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宮本和吉―誠実で生真面目な哲学者(通堂あゆみ)
山本良吉「と」武蔵学園(その2)―〈建学の三理想〉の系譜学―:山本没後―戦後の顕彰的語りと大坪秀二の学園史研究(吉川弘晃)
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旧制武蔵高等学校最後の校長であり、新学制移行後の高等学校校長および新設の武蔵大学学長を務めたのが哲学者宮本和吉である。第8 代校長(任:1975 年4 月~1987 年3 月)の大坪秀二先生(以下、敬称略)は「旧制武蔵高等学校校務記録抄解題2(1942年9 月~1949年3月)」において次のように述べている。
昭和22 年12 月、法人は安倍能成・田中耕太郎・天野貞祐・和辻哲郎の四氏を武蔵高等学校相談役(当時の仮称)に委嘱、年を越して23 年2 月、この四氏を評議員に選任した。田中氏については不詳であるが、他の三氏は宮本校長と親交があり、また、四氏とも戦中は自由主義思想の持主として政府筋からはマークされ、戦後は新時代のオピニオンリーダーとして、また和辻氏以外の三氏が文部大臣をつとめる*1 等、脚光を浴びた人びとであった。この四氏を評議員に迎えたについては、宮本校長を中心とする学校側に、新学制に臨んで大学設置へと法人内部の意志を方向付けるねらいがあったことだろう*2。
大坪は「宮本和吉学長・校長訓話抄解題」においては、次のようにさらに踏み込んで評している。
この発足のドラマの中で宮本が果たした役割は、時を隔てれば隔てるほど大きく感じられるように思う。ごく率直に評すれば宮本という人はいわゆる政治力とほとんど無縁な人であったと思う。それが、根津財団の長老、創立間もない頃の一部同窓生たち、一部古参の教授たちという反対勢力と、現職教授の多数、必ずしも全員ではない父兄・生徒たちの要望・激励の狭間でもみくちゃにされながら、最後まで粘り通して設置認可に漕ぎ着けた。おそらく、宮本の誠実そのものの人柄と、東北人らしい粘り強さとが、反対の立場の人からもある種の好感を持たれたのであろう*3。
後述するように、宮本は新制移行期において大きな役割を果たしたにも関わらず、任期をまっとうすることなく学園を去ることとなった。本稿では宮本の個人史を追いながら、その生真面目な性格としごとぶりを紹介することに努めたい。
宮本は1883(明治16)年、山形県東田川郡に生まれた。庄内中学校を卒業すると一年間の小学校代用教員経験を経て上京し、1903年9 月に第一高等学校一部(法学部・文学部進学)に入学した。同級には鶴見祐輔が、上級生には安倍能成(ただし安倍は留年したため、二年次より宮本と同級)や小宮豊隆、上野直昭らが在籍していた。寮では三部(医学部進学)の上級生・斎藤茂吉と同室であったという。1906 年9 月に東京帝国大学に進学、文学部に在籍して哲学を専攻し、卒業論文のテーマはカント哲学であった。1916年まで大学院に籍を置き、研究の傍ら文筆活動や雑誌編集に従事しながらなんとか生計を立てていたという。「その頃は大学を出ても就職が難かしく、特に哲学専攻の者はひどかった*4」と自身の経験を振りかえっているが、これはのちに宮本が教員となり学生を教える側になっても事情は変わらなかった。
宮本が最も長く教鞭を執ったのは、当時日本の統治下にあった朝鮮半島に設立されていた京城帝国大学*5 である。1927 年に44 歳で教授として着任し、以後定年までの17 年間を朝鮮で過ごした。新制武蔵大学の設立、とくに経済学部教員のリクルートにあたっては、宮本の哲学関係の人脈や、京城帝国大学時代の人脈が大きな役割を果たすのであるが、ここではまず宮本の教職歴を追いながら、人柄の紹介に努めたい。
