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生徒の「服装」について(2)―「標準服」から服装自由へ―(通堂あゆみ)
「白線問題」から服装規定廃止へ

 終戦をむかえた1945 年末、第四代校長山川黙が辞任した。玉蟲文一教頭の校長事務取扱時期を経て、翌46 年2 月に元京城帝国大学教授の宮本和吉が着任した。戦後の学制改革により宮本校長のもとで武蔵高等学校も新しい体制を構築することとなったが、これに先駆けて服装規定が大きく変化した。

 1946 年11 月から12 月にかけ、教師会・生徒大会で「白線問題」についての議論が行われ、結果として服装規定そのものが撤廃されることになったのである。「白線問題」とは、他の多くの旧制高校のように、制帽に白線を巻きたいという生徒の要望への対応を指す。「生徒の『服装』について(1)」でも触れたように、白線帽は旧制高校のシンボルである。武蔵では戦後になり、この白線を求めるうごきが高等科の生徒から改めて起こったようである。

 このうごきに対し、教師会では生徒の意見を確認し、これを参考として校長が教師会の議を経て白線の可否を決定することにした。これが11 月25 日のことである。その後、11月29 日に生徒大会が開催され、「白線を附するや否や」について全校生徒による投票が行われたが、結果は「白線を附する希望なき方多数」となった。12月2 日開催の教師会でこの結果が伝えられ、いったんは服装規定については「従前の通り」すなわち制帽には白線を巻かないことが確認されている。しかし、生徒自治委員長より生徒の要望として服装規定そのものを撤廃し、自由にしたいという申し出もあわせて行われており、結局はこちらの提案が採用されることとなった。服装規定撤廃に関する宮本校長の訓示*1 では、この経緯が次のように説明される。

 

 先般来高等科生の間に帽子に白線をつけたいという希望があり、之について教授会にはかった結果、全校生徒の意見を問い之を参考として教授会の議を経て裁定することになり、去る12 月2 日の教授会に付議したのであったが、其の際自治委員長から全校生徒の要望であるとして本校生徒の服装は自由にしたいとの申し出があったので、この事を併せ考えて長時間に亘って慎重討議の結果、12 月3 日を以て本校従来の服装規定を撤廃することになったのは諸君の承知の通りである。

 

 さらには、終戦後の社会変化・価値観の転換を踏まえ、こうしたうごきのなかに服装規定撤廃を位置づけての生徒へのよびかけも行われた。

 

 制服制帽主義は多分軍隊のそれから来たものであろうが、この服装規定は形式が内容を規定する、即ち形を整えて心を正すという形式本位の教育方法である。(中略)然るに終戦後しきりに人間の解放、人間の自由が叫ばれて居り、新憲法の第三章はこの自由権の確立を規定している。まことに自由こそ人間精神の本質であり、その真の在り方である。今日吾々に課せられた民主政治も、この人間自由を伸ばすための、人間の解放された精力が、それによって極めて多方面に表されるような便宜上の手段に他ならない。だから教育の民主化ということは形式が内容を規定するという形式尊重の教育ではなくして、反対に内容が形式を規定するという線に沿うべきである。だから制服制帽の撤廃という今度の本校の措置はこの線に沿うものということが出来る。(中略)

 本校は軍隊ではなく、吾々はお互いに学問に志すものとして、むしろ形式からでなく内容の方からはいることが望ましく、内容から自ずから生まれる新しい形式を本当に自分のものとして身につけて行きたい。只このことは言うべくしてしかも極めて困難な仕事である。だからと云って之に着手しなければいつそれが実現されるかわからない。今吾々はこの困難な課題を自分に課したのである。まず何よりも内容の充実が吾々の課題である。この課題を諸君は之を夫々自己の問題として本当の自己の責任において解決せられんことを切望してやまない。

