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通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

  • あとがき

  • 武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧

資料編

武蔵文書館

  • 武蔵大学「白雉祭」案内冊子ページ

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  • 武蔵学園史年報・年史類ページ

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武蔵写真館

武蔵動画館

櫻井毅先生へのインタビュー記録(短縮版)(大久保武)

 このインタビューの記録は、(新型コロナの感染拡大もあって一時中断を余儀なくされましたが、)2019 年から約2 年間にわたり櫻井毅元武蔵大学学長から、武蔵の歴史を伺うことを通して、教育や研究に関する基本的なお考えや、直近の大学改革に対するご意見などを伺ったものです。

 紙幅の都合でここには、すべてを掲載できませんので、抜粋とさせていただきました。全文は、『武蔵学園史年報』第24 号に掲載されています(同誌は本年史の付録DVDにも収録されています)。先生には、長い期間、快くお付き合いいただき感謝申し上げます。また、失礼なことも伺いましたことについては、深くお詫び致します。

インタビューさせて頂く理由:

〇先生は、中学こそ違うが、武蔵高等学校卒であり、武蔵大学卒でもあること

〇大学の草創期から拡大期まで、助手の時代から一貫して大学におられ、学生紛争、学部・学科新設や改組をはじめ、大学における重要事項決定に関与して来られたこと

〇学長職を、2 期8 年間、経験されておられること

〇経済学についての見識はいうまでもないが、学校制度や歴史にも詳しいこと

略歴:

1931(昭和 6 ) 年7 月13日生まれ。

   東京市(現、東京都)出身

1950(昭和25) 年 3 月

   武蔵高等学校卒(24期生)

1955(昭和30) 年 3 月

   武蔵大学経済学部卒(3 回生)

1961(昭和36) 年 3 月東京大学大学院社会科学研究科満期退学

同 年 4 月

   武蔵大学経済学部に勤務(助手)

1967(昭和42) 年 3 月

   経済学博士(東京大学)

1968(昭和43)年 4 月

   武蔵大学教授(専任講師、助教授を経て)

1992(平成 4 ) 年 4 月

   武蔵大学 学長就任

2000(平成12) 年 3 月

   学長退任、同時に武蔵大学退職

 現在、武蔵大学名誉教授  

櫻井毅元武蔵大学学長
(はじめに)

 学園の歴史を書いた「武蔵○○年のあゆみ」(記念誌・正史)は、その性格上、起きた事実しか記されておらず、当時の社会背景や決定過程にあった学内議論などについては、何も書かれていません。しかし、今回の百年史刊行(2023年度に発刊予定)では、私立学校である「武蔵」の2022年までの百年間を振り返るにあたり、正史の他に、主題編が付きます。そこで、学長時代のみならず、若い時から大学の歴史の折々で奮闘されてこられた櫻井先生のご経験は、武蔵の転換点における議論の過程を含めて是非とも記録に残しておくべきだと思っています。

 ところで、学長時代にご苦労をされたお話しについては、櫻井ゼミの同窓会誌「対話」の第2 号から5 号にも書かれておりますので、このまま使えればそうしたいところですが、櫻井ゼミの同窓会誌ですので、その性格上、年史にそのまま掲載はできません。また、櫻井先生の著書「自ら調べ自ら考える―変貌する大学の中から―」(平成13 年8 月28日初版)にある、大学の教育理念に関する式辞、式典における学長挨拶、学長インタビューの新聞記事などを見ると、現在、盛んに批判を浴びている「大学とは、そもそも何か」を考える原点があり、このことは、とりもなおさず、武蔵大学と武蔵高等学校の将来のありようにも関係すると思われます。

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1. 先生は、下谷の西町に事業所をおいて多様な出版を営み、のち「櫻井書店」として主に哲学書や文学書などの出版に専念した櫻井書店社主のご子息として、1931(昭和6)年7 月に東京の下谷の西町でお生まれですが、幼少から、お身体があまり丈夫ではなかったと伺っています。

 ̄ ̄ ̄

 生まれたのは旧下谷区(現在の台東区)ですが、本郷に住んでいました。姉が1 人と妹2 人のきょうだいですが、…(略)

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2. 先生は、旧制中学校の2 年生、14歳の時に、疎開先の長野で昭和20年の玉音放送を聞かれたと伺っています。

 ̄ ̄ ̄

 父は、戦争で無駄に命を落とすことを極度に警戒していたので、私たち家族を守るために早めに疎開させました。その疎開先も、戦況に絡んで変わりました。母と妹たちは、昭和19 年の2 月頃に先に父の別荘があった静岡県田方郡内浦村の…(略)

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3. 先生と武蔵高等学校との縁はどういうものだったのですか。

 ̄ ̄ ̄

 武蔵高校との縁はまったくの偶然です。昭和22 年の3 月に都立武蔵中学校の4 年修了の資格で、旧制高校の旧制最後の試験を受験したのですが失敗し、そのまま新制武蔵丘高等学校へと名称を変えた同じその中学校の旧5 年に、正確には学制改革後の新制高校生としての新2 年に進級するはずでした。でもやる気を失って、浪人中のように落ち込んだ心境でおりました。そうしたなか、当時、父の経営する櫻井書店が、東京大学文学部独文科の教授陣とその関係者を糾合して『季刊ゲーテ』という雑誌を発刊していた関係から、その編集会議に当時若手で末席におられた旧制武蔵高等学校教授の白旗信先生と佐藤新一先生と父が懇意になって、編集会議後の父との雑談の中で父の息子である私のことが話題になり、武蔵が近く新制高校の生徒を若干名募集することになったので受けさせてみたらどうかという助言とお誘いがあったのです。もともと、戦時中の名残が残っていた中学の集団的な慣習になじめなかった私には、自由な雰囲気で知られる武蔵は自分の性格や希望に添っていたということもありました。受験の機会を得られたのは、そういうお誘いもありますが、戦後に学校制度が変わり、旧制中学から編入できる特例措置の最後の適用年だったことももちろんあります。それに私は今までの落ち込んだ気持ちを一掃するために環境をどうしても変えてみたかったのです。

 私は、こうして受験の機会を得て、昭和23 年4 月に出来たばかりの新制武蔵高等学校を受験し、2 年生に編入学をするという形で入学を許可されます。旧制中学の5 年に該当する者は、自動的に新制高校の2 年生になるほかなかったのですが、その機会に私は学校を替えたということですね。

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4. 高校生活はどのようなものでしたか。それと、1950(昭和25)年3 月に、武蔵高等学校を卒業されておられますが、ちょうど旧制と新制との入れ替わりの時期です。名簿には24 期生となっていますが、本来なら、新制武蔵高等学校の第1 期の卒業生ではないのですか。当時はかなり混乱したのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 戦時中とはいえ疎開先でのんびり過ごすのに慣れ、しかも戻ってきた都立高校は戦争直後の混乱期で、戦時中の慣行はなお残しながら、教科書の一部を敵性的表現だとして墨で塗りつぶしたり、海軍予備学生の軍服を着て極端なアメリカ賛美を繰り返す教員への反感などいろいろあって、落ち着きませんでした。帰京1 年目は不真面目で反抗的な生徒としてしばしば先生に注意されていましたが、2 年目からは反省して、今度はバカ真面目な生徒に変身し、優秀な友達と一緒に勉強にいそしみました。でもそういう友人たちは、結構、そのまま東京高校や一橋大学予科などに合格したのに私は合格できませんでしたから、私はとても悪い精神状態に落ち込みました。私が一番親しかった矢沢富太郎君という友人は一橋大学へ入り卒業後、大蔵省に入省して、最後には国税庁長官になりました。その友人ともすっかり疎遠になってしまったのです。父が心配したのもそのような事情からです。そしてそういう不安定な気分の私にとっては、新しく選んだ武蔵での生活環境は、カルチャーショックの連続でした。当時は、今とは違ってクラスに落第して留年した生徒はたくさんいて、同学年でも私より2つ年上の人などは、すでに、立派な大人でしたからね。話す内容は水準が高く、疎開していた田舎のそれとは全然異なりましたし、男女共学以前の男子都立高校生の幼稚で生真面目な雰囲気とも違い、ましてや女性の話題に及ぶと、とても会話についていけませんでした。勉強については第2 外国語の習得や時に斬新な授業内容に接して感激はしたものの、勉学の水準そのものにはあまり変化を感じませんでしたが、私にとって最大の驚きは私自身が無学で世間知らずの無邪気で幼稚な田舎の子供でしかないということの発見でした。思想とか哲学とかに関心を持ったのも、やっとその頃からです。