先にも紹介したように、宮本は中学卒業後に山形県飽海郡の松嶺小学校(現在の酒田市松山町にあたる)で代用教員を努めている。代用教員となったのは家庭の都合ででもあったのか、中学卒業から高等学校入学まで2 年ほど学籍のない時期がある。高等学校で出会って以来、宮本と親しく付き合い、のちには義理の兄弟ともなる同年生まれの安倍能成も経済的事情から松山中学校卒業後にそのまま助教諭心得兼書記として同校で英語や国文を教えた経験を持つ。お互いの似た境遇が両者をより惹きつけたのであろうか。
高等教育機関での教育経験としては1912年に東京農業大学での英語講師が最初で、1917年には天台宗大学(現在の大正大学の前身のひとつ)、翌18 年には東洋大学で講師として哲学の授業を担当している。こうした講師経験を経て、八田三喜の勧め*6 で1920 年7 月に新潟高等学校に教授として赴任した。前年に開校したばかりの新潟高等学校で宮本は着任当初より哲学科主任を務め、哲学のほか科学概論やドイツ語の授業も担当*7 したようであるが、1923 年から25 年までの2 年間は在外研究に出かけている。1920 年から27年4 月まで新潟高等学校に教授として在籍したものの、実際に授業を受け持ったのは5 年ほどであった。
宮本の在外研究は文部省の制度を利用したものであった。当時、文部省直轄学校の教官は旅費や学資の支給を受けることのできる在外研究制度*8 があり、宮本もこれにより哲学研究のため、ドイツ(ハイデルブルク、フライブルク)で学んだ。在留期間は1 年半とされていたが、私費で4 ヶ月の滞在延長を行っている*9。新カント派を中心に学び、ハイデルブルクではリッケルト(Heinrich JohnRickert)やヘリゲル(Eugen Herrigel)から講義を受け、私的な交際ももっていた。フライブルクではフッサール(Edmund GustavAlbrecht Husserl)に学んでいる。
ハイデルブルクでは天野貞祐とともに学んだ。宮本は「天野君と一緒にハイデルに居ることは、今の僕には随分愉快なことだ。二人とも高校の教師をして来た。二人は今、一緒に純粋の哲学(認識論、形而上学)の根本問題をやろうという熱意に燃えている。この事を二人はいくら語っても語り尽くせないのだ*10」と、学問だけに専念できること、天野と学べる喜びを表している。もともと研究上の知り合いではあったが、宮本と天野が親しくなったのはこの留学中であったという*11。
戦前期のアカデミック・キャリアにおいては、大学助教授から教授への昇進に際して海外留学が組み込まれる傾向*12 があったが、宮本の場合は具体的な異動を前提とする留学ではなかったようで、「自分が大学の教授になる予定のないことが、どのくらい自分の研究態度を自由にしているかわからない。ここで自分は、講義の原稿の事はぜんぜん念慮の外において、全く自由に自分の好きなことがやれる。ここに来て本当に哲学が面白くなったことを感じる。嬉しさに堪えぬ」(1924 年2 月18 日の日記*13)との記述が見られる。研究に専念できる環境を喜ぶ一方で、「[引用者補:勤め先を尋ねられて]高等学校の教授だと自分でいうことは、殊に外国人の前にいうことは、実は自分の好まぬところだ。まだこんなところに自分の虚栄心があるのが悲しい」(1924 年3 月4 日)との本音も漏らしている。宮本が「二人とも高校の教師をしてきた」との仲間意識を表していた天野貞祐は、第七高等学校教授として5 年ほど教鞭をとったのちに学習院へ移っており、留学時の職位は学習院教授であったが、これは高等学校教授に相当するものであった。
とはいえ宮本に功を焦るようなことはなく、「いい位地とか名誉とかは、それに相応すべき実力が伴ってはじめて価値がある。(中略)哲学とか文学とかいうようなものは、ただ時間をかけてそれで掴まれるものではない。新しい直観がなければ、新しい思いつきがなければとても何も書けるものではない。但し一度その思いつきを得たならば、其所から道は容易に開けて行くであろう」(1924 年6 月20 日)、「正直のところ私は学者としてはまだまだ一人前の資格がない。今迄の翻訳的事業*14 によって金を多少取ったけれども、しかし本当の学者の仕事ではないのみならず、寧ろ学者の体面をけがすようなものだった。私はこれから本当の学問的良心によって仕事(論文)をする。論文を書いてみる」(1924年8 月2 日)、などと、その態度は謙虚かつ誠実なものであった。