写真1:1951 年撮影、生徒は標準服が多いが一部そうでない人もみえる。右端は森愈教諭
服装規定の変化―「標準服」化

 一方で、玉蟲文一教頭による記録では「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨、並びに戦後の物資難に基き、暫時の間、服装規定を撤廃することにした*2」と書かれているという。これをうけ、大坪は「宮本和吉校長との訓示とは意識の食い違いが見られる*3」、「そのときの先生方の姿勢は、ごく一部の方を除いて、あまりポジティブなものではなかったのではあるまいか」「煩わしさを避ける大人の智恵ではあっても、戦後の混迷の時代に新方針を打ち出すという程の意気込みはなかったように思う*4」と述べている。新制武蔵校等学校の教員として母校に戻った大坪は、ほどなくしておこった服装規定復活のうごきやそれへの対応、すなわち1953 年の「標準服」の規定制定*5 に関わることとなった。だからこそ、こうした感想を抱いたのではないかと考えられる。

 服装規程撤廃に関して、公開された文章としては『武蔵高等学校一覧 昭和29 年度』(1954年12月10日印刷・発行)に掲載された「本校歴史」での記述が確認できる。昭和21(1946)年11月25日の項目としては玉蟲教頭による表現がほぼそのままに「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨並に戦後の物資難に基き暫時の間、服装規定の実施を中止した」と記載されている(傍点は原文のまま)。ただし、「撤廃」と「実施を中止」ではずいぶんと印象が異なる。なお『武蔵五十年のあゆみ』における記述では「戦中・戦後の物資欠乏の故もあって、服装についての規程の実施は昭和21年に中止された」であり、同書収録の「年表」でも1946年11月に「服装規定の実施を中止」とある。『武蔵九十年のあゆみ』では宮本校長の訓話の紹介とあわせて、「服装規程を撤廃」との表現を用いている。「年表」では1946年12月2 日の項において「服装規程を廃止」と記している。

 1946 年に従来の服装規定が撤廃、あるいは実施が中止されたとはいえ、校内での服装に関するルールが完全に自由化されたわけではないらしいことも『学務日誌*6』の記録から推測される。着衣についての明確な記述はみられないが、しばしば下駄履きに関する注意が登場する。生徒側から、とくに雨天時の下駄履きを認めて欲しいとの要望があったが認めていない。下駄履き禁止については学校でのルールというより一般的なマナーにもとづく指導と理解できるかもしれないが、1950年に新制大学・高校・中学共通の「武蔵バッジ」が制定*7 されると、中学・高校生には後述するようにバッジの着用がルール化されていたようである。生徒の服装が完全自由となった現在からは想像しがたいが、この年には生徒がバッジを着用しているかどうかを教員が点検する期間を設けた*8 ことも確認できる。旧制以来の生徒を紳士に育てようとするマナー指導は継続し、白線帽の代わりに授与された佩章もバッジにその姿をかえて受け継がれ、着用が指導されたのであろう。バッジのデザインも旧制時代の校章の一部を継承している。佩章は式典等への出席時に着用が求められたが、この「武蔵バッジ」は日常的な着用が求められた点に大きな違いがある。

 さて、大坪は宮本校長による「服装規定」廃止から「標準服」制定までの経緯を次のように伝えている。

 

 私が武蔵の教師になったのは新制の二年目、一九五〇年であるが、その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た。「父兄の要望」で、制服規定を復活させてほしいという話であった。窮乏生活はまだ続いていたが、景気がすこしは上向きかけてもいた。この時の教師会の会議では、かなり活発な論議があったように記憶している。私と同様、新制になってから就任した二〇歳台の先生が何人もいて、制服復活には反対の人が多かった。しかし、今思うには、服装自由賛成よりは制服反対が主な論点であったために、制服復活論を抑えきれなかった。結局、結論は玉虫色になった。つまり、制服復活はしないが、標準服のきまりを作るということである。*9

 