 高校は途中からの入学という経緯からして、私は生粋の武蔵の人間ではありません。でもなぜか新入りなのにいびられて雑用係として副組長とか組長をやらされたりしましたが、同クラスとなった尋常科から武蔵に入学した人達が持つプライドや愛着はありませんから、逆にその分、武蔵を客観的に見ることができたと思っています。といっても、もちろん良い思い出が多く、生涯親しい友人ができたのもその高校時代でしたし、そのほとんどがなぜか尋常科から来た人たちでした。でも、やっぱり所詮よそ者だったわけだし自分の母校という感じはないですね。大体私には本当の母校と感じられる学校は、小学校から中学、高校はもとより、大学、大学院に至るまで、どこにもないんですよ。事情はあるにしても寂しいもんですよ。でも、学長をやめる時ですね。武蔵大学が自分の母校に思えるようになったのは。

 そのことはともかくとして、当時は新しく大学が設置されるということとは別に、武蔵が大きくその内容と性格を変えた時期だったように思います。でもその変質の意味は学校当局の人たちには十分認識されたようには思えません。もちろん我々もそうでした。大学ができるということなど当時の高校生にとっては全く関心がありませんでした。でも学園の当事者だった方々がそうであってはならないでしょうね。そこから生じる認識の歪みが今でも武蔵学園の学校経営に影響しているように感じられてなりません。

 それにしても、連合軍のGHQから押し付けられた学制の改革、小学6 年・中学3 年・高校3 年・大学4 年という新しい制度に、小学6 年・中学5 年・高校3 年・大学3 年であった旧制度を、どのように移行させるべきか、とりわけ、中学を事実上1 年飛び級させるエリート教育を前提に誕生した旧制7 年制高等学校においては、その対応はより深刻だったと思いますよ。加えて、帝国大学の入学定員と高等学校の卒業生の数が比較的均衡していたため、帝国大学への入学がほぼ保証されていたといってよい旧制高等学校の生徒は、その特権を失い、新制高校生として、いきなり他の全国の新制の高等学校生と、同じ条件で競争して、新制大学を受験することになったのですから、当然、危機感はありましたよ。

 当然、旧制武蔵高校でもその対応は混乱しました。信じられないことかも知れませんが、武蔵高校では、同年の尋常科の入学者なのに制度の移行期には学内の通常の試験の成績だけで旧制と新制に学年を振り分けるという乱暴な決定をおこなっています。武蔵の歴史の中には記されていませんが、学制改革がもたらした悪夢でしょうね。それによって生じた制度変革期の1 学年の差は、大学受験において、後者に決定的な不利益をもたらしたように思うのです。

 戦後の学制改革で、第23 期生は、旧制高等学校1 年修了という形となり、旧制武蔵高等学校は制度上そこで廃止になります。廃止後は、新制の高等学校が誕生しましたから、新制武蔵高等学校の卒業生は、当初そう呼ばれていたように、1 期生、2 期生等となっていた筈です。ところが、学校名称が変わらずそのまま引き継がれたために、旧制武蔵高等学校同窓会の強い意向で、反対意見もあったものの、旧制高等学校が制度的に新制高等学校へと続いているように見える呼び方、すなわち、新制の第1 期卒業生を24 期生、新制の第2 期卒業生を25期生と呼び変えてしまったのです。勿論、この話は、制度上の指摘であって、廃止された旧制武蔵高等学校の教育の理想や伝統を、新制武蔵高等学校も引き継いでいると言う話とは全く別の次元のことですよ。

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5. 武蔵大学新設の時点では、先生はまだ武蔵高校の生徒でおられたわけですが、当時の法人というか経営サイドは、財政面から大学新設に積極的ではなかったという印象も受けます。当時の状況について理解されていることをお教えいただけますか。

 ̄ ̄ ̄

 戦後、官立の旧制高等学校は、すべて新制の国立大学に改組されましたが、私立の旧制高等学校は、そう簡単にはいかなかったと思います。ただもちろん、最終的にはすべての私立および公立の高等学校は私立または公立の新制大学に鞍替えします。ただし、…(略)

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6. 1950(昭和25)年3 月、新制初の武蔵高等学校を卒業された方は92 人おられますが、その中から、同年4月に10 人ほどの方が開設2 年目の武蔵大学に入学されています。先生は、ご病気のために国立大学を諦めて武蔵に入られた訳ですが、大学卒業も1 年遅れて、1955(昭和30)年3 月卒の第3 回生となっています。これも、ご病気のためですか。本来なら大学の2 回生であったかと思いますが。

 ̄ ̄ ̄

 武蔵高校卒業を前にした12 月頃に、私は、結核にかかって発病してしまう。先にもお話したように私の姉が、僅か6 歳で、結核で亡くなっていたものですから、父にとっては、私の病気は相当なショックだったようで、大学に行くより健康を早く回復するのが先決だ、若いのだから遅れてもすぐ取り返せる、焦ることはない、と言って大学受験そのものにも反対でした。それでも…(略)

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7. 先生は、大学卒業後、東京大学大学院に進まれて、宇野弘蔵先生に師事されておられます。経済学の道に入ることは、自然なことだったのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 私は、もともとは、経済学ではなくて歴史を勉強したかったのです。小学校以来の希望でした。武蔵大学で経済学の学士号をもらったところで経済学について何にも知らない。これじゃだめだと思ったのですね。歴史どころか経済学だって学んだとは言えない。病気だったせいで、まともに学問に触れる時期を無駄に浪費してしまった。健康を回復してやっと大学を卒業する頃になって、5 年間何の蓄積もなかったことに焦ったんですね。病後でもあり、…(略)

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8. 東大の博士課程を終えられた1 年後の1961年(昭和36年)4 月から武蔵大学に助手としてお入りになられる訳ですが、武蔵から声がかかるとは全く思ってもいなかったと「ゼミ会誌」に書かれておられます。単に、想定をしていなかったということなのか、それとも、研究分野などとの関係でしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 大学院を出れば、大学を含めて就職先はいくらでもあるというような時代ではもちろんありませんでしたよ。それに私は武蔵大学の中では授業に出ていませんから学生としてほとんど顔を知られていない無名の存在で、武蔵大学は小さい大学だから先生も学生も当時はみんな顔なじみで、そんな学生は珍しいんです…(略)

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9. 1959(昭和34)年4 月に、経営学科(定員200 人)が誕生する時に、工業経営コースと、経営管理コースの2 つが置かれました。当初は、経営学科ではなく、工業経営学科とする案もあったようですが、理系ではない経営学科としてスタートします。先生が、武蔵に助手としてお入りになるのは、経営学科開設から2 年後の1961(昭和36)年ですが、その時には、工業経営コースが廃止になっています。この辺のことは、先生は、少しはご存知なのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 経営学科の中にできた工業経営コースというのは、文系の学科ではありますが、理系学科の誕生の足掛かりを探るようなコースだったと聞いています。…(略)