大学教授への“ キャリアアップ” については友人らの配慮もあり、留学中には京城帝国大学への就職話がほぼまとまったらしい。とくに安倍能成、田辺元の骨折りがあったらしいことが宮本の日記の端々からうかがえるほか、安倍も宮本の異動について新潟高等学校の八田三喜と交渉したことを自身の記録に残している*15。なお、宮本・安倍・田辺はそれぞれ姻戚関係にある。宮本の妻・せつ子は安倍能成の妹であり、安倍の妻・恭子(「巌頭之感」で知られる藤村操の妹)と田辺の妻・千代は従姉妹同士であった。
宮本はそれまで朝鮮に縁があったわけでもなく、京城帝国大学への赴任は必ずしも意に沿うものではなかった*16 ようであるが、1925 年11 月に留学から戻り、1927 年4 月5日に教授として京城帝国大学法文学部に着任し、6 月2 日付で哲学・哲学史第二講座を担当した。なお、哲学・哲学史第一講座を担当していたのが安倍能成である*17。ほかにも上野直昭(美学・美術史第一講座担当)や速水滉(心理学第一講座担当)といった岩波哲学叢書の執筆者の幾人かが京城帝国大学に赴任しており、哲学系の研究・教育環境が手厚く整えられていた*18。当時朝鮮で刊行された雑誌記事には「[引用者補:哲学科は]教授の質から言つても或は講座及び研究室の設備から見ても城大創立当時の金看板とまで言はれてゐた位で、城大学内の勢力は勿論哲学科に集まつてゐたと言つても差し支へないのである*19」とまで記されている。
ただ、京城帝国大学法文学部において哲学科は学生の志望率は極めて低かった。冒頭で宮本自身が哲学科の就職難について述べた一文を紹介したが、おそらく他帝大でも時期を問わず状況は似たり寄ったりであったと考えられる。法科系学科の人気が圧倒的に高く、哲学を専攻する者は少なかったようであるが、それでも講義としては宮本の哲学概論の人気は高かったようで、次のような記事が確認できる。
哲学概論は安倍教授と宮本教授とが大体二箇年宛位の割で交代に受け持つてゐるのであるが、宮本教授の概論の場合には毎年教室が満員になつてゐるやうだ。又、城大法文学部に於いては教壇に接近した席を占める為に格別学生間に席取りの競争も行はれないのが普通であるが、若しさうした例があるとすれば宮本教授の哲学概論の講義の場合が僅かに唯一の例外なのだ。教壇に最も近い最前列の席に坐る為めには学生は少なくとも講義の始まる二十分位前に教室に這入つてゐなくてはならないのである*20。
同文章の別箇所では「[引用者補:安倍能成はジャーナリズム的で知名度が高いが]宮本教授は教室から一歩も外に出ない、純学徒的である」と評価されており、また「氏は学生とはよく討論したりするさうだが、平常は笑顔一つ見せない謹厳そのものゝの人である。一見保守家と考へ易いのであるが、新しい哲学上の学説では宮本教授が城大では第一人者である。(中略)氏も学生からは非常に尊敬されてゐる*21」との評判も雑誌記事から確認できる。初見には近づきがたい印象を与える人物であったようであるが、学問的に極めて熱心かつ禁欲的な姿勢は学生たちの尊敬をあつめていたらしい。
戦後、福岡大学教授となった国文学者の狩野満は宮本の授業の思い出を次のように記している。
二年生の時だったと思うが、わたしは宮本和吉教授の哲学概論を聞いた。まことに古い話で、昭和十年のことである。単位を取るつもりではなく、誘われて傍聴に出かけたのが最初であった。学生用語にいわゆる「ひやかし」である。が、傍聴はいつか傍聴でなくなって、かなり分厚いノートをのこすことになった。フッセル[原文ママ。引用者補:フッサール]の現象学を講じて、先生の声は静かできびしかった。
大学教授とはかくもあるべきものか、初めは驚嘆した。その驚嘆が尊敬に変る[原文ママ]ころ、わたしはもう傍聴者ではなくなっていた。(中略)
