題点

〈高2〉1 名 狭い孤立林に生息するホンドタヌキの食性の季節変化 

2018 年

〈高2〉2 名 焼津市における南海トラフ大地震の対策

〈高2・高1〉4 名 伊豆大島の火山噴出物の研究

【国内・海外活動チャレンジ奨励奨学金制度】

 野外活動奨励基金制度を発展的に解消し、国外向けとあわせて制度の整理を行い、2019 年に国内活動チャレンジ奨励奨学金制度と海外チャレンジ奨励奨学金制度を同時に制定した。

 国内活動チャレンジ奨励奨学金制度の目的は「国内における研究活動、社会貢献活動、地域交流活動などにチャレンジする生徒への金銭的支援」である。「世界をつなげて」活躍できる人物に「国境」はない。あるのは自分の内面にある「殻」との葛藤である。「Think Globally, Act Locally」という標語があるが、まずは身近な課題を見つけて解決するところからチャレンジするための制度である。

 海外チャレンジ奨励奨学金制度には、「思い切って外へ、もっと先へ」という生徒の気概をさらに後押しして、その視野を海外にまで向けられるように、との思いが込められている。単なる物見遊山ではなく、明確な目的意識、つまり各自の「問い」を持って臨み、自分なりの探究につなげることが求められている。

 活動のフィールドを広げながら、自分と他者とのつながりや自らの生き方を考える契機となれば、国内活動・海外活動の双方の奨励金制度が本当の意味での「グローバル市民・グローバルリーダー」としての武蔵生を育てる一助となるであろう。「野外活動奨励基金」の時代から続く主体的な学びはこれからの時代にますます重要となる。「自調自考」の精神の下で「世界に雄飛する」生徒が増えることを目指す制度である。

 国外研修と同様、この奨励奨学金も同窓会等の寄付によって賄われている。

以下は、この制度を利用した活動の記録である。

2019年

〈高2〉1 名 武蔵学園のアリの生息相 (日本進化学会第21回札幌大会参加)

〈高2〉1 名 表層性トビムシの走光性 (日本進化学会第21回札幌大会参加)

2022年

〈高3〉1 名 千葉県市原市牛久地区や小湊鉄道とタイアップしての「牛久写真コンテスト」実施等、地域活性化活動

〈高2〉1 名 電波源天体の研究 (沖縄県石垣市 国立天文台主催「美ら星研究探検隊」参加)

○ボランティア活動

2011 年3 月11 日の東日本大震災以降、生徒たちは様々な活動を行ってきた。大震災直後、高2 有志が銀座の秋田県アンテナショップの店頭に立ち、募金活動を始め、その活動を受け継いだ後輩たちが今でも現地へのボランティア活動を続けている。高1 総合学習でも、教員の指導の下、現地での活動を2011年度、2012 年度と行った。個別にボランティア活動を行っている生徒も多い。学校での授業だけでなく、このように社会に関心を持ち続ける生徒がいるということは、重要な価値である。

【山川賞と山本賞】

 第Ⅱ部第5 章で記したように、生徒の課外活動を奨励する目的で、理科的研究に対して山川健次郎第2 代校長を記念して山川賞が、文科的研究に対しては山本良吉第3 代校長を記念して山本賞が制定された。両賞は毎年選考の上で与えられるもので、1943(昭和18)年、山川黙校長の代に制定され、1947年に第1 回の受賞が行われた。第Ⅱ部第3 章でふれた通り、学制改革後も両賞は受け継がれ、1956 年、部としての応募を認めること、その年度の受賞件数を制限しないことなど、応募規程を弾力化し、該当するものがあるごとに授与されてきた。

 制定以後の受賞論文は2022年までに山川賞47編、山本賞26編、計73編に上る*。山川賞では、物理部、生物部、化学部、気象部、太陽観測部、山本賞では民族文化部、地理研究会などがクラブ活動での日頃の成果をまとめて受賞している。個人あるいは複数の共同研究で受賞している例も多く、その分野は多岐にわたっており、内容も高度で、英文の論文もある。