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10. 今日、少人数教育を貫きという表現は、やや負け惜しみな気もします。法人或いは経営サイドとして、学校規模の拡大を目指す気はまったくなかったのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 武蔵も学校規模の拡大を目指せたのなら、私は、当然、その方が良かったと思いますよ。しかも十分そのチャンスはあった。でも、結果としてそうはならなかった。法人に資金力がなかったということもあるでしょうが、それは他大学にとっても同じことで、当時は建設の場所さえあればいくらでも資金調達は可能だったと思います。ですから基本的には法人内に大学は大きくしないという内々の考えがあったためだと思います。伝統ある高校の名を凌駕しないようにするということで、実際、その趣旨の…(略)

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11. 先ほどのお話に出た正田建次郎先生の名前を採って「正田構想」とも言われた、施設などのインフラは、将来に亘って法人サイドが用意すると約束がなされた等のことについては、どのようにお考えでしたか。

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 「正田構想」という言葉の正確な意味は分かりませんが、武蔵大学のインフラ設備を将来にわたって充実させてゆくというのが「正田構想」で、その場合、様々な施設整備は法人がその費用を負担することを前提として行うということを意味しているのではないでしょうか。それこそが従来から言われていた「自給自足の原則」(設置学校別に自給自足で経営すべきという意味に解釈されそうですが、ここでいう自給自足の原則とは、旧制高校時代から使われていた言葉で、学校運営に必要な経常的支出は学費で賄い、新規の固定資産投資などに関しては法人が財政的な責任を持つという意味)に基づいて将来の設備の充実を果たしてゆくということでしょう。それは学校法人としてのあるべき姿なのかもしれません。姿勢としては立派かもしれませんが、しかし将来に亘ってインフラ整備の費用は法人サイドが負担するなどの約束は、もとより今日的状況の下では無理な話です。財界などから寄付を募ることで…(略)

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12. 「学生紛争」について

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 1965(昭和40)年4 月に、大阪大学で学長も務められた正田建次郎氏(数学者)を学長に(校長も兼務)お迎えしましたが、財政面の課題は、そう簡単には解決できない。

 理系学部の設置は叶わずに、1969(昭和44)年に人文学部だけの設置となりました。大学の人文学部新設は、本来「武蔵学園創立50周年記念事業」の一環として計画されたもので、これを前提に、1968(昭和43)年11月には、朝霞に大学の総合グラウンドが完成し、1968(昭和43)年3 月末には、濯川の南側敷地に高中新校舎が完成して移転。残された旧高中校舎は、大学3 号館として、主に新設予定の人文学部が利用する建物としての改修がなされ、以降、濯川を挟んで北側敷地は、大学が使用することとなりました。翌年の1969(昭和44)年4 月には、晴れて人文学部が誕生することになります。更に、大学としては、新学部の設置(複学部になったこと)に併せて、学生増に見合う福利厚生施設を充実させる必要にも迫られ、1970年(昭和45年)2 月には、現在見ている建物とは異なりますが、6 階建の学生会館と大学体育館が新築されたりしています。

 当時は、確かに、大学をめぐる社会的環境が急激に変化していった時代でした。大学進学率がどんどん上がって学生が増え、その存在感も急激に大きくなってきました。また、学生の社会活動も増え、学内では新左翼系のセクトのグループが姿を見せ、民青と称する共産党の下部組織も出来たし、社会党の下部組織である社青同も、いくつかの分派に分かれて、活動していました。いま大久保さんが説明されたように、60 年安保騒動や欧米の学生運動の高まりと、日本における学生運動の激化もあって、武蔵大学もその影響からもちろん逃れるすべはありませんでした。少人数でもセクトに分かれ…(略)

櫻井先生が使用した昭和23 年の通学定期券。櫻井先生により武蔵学園記念室に寄贈されたもの。
〈学長時代のご苦労〉1992(平成4)年4 月 から2000(平成12)年3 月

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13. (略)

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14. 金融学科の開設と臨時定員増について先生が学長に就任された年の1992(平成4)年4 月、金融学科が開設されますが、先生は企画の段階から中心にいて、学科の新設準備に携わっておられます。日本の大学の中にあっては画期的と言われた「金融学科」を提案されるに至った理由は何なのですか。また、他の学科提案はなかったのですか。

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 はじめに言っておきますが、金融学科の発案は、実は、私ではありません。設置を強く主張されたのは、経済と経営の2 学科構成でこのままやっていたのでは経済学部の発展性がないとの危機感を持っていた若い先生たちでした。その方々は今はもう武蔵には居られませんが、当時、教授会のもとに今後の経済学部の展開の方向を検討する臨時の全員の会議が設けられ、私が議論の司会役としてそこに参加していた時の議論がもとになっています。ですから、私は確かにあとで金融学科のカリキュラム構成などを考えたりはしましたが、直接の金融学科の発案者ではないのです。他に別の学科案は無かったのかと聞かれても、記憶がないですね。金融学科は、とてもいいアイディアだと皆感じたと思います。当時は、バブルの崩壊する少し前でしたが、…(略)

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15. 審議会などの委員に大学の先生が参加することと役所との関係について

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 私は、その時期にはイギリスに短期留学していましたからね。金融では大御所であり、武蔵高校の出身の後輩でもあるということから、以前から金融学科のことでいろいろ相談に乗ってもらっていた大阪大学の蝋山教授も折よくロンドンに来られていましたから、よく会って金融学科の設立について、人事やカリキュラムについて意見を聞いたりしていました。もちろん私が国内に居たら、そういう教授会の決定はさせなかったと思います。但し、金融学科申請がなかなか認められなかった理由…(略)

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16. 1998(平成10)年4 月に社会学部が新設されます、これはまさに先生の発案によるものですが、「年史」には淡々とできたように書かれています。経済・人文の2 学部体制から3学部体制になる訳ですが、学部を増やすことが一番の狙いだったのですか。 その際、反対意見とか、別の学部構想とかがあったのならお教えください。その後に、社会学科が抜けた後の人文学部に比較文化学科を立ち上げておられますが、これも計画のうちだったのでしょうか。

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 社会学部の構想のことですが、私が最初に学部改組を提案したのは、社会学部の新設ではありません。人文学部の欧米文化学科をヨーロッパとアメリカ大陸に分けて後者には南アメリカのスペイン語など南米の文化を加えて全体を2 学科にするのはどうか、あるいは東アジア文化学科という学科を新しく作って日本文化学科をそれに吸収するのはどうかというものでした。しかし、前者は英語圏の先生方からは英語はヨーロッパ、アメリカ、カナダ、それにオーストラリア、ニュージーランド、インドその他世界中で使われているので分けられないと大反対を受けましたし、東アジア文化学科の件もそこまで範囲は広げられる自信は我々にはないとして賛同は得られず、これらの提案はすぐに諦めました。実際、中国や南アメリカまで手を広げるのは理念としては面白いんですが、武蔵大学の実力ではほとんど不可能ですからね。

 ところで、他方、人文学部は、初代学部長の高津春繁先生の構想になるヒュマニティーズ、つまり哲学・史学・文学を縦割りにせずに横断的に学ぶという趣旨の学部でした。しかし当時…(略)、

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17. 江古田キャンパスの施設建設計画の推進及び朝霞グラウンドの施設整備(朝霞合宿所、部室の増改築)(大学6 号館、大学7 号館、大学8号館 及び 現大学4 号館である武蔵倶楽部、大学9 号館の増築、図書館内貴重図書室の増築)江古田キャンパスの整備充実に併せて、遅れていた朝霞グラウンドの整備にも取り掛かられています。その点で、一番のご苦労は何でしたか。