在学中も、卒業後も、わたしは先生と個人的に接したことが無い。一言の口をきくことすら無くて、教室で先生を見まもっていただけである。仮にいえば、完全な片思いであった。この先生こそは大学教授の典型であると信じて、先生の全部を学ぼうと思った。どんな小さなことでも、先生に関する一切を学ばねばならないと思った*22。
定年で退官するまで哲学・哲学史第二講座を担当した宮本のもとで学んだ学生は三十数名にすぎず(哲学科でも100名程度)、またその九割までが朝鮮人学生であったと宮本自身の戦後の記述*23 で確認できるが、文章を引用した狩野のように講義で宮本に接した学生数は、もちろんこの数字よりもはるかに多くなるであろう。
自身の研究については京城帝国大学在職中に「カント哲学ニ於ケル意識ト対象―先験的統覚ヲ中心トシテ」を東京帝国大学に提出し、1937年に博士学位を取得している。
武蔵学園にとっては、学問的業績はもちろんのこと、宮本が京城帝国大学で知り合った専門外の人脈がより重要な意味を持つ。武蔵大学が設立されたころは、新学制のもと大学の創設が相次ぎ、教員スタッフをいかに確保するかがどの大学でも問題となっていたという。武蔵大学では、宮本和吉の京城帝国大学時代の同僚である鈴木武雄を「五顧の礼*24」により招請することにより、鈴木の人脈で多くの有力な教員を集めることができたのである。鈴木については別稿「鈴木武雄―武蔵大学経済学部の生みの親」を参照されたい。
1944 年3 月に京城帝国大学教授として定年を迎えた宮本は、翌々年の1946 年2 月に旧制武蔵高等学校校長に就任した。明石照男監事の推薦によるものであったという。定年後は早々に家族のいる鎌倉の自宅に戻っているが、終戦前後や校長着任までの時期をどう過ごしていたのかは不明である。
ドイツ留学中の日記には、学者として大学に職を得ることを希望しつつも不透明な自身の将来への不安を率直に綴っているが、その中には次のような記述もある。
私の位地のことで田辺君[引用者補:田辺元]などは実は一番心配をしてくれているのであろう。しかし私はまだ学者としての立派な仕事[引用者補:下線部は原文では傍点]はないから、たとい心の中では私に同情をしていても、責任をもって推薦することは田辺君の良心が許さないのであろう。田辺くんのこの良心に対して、私はひそかに敬意を表している。しかし私の性格の他面―例えば高等学校長というような教育的方面―を他の友人は見ているのだ。波多野先生[同:波多野精一]などもこの方面に私の長所を認めているのだ。(私自らもこの方面に於て相当にやって行けるとは思っている。しかしこの頃では教育を一生の事業としてやる気は更にない。)それで、宮本は学問よりも教育者がよいということを波多野先生あたりが言うのであろう*25。
この時点では宮本はあくまでも大学への就職が理想であったようであるが、周囲の人々は宮本が「例えば高等学校長というような教育的方面」にも充分才覚があることを承知していたのである。京城帝国大学で学生から尊敬を集める学者としての生活を送ったのち、つぎにはこの教育的方面の長所を加えて、武蔵高等学校・新制武蔵大学で宮本は誠実に努めを果たしていくことになる。ここからは「宮本和吉学長・校長訓話抄 昭和21年~31年」(武蔵学園記念室編『武蔵学園史年報』10、2004年)および大坪が付した解題によりながら、武蔵学園における宮本のはたらきを整理して紹介したい。
そもそも宮本がなぜ武蔵高等学校校長として推薦されたのか、その背景はつまびらかではないが、宮本自身は知人の息子たちが通う学校として武蔵高等学校を認識していた。これについては生徒向け、教職員向けいずれにおいても着任挨拶でも言及している。そこでは個人名は挙げられていないが、本稿冒頭で紹介した武蔵高等学校相談役を委嘱された人びとのなかにも該当者を見いだすことができる。安倍能成の次男・浩二は8 期理科(1936年3 月卒)であること、和辻哲郎の長男・夏彦は14 期文科(1942 年3 月卒。新制武蔵学校教諭として1949 年4 月から1966 年3 月まで在職)であることが確認できる*26。