校外学習
【山上学校と海浜学校】

 学校行事としての林間・臨海学校は社会の安定に伴い、教育手段の一つとして広まっていった。その中で、山上・海浜学校は学校としての特色を盛り込み、時代の変遷の中で変貌を遂げてきた。戦中から戦後の混乱期にかけて中断されていた夏期山上学校・海浜学校の行事は、旧制創立当初から尋常科1・2 年生に対して実施されていた学校の伝統行事であり、日常の規律ある学校生活にも大きな効果をもたらすことから、その再開が新制発足当時から検討された。

 しかしながら、鵜原寮が利用不可能な状態であったため、山上学校だけが1949(昭和24)年、中学1 年生に対して有志参加で、翌1950 年には学年行事として軽井沢青山寮を使用して再開された。海浜学校は中学2 年生を対象に、1951 年は鵜原の旅館を借りて、1952 年は学校のプールで、1953 年は鵜原の東京学芸大学附属小学校の寮で実施され、さらに1954 年、中学2 年父母の協力を得て鵜原寮を復旧し、14 年間の空白に終止符を打って両夏期学校が完全に再開されるに至った。

○山上学校

 開校1 年目の1922(大正11)年に軽井沢で行われた夏期大学が、山上学校の始まりである。その頃の山上学校は午前中2~3 時間、通常の勉強をし、午後は野外に出て自然に触れ、その場所でなければできないことを行った。それは自然観察であったり、山を歩いたりであったようだ。机上の学問でなく、自分の経験を通して感じたこと、体験を通して学んだことを大切にする「本物教育」はいまでも受け継がれている。

 実施期間も最大で13 泊14 日、実施方法も2 期制で行われたり、全員参加の1 期制で行われたりした。その目的も、当初は山本良吉校長流の「躾教育」的な要素が強かったようだが、その後教師会の中でそのようなやり方に批判も出て、集団生活の中での社会性の養成という意味が強くなった。教育活動に占める夏期学校の意義を確認しながら、しかも絶対無事故を旗印に伝統行事を受け継いできた。それは教師全員にとって心労の多いことで、毎年その実施前後には真剣な討議が重ねられた。

 1980 年に軽井沢青山寮が廃寮になり、翌1981 年から新設の赤城青山寮が利用されるようになった。さらに1997 年度からの中学4 クラス化による生徒増に応じて、山上では3 泊4 日3 期制で、グループ活動を重視しての山歩きを主な活動目的とするようになった。赤城青山寮も建物の老朽化が進み、2011 年3 月11 日の東日本大震災でも大きな損傷を受けた。これを契機に山上学校のあり方自体を見直す機運も高まったが、赤城での山上学校の教育効果は高いとの判断に基づき、毎年必要な修理をしながら青山寮をしばらくは使い続けることとなった。2013 年と2014 年は寮の隣の青木旅館に宿泊して実施されたものの、2015 年からは宿泊と生活は青山寮、食事だけは青木旅館でという方式を取りながら、3 泊4 日2 期制の形で実施されている。

1922年 軽井沢で第1 回の山上学校(夏期大学)

1923年 長野県木崎湖畔

1924年~1925年 軽井沢(夏期大学)

1926年~1928年 日光 湯元

1929年 軽井沢(夏期大学)

1930年~1936年 日光 湯元

1937年~1940年 軽井沢青山寮

1941年 軽井沢(文部省の要求により途中で中止)

1942年~1943年 軽井沢青山寮(短期開催)