 ̄ ̄ ̄

 大学に新しい建物などいらない、と、いわゆるハコモノ説を唱え、問題は建物ではなくて中身だといわれて増改築に反対の先生は確かにおられましたが、教育こそその中身ではないか、中身を恒常的に確保できない畑の中の「バッハ・ホール」の建設とは全然意味が違うと考える私は、その主張には根拠があるとは考えられませんでした。私は、基本的に教育研究環境の十分な整備があってこそ教育水準の向上が望めると信じていましたから、就任時から大学の施設整備は急務であると考えていました。私が学長としてやったことの大半は大学施設の改増築だと考えていますし、それは成功であったと信じています。他大学では数年前から施設設備の充実に取り掛かっていたのです。すでに各大学が行っていた先の臨時定員増による増収が大きな手掛かりになっていました。私が学長に就任して…(略)

 

●櫻井学長時代の大学の主な施設整備

① 大学4 号館「武蔵倶楽部」 1996(平成8)年11月完成  

② 朝霞合宿所、部室、グラウンド整備

  1996(平成8)年11月完成

③ 大学9 号館の増改築

④ 大学6 号館、7 号館 

  1997(平成9)年3 月完成

⑤ 大学8 号館の建設計画の完成 

  2002(平成14)年7 月完成

(施設計画全体ではおおよそ45億円)

 

〈櫻井学長以前の大学の主な施設整備〉

●正田建次郎学長時代

1967年(昭和42年)公表の「学園創立50周年記念事業計画」、1969年完了

① 朝霞総合グラウンドの整備が、昭和43年11月に完了

② 大学体育館、体育厚生館(学生会館)が、昭和45年2 月に完成

③ 朝霞グラウンドに、学生寮、旧合宿所が、昭和45年3 月に完成

④ 高等学校・中学校の新校舎建設(濯川の北側に移転)昭和44年3 月に完成

●岡茂男学長時代

1975 年(昭和50 年12 月)から、急逝された鈴木武雄学長の後を継いで、学長代行に就任して以降、10 年あまり学長を務めた。1980年(昭和55年)3 月の中講堂棟工事から開始、1982年(昭和57年)3 月末完成。

① 中講堂棟(学生食堂) 

  昭和55年9 月完成

  後に、大学2 号館と改称

② 教授研究棟 昭和56年7 月完成

③ 図書館棟 昭和56年7 月完成

④ 共同溝を含む外構造園工事

上記の整備計画総額は34 億円。(内田祥哉先生監修)

 自己資金以外の資金調達は、日本私学振興財団から1980(昭和55)年に9 億円を借入、翌年に同財団から4 億円、富国生命から3 億円を借入した。既存の借入金3 億5 千万円と合計すると、昭和56 年度末時点での長期借入金残高は19 億5 千万円に達した。当時の大学の年間収入が22億円の頃である。

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18. 学内の事務電算化の推進及び情報教育センターなど情報関連組織の整備1993(平成5)年には、AV外国語センターと並んで情報処理センターが開設されていますが、発足のきっかけは何だったのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 情報関連の組織・運用については、その発展充実は、農林省から小野さんが情報の関連の技術者として入ってきたことと、高等学校時代の私の友人東大教授和田英一君の紹介で、当時、実験的だと言われていた慶應大学の藤澤キャンパスを見学に行ったことがきっかけですね。和田君の紹介で、当時の慶応大学の村井純助教授を…(略)

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19. 大学事務の組織変更についてもご苦労されたかと思いますが、狙いも含めて、どのようにされたかったのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 先ほど、あとで述べるといっていた大学事務の組織の変更について、この辺で少ししゃべっておいた方がいいかも知れません。社会学部を新しくつくることについて、はじめに留意したことは、教員の増員は必要だから仕方がないとしても職員の増加は極力抑えなければならないということでした。そうしないと法人との調整が難しく…(略)

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20. 大学院の存在について、武蔵大学にとって大学院を持つ意味とは何だったのでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 大学院は経済学部はドクター・コースまであり、人文学部はマスターだけがあった時代が長らく続いていましたが、私の学長時代に社会学専攻の大学院を人文科学研究科の方に追加することにしたのは、決して文部省から要請をされたわけではありませんが、まさに、文部省の意向への忖度です。その後さらに大学院の人文科学研究科に社会学専攻を含めて博士課程を追加開設しました。大学院に大学の質の一層の向上を目指した文部省政策の一環だったのでしょうが、当時、大学院がない、あるいはあってもドクターまでないような大学は3 流以下の大学として扱うというような話が伝わってきましたので、社会学専攻を慌てて作ったのです。人文の大学院の全課程に博士課程を追加したのも同じ趣旨です。無責任なように聞こえる…(略)

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21. 学芸員課程は、過去に一度廃止を巡る議論がありましたが、教職課程も含めて、今日、存続させる意味について何かお考えがございますか。

 ̄ ̄ ̄

 教職課程や学芸員課程については、関わりがあったことがなく、良く知らないのです。大学で取れる資格ということで、教職や学芸員課程を設けたのだろうと思います。教職課程の方はそれなりの数の卒業生を出して、特徴的な教員を結構生み出しているなという印象を持っています。卒業生の同窓会の組織もわりに活発に動いていた記憶があります。私はその会の設立の際に何かお手伝いしたような気がします。何回かその会に出席して皆さんの活動報告を聞きましたね。

 学芸員課程の方は、あまり関与した経験がなく、問題点としては、実習を引き受けてくれるところが少なく、就職先がなかなか見つからず、その教育の成果を生かすことが難しいと思っていました。継続させるか、あるいは何か変化が必要か、少し考える余地があるのでしょうね。

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22. 大学がユニバーサル化すればするほど、研究より教育の方に重点が置かれるようになり、近年、大学における教育の質の向上が指摘され、「学生目線での教育重視」が唱えられています。「研究」と「教育」の関係、また専門教育と教養教育(リベラルアーツ)の関係について、日本の大学制度の変遷と併せて、先生はどのように見ておられますか。また、AI の発達した世の中ですが、教育にあたり何を大切にすべきとお考えでしょうか。

 ̄ ̄ ̄

 これはなかなか難しいですね。私は研究しないと教育もできないという立場なんです。分からないことがいっぱいあると授業していてもうまくゆかない。いい加減になって自分でも苦しいのですね。私自身の経験で言えば、私ははじめ教養の「経済学」を、次には専門科目の「経済原論」を、あとの方ではやはり専門科目の「経済学史」を教えていました。「経済学」は楽なのですよ。教えることがいっぱいあって、毎年同じでなくてもよい。経済史的なこともあるし、現代の経済の動きなども、面白おかしく話すことができる。時には経済学の歴史の話を加えてもいい。自分で話していても楽しい。でも大部分は知識の切り売りなのですね。自分の過去の勉強の蓄積の量によることが多い。これは仕方がない。でも現代の経済の話となると自分でいろいろ情報を収集し整理しておかないと教えられない。これもまた楽しいし、教えていて自分でも勉強になるんですね。

 ところが「経済原論」の講義というのはとても厄介です。今までの権威ある大先生が大体のところは整理してきちんとした体系でまとめてある。そういうのが教科書になっている。それに代わる自分の体系で講義するというのはとても難しいんです。とにかく自分の体系といっても大部分は先学の真似ですから自分の考えを入れたりすると却って矛盾も出てくる。とりあえずは自分の先生の本をテキストにしてやるしかないのですが、ところどころに疑問も出てくる。どうにも教え難いところが出てくる。「原論」というのは一つのまとまった体系だから、矛盾があると次々に矛盾が拡大してしまうのですね。だから勉強が欠かせない。準備不足だとどうしても…(略)

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23. 「教員評価」についても議論が分かれるのですが、何かお考えはございますか。