とはいえ、直接は縁のなかったであろう学校に赴任するにあたり、宮本は熱心に武蔵について「勉強」したらしい。大坪は「着任から一ヶ月の間に宮本は、山本良吉元校長の修身書などに目を通し、また前時代のことどもを、しかるべき人を通じて聴取したと思われる」と延べ、着任当初の訓話において「山本イズム」への賞賛がうかがえることを指摘している。後述するように、やがて「山本イズム」からは距離を取るようになるが、中学高校入学式訓辞における「三理想」への言及は在職期間中を通して確認できるという。旧制期に成立した三理想は戦前期の価値観を背景にした部分もあり、「多少の抵抗感なしには受け入れにくい*27」ところがある。終戦時の校長は山川黙(在任1942年7 月~1946年2 月 ※1942年8 月までは校長事務取扱)であったが「山川黙前校長はこうした注釈をする遑もなく職を去ったから、三理想を補強する仕事は宮本校長の仕事となった*28」のである。
三理想の補強以上に宮本が引き受けなければならなかった大仕事が旧制から新制への移行である。戦後の高等教育制度改革により、1947 年3 月には教育基本法・学校教育法が公布され、従来の大学や専門学校、高等学校は新制度への移行や昇格といった対応が求められた*29。旧制官公立高等学校高等科は旧制大学とともに新制大学を構成する一部として統合されたが、私立七年制高等学校であった武蔵高等学校高等科・尋常科においては新制への移行にあたり、高等科を中心に大学に昇格を果たして新制の大学・高等学校とするのか、尋常科に相当する新制中学校まで含めた再編とするのか、大学昇格を見送り高等学校・中学校のみの設置とするのかなどが多様な議論を抱えることとなった*30。十分な記録が残されているわけではないが、各種資料に基づいて新制武蔵大学設置までの経緯が大坪により「武蔵大学設置に至る経過(昭和21年3 月20日~24年2 月21日)」として整理されている(『武蔵学園史年報』2、1996年に収録)。東京連合大学案(「カレッジ構想」)を含め、詳しい説明はそちらに譲り、ここでは宮本が巻き込まれることになった移行をめぐる「対立」を確認するにとどめたい。
冒頭で紹介したように、新制への移行にあたり、高等学校や財団法人当局には昇格すなわち旧制高等学校高等科を母体とする新制大学の設置が早くから意識されていたようである。一方で1948年4 月13日の理事会では「財団トシテハ大学昇格後ノ自信ナキニ付キ、教授会一致ノ決議ニテ昇格スルトセバ学校側及父兄会、校友会[同窓会のこと]三者一体トナリテ、将来ノ経営ヲセラレタシ。此場合ハ財団トシテ学校経営ニハ参加セズトノ事ニ一致セリ」との姿勢を明らかにしていた。宮本はこうした財団法人側と高等学校側との間で調整に奔走することとなる。
新制武蔵高等学校が発足した1948 年4 月には内田泉之助、加納秀夫、三木孝、鎌田都助、中村幸四郎、森愈の各教授からなる「学校運営対策委員会」が設置され、翌月には新制大学への文科・理科・教養学科すなわち文理学部を開設する案が臨時教授会で報告されている。しかし法人側は経営上の問題、すなわち十分に学生を集められるのかどうかという点からこの案に難色を示し、7~8 月にかけて高等学校内では宮本校長が再提議を提案して大学設置案の再調整が進められることとなる。おそらく法人側が経済学部設置案を出したことをうけ、高等学校側は父兄会委員会ともはかり、「武蔵高等学校転換案」を8 月16日に教授会で裁決し理事会に報告している。武蔵高等学校転換案の内容は、「武蔵大学」に大学部・高等部・中等部を置き、大学部は経営科学部(仮称)一学部を設置して「過去に於いて高商高工の授けた程度の知識を高校的雰囲気の下に与へ、広汎な教養を有する有能な実務家を社会に送り出す」ことを趣旨としていた。大学部を2 年ずつの教養部・専門部とすることで、前半2 年の教養部に高等学校側が提案した旧制高等科を母体としうる文理学部的な側面を残そうとしたものと考えられる。