1944 年~1948年 中止

*1945年4~9 月、尋常科(旧制の7 年制高等学校で、下級4 年間の課程)2、3 年が軽井沢に動員(実質は疎開)、陸軍気象部の作業を行った。

1949年~1980年 軽井沢青山寮

*1956年度は6 泊7 日の2 期制という記録がある。

*1958 年度から8 泊9 日。1950 年代は、しばしば特別日課として乗馬もあった。

*1964 年度から7 泊8 日、1967年度から6 泊7 日。

*1979年度から2 期制で4 泊5 日。

*1980年12月赤城青山寮が竣工し、根津嘉一郎(2 代)理事長の厚志により学園に寄贈された。

1981年~現在 赤城青山寮

*1988年度から3 泊4 日。集合解散が前橋駅となった。

*1997 年 中学定員増4クラス化に伴い、3期制3泊4日となる。

*2015年 2 期制3 泊4 日となる。

*2020年 コロナ禍のため中止。

*2021年 コロナ禍のため4 期に分けて日帰りで実施。

*2022年 3 期制2 泊3 日、最終日と次期初日同日方式で実施。PCR検査陰性が参加条件。

○海浜学校

 海浜学校は1924(大正13)年、千葉県岩井(現・南房総市)の東京府立第四中学校の寮を借りて、尋常科2 年有志のために行ったのが最初である。当初「三理想」具現化のための教育の一環として行われたという記述が当時の「海浜学校要覧」にある。身体を鍛えることによって、自己を高めるという思想が全面に押し出されていたようである。

 実施期間も、最大で11 泊12 日、中2 全員で行っていた。実施に当たっては、この行事に賛同する教員が中心となり運営を行っていた。「要覧」に、「その他 校長、教頭、事務局長、校医、その他の諸先生は随時」という記述があるのが興味深い。

 1970 年、体育館、プールが竣工し、海浜学校は大きな方向転換の時期を迎えた。授業では後に大学プールとなる古いプールと新しいプールを並行して使えるようになった。 旧プールだけの時は長距離を泳ぐ力を身につけるのが海浜学校の課題であったが、二つのプールができて泳力が向上し、体育科の中ではわざわざ海浜学校を行う意味はないという見解も生まれた。しかし、人間同士の触れ合いを通じて生徒の人間形成に少なからぬ影響があるのではないか、それが全くないのならやめてしまえばいいという所に議論が収斂し、目標は新鮮なものに改め、生徒たちの活動に教師は協力していこうということで存続が決まった。

 1973 年には2 期制とし、一度に泳ぐ生徒数を半分にした。これにより、安全の確保を容易にし、さらに水上での安全教育という思想を中心に据え、長距離泳、潜水、サーフィンを取り入れた。そして海浜学校という行事を通し、行動を共にし、生徒一人ひとりが人間的成長を遂げることを目的とするものに変わってきた。1988 年に鵜原寮も改築され、さらに1997 年度からの中学4 クラス化による生徒増に応じて3 期制となり、1 期の日数も3 泊4日となった。

 海浜学校では、着衣泳を取り入れた海上安全教育を骨格とするなど運営形態も工夫された。安全対策にも細心の注意を払い、泳いでいる生徒の周りに多くの船が付き、体育科、助教、教員で泳ぎに自信のある者が伴泳し、万が一にも事故が起こらない体制を取った。2011 年3 月11 日の東日本大震災以後、安全対策にはさらに力を入れた。津波の危険性が叫ばれ、多くの学校が臨海学校を廃止して新たな行事へと転換して行く中、武蔵は一時的に行事を中止したものの、海浜学校存続の道を選んだ。

 一方、3 期制により総日数が大幅に増えたことによる影響は看過できないものとなっていた。体育科、組主任はほぼ2 週間以上にわたり、寮に泊まり込むことになるが、これは社会の変化の中で、子育てや介護が必要な身内を抱える教員にとっては大きな負担であった。さらに、サポート艇の船頭さんの高齢化や、助教など外部スタッフの確保が年々難しくなるなど、課題は山積であった。

