もくじを開く

通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

  • あとがき

  • 武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧

資料編

武蔵文書館

  • 武蔵大学「白雉祭」案内冊子ページ

  • 武蔵高等学校中学校「記念祭」案内冊子ページ

  • 武蔵学園史年報・年史類ページ

  • 付録資料のページ

武蔵写真館

武蔵動画館

第3章 旧制武蔵高等学校時代

 1931(昭和6)年、山川健次郎校長の病気による辞任にともない、開校以来教頭職にあり2 代の校長を助けて学校運営の中心となってきた山本良吉が校長事務取扱になり、のち、1936 年、第3 代校長に就任した。1930 年代初期から1940 年代末までの約20 年間は、旧制武蔵高等学校の充実期、および戦中戦後の苦難の時期にあたるが、これらは後述することとし、ここでは、財団法人に直接関わる事柄と人事についてみていきたい。

根津化学研究所

 1936(昭和11)年は、創立者根津嘉一郎が喜寿を迎えることになるので、早くから、父兄会・同窓会の間で祝賀の議が起こっていた。しかし、理事長はこの祝賀行事が個人的なものとなることを好まず、学校の利益となるものであることを望み、その結果根津化学研究所が設立されることになった。祝賀に寄せられた拠金はおよそ2 万8,000 円であったが、理事長はこれとほぼ同額を研究設備の充実と研究所の運営のために拠出した。研究所は化学教室の隣に建設され、理事長誕生日の6月14日に贈呈式が行われた。理事長は直ちにその管理を校長に委ね、校長は教授玉蟲文一を研究所長に任命した(注1)。

竣工直後の根津化学研究所における記念写真。根津嘉一郎理事長をはじめ、理化学研究所の櫻井錠二博士の姿も見える。

(注)本百年史『主題編』収録の「根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観」も参照されたい。

旧制高等学校の終焉まで

 1940(昭和15)年1 月、根津理事長が死去、子息の根津藤太郎(のち2 代目根津嘉一郎)が理事長を2 か月ほどつとめた後、元校長一木喜徳郎が後を継いだ。1942 年7 月には、本校の創設・発展に20 年余り尽力した山本良吉校長が死去し、教頭山川黙(しずか)(1924年以来本校教授)が第4 代校長に就任、理事長一木喜徳郎を名誉校長として戦時中の困難な学校運営にあたった。1944 年末には、一木理事長・名誉校長が死去、常務理事河西豊太郎が会務を処理したが、大戦終結後の45年12月には根津嘉一郎(2 代)が理事長に就任した。

 1946年2 月、山川黙校長が退任し、第5 代校長に宮本和吉(元京城帝国大学法文学部長)(注2)が迎えられた。1948 年、新学制により一部が新制武蔵高等学校に移行し、1949 年には新たに武蔵大学、武蔵中学校が創設されて宮本は学長・校長を兼ねた。翌1950年、第22期生徒の卒業とともに旧制武蔵高等学校の時代は終焉を迎えた。

(注)本百年史『主題編』収録の「宮本和吉―誠実で生真面目な哲学者」も参照されたい。

to-top