8 月18 日に理事会で「申請手続校長一任ス」として新制大学設置が決議された。これをうけ、宮本校長のもとで文部省へ提出する書類作成が大急ぎで進められ、20日には「武蔵大学設置認可申請書」が提出されたのである。9 月には宮本の紹介で新設大学の学部長に就任することとなった鈴木武雄も合流して大学設置の実務が進められ、11 月20 日にはさらに「武蔵大学設置認可申請書補遺」を提出した。年が明けて1 月には更に修正を加えた「武蔵大学設置認可申請修正書」により設置されるのは経済学部経済学科と変更されたが、1949 年2 月21 日には新制大学として設置認可を受けることができたのである。
新制武蔵大学の設置は決まったが、高等学校側が提案した文理学部ではなく経済学部のみの単科大学としてスタートしたことには、しこりが残った。教育社会学者の天野郁夫は「[引用者補:武蔵高等学校の]教授会側が文理学部案にこだわったのは、国公立の高等学校の多くが、地方国立大学の文理大学や人文学部、文学部、理学部等に転換したことからすれば当然であり、また教員の大多数が新学部に移行することが可能*31」であったと述べている。経済学部開設のためには新たに適任者を採用しなければならなかった。別稿*32でも紹介したように、新制大学の創設が相次ぐ時期に武蔵大学が教員を集められたのは宮本の紹介で鈴木武雄を学部長候補として招いており、鈴木の人脈を利用することができたためであった。この点においても宮本の功績は小さくないといえようが、新制武蔵大学で教養科目を担当することとなった高等学校教授のなかには不満を募らせ、あるいは他大学へ移籍した者もいたのである*33。そもそも、新制大学の設置に反対するうごきが現職関係者のみならず卒業生のなかからもおこっていた。このため1948 年6 月20 日の同窓会総会は紛糾し、午後2 時から9 時まで長時間議論が続いたという。
大坪は大学設置をめぐる論争の雰囲気を伝える資料として、内田泉之助の談話草稿を『武蔵学園史年報』第2 号に収録している。紛糾した同窓会総会の直前である6 月17 日に「法科会」すなわち東京帝国大学法学部進学者を中心とする同窓会有志のあつまりで話されたものであるが、大坪も「たまたま保存されていた草稿であるが、全くのメモであるから文意を正しく読み取ることも容易ではないだろう」と述べているように、意味の取りづらい箇所が多い資料である。それでも、「大学高校案[引用者補:尋常科を新制中学に再編することはせず、高等科を昇格させ新制大学・高等学校のみに再編する案]に反対の態度」「学校を愛すればこそ反対を唱ふ」といった文言や、新制中学を含めた設置案へも「教授が転じてしまふ、骨抜きになる、教育者と学者、無能教授のみ残る如くいふ」などの表現が確認でき、新制大学への強い忌避感情が明らかにうかがえる。
内田泉之助は1926 年に着任し1966 年度まで旧制・新制武蔵高等学校中学校で漢文を担当した(1950年4 月1 日~1956年3 月31日は大学兼担教授、1965 年度末まで講師)。1952年には新設された初代教頭に就任しているが、これも大学設置反対のうごきとは無関係ではなかったらしい。大坪秀二は1950 年に高等学校教諭として着任しており、この時期について自身の記憶も交えて記録を整理している。ここでは大坪秀二「武蔵高等学校中学校記録抄解題 その三(1952・9~1956・3)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)に主によりながら、宮本を退職に追い込むことになった「しこり」の影響を確認したい*34。