 海浜学校を取り巻く状況が厳しさを増す中、2015 年には鵜原寮付近一帯が勝浦市より土砂崩れの心配がある危険区域に指定されてしまい、鵜原寮の使用が不可能となった。同年からは他校の寮を借りながら継続実施したものの、海浜学校の時期の設定に大きな制約が生じてしまうため、この形での実施は困難となり、2018年を最後に海浜学校は廃止された。

 その頃校内では、有志教員による校外学習ワーキンググループが立ち上げられ、新しい校外学習のあり方が模索されていた。地域社会に目を向け、自然と共存する農村で生活する体験は、これからのグローバル社会を担う生徒たちには必須であるということが議論された。検討の末、群馬県みなかみ町での民泊実習が海浜学校に代わる中学2 年の校外学習として行われることが決まり、2019年に開始された。

1924年 開校2 年後、千葉県岩井の府立第四中学校の寄宿舎を借りて、尋常科2 年有志のために海浜学校を開いた。

1927年 同県興津(勝浦市)において開設。

*学校寮所有の必要性が痛感された。

1928年 当時の保護者の尽力により、7 月に鵜原寮が竣工(7 月16 日)。この時以来、この地で海浜学校が行われるようになった。

1938年 赤痢流行のため海浜学校中止。翌年再開。1940 年まで開かれた。

1941年 7 月、文部省から中止の通達を受け、3 日目で中止。その間、軍の使用もあった。

1951年 鵜原館の一部を借用して戦後初の第1 回海浜学校を開いた。この時は有志のみ参加。

1952年 鵜原寮の復興を計画したが間に合わず、プールで練習。

1953年 東京学芸大附属小学校の寮(至楽荘)を借り実施。

1954年 4 月、中2 保護者の協力を得て、寮の修理に着工。7月、復旧工事完成。7月中旬から2 期に分け海浜学校を開いた。

1956年 8 泊9 日で行われ、午前中50 分の学習時間、夜は講話が行われた。

1957年 父兄会の厚意により食堂を増設。収容能力が増大したので、1954 年度から2 期に分けて行っていたのをこの年から1 期で行うこととなった。

*この年から11泊12日。午前中45分の学習時間もあった。

*1961年度から10泊11日、1962年度から1968年度は9 泊10日、

1969年度から1971年度は6 泊7 日。

1972年 台風のため3 泊4 日で帰京。

1973年 2 期に分け、潜水と波乗りの課程を加えた。4 泊5 日で行われた。

*1990 年まで、父兄参観を許可していたとの記録がある。海浜学校開学当時は寮内にも希望する保護者を泊めていた。

1992年 着衣泳の課程を加えた。

1998年 中学定員増に伴い、3 泊4 日の3 期制に。

2011年 3 月11 日の東日本大震災の影響で中止。津波が起こる可能性は低かったが、決定時の5 月頃はまだ世間的にも実施できる雰囲気ではなかった。

2012年 海浜学校再開。3 泊4 日、3 期(2014 年前期は台風のため1 日短縮)。

2015年 鵜原寮が危険区域指定で使用不可に。東京学芸大附属小金井小学校の至楽荘を借りて実施。3 泊4 日、2 期としたが後期は台風で中止。

2016~2018年 3 泊4 日、2 期。至楽荘を借りて実施。

2018年 この年を最後に海浜学校は廃止。

2019年 中学2 年の校外学習としてみなかみ町民泊実習開始。

【地学巡検】

 戦前、旧制高校の理科1 年次に、必修科目「地質鉱物」の中で、秩父・浅間山・日光・足尾方面の地質(鵜原寮完成以降は鵜原の地質)などを対象として、秋に1 週間程度の野外実習が「地質旅行」として行われていた。