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 教員評価ということについてですが、大学の先生の中には、確かに、世間からみると変な人達はいますよ。でも「大学の常識は世間の非常識、世間の常識は大学の非常識」なんて言葉をもてあそんで得意になってもらっても困るんです。もちろん、論文を書かないのは困るけれども、たくさん書いているから能力があるというものでもない。たった一つしかなくても画期的な論文ということもあるし、短くとも、長くとも論文の評価はそれにかかわらない。学問の世界はそう簡単ではないんです。ただ論文になって発表されているかどうかは別にしても、独創的な、画期的なアイディアを持たない者が研究者として尊敬されることはないとはいえると思うんです。

 私は、教員採用にあたっても、単に業績が多いか否かだけでは、決めてはこなかったように思います。研究業績の数やその内容の水準はもちろん大切ですが、研究動機とか、研究への情熱とか、研究の将来性とか、どういう価値観で生きているのかなどにも注目してきましたね。

 それに教員の評価というのは、本当は学内の一部の人達だけではできませんよ。その人の専門領域について、詳しく知る人は学内には少ないからです。学閥についても悪いことのように言われるけれども、狭い学閥の中では、お互いの教員同士の厳しい相互評価がありますよ。公募というのは聞こえはよいが、縁故の隠れ蓑だったり、能力の評価が困難だったりして、必ずしも最善とは言えないことが多いのです。どうやっても評価はなかなか難しいですね。私は大学院の博士論文の審査の場合には5 人の審査委員のうち、2 名は外部の識者に加わっていただくように規定を定めたことがあります。大学間の格差をできるだけなくして公平にしたかったからですが、同時に内部の馴れ合いを排したかったからです。それは内部の教員の昇格審査でも必要なことなんですが、なかなかそこまではやれない。学閥でなくとも、グループの仲間意識もありますし、業績だけでは決められない大学内の研究以外の仕事もありますからね。

 研究を点数化して一律な評価基準を設けるといった傾向は良くないと思います。もともと業績を点数化すること自体問題なのに、点数化してしまうと、短い時間で点数を増やすことだけに集中することになりますから、…(略)

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24. 進行が悪くて、話が行ったり来たりしましたが、大学のガヴァナンスについて伺いたいと思います。

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 例えば、学長や副学長が教授として自分の所属する学部の利害を優先するような運営をするのであれば、それは大きな間違いだと言わざるを得ませんが、武蔵ではそういうことは従来はなかったと思います。そして法人もそのような大学自身の決定に異を述べることもなかった。しかし学部同士で対立するようなことが起きれば、そして学長がそれをうまく裁けないことになれば、法人との関係でも簡単には問題が片付かないことになりますね。だからそこのところが大事なんです。大学の意思が統一されていることが法人と大学の均衡上も大切なんです。

 法人理事会と大学との関係は、2 枚のお皿を裏で重ね合わせたようなものだと私は以前から考えています。お互いに、離れられない関係ですからね。どちらが表でどちらが裏ということでもなければ、ましてや、どちらが偉いという関係でもありません。

 でも会社の組織しか知らない人は、教授は従業員で我々はそれを使役する経営者だと考えてしまうんですね。大学の成り立ちやその組織というものは歴史的由来を含めて考えないとわからないんです。自分の経験だけでしかものが見えないのですね。

 大学というのは、特に独自な歴史的背景を持って出来上がってきたものなのです。決して単一の組織の上下関係で管理者と結ばれるものではないんです。私立大学だとしても公益法人であって利益を求めるものではないんですね。だから大学という組織の運営は、本来的に学問研究という対外的な権力からの影響を排するという自治的な性格が残っているので、命令を上から下に流すことだけでは決して成り立ちません。主人と家来、あるいは社長と従業員という関係ではないのです。

 現在の大学改革で、法人の監事、会社でいうところの監査役が学校運営をしっかりと監査しなさいという考え方については、私もそれで良いと思います。但し、監事の選考のされ方とか誰が監事を任命するのかという点では、今のままではダメだと思いますよ。監事というのは単に財務状況を点検するというだけではなく、その経営が本来の目的に合致しているか、大学であれば、教育対象である学生に適正に教育がおこなわれているか、教員が研究・教育するための条件を満たしているかどうか、施設などの教育環境が正しく保たれているか、などを厳正に観察して、経営がそれを逸脱していればそれを的確に指摘して是正させるという重要な役割を持っていなければならないし、それは監事が経営者の支配下に置かれることを絶対に意味しないということなんです。株式会社における最近の「ガヴァナンス」の議論を見ればわかるように、企業においても経営者が株主の利益を十分重んじているかどうかを監査する非執行役員が重要な役割を演じるようになっていることからも、ある程度うかがわれることでしょう。株式会社が株主の利益を何よりも優先する―もちろんこれ自体大きな問題なのですが、ここでは触れません―のに対して、学校法人は第一に学生の利益をあらゆる面で最優先しなければならない。そのためには優秀な教員の確保を優先しなければならないし、必要な設備を整えなければならないわけで、それらを維持し保全する義務がある。そうでない経営者は、理事の事務執行について監視する役割を持つ筈の監事によって辞職を勧告されて良い筈です。あとでまた問題にしたいと思っていますが、武蔵学園での評議員会の存在と役割は、大いに検討に値するものと思います。今まで事実上機能していないわけですからね。避けられない大きな問題です。

 教授会は大学の決議機関ではなく審議機関であると私立学校法で明確に定義しなおされたようですね。教授会が大学の管理運営に直に携わると、忙しい中で時間を取られるという点では大変だったのですが、教授会を中心にした運営は、自らが教学・研究に責任を持って考えると云う点では良かったと思います。私は、学部長の時でも、学長の時でも、反対意見でも何でも、兎に角、意見は伺いましたよ。できないことはできないのですから、その意見に同意するわけにはゆかなくても、意見を言ってくる皆さんのお話を丁寧にお聞きすることが大事なのですよ。それができれば、あとは学部長なり学長が引き取って集約し自分の意見として理事会で開陳して決定すればいいのですよ。あくまでも学長の責任でやらないと学問研究の素人で何もわからない理事の多数決で決まってしまうという恐ろしい結末になりかねませんからね。今の大学改革のポイントは学長が大学のトップになるということなのですよ。私学だから経営のトップが理事長で、それが学長と分離している存在の場合、形式上、教学を含めたトップのような印象ですが、その点、分かりづらくなっていますね。私学を代表する慶応とか早稲田は、理事長は総長、塾長が兼ねているから国立大学の学長と同じで、今度の制度改革にも適合できるのですが、小さな大学では理事長と学長が別建てになっていることが多いから、上下の順位をつける関係でそういうはっきりしないことが起きるんですね。

 そのことはともかくとして、山本為三郎理事長・正田建次郎学長(のち学園長)の時代は、どちらかと言えば移行期で、法人による運営に重点がおかれようとしていた時代だったのかも知れませんが、それでも大学の意見は良く聴いてもらいきました。正田さんが大学の人であったから、ある意味では当然でした。そのあとの根津嘉一郎理事長(2 代目)の時代は、逆に、法人が表に出ることはほとんどなくなって、運営は大学に任せてくれていました。正田学園長が急逝された後、学長だった岡先生が一年学園長代行を務め、中村新一専務理事が正田学長時代のあともしばらく留任していましたから、岡代行時代はもちろんその後の新しい太田博太郎学園長の時代に入っても、比較的以前の状態からの継続性が保たれたように感じます。岡学長から浅羽二郎学長に代わった頃、新しく来られた、かつて高校時代に根津理事長と同級生であった川合正治専務理事も、大学にはとても協力的でしたから、浅羽学長の下で学部長として学校運営に携わっていた頃の私にとってもやり易かったし、のち私が学長になった時にも、川合さんの後に専務理事になられた荻生敬一さんも旧制武蔵高校の卒業生で、高校偏向気味ではありましたが、そういう雰囲気はまだ残っていたという印象を持っています。今はそうでもないようですね。また、近年、専任の理事が増えているようですが、根拠となる業務内容の説明も必要でしょうね。