大学新設議論において父兄会は高等学校側の提案を支持し、学園運営は経営委員会を組織し協力することとなった。すなわち、財団法人根津育英会理事会は学園運営の責任者の地位に留まりつつ、実質的には父兄会の支援による独立採算制への運営に移行したのである。創立当初より財団法人理事を務め、中心的存在であったという宮島清次郎*35 は内田らに共感を見せており大学設置に反対の立場であった*36 ため、大学・高校・中学からなる新制武蔵学園および父兄会は理事会から「自給自足*37」的運営を求められていた。私立学校法が施行されたのち、1951 年に財団法人根津育英会が学校法人に移行すると法人が運営主体になるはずであったが、父兄会に代わる機構が用意されないままの状態が続いた。こうした状況において、新法人では理事長(任1951年5 月2 日–1963年9 月6 日)となった宮島清次郎の顔を立てるかたちで用意されたのが教頭制というしくみだったという。
教頭制を導入した理由としては「専ら高、中一本立ての訓育に任じ、七年制高等学校創設の精神貫徹に努力する」ためと説明されているが、理事会では同時に「大学が男女共学である点は高、中訓育に好影響があるとは考えられぬ。其他思想上の年齢差等大学と高、中と夫々特殊の相違がある」ために大学校舎を新設して大学と高中とを分離することも決議されている。大学の存在に否定的な宮島に校舎増設を説得するために、宮本をはじめとする学校首脳部や父兄会の相談のもとに「宮島理事長の顔を立てた」提案が行われたのだという。1892 年生まれの内田は教頭就任時の年には60 歳をむかえたが、あらかじめ定年延長の措置が取られていた。学部長や主事には任期が定められていなかったため、定年規定が任期を制限することにもなっており、内田の定年が延期されることで最初から三年半の教頭職任期が保証されていたのである。
内田は「七年制高等学校創設の精神貫徹」という期待に、ある意味では正しく応えて「旧制時代山本[引用者補:良吉]校長のしたことの外形を出来るだけそっくりになぞる*38」方針で、強力な教頭権限のもとで教師や生徒に干渉したという。また、大学と高中との施設・組織的な分離を明確に進めていった。新制大学設置をめぐるうごきのなかでは高等学校側にしこりを残したが、内田教頭時代に分離が進められたことで大学側にも「教頭個人ではなく、より一般に『高中』への不快感を持つ場合もあったらしい。後々にしこりを残す種になったと思われる*39」と、大坪は書き記している。
内田の影響力が増す反面、校長であり学長でもあった宮本は「内田教頭の立場をつとめて尊重し、自分はうしろに退く様子を見せるようになった*40」という。かつては旧制時代の武蔵高等学校について熱心に勉強し、山本良吉を賞揚する発言も見られた宮本であったが、1949年の創立記念式で山本の指導が「武蔵の気風」を作ったと讃えたのちには、「特別の賞賛も批判もなく、あまり触れずに終始した」「在任期後半の宮本訓辞には、山本イズムへの賛辞はほとんど見られない。恐らく、ある時期を境に積極的に山本イズムを肯定することから身を引いたのだと思う」と述べている*41。こうした宮本の変化は、大学新設をめぐる古参教授や卒業生たちとの軋轢や、内田泉之助の教頭就任や影響力の拡大と無関係ではあるまい。その内田がついに定年をむかえる1955年に、宮本を退職に追い込むことになった経営不正の告発事件と、それにともなう内田教授の定年凍結請求がおこった。これも大坪が資料からわかる経緯、事件の背景についての自身の推測などを「武蔵高等学校中学校記録抄解題 その三(1952・9~1956・3)」(『武蔵学園史年報』第7 号、2001 年)で記しているため、ここでは大坪秀二「宮本和吉学長・校長訓話抄解題」から概要のみを引用して紹介する。
五一年に財団法人は学校法人に移行し、私立学校の経営についていわば公的なモデルが出来たことになり、武蔵学園に於いても新制発足時の異例の状態は解消に向かうはずであった。事実、この変則な事態に臨時的に対応するために設けられていた「経営委員会」は五一年秋に解散し、新しい学校法人が経営の責任を負う筈の形になり、父兄会でも暫定的態勢を解消する決議がなされていた。しかし、現実は一向に進展せず、新制発足時そのままの、と言うよりは「経営委員会」がなくなった分だけ、より悪くなった、暫定態勢がずるずると継続した。