 戦後、科目として「地学」は存在したものの、しばらくは「地学」に関する野外実習は特には実施されなかった。しかし、理科教育における野外実習の重要性が、旧制時代からの武蔵の伝統として強く認識されていたため、1964(昭和39)年に必修科目として「地学」が再開されたのを機に、地学巡検が行われるようになった。当初は不定期に希望者のみで実施されたが、1967 年頃から高校1 年生を対象に、全員参加で巡検が行われるようになった。その後、1973年から「地学」の学習が中学2 年に移行され、2000年からは中学1 年に「地学」の地質分野が移行されるのに伴い、巡検が行われる学年も変更された。巡検先は日帰りの行程で秩父長瀞方面、箱根方面、筑波方面で行われることが多く、地学授業の担当者により選定されたが、1997 年度からは、箱根方面での巡検が恒例となっている。2008年度より中学1 年の科目「科学B」のなかで地質分野を扱うことになり、箱根火山の地形観察を中心に、「神奈川県立生命の星・地球博物館」の見学などが、引き続き地学巡検として行われている。

地学巡検 箱根
【天文実習】

 1 学年の生徒全員が参加する天文分野の実習は、おそらく1993(平成5)年、中学1 年「物理」の中で行われた「渋谷・五島プラネタリウム」見学が初めてであろう。この実習は1997年まで続いたが、生徒が近隣のプラネタリウム施設へ赴く容易さと、「本物・実物に触れる」という教科教育の理念と「投影された天体の観察」との整合性を再検討した結果、同年をもって廃止された。

 その後1999年、中学1 年に対して「県立ぐんま天文台」を利用した最初の「天文実習」が1 泊2 日で行われた。大小の望遠鏡利用と屋内外の展示見学といった、天文台設備を存分に利用した内容であった。翌2000 年はカリキュラム移行期につき実施しなかったが、2001年から中学2 年「地学」に改め、清里高原の「山梨県立八ヶ岳少年自然の家」を利用して1 泊2 日で行われた。実習内容も、生徒一人ひとりが望遠鏡を操作し、本物の天体に触れる直接体験をより重視した内容に組み直された。この年以降、実習のために追尾機能付の小型屈折赤道儀式天体望遠鏡、天体観測用双眼鏡を多数揃えていった。

 2004 年までは、天文学者を招いての講演会と、同施設に程近い「国立天文台野辺山宇宙電波観測所」の見学も内容に組み入れられた。2005、2006 年は現地改修工事のため「茨城県立さしま少年自然の家」に開催地を移し、天文台見学を除いた内容で行われた。その後は再びカリキュラム改定を挟み、2008 年より中学3 年「物理」で、また2010年からは中学3 年「科学A」の中で行っている。2008 年以降は清里の施設を利用することで定着し、より多くの種類の天体が観測できる11 月の下弦~新月の時期に開催している。現在の実習は、グループワークを中心として、天文学や幾何光学の知識をもとに生徒自らが観測計画を立案し、氷点下の寒空の下、天体観測に挑んでいる。

【スキー教室】
スキー教室
中1 山上学校 荒山高原での昼食
中2 海浜学校
校友会活動
【生徒の活動と教師】

 生徒の活動の母体は全生徒教員からなる校友会であり、新制においては1951(昭和26)年以来、中高一体の組織として日常の部活動や学校行事の運営を行ってきた。

 武蔵では、伝統的に生徒の自主的な活動を尊重してきた。学校行事としての記念祭・体育祭・強歩大会は、生徒の代表による運営を、それぞれの顧問教師が表からはよく見えないところで支えて成り立っている。部活動も、運動部・文化部ともそれぞれの特色を生かし多彩である。

 1979年、同窓会の主催でホームカミングディが設けられた。運動部を中心に一部の文化部も参加して、各部のOBが秋の一日に母校を訪れ、現役部員と交歓の場を持ち、相互の親睦を深めている。多くの部活動において、卒業生がコーチとして指導に加わり、顧問教師と一体となって生徒の指導に当たっている。文化部の活動も盛んで、記念祭での発表を中心に、部によっては共同研究により、山川賞・山本賞に応募し、受賞するところもある。音楽部は記念祭での演奏以外にも、秋には練馬文化センターでの定期演奏会も恒例化している。