 大坪は自分が着任した1950 年の「その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た」と記しているが、1950年度(1951年1 月29日)にはすでに父兄から無記名で生徒の制服を考えて欲しいとの投書があった*10。また、大坪は引用文よりも後の部分、すなわち「標準服」制定後の出来事と読める書き方で「玉虫色ではすまない事がすぐに起こった」として、高校2 年生の修学旅行中におこった事件を紹介している。京都で「セーター姿で出歩いた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという事故」がおこり、警察署で少年課の担当者から「制服を着ていないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」といわれてしまったのである。その場で付添の島田俊彦教諭が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と反論したというが、当時の教師会記録「週報」では修学旅行後に「今回の旅行で学校の制服制帽の必要を痛感した」とあり(1952 年10 月27 日)、「来年度から学校の制服を制定したいとの意見もあるので、機を改めて付議したい」(同年12 月8日)、「生徒の制服については研究中であったが、学校の方針としては新学期から標準型を決めて制服希望者には指示することにした。その標準型の規格、選択等は購買部委員[引用者補:委員名は省略。大坪を含む7 名の教員である]に於て考究する」(1953 年2 月2日)、武蔵校等学校服装規定、購買部規約の制定(1953 年3 月9 日)と展開している*11。『武蔵五十年のあゆみ』・『武蔵九十年のあゆみ』でも1953年1 月8 日に「服装規程を定め標準服を示す」「標準服を定める」とあることから、まず年賀式で在校生徒に服装についての方針が示されたのであろう。『武蔵高等学校一覧』では昭和28(1953)年3 月の項目に「服装規定 を定め四月新入生に対して標準服を指示した」とあることも確認でき、規程の実施は新年度からであったと推測できる(傍点は原文のまま)。

 つまり、時系列としては1950 年頃には制服復活の要望が起こったが、具体的な対応が始まるのは1952 年の修学旅行中の事件以後である。この事件を受けて制服制定(復活)の議論が動き出し、1952 年度内に「標準服」を制定することを決定し、1953 年度より実施となったのである*12。

 では「標準服のきまり」とは具体的にどのようなものであったのか。また先に述べたバッジ着用のルールとは何か。『武蔵高等学校一覽』(1954年12月10日印刷・発行)の「第三章 本校諸規定」には、「一、常に本校三理想の実現に心がけ特に組主任の指導を受け、自己の研鑽につとめること」にはじまる全8 項の「生徒心得」が掲載されており、服装に関するものとしてはつぎの規定を確認できる。

 

一、服装は別に示された標準に基づき、常に本校所定のバッジをつけること

一、校舎内に於ては脱帽の習慣を守り、下駄を使用しないこと

 

 「生徒心得」に続き、「服装規定バッチ( 原文ママ) 佩用規定」が示される。

 

服装規定

 一、本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする

 二、本校生徒が登校に際し着用すべき服装の標準は次の如くである

  イ帽子

   様式 丸型 品質 黒ラシャ 徽章及襟章 学校所定のもの

  ロ冬服

   様式 背広型立襟、袖ボタンなし 

   品質 紺又は黒サージ ボタン 学校所定のもの 長ズボン(中学の低学年は半ズボンが望ましい)

  ハ夏服

   様式 冬服に同じ 品質 鼠霜降小倉 ボタン 学校所定のもの

  ニ靴

   黒革、黒又は白ズック製、雨雪の場合ムゴ(原文ママ) 製靴の使用は自由

  ホ外套又は雨着

   様式 品質標準なし 但し外套は黒又は紺のシングル(バンドのないもの)

  ヘ開襟シャツ

   半袖開襟を標準とし、長袖折襟これに準ずる 品質 白木綿

 三、夏冬服着用期間の標準は次の如くである

  冬服 十月一日より翌年五月三十一日迄

   襟巻、ジャンパーはなるべく使用しないことが望ましい

  夏服 六月一日まり(原文ママ) 九月三十日迄この間開襟シャツの使用を妨げない

 

バッチ( 原文ママ) 佩用規定

一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバッジをつける

一、このバッジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい

一、このバッジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない

一、このバッジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する

一、このバッジは左襟または左胸につける

一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない

 

 明文化されたこうしたルールがどのように運用されていたか、生徒にどう受け止められていたかが、『校友会報 武蔵』第5 号(1954年5 月15 日) の「さえずり」というコーナーに掲載された「制服制度を望む」という生徒の投稿からわずかにうかがえる。この投稿は「『登校の際着用する服は、今迄着ていたもので結構です』(原文ママ)ただ今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい』現在我校において入学第一歩に聞かされる文句にこのような一句がある」と始まる*13。おそらく小学校・中学校で着用していた制服のボタンや徽章などを付け替えて着用するのが一般的だったのであろう。入進学にあたり、「標準服」の新調を学校側が強く期待することはなかったのかもしれないが、校友会報には「武蔵特制(原文ママ) 開襟シヤツ」を扱う制服店の広告がときおり掲載されている。この広告によれば学校の購買部でも同店の制服見本を展示していたとのことであるし、1960 年代に在校した卒業生からは入学手続きの際に学校門外に制服を扱う業者が来ており、そのために生徒・保護者は疑問に思うことなく購入したとの情報が寄せられた。この時期、着用は強制されないものの、限りなく「制服」に近いものは用意されていたようである。なお、バッジは入学式で校長から授与されるものであった。