 話が理事会と大学あるいは学部教授会との関係のことになってしまって、本来の主題だった委員会方式の非能率性のことには触れなかったですね。なかなか難しい問題です、これは。民主主義的な運営の根幹にかかわることですから。会議を通して意思決定に至る過程そのものも問題ですが、ただその場で皆さんの意見を聞くというのではなく、あらかじめはっきりした原案とそのもつ方向性を示しておいたうえで、あくまでそれを遂行するという意思が見てとれれば、大体はまとめてゆくことはできるというのが自分なりの考えでした。皆の意見を聞いて決めようと考えてはだめですね。

 企業の「ガヴァナンス」については、最近の「新自由主義」との関連で、今までわずかながらお話の中に出てきたかと思います。そういう企業における「企業統治」としての「コーポレイト・ガヴァナンス」という言葉が今、というよりかなり前から話題になっていることはご承知の通りです。株主優先の極端な会社の統治体制で、さすがにアメリカでも最近では、それへの反省で、様々なステーク・ホルダーに対する配慮の重要性が指摘されるような動きが出てきました。いずれにしろ、その言葉が、いま会社でない大学でも、大学の「ガヴァナンス」はどうあるべきかという問題として拡散し、盛んに議論されるようになっています。そのことについて最後にお話ししておきたいと思うのです。

 「アカデミック・ガヴァナンス」の議論がこの頃では結構行われるようになっているらしいのですが、私は大学を辞めて久しいので、なかなか議論に触れる機会がありません。ただここでは、最近読んだ羽田貴史「高等教育のガバナンスの変容」(『シリーズ大学6〈組織としての大学〉』岩波書店2013 年、所収)の叙述を一部参考にしながらお話ししていきましょう。それによると、「ガヴァナンス」の定義には国際的な違いもあることを承知した上で、B.クラークは、政府が力を持つ「官僚型」、教員が力を持つ「同僚型」、それと市場メカニズムが大きな力を持つ「市場型」に分けているとのことですが、日本は「官僚型」の国立大学と「市場型」の私立大学型の併存だとしているようです。しかしこの分類は現在の日本の大学の変化を説明するには単純すぎる。特に1970 年代以降の新自由主義時代の到来でもたらされた変容はそれほど単純ではない。外国の事情は分かりませんが、とりわけ日本ではそうなのではないかと思います。

 振り返ってみると、戦後日本の大学改革は、アメリカ型の教育制度の導入と、戦前から続く教授会自治の完全な制度的確立であり、私立大学の国家の規制からの緩和であったといえそうです。私学は新しく個人の自由意思に基づく公共的な営みとして把握されることになり、国家の援助はむしろ理念的に拒否されることになります。これは私立学校に対する公的援助を否定した『日本国憲法』第89 条によって明確に示されているところでもあります。他方、日本では私立大学は、教育基本法によって公共性を有するものとして規定されながら、私立学校の公共性は国家が認可することで、公立学校の国立学校に対する補完的地位のものと解釈されたのです。そのことが中等教育の事実上の義務化が進み、さらに高等教育の大衆化が現実のものとなるにしたがって、わが国で大学改革が問題になってくるとき、文部省による国、公、私立大学の一元的管理を目指す方向となって現れてくることになるのです。国立大学の方は従来の伝統的な国家規制的な方向が強化され、他方、私学に対する公的な援助が憲法89 条の新しい解釈によって可能とされ1970 年には私学に対する経常費補助が政策化されることを通して国家の規制力の根拠ができてくる。私学の定員の管理はそれを届け出制にしたために定員の維持が極めてルーズになってくる。もちろん私学経営の市場性を重視するという名目で大学の質の維持を各大学の経営努力にゆだねようとする文部省は、大学の研究・教育の劣化に直面して、政府の統制を強化することで劣化を抑えようとするのですが、教育の差別化をもたらすとして批判され、私立大学の拡大と質の劣化はその後も進行し続けることになるわけです。

 他方で、大学の大衆化現象は先進国に共通で、イギリスではポリテクニークの増大でとりあえずしのぎ、アメリカではコミュニティ・カレッジの拡大で対応したわけですが、60 年代から70 年代に及ぶ世界的な過激な大学紛争は、それまでの動きを変える新しい方向性をもたらすことになる。日本でもまさにそうで、そこでは学生の側から改めて大学の存在意義についての疑問が提起され、その中で、大学の重要機関として学校教育法で認められていた教授会の自治で代表されていた旧来の大学の統治体制が限界を示すことになってくるわけです。その過程では、教授会のメンバーに加えて、助手であるとか、職員、学生の代表などをもって大学管理に参加させるとか、筑波大学のように教授会を設けず学長中心の全学的な管理体制を実現しようとする方向もあったが、いずれも普及しなかったのです。

 この70 年代は同時に、資本主義が変貌し、従来の福祉国家が新自由主義の方向に舵を切って国家による規制を緩和し、小さい政府を目指して公共部門の縮小を図ることになる。その結果として70 年代から80 年代にかけて大学審議会が設置され、大学設置基準の大綱化がもたらされた。これはまさに公共事業の減量と効率化であり、政府の政策評価の一環であり、新自由主義政策の具体化であるといってよいでしょう。最大の改革と目された国立大学の法人化は教学と経営の一体化を目指すもので、政府財源の供給はあるが、自律的に運用されるものとされ、競争による成果の獲得と人材の確保が至上命令とされるに至ったのです。ただその道は簡単ではない。中心的大学の存在と地方大学との対立や競争的資金の獲得などにおける各方面の不一致は解消されているわけではない。改革における象徴的な国立大学の法人化を含めて、既成の政治勢力との妥協、したがってその利益を依然ひきずることによって、その新しい試みも不徹底に終わって問題を残してしまったわけです。私立大学においても、改革は規制緩和によって競争を活性化するという方向でなされ、品質保証のための履行チェックの機構の構築が進められたが、必ずしもそれが順調に推移しているとはいいがたい。新しい「ガヴァナンス」への期待ははっきりしない形のままで、結局それは、新しい大学に対する国民的な合意形成がなされていないことによるものと言えそうです。

 それでは、我々はどのような理想を持って、どのような大学を構想してゆくべきでしょうか。そこではどのような「アカデミック・ガヴァナンス」が求められるのでしょうか。具体的に武蔵大学をとって考えてみることにしましょう。武蔵大学が私立大学であるということから始めてみることにします。前にも指摘したのですが、私学の代表的な大学である早稲田大学あるいは慶應義塾大学も、武蔵と同様に学校法人である訳ですが、その代表である理事長は、学内での投票などによる選考によって選出される大学の総長あるいは塾長でもあります。というより学内の選考で選ばれた総長あるいは塾長が学校法人の代表者になる、という形をとっている。文科省が推進した法人化の構想の下で、国立大学を学長主導で動かしてゆくという方針にも合致する形です。2003(平成15)年10月に国立大学法人法が公布され、かつての国立大学は、今は法人化された大学として、周知のように、学長を大学の頭に据え、その下の教学組織と経営組織の二つを置いて大学を構成している。早稲田、慶応などはそれに近い。それに対して多くの私立大学は、早稲田、慶応と違って、学校法人の経営母体としての法人組織と、それに対応する独自の組織体である大学の教学組織を別個に抱えて、そのそれぞれの長は別で、上位に立つ法人が下位にある大学を上下関係として支配するという形をとろうとしている。武蔵大学でも例外ではないですね。その根拠は「私立学校法」にあって、「私立学校法」は最近の改正によって法人理事長の役割を重視したことが大きい。それは、私見によれば、大学の歴史的伝統の意義を理解せず、その役割を単なるイノベーションの手段に矮小化し、具体的に役に立つ人材養成に特化しようとする新自由主義的なイデオロギーに毒された見方というほかない。最近の大学の「ガヴァナンス」問題もそのことに尽きるといってよいように思うのです。