その動きの鈍さを突いて、五五年夏、一部同窓から、父兄会の少数の幹部が学園経理を壟断しているとの告発が父兄会委員長会に提起され、同時に法人の山本為三郎理事にも伝えられた。この件は、結局、父兄会の問題として、父兄会内に公認会計士をふくむ調査委員会が組織されて調査が行われたが、ごく一部の瑕疵以外には、不正経理を示す明白な証拠は見出されなかった。しかし、経理の運営が、一部幹部のみの相談で行われ、独断の誹りが免れ難いことから、父兄会長、同会常任顧問の二人が自発的に退任することで決着するところまで来た。しかし、異議申し立ての中心となった父兄会学年委員長の二人から、この最終段階になって、学園の態勢が正常に解決するまで、五六年三月末までと定められている内田泉之助教頭の定年退職を凍結することが要求され、話し合いは縺れて決着は年度末までずれ込んだ。教師たちが心痛しながら手を拱く中で、結局宮本学長・校長も辞任するということで、内田教頭の定年退職が規程の通り実現し、鎌田都助中学主事が後任教頭に任命された*42。
大坪は個人の想像と断った上で、「三〇年夏の事件[引用者補:昭和30年すなわち1955年におこった上記事件]の真相は、始めから宮本学長・校長の失脚が目的だったのであろうと言うことである」と述べている。不正を告発し、宮本の責任を問うことで学園トップの交替をねらったものだというのである。真のねらいがどこにあったのか、その究明は困難であろうが、大学設置議論以来の「しこり」が引き起こした、極めて後味の悪い事件であったことは間違いないであろう。旧制から新制への移行という困難な仕事を成し遂げた宮本は、その間に生じた軋轢を引き受けて学園を去ることになってしまったのである。
退任にあたり、宮本は中高生には「[引用者補:戦災の影響は比較的少なかったが]しかし全体として荒れすさんだ学園を、あの当時の敗戦の社会的混迷の裡に復興せしめることは、微力な私には決して生やさしいことではありませんでした」と来し方をふりかえりつつ、「[同:戦後十年が経ち、日本も安定してきており]武蔵学園も全体として落ち着きを取り戻し、学園の気風もよくなり、諸君の成績も向上しつつあることはまことに喜ばしい」「今後、新学長の下に、学園の気風並びに諸君の成績が更に一層向上発展することを私は期待しています。健康には十分注意し、しっかり勉強してください」と語りかけた。大学生に対してはこの間のしこりをほぐすかのように、母体としての旧制高校の伝統に触れつつも「本学創設以来、大学の諸先生並びに学生諸君が新しい大学を作ろうという熱意に燃え、一体となって建学の理想に邁進されたこと」をねぎらい、今日の評価は「武蔵高等学校の輝かしい伝統の上に、新制大学という新しい教育理想を打ち樹てて行くということに努力してこられた結果であると信じます」と励ましている。
「この努力は、新学長の下でも、さらに一層続けられて、武蔵大学をますます立派な大学に育て上げて頂きたい。これが私の衷心からの願いであります」とのことばには宮本の無念さも、切実さも、ともに滲むように感じられる*43。
宮本は武蔵を離れざるを得なくなったが、宮本を慕う人々により肖像画作成のための募金が呼びかけられ、翌1957 年には講堂での掲揚式が行われた。やや顔をしかめた生真面目な表情の宮本の肖像画は現在も武蔵関係者を見守っている。
1958年4 月には成城学園に学園長(兼大学学長)として招かれ、1961年7 月までその任にあった。この間、またそれ以後も武蔵関係者との縁がまったく切れてしまったわけではなかったようである。1960 年に古稀を迎えた宮本を囲む武蔵高中の教諭や武蔵大学教授の写真が残されているし、1967 年に北海道武蔵女子短期大学が札幌で開学すると宮本は初代学長として着任している。
新制移行期以来の「しこり」や、「しこり」が引き起こした事態を宮本がどうとらえていたか、心情を直接うかがい知ることはできない。しかし、宮本自身はごく誠実に、武蔵学園や武蔵関係者に向かい合いつづけていたのではないだろうか。