 前述のように大坪ら若手教員らの反対もあり、規定上は制服ではなくあくまでも「標準服」であった。しかし、「教頭[引用者補:内田泉之助。在職1926~1967年]は標準服の着用を励行させることを教師たちに求めていた*14」し、校友会報の投稿で紹介された「今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい」という呼びかけにもみられるように学校側からの標準服着用のはたらきかけがあったことも間違いない。服装規定の実際の運用にあたっては、旧制時代を知る教員、とくに山本とともに生徒を厳しく指導した教員*15 と、新制になってから着任した教員との間に温度差があったものと推測される。おそらく服装規定廃止から「標準服」制定までのあいだも同様だったのではないか。

 生徒・保護者がどのように受け止めていたのかを明らかにすることは困難であるが、記念室が保存する写真*16 や筆者のもとに寄せられた卒業生からの情報からは1960 年代には「標準服(詰襟・学生帽)」の着用がごくあたりまえに行われていたらしいことがうかがえる。冬季のセーターやコート類の自由な着用はあったようであるが、こだわりがなければ標準服が選択されていたようで、私服通学は多数派ではなかったようである。

写真2:1957 年撮影、37 期生。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッジ」。前列中央は横井徳治、松井栄一、大坪秀二教諭。
写真3 :1960 年撮影、40 期生入学記念写真。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッチ」・左胸に名札らしきもの。
服装「自由」の時代へ

 武蔵において「標準服」の規定がなくなり、完全な服装自由の時代が始まったといえるのは、1970 年代末から80年代初めであろう。武蔵だけでなく、1960 年代後半から70 年代前半にかけての「高校闘争」のなかで、制服を自由化した学校は100 校以上存在すると推測されている*17。この時期に校長を務めた大坪は次のように記している。

 

 服装問題について最終的に決着をつける仕事は、時の流れの故にあって私が引き受けるめぐりあわせになった。’70 年前後の高校紛争の嵐の時代が来たとき、校則一般について、学校の側としても曖昧な態度はとれなかった。「昭和二一年以来、制服規定はない。服装は自由である」と言い切って、昭和二八年制定の標準服のきまりを握りつぶしてしまったのは、あえて言えば私の独断である。「玉虫色のものは規定とは言えない」という正当化を心中に持ってはいたのであるが*18。

 

 玉虫色の規定とはいえ、「服装規定(標準服)」「バッジ佩用規定」は『一年生要覧』『新入生のために』といった入学時に配布される冊子である時期まで明文化されていた。こうした冊子類で現物を確認できるのは『一年生要覧』が1958年度から1962年度まで、『新入生のために』が1963 年度から2002 年度までである。なお、2003年度からは『学校生活の手引き』と名称を変えて現在も継続刊行中である。

 『一年生要覧』には「生徒心得」が掲載され、「服装は別に示された標準に基づき常に本校所定のバッジをつけること」として「標準服」の規定を示していたが、1963年度の『新入生のために』では、服装について次のように説明する。

 

 第八章 服装

服装に関しては、入学の時に授与されるバツジ( 原文ママ) をつけるという次の規定のほかには、標準として示されているだけで、制服、制帽といつた厳密なものはありません。

 

《バツジ佩用規程(原文ママ) 》

一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバツジをつける。

一、このバツジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい。

一、このバツジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない。

一、このバツジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する。

一、このバツジは左襟または左胸につける。

一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない

したがつて、バツジさえつけておれば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。ただし、次の規定があります。