 大学の「ガヴァナンス」を考える場合、まず必要なことは大学を教学と経営の一体化としてとらえる視点を捨てることです。大学の研究や学生の教育ということは必ずしも経営の理念と合致するものではないということを理解することが必要だということです。競争の活性化が教育の成果や研究の成果にすぐつながるとは考えられないということです。それは大学の二元的構造を上下の関係に一元化する誤りに通じます。研究や教育の主体は大学自身であり、決して文科省や学校法人にあるわけではありません。そこは研究・教育の環境を整えるものであっても、自らが研究・校育を行なう主体であるわけではありません。資本主義の経済法則が客観的に作用するという信念は新自由主義のものですが、研究や教育が経済の法則に強制されて動かされるものでないことは誰でも経験で知っているでしょう。成果主義と援助金との関係が、すぐに役立つ研究や簡単に成果が出てくる研究に特化してゆく傾向は、すでに理科系、工学系の奨学金や研究補助金の配分の結果として出ているところであり、それが将来の我が国のノーベル賞への期待を大いに萎縮させている理由であることも、今や誰でも知っている現実です。そうであれば、そのような欠陥を排した行政が必要であり、大学においてもその教学体制にふさわしい「ガヴァナンス」が準備されなければなりません。

 武蔵大学は、今のところ文系の大学ですから、大きな研究費や補助金の問題はあまり問題になっていません。それでも研究費が増加せず削減されている状況下では、外部の研究補助金が必要になってくることは言うまでもありません。武蔵大学では、近年、科学研究費補助金など外部研究費への請求件数が少しずつ増加してきているようですが、その手続きの煩雑さは理系の研究者の苦労と比較すればはるかに少ない筈なので、是非その努力を続けて欲しい。若し、請求が少ないとすれば、そのことが示すのは文系では研究費を必要とする割合が少ないか、あるいは研究していないのかということかもしれません。しかし、例えば経済学部のことで言えば、研究費を獲得できるのはごく身近で役に立ちそうな研究が多く、一般的な研究では、女性問題とかの話題性に富むものが優先されていることは確かです。地味な研究や体制に批判的と思われるような研究に補助金が割り当てられることは稀でしょう。しかもそこには競争原理が内包されています。競争をあおることによって成果を増やそうという目論見が隠されているわけですが、研究というものが本来的にそのように簡単でないことはほとんどの人は承知しているのではないでしょうか。成果の目論見に対して払うのか、研究の成果そのものに支払うのが効果的なのか、難しい問題ですが、文科省で考えているようなやり方でいいとはとても思えない。いずれにしても、これは研究者自体の合意が必要であり、資金の管理者の判断によるものではないということになります。例えば、大学の法人役員が、会社のようにそれぞれ担当があって、教育担当とか、研究担当とかがあったとすれば、いかに異様であるかが分かるでしょう。事態が資金の配分をめぐる競争によって収束してゆくと考えるのは、経済の原理主義的な考えというほかないのです。

 学校法人は、何度も指摘していることですが、上から下まで一本で貫かれるような軍隊的組織、あるいはそれを真似た企業組織とも違っているのです。それは学校の経営を行う法人組織と、それが経営を任されている学校が下にぶら下がっていて、その学校の教育内容、研究内容については学校自体が自主的な権限を持っているというのが、古くからある私立大学の自然な姿なのです。大学は特殊の人物を養成するところではない。「教育基本法」が規定しているように、教育の目的は「人格の完成」であり、そのための人格の陶冶でなくてはならない。そこさえはっきりとしていれば、あとはおのずと決まるでしょう。他方で、大学の「ガヴァナンス」は、企業の「ガヴァナンス」がそうであるように、経営・財務的観点の強調と同時に、その理事長に代表される法人の権限行使に対して掣肘を加えることのできるシステムを構築する必要性が期待されているはずです。企業の「ガヴァナンス」が株主に対して、最大限の利益の拡大を求めて、自己株の取得による自社の株価の上昇を図るとか、M&Aによって外部から容易に技術を導入することで自社開発を怠るなど当面の利益獲得に走る経営者というものを会社の代表者に位置付け、それを確実に遂行しているかどうかを監視する役割に監査役を置いている。それに対して、学校法人の監事は、法人が設置学校を適正に運営しているか、教職員が不足していないか、学生が不利益を被っていないか、教育施設・設備に関して学生が不自由していないかを絶えず注意する義務を負っている。一般の会社にあっては、経営者がいたずらに短期の利益を求めて時価株を購入して株価を上げたり、利益の上がらない部門を簡単に整理したり、自社の研究部門を縮小して、他社の技術をM&Aで手に入れたりして、長期の戦略を欠き、投資でなく投機の資本主義の状況を生み出していることが最近しばしば批判的に伝えられていることは周知の通りです。そしてそれは改めて企業におけるステーク・ホルダーの存在とその評価の問題として扱われています。そのような動きを私学に当てはめて類推してみると、法令に違反している訳ではないものの法人の監事が理事長によって任命されることで批判を封じられたり、従来、当然視されていた学部長を理事職から排除したりする傾向は、ある意味で危険な兆候ではないかと思います。法人の監事についても、「コーポレイト・ガヴァナンス」の議論の中では、経営者が株主の利益を最大限にしているかどうかを監視する非執行役員の配置として、その最大のポイントであったことを忘れることはできないと思います。会社の監査役は当然、執行役員に対する監視人なのです。ですから、理事長の意のママに動くような人物ではその役割を果たし得るものではないことは明らかでしょう。そして大学が学生ないしその保護者の拠出する学費を主たる財源としている以上、学生の研究・教育を行う教員と補助する職員、そしてそれを支える環境の保持とその施設・設備の充実は、当然法人の責任となる。その運営と財務は人事とともに当然ガラス張りでなければならないし、ステーク・ホルダーを形成するそれぞれへの責任は明確に規定しておかなければならないことになるはずです。

 法人の組織の在り方についても、これは武蔵大学に限らないことかも知れませんが、評議員会の問題がある。これは早く再検討して解決しなくてはならない問題ではないかと考えています。現在でも、理事会と評議員会が同時に同じ場所で行われ、その人事も理事長の人選に任されているようですが、本来の構成原理に照らして、考え直すべきではないかと思っています。評議員会は理事会とどういう関係にあるのか長い間不思議に思われることもなく、規定も曖昧なまま、理事も評議員も同じテーブルに座って同格に位置付けられ同格に発言も許されている状況ですが、本来、執行機関である理事会の暴走を抑えるのは、制度的には評議員会の役割であり、同時に私学法で規定された監事の役割でもあります。理事会と評議員会は、本来、別個に開催されなければなりません。評議員の中に、設置する学校の卒業生を加えなくてはならないことなどを定めているのもそのためです。ただ武蔵学園は大学のほかに高中を含んでいるためにその高校の卒業生を加えていますが、卒業生の数や大学と高中の財政規模から比較しても、大学と高中の扱い方は、理事会の人選以上に、はなはだしく均衡を欠いています。これも正す必要があると思います。問題は理事会や評議員会の在り方にとどまりませんが、ここではこれ以上問題を広げてゆくつもりはありません。ただ、武蔵の開学百周年を記念して前途を展望しようとするなら、まず学校法人根津育英会武蔵学園の根本的な組織の見直しこそ最初の必要事ではないのではと思います。

