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第3章 旧制武蔵高等学校時代
第2代校長山川健次郎―古武士の魂と科学者の合理性(三澤正男)
旧制生徒の進級・留年と健康問題(井上俊一)
武蔵高等学校同窓会―発足の経緯(武蔵高等学校同窓会)
戦時下の武蔵―空襲を中心として―(庄司潤一郎)
山本良吉「と」武蔵学園(その2)―〈建学の三理想〉の系譜学―:山本没後―戦後の顕彰的語りと大坪秀二の学園史研究(吉川弘晃)
太田博太郎―武蔵出身学園長の事績と「抱負」(畑野勇)
中学校社会科「卒業研究」への展開(柿沼亮介)
高等学校「総合講座」への展開(柿沼亮介)
第二外国語と国外研修制度の展開(柿沼亮介)
田中郁三理事長・学園長(武蔵学園記念室)
多才の人、有馬朗人学園長(三澤正男)
武蔵学園構内で確認された疥癬タヌキと2017~2018 年のタヌキの生息状況 (白井亮久)
卓見異見(根津公一)
あとがき
武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧
武蔵大学「白雉祭」案内冊子ページ
武蔵高等学校中学校「記念祭」案内冊子ページ
武蔵学園史年報・年史類ページ
付録資料のページ
1931(昭和6)年、山川健次郎校長の病気による辞任にともない、開校以来教頭職にあり2 代の校長を助けて学校運営の中心となってきた山本良吉が校長事務取扱になり、のち、1936 年、第3 代校長に就任した。1930 年代初期から1940 年代末までの約20 年間は、旧制武蔵高等学校の充実期、および戦中戦後の苦難の時期にあたるが、これらは後述することとし、ここでは、財団法人に直接関わる事柄と人事についてみていきたい。
1936(昭和11)年は、創立者根津嘉一郎が喜寿を迎えることになるので、早くから、父兄会・同窓会の間で祝賀の議が起こっていた。しかし、理事長はこの祝賀行事が個人的なものとなることを好まず、学校の利益となるものであることを望み、その結果根津化学研究所が設立されることになった。祝賀に寄せられた拠金1928(昭和3)年4 月15 日の開校式における根津嘉一郎理事長の式辞光景はおよそ2 万8,000 円であったが、理事長はこれとほぼ同額を研究設備の充実と研究所の運営のために拠出した。研究所は化学教室の隣に建設され、理事長誕生日の6月14日に贈呈式が行われた。理事長は直ちにその管理を校長に委ね、校長は教授玉蟲文一を研究所長に任命した(注1)。
(注)本百年史『主題編』収録の「根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観」も参照されたい。
1940(昭和15)年1 月、根津理事長が死去、子息の根津藤太郎(のち2 代目根津嘉一郎)が理事長を2 か月ほどつとめた後、元校長一木喜徳郎が後を継いだ。1942 年7 月には、本校の創設・発展に20 年余り尽力した山本良吉校長が死去し、教頭山川黙(しずか)(1924年以来本校教授)が第4 代校長に就任、理事長一木喜徳郎を名誉校長として戦時中の困難な学校運営にあたった。1944 年末には、一木理事長・名誉校長が死去、常務理事河西豊太郎が会務を処理したが、大戦終結後の45年12月には根津嘉一郎(2 代)が理事長に就任した。
1946年2 月、山川黙校長が退任し、第5 代校長に宮本和吉(元京城帝国大学法文学部長)(注2)が迎えられた。1948 年、新学制により一部が新制武蔵高等学校に移行し、1949 年には新たに武蔵大学、武蔵中学校が創設されて宮本は学長・校長を兼ねた。翌1950年、第22期生徒の卒業とともに旧制武蔵高等学校の時代は終焉を迎えた。
(注)本百年史『主題編』収録の「宮本和吉―誠実で生真面目な哲学者」も参照されたい。