 かつて、長野県白馬村で稲作を行ったり、校内で鶏を飼うなどした「豊作会」という生徒の自主的な活動があった。これがやがて家庭科の実習、さらには総合講座の下地になった。その流れを汲んで、2011 年秋、数学科の田中洋一教諭の骨折りで、総合講座「やぎの研究」が開講された。ペットとは異なり、野生の感じられる動物の命と向き合い、“ 逞しく生きる力” に触れる事で、生徒たちにとって貴重な体験の数々をさせようというものである。また、同時に、総合講座の履修者のみならず、学園全体の教職員・生徒・学生にとっての和やかな空間も作り出しており、一面において武蔵の教育を象徴するものとなりつつある。

【クラブ活動】

 学校が家庭に次いで居心地の良い情動の交流空間であるようにとの配慮は、学校を取り巻く環境の悪化とともに、ますます強く望まれるところである。しかし1970(昭和45)年に高校中学校舎、体育館、プール等の整備が完了するまでは、大学と高校中学とが、限られた施設を共同使用するといった不自由な状態であった。にもかかわらず生徒の課外活動は、運動部、文化部、同好会、愛好会が、それぞれ消長はありながら活発に着実な歩みを続けてきた。最近20年の活動の概要は以下の通りである。

 高校運動部は全国優勝やそれに匹敵するような成果こそ見られないものの、サッカー部は都ベスト20 以上、バスケットボール部は都ベスト32 以上、野球部は西東京ベスト32 以上、水泳部は関東ベスト8、バレーボール部は都ベスト32 以上をそれぞれ何度も達成している。また、卓球、硬式テニス、軟式テニス、陸上競技、剣道の各部ではしばしば個人戦、シングルス、ダブルス、団体戦で優れた成績を上げている。山岳部や合気道部も着実に活動を行っている。このように、勉学と部活動の両立を実践する伝

統を守り続けている。

 文化部も高水準の活躍を見せている。将棋部は高校選手権団体2 位、関東高校リーグ準優勝、高校個人戦全国優勝を、ジャグリング部は日本高校生ジャグリング大会優勝、世界ジャグリング大会優勝などの成績を収めている。その他目立ったものとしては、中学水球の全国中学選抜、硬式テニス部の東京都ジュニアテニスチャンピオンシップ「小・中学生の部」優勝、中学卓球部、サッカー部、バレーボール部、野球部の練馬区大会優勝がある。文化部の中では、太陽観測部が2005年3 月、「75 年にわたる太陽面の継続観測」に対して、日本天文学会から天文功労賞を授与され、化学部が「科学論文コンクール」の優秀賞など幾つかの賞を受賞し、ESSがインターハイドラマフェスティバルで優勝している。

高1 総合講座「やぎの研究」。2011年度に開講し、翌年度から他学年の生徒も受講している。
学校行事
【記念祭】

 新制発足後の数年間は、高校中学と大学合同の記念祭が行われた。しかし1954(昭和29)年に至り両者は分離し、高中独自の記念祭が始められた。創立記念日の4 月17 日には、毎年、卒業生による記念講演が慣例となり、記念祭はそれに続く土曜・日曜に行われた。しかし、1970 年代以後は、準備の関係もあって4 月下旬の休日にかけて開催されるのが慣例となった。なお、4 月17日の記念講演は2002年度以降行われていない。

 1990 年代の中頃からは、生徒・教師合同での書道展、高1 家庭科から発展した高1 生徒による総合講座の研究発表も加わり、内容が多様化した。ここ数年、高中食堂と大学生協食堂の営業により、模擬店や飲食団体は減少傾向にあるが、一方、武蔵グッズの販売や、バザー、縁日・駄菓子は好評を得て続けられている。また、奇術部やジャグリング部などをはじめ、理科・社会系の部活動団体も毎年充実した活動報告を行っている。