 本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする。

  実際には、冬が黒のつめえり、夏が半そで開きんシャツといつた人がほとんどで、ズボンは低学年で夏に半ズボンがちらほら、あとは長ズボンです。

 新調される方はもちろんどこでなさつてもかまいません。

 カバンも特に指定はなく、ズツクのさげカバンが大部分です。

 ほかには体育の際の運動着がありますが、上下とも汚れのめだつ白がよいとされています。運動ぐつは白でなくてもよく、通学用のズツクぐつのままでもかまいません。

 うわぐつはいりません。通学ぐつのまま教室にはいります。通学ぐつは何でもよいのですが、〈半バス[引用者補:ローカットのバスケットシューズのこと]〉の生徒が多いようです。げたばきは禁止してあります。

(下線は引用者による)

 

 服装規定中に「標準」ということばは登場するが、具体的な「標準服」を示すことはなくなり、「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」のみとなっている。しかし、この時点ではまだ「バッジ着用」ルールがあり、実際には「詰襟」「開襟シャツ」といった「標準服」を着用している生徒が「ほとんど」なのである。さきに述べたように、1960 年頃までは詰襟着用の生徒の写真が確認できた。60 年代半ばでもおそらくは同じような状況で、少なくとも入学時には「標準服」を用意して着用していたと考えられる。著者のもとに寄せられた卒業生からの情報によると、入学時にあつらえた標準服が成長によりサイズがあわなくなったり、学校生活になれてきたりしたら私服に移行していったのだという。少なくとも1970 年代初までは入学式には標準服の着用が一般的で、70 年代末になると入学時にも私服に変化していたようである。

 服装に関する「標準」が学校配布の文書から完全に消滅したことを確認できるのは1979年度の『新入生のために』からである。

 

第六章 生活

(1)服装

服装に関しては、入学時に授与されるバッジをつけるという規定のほかは、制服制帽といったものはありません。

(下線は引用者による)

 

 この文章に続いて前出の「武蔵バッジ」に関するルールが《バッジ佩用規定》として示され、「したがつて、バッジさえつけておけば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。ただし次の規程があります」として「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」ことが説明されている。服装の「標準」が示されなくなってもまだ、登校の際にはバッジをつけるというルールが残ったのである。とはいえ、学校側がバッジ着用をどれほど厳密に指導していたかは確認することは困難である。1980 年代初には入学時に組主任からバッジ着用がルールだと説明されたとの情報や、1980 年代半ば以降も実際にバッジを着用していたという情報が卒業生から得られているが、現職教員に指導状況を尋ねてみたところによると、少なくとも90 年代に入るとこのルールは死文化していったようである。それでも1997 年度まではこの登校時のバッジ着用のルールは『新入生のために』に残され続けた*19。

 1998 年度の『新入生のために』「第六章 生活」は冒頭につぎのような文章を掲げており、これが現在まで継承されている。

 

 本校には、服装、所持品、髪型などについて生徒に守らせるために書かれた規則はありません。日本の法律などの規則はもちろん武蔵でも守らなければなりませんが、そのほかに武蔵だけで適用される規則はほとんどないのです。(中略)武蔵の校風は自由だとよく言われますが、真の「自由」は「身勝手」とは正反対のところにあることを忘れないで下さい。他人に規制されるのではなく自身で規制して正しい行動をとるのが真の自由な人、自身を規制することができないのが身勝手な人です。このことに気をつけながら、自由な学校生活を十分に楽しみましょう。

 

 服装についての説明も次のように変更された。「本校には制服や制帽はありません。学業に励み、体をつくり、心を磨く場所である学校へ来るのにふさわしい服装であれば、何を着て来てもよいのです。ふさわしいかどうかの判断は、自分でするように求められています。ただし、その判断があまりにも独善的であれば、他人から注意を受けることはあるでしょう」。

 「生徒の『服装』について(1)」でも言及した、本校webサイトでの「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています。」という説明*20 は、この『新入生のために(学校生活の手引き)』での方針を踏まえたものである。服装指導を通じて生徒を統制する、あるいは制服や校章のような共通のシンボルによってスクール・アイデンティティを高めようとするようなねらいはなく、あくまでも一般社会におけるみだしなみの注意にとどまるものである。

 現在も入学式では新入生全員に「バッジ授与」が行われるものの、生徒に着用を求めることはない。生徒の服装も、中学生入学式や高校卒業式では正装としてブレザーやスーツの着用(とくに高校3 年生の場合は紋付きに袴姿も見られる)が多いものの、式服をふくめて学校からとくべつな指示をすることはない。生徒も教職員も、染髪・アクセサリー類の着用など服装はまったくの自由なのである。

