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第6章 旧制七年制高等学校の解体

 戦後の学制改革によって、旧制七年制高等学校は解体され、発足以来僅か四半世紀で、それらの栄光ある歴史を閉じた。これら旧制七年制高等学校のうち、官立の高等学校は概ね新制東京大学や都立大学などに吸収された。東京高等学校は、高等科が一高と共に東京大学教養学部に、尋常科(中等科)が東京大学教育学部付属高校・中学に解体再編され、各々別の学校になった。

 私立の旧制七年制高等学校、武蔵、成蹊、成城、甲南はそれぞれ新制中学・高校と新制大学となったが、それに至る過程はやや複雑であった。

 学制改革において、三年制の旧制高等学校が廃止され、そのかなりの部分は新制大学に移行した。大学の専門課程にほとんど自動的に進学できる高等教育予科機関としての高等学校は完全に消滅した。従来これらの高等学校に進学してきた学生層は、新制高校から新制大学(しかも多くは旧制からの伝統ある総合大学)に直接進学するようになった。多くの旧制高等学校は、教員だけが残って、単科大学や文理科大学をつくり、従来の旧制高等学校進学者とは違う層に、専門課程を含む教育を施すことになったのである(四高、五高、六高、七高などの例)。また一部の旧制高等学校(一高、二高、三高、八高など)は新制総合大学の一般教育課程になっていった。こちらの方は、学校の伝統と様態は完全に失われたが、実質的な教育内容は従来と大きくは変わらなかった。

 さて、私立の七年制高等学校は、この学校の尋常科(中等科)に入学できれば、旧制大学の専門課程にほぼ自動的に進学できるという極めて特権的な学校であった。学制改革により、その存在の根拠は完全に失われた。そこで、おそらくは二つの方途をめぐって、旧制七年制高等学校の内部で論議が戦わされたと推察できる。

それは、次の二つの道であった。

  • 地方の旧制高等学校の多数がそうであったように、自らが旧制高等学校を発展させて新制大学となり、その予科として中等教育機関を付置する
  • 旧制大学を継承したような伝統ある新制総合大学に進む六年制(旧制七年制を一年だけ短縮した)の新制高校・中学として再出発する

 だが、前者となるためには、旧制総合大学に伍し、それと競うことのできる高等教育専門課程の整備を図るという経営的な課題をクリアしなければならなかった。一方、後者を選んでも、新制高校の卒業生は「旧制高等学校を新制大学で追体験する」という矛盾に直面しなければならなかった。たとえば、新制武蔵高校を卒業して新制東京大学に進学するとすれば、行き先は駒場の教養学部であり、東大駒場は昨日のライバル一高や東京高等学校の後身であった。

 結論を言えば、すべての私立七年制高等学校は前者を選択した。その理由は、当時としては、旧制高校がほとんどすべて「大学」に昇格するというような「昇格方向へのあてはめ」(「上方向への読替え」)が自然に行われていたからと言うこともできよう。あえて言えば、新制大学教授となるのと、新制高校教諭になるのとでは社会的地位や格式が断然違ったため、それにこだわる教員は前者を志向し、一方、生徒の立場から言えば仮に旧制高等学校を追体験しなければならないとしても、評価の定まらない自校の大学から直接社会へ出るよりは、旧制総合大学の伝統を持つ大学を経て社会へ出たいという意味で後者をより望んだのではないだろうか。(もちろん、中等教育において生徒にLiberal arts andsciences を与えることに依然情熱を持つ教員もいたし、自校が新たに創る新制大学に夢を賭けてそれを志望する生徒もいた)

 なお、中学と高校に分かれる中等教育機関について言えば、学習院(従来から)、成蹊、成城が「一貫教育」を標榜しつつも両者を分けた組織としたのに対して、武蔵は再出発に際し暫時の試行錯誤の後、同一教員同一組織の六年制中高一貫教育を志向した。

 ここで旧制七年制高等学校が新制大学になっていく時点で、一つの大きな機会を逸したというエピソードにふれておきたい。

 それは、天野貞祐、安倍能成(学習院)、宮本和吉(武蔵)、高橋穣(成城)らによる「東京連合大学構想」である。これは、旧制七年制高等学校が、単独で新制大学を整備するのに困難があるので、各校が自ら校風伝統にあった小カレッジを整備し、各校の新制高校卒業者が自由にその小カレッジを選択する(さらには新制大学の教養課程から専門課程に進む際にもある程度自由に専門課程を選択できる)形で、「緩やかな連合大学」をつくろうという試みであった。この連合大学構想は、各校のトップの間でたまたま私的交流が強かったこともあって試案段階まではまとめられたが、各校内部での意見調整ができず、その間に急速に各高等学校が独自の大学整備を進める必要に迫られたこともあって、結局「幻の構想」のまま終わった。

 この構想は、一説にはロンドン大学と各カレッジの関係をモデルにしたものといわれ、Liberal arts and sciences教育を中等教育段階から与え、その結果を大学専門課程において全うするという意味で、かなり理想的なものであった。これが実現していれば、各校の新制高校卒業者は概ね自らの志望に合致するどこかのカレッジの学科を見出してそれに進学することとなったはずである。また、その後の戦後社会の発展とともに、東京連合大学は、首都圏で早稲田、慶應に伍する有力な私立大学になることができたかもしれない。

 ちなみに、四校協定書(『武蔵学園史年報』第2 号所載、ただし各校経営機関の決裁後のものではなく、実際には試案的に扱われたものとみられる)から各学校が整備するはずであった東京連合大学の学部学科を拾うと、次の通りである。

  • 学習院 文政学部(政治、哲学、文学科) 理学部(物理、化学科)
  • 武蔵 文学部(国文、英文学科) 理学部(数学、化学科)
  • 成蹊 政経学部(経済学科) 工学部(機械、建築、土木、工業経営学科)
  • 成城 経済学部(経済学科) 文学部(国文、英文学科) [農学部(農芸化学科)]

 この協定書には、各カレッジの学部別各校別定員の表(各校から各カレッジの学科に何名進むことができるか)まで付録としてついていて、短い期間(1948年の前半という、約半年間)ではあったが、かなり突っ込んだ検討が行われた跡が見られる。

 この連合大学構想の挫折の理由は、ひとえに今も昔も学校というものが短期間に大きなことを決められない存在であると言うに尽きる。やさしく言えば、旧制七年制高等学校は、社会の急速な動き(戦後の学制改革)について行くことができずに機会を逸したのである。さらに、このような連合大学を拙速で発足させたとして、果たして成功したかどうかも分からない。おそらくは、独自の校風伝統を築いてきた各校の自主性を活かしながら、組織としての連合大学を経営していくのは容易ではなかったであろう。

 しかし、この構想には、Liberal arts and sciencesの行方を無視しがちであった戦後の学制改革に対し、Liberal arts and sciencesの輝ける揺藍であった旧制七年制高等学校側の鮮やかな対案と夢が込められているように思われる。この時代から70 年以上が過ぎた今日なお、この逸機には惜しまれるものがある。

 1950(昭和25)年3 月27 日、旧制高等学校最後の卒業生、22期文科76 名、理科84 名の卒業式を行った。そしてこの年をもって、日本中から旧制高校はすべて姿を消した。しかし、武蔵にとってこの日は、同時に新制高校第1 回の卒業式でもあり、前年4 月中学3 年に入学した生徒たちの新制中学第1 回の卒業式でもあった。この日は、旧制の炬火が新制に受け継がれ燃え続ける記念すべき一日であった、ということができるだろう。

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