 記念祭の歴史は、一面で生徒側と教師側との団交の歴史であるといえる。毎年繰り返される、互いに開催期間と日程とを主張し合う戦いの場であった。しかし、過去35 年間の記念祭開催日程を見ると、すべて4 月23 日から5 月1 日までの金曜~火曜日のうち、3 日間での開催となっている。毎年、ほぼ結論は出ていた状況ではあったが、交渉過程での議論に意味があった。何のための記念祭か、その目標と意義とをじっくり検討した上で開催期間を考えるという、いかにも武蔵らしい伝統が長く続いている。

 だが、2011 年3 月11 日の東日本大震災によって記念祭は中止を迫られた。相次ぐ余震の中で4 月の開催は見送られ、その後小委員会スタッフと教師側とで数度に及ぶ協議と交渉の結果、第89 回記念祭は6 月の2 日間で縮小開催とする異例の決定に至った。ただし、避難訓練を実施し、警備員を増員して避難誘導体制を万全とする等の条件付き開催であった。以後、再び3 日間開催に戻ったが、1 日目を半日準備で半日内部公開の日とする方法などの試行錯誤を経た後、2 日間開催へと移行し、それが定着した。生徒・教師の疲弊、意義や内容の程度、モチベーションの維持などの問題に対して、教師側からの提案と生徒側の希望が一致する形で解決が図られた。

 開催日数が縮小されても、小委員会スタッフや部活動団体においては、生徒を主体とする組織がよく機能するなど、「生徒による生徒のための記念祭」は、なおも武蔵の良き伝統として受け継がれている。

【体育祭】

 1954(昭和29)年以来行われている2 日制の体育祭が、現在も続いている。第1 日が球技大会、第2 日が団体競技(いわゆる運動会)という形も変わっていない。ただ、中学・高校がともに4クラスになったことにより、球技大会も団体競技もクラス対抗形式になった。中1~高3 までの生徒がクラス毎に同じ色のTシャツを着用し、競技に熱中し、得点を競い合う。生徒の気質の変化によるものか、21 世紀に入った頃より競技に取り組む生徒の姿勢に盛り上がりが見られるようになり、白熱した体育祭が今日まで続いている。

【強歩大会】

 当初は学校から野火止の平林寺までの往復35kmで、随所に武蔵野の面影の残るコースであった。その後、郊外の発展に伴い急速な都市化が進み、交通量の増大や環境の悪化にコース変更を余儀なくされた。より安全な場所を求めて、多摩湖・狭山湖畔に移り、さらに1973(昭和48)年からは飯能周辺で開催されることが多くなった。この頃からコースに遊歩道や山道が多くなり、距離は30km以下に短縮した。また、期日も1975 年以降交通量の少ない1 月15 日の成人の日に定着していたが、成人の日の変更に伴い、現在は2 月の第2 日曜日に行われている。実施場所は、その後神奈川県の横浜ベイエリアや港北ニュータウン、相模湖周辺や湘南平、ひいては名所旧跡地の鎌倉・逗子方面まで足を延ばすようになった。ここ数年は大宮・浦和方面でも実施している。そのときの小委員会が工夫を凝らしたコース選定を行っており、それが毎年の楽しみとなっている。さらに留学生の受け入れ時期と重なり、中国や韓国からの留学生も参加するようになった。

 計画から準備運営まで強歩大会小委員会がほとんど自主的に行い、夏休みからコースの選定が始まり、外部との交渉、下見などの準備は、安全面を最優先に献身的な努力がなされている。例年、体育科が顧問を担当し、アドバイスやサポートをしているが、第31回大会(1987.1.15)では社会科が、第50回記念大会(2006.2.12)では数学科を中心とする有志がそれぞれ担当した。

第88 回記念祭の様子
体育祭
強歩大会
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