 最後に、武蔵大学についていえば、大学の研究者の自治的性格を持ったその組織は、時代によって少しずつ変化をしたとしても、大学独特のものであり長い人類の伝統が形作ったものです。確かに時代によって変わるものもあるが変わらないものもあるでしょう。環境がどのように変わっても、学問の発展はすべて個人の努力にかかるものであり、そのための人格の陶冶こそが大学教育においてもアルファであり、オメガなのであることに変わりはない筈です。国、自治体、(学校)法人のいずれがその経営を担当するにしても、「自治的性格を尊重するという原則」だけは維持されなければならない不変のものだと、私は思っています。

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25. 先の大学の機構改革のこともそうですが、こうした話を通じて先生から何をお伺いしたいのかと言えば、日本の教育はどこで大きな失敗をしたのだろうかということです。

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 そういう大きな問題についてここで論じるには能力不足もあるし、問題が大きすぎるきらいもあります。それで十分なお答えはもちろんできませんが、多少の感想ぐらいは語っておく義務があるかもしれません。

 大学設置基準の大綱化をはじめ、私は、文部省の教育に関する最近の政策はほとんどが失敗だったと正直思っています。どうして失敗するのかというと、大学に限らず小学校でもそうだが、現場を知らないお役人が政策を決めるからです。おまけに、官僚になるような人達は、もともと頭が良かった人達が多いので、なおさら…(略)

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26. 1960年代に、大学は「象牙の塔」などと言われて批判されましたが、大学紛争を経ても、学部教授会を中心とした大学の運営機構は特に大きく変わることはありませんでした。変わらなかった等と批判している自分も実はそのうちの一人なのですが、日本は、能力がなくてもそこそこ出世ができる社会が維持されているから変わらなかった、或いは変わらない方がお互いに楽だから変わらなかったのかと思ったりもします。

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 これはなかなか大きな問題ですね。とても私の答えられる問題ではない。でも考えなければならない問題であることも確かです。多分それは日本の大学生が卒業後は単なるサラリード・パーソンになるだけで、決して「人格の完成」したエリートになるわけではないということでしょうか。つまり大学で学んだ専門的な知識が生かされることがなく、あとは学校歴によって選ばれたわずかのエリート層を除けば、人生航路における「運、根、鈍」によって多少の生活の段差ができるということでしょうか。それが増加してあふれきった大学の質の低下によるものなのかどうかはわかりません。ただそれが日本だけの問題でないことは諸外国の最近の実状でも明らかなようです。そういう中で大学の内容の改革を叫ぶのは絶望的なことになるのでしょうか。

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27. ゼミナールのことでは、過去、必修、選択の議論がありましたが、改めて指摘するようなことがあればお伺いしたい。

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 ゼミについては先に述べたのでくり返しませんが、ともかくゼミというのは中世の僧院における学僧たちの討論の形式である弁証論から発達してきた教育の形式であると考えるなら、ただ「自ら調べ自ら考える」だけでは駄目で、自分の頭で考え、さらに他人の頭で考えたことをその場で自らのものとして消化し、弁証論的に幾多の考えを総合して自らの目標を体系化し「実現」しなければ意味がないということなのですね。ゼミで黙っていたのではだめなのです。外国だったらそういう場で黙っている人間はそこでは存在しないものとして無視され相手にされません。外国で日本人留学生はそういう評価をされ勝ちでした。だから日本でもゼミをもっともっと活性化して学生の尻に火をつけてやらなければだめなのです。実際、ゼミこそそれに最適の授業形式なんですよ。先生も疲れるけれど、そうしないと学生が育たない。ゼミの数をたくさん設けて、たくさん履修させるよりも、一つのゼミだけでいいから、そこで議論し、相互に意見を交換して徹底的に学んで論理の水準を格段に上げてゆくというような体験を通すことによってはじめて、創造的で、それこそ何にも応用の効く力のある学生が育ってくると思うのですよ。種類をたくさんやるより一つでも徹底的にやることの方が有益だと思います。ゼミでの活発な議論は…(略)

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28. 今まで触れていなかったことですが、先生の学長時代に、海外では中国の南開大学、国内では特に甲南大学、そして地方自治体としては練馬区と、しきりに交流が行われるようになったと思いますが、それについて少しお話をしていただきたい。

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 残念なことに、私がやったそのような交流事業は外国とも、国内でも、私のやめた後、ほとんど行われなくなってしまっているのがとても惜しいことです。その重要性が法人には理解されなかったこともあるのでしょうが、なによりも教職員には面倒がられたのでしょうね。この大学には何か新しいことをやるという覇気が欠けていますからね。一番惜しいと思っているのは1997(平成9)年に、中国の天津にある南開大学と学術・教育交流協定を結んだことです。学長をやめた後、私は南開大学で講義を一度したこともありますが、その前、学長として南開大学との交流協定を結ぶためもあって私は天津に何度か行った記憶があります。南開大学は、武蔵高校より2 年ほど前に天津に創立されたもともとは私立の高等中等学校で周恩来がかつて学んだ…(略)

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29. 最後に、失礼を承知でお伺いします。他大学からのお誘いはなかったのですか。

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 私は何度か他大学から誘いを受けたことはあります。またこちらが知らない間に候補者として勝手に選定され、最後の二人の候補者にまで絞られて選ばれなかったこともあります。でも私はその大学の出身ではないし、もう一人の候補者は私の親友で、しかもその大学出身の素晴らしい理論家でしたから、私自身あまり気に留めていませんでした。でも、冗談ですけど、もしそこで最終的に選ばれるということにでもなったら、その大学の権威からいって断れなくて困ったかもしれませんね。誘われたのは、考えてみると、国立の大学が多かったのですが、東京の大きな私立大学のこともありました。でも名誉なこととは思いましたが、移籍したい希望も起こらず、すべて断っていました。武蔵大学の雰囲気がよく、教授会も規律があり、しかも学生との関係も和やかでとても居心地がよかったこともあります。ただ、ある一つの大学だけは一年後の移籍を正式に承諾してしまって、あとでそれを辞退することになり、先方には教授会をはじめ多大の迷惑をかけることになりました。このことは、武蔵の教授会には正式に諮る前でしたから、武蔵ではごくわずかの先生しか知りません。私は基本的には武蔵を離れる気はなかったのですが、当時、いろいろな役職を続けていて疲れてしまい、自分の研究が時間的にもできないことに苛立っており、そこに恩師の薦めがあったことから、その大学に行くことを承諾してしまったのです。

 岡先生が言われたというように、最終的には私も武蔵で私の教えた学生たちを見捨てる気持ちにならなかったことが、武蔵をやめられなかった最大の理由です。あとに続く研究者の育成という問題は確かにありますが、私はもともとその器ではなかったし、立派な国立大学の出身でもなかったので、鈴木武雄先生や佐藤進先生に見られたそのような切羽詰まった気持と厳しい決断を強いられることはありませんでした。藤塚先生、岡先生、浅羽先生、佐藤先生などなど当時の先生方は他校に招かれてもみな同じ気持ちで招聘を断わられたと思います。あの先生方は、そして佐藤先生ですら、少なくとも最後のご自分の苦しい決断まで、若い先生が武蔵を踏み台にして他大学に簡単に移籍してゆくのを苦々しい思いで見ておられたことを私はよく知っているのです。

(以上)

ゼミナール授業(田崎篤次郎教授)
中華人民共和国、南開大学との交流事業
1993 年、金融学科設置の際の学科案内パンフレット
1996 年竣工の大学4号館「武蔵倶楽部」
1996 年竣工、朝霞総合グラウンドの「朝霞プラザ」
1997 年竣工、大学6号館
1997 年竣工、大学7号館
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