 

 本稿作成にあたり、ご関係のみなさまがたより情報提供をいただきました。心より感謝申し上げます。

・卒業生の方々

井上俊一様、大塚日正様、加藤順康様、志村安弘様、高野陽太郎様、富重正蔵様、橋本芳博様

・旧教員の方々

大橋義房様、梶取弘昌様、岸田生馬様

・現職教員

杉山剛士校長、高野橋雅之副校長

※お名前掲載の許可をいただいた方々のみ、五十音順で紹介させていただきました。

写真4:1966年撮影、40 期生卒業記念写真。生徒は標準服が多いが、ロゴの入ったシャツや柄のセーターなども見られる。前列左端に鳥居邦朗教諭と藤崎達雄教諭、前列右端に島田俊彦教諭。
写真5:1971 年撮影、45 期卒業記念写真、標準服の生徒は少ない。前列左端に大坪秀二教頭、前列中央に矢崎三夫教諭。
写真6:1976 年3 月撮影、50 期卒業記念、標準服の生徒は全く見られない。中央ネクタイを締める人物は田中正之教諭。
【註】
  1. 大坪秀二編「宮本和吉学長・校長訓話抄 昭和二一年~昭和三一年」(『武蔵学園史年報』第10号、2004年)。
  2. 玉蟲文一教頭による「本校歴史(草稿)」の記述による。ここでは大坪秀二が『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11 年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)に引用したもの(148頁)を再引用した。
  3. 同上、148頁。
  4. 大坪秀二「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」(『武蔵高等学校同窓会会報』第32号、1990年12月)。
  5. 武蔵70 年のあゆみ編集委員会編『武蔵七十年のあゆみ』(学校法人根津育英会、1994年)114頁。
  6. 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」(『武蔵学園史年報』第3 号、1997 年)。
  7. 『武蔵高等学校一覧』では昭和25(1950)年5 月12日の項目として「開校記念式に際し新たに制定したバッヂ4 4 4 を全職員学生生徒に授与した」とある(傍点は原文のまま)。「武蔵」の文字を両側から雉がかこみ、背景に6 本・3 本・4 本の線を刻んだデザインである。大学では1998 年に開学50 周年記念として白雉と小枝を組み合わせた新たなシンボルマークを定め、現在はこちらのデザインを使用している。
  8. 1950年9 月4 日に「近頃バッジを佩用しているものが少ないようであるが、なるべく佩用させることにした。なお、一定の日を定めてバッジの有無を一斉に点検することにした」とあり、10 月2 日~7日の一週間で実施、9 日には結果を組主任から学務課へ報告することを確認している。前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。
  9. 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。
  10. 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。
  11. 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』第7 号、2001年)。
  12. こうしたうごきを大坪は「諸慣行の旧制復帰」と述べている(前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」130 頁)。「諸慣行の旧制復帰」とは、服装規定以外に卒業式での「君が代」斉唱や、生徒の反対にもかかわらず購買部が復活したことを指している。
  13. 投稿の趣旨は「団体生活に精神的締り」が不足するので、選択自由ではなく、全員着用の制服を制定して欲しいという学校への要望である。
  14. 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」130頁。
  15. 大坪は内田教頭について「昔のことを知る者から見れば、旧制時代山本校長のしたことの外形をできるだけそっくりになぞることであったと思う」と評している。前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄解題 その三(一九五二・九~一九五六・三)」。卒業生からも、鎌田都助(くにすけ)教頭(1925年着任。教頭在任期間は1956~60 年)は服装指導に厳しく、校舎玄関前で生徒の服装(靴が磨かれているかなど)をチェックしていたとの思い出が寄せられた。
  16. 武蔵学園百年史サイトHP中の武蔵写真館「071 1950 年代から60 年代の武蔵高等学校」https://100nenshi.musashi.jp/Gallery/Theme/a4e111df-2c 4e-40e4-b4b9-39b7e8e36431。
  17. 小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)112頁。
  18. 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。
  19. ちなみに、下駄履きについても2019 年度の『学校生活の手引き』までは禁止が明文化されていた。
  20. 武蔵高等学校中学校web サイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。
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