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第2章 各教科の特色
修身

 1945(昭和20)年以前の学校制度の中で、修身は国家の定めた道徳規範を国民に教えこむための教科であったと言えよう。制度的には、武蔵の修身もこれから逸脱することはできなかったであろうが、開校以来20年余りこれを担当した山本良吉(初代教頭・3 代校長)の授業は、世間通例の修身とはかけ離れて独特のものであった。山本は金沢専門学校時代以来、哲学者の西田幾多郎、宗教家の鈴木大拙らと親交があり、自身も帝国大学(後の東京帝国大学)では哲学を学んだ。彼の用いた修身教科書[『大正中等修身』(のち改訂されて『中等教養』)西田との共著]は、一方的に徳目を押しつける修身書ではなく、日常の生活と行為に直結した具体的問題を採り上げて、生徒に考えさせ、実行を求めるという性格のものであった。特に、山本自身の授業は、彼独自の個性を正面に押し出して、生徒の思想・行動の自発を迫るものであった。その性格が強烈であるだけに、生徒は尊敬と反発の二者に分かれたが、結果として見れば、そのいずれに対しても強い影響を与えたといえるだろう。

国語・漢文

 東西文化融合という理想の観点からも、これらの教科には特別配慮があった。中国を中心とした東洋文化を漢文の古典によって具体的に理解させるため、尋常科1 年から漢文に親しませた。武蔵で編集した教科書『支那歴史読本』は、『十八史略』を骨子として編集された東洋史書であり、生徒の興味をそそる読物であったし、同じく武蔵で編集した『皇国漢文』(中学校教科書として一般にも使用された)は、『日本外史』のような分かりやすい和漢文による入門編から、上級では古漢文を通して中国文学の一端を知らせるという内容で、高い評価を得た教科書であった。

 その他、低学年から独立の作品を教材に選び、つとめて完本を用い抄本を避けた。分厚い『平家物語』の完本を尋常科2 年生の教科書として用いるとき、教室で学ぶところはそのごく一部に過ぎないが、興味を刺激された生徒はその全巻を自力で読破できる。完本を用いることの一つの成果であった。

地理・歴史

 初学年から地図の解読や実地踏査が課せられるなど、ここでも自らの体験を重んじる学習が奨励された。尋常科の関西旅行、高等科文科の京都・奈良旅行などは、主として歴史教育との関連で行われた。民族文化講義も授業の延長としての特別集中講義で、第1 回の中川忠順による「日本美術史」にはじまり、19回を数えた。関野貞の「日本建築史」、鈴木大拙の「日本人の気質と禅」など各専門分野の権威による高度な内容のものであった。

山本良吉初代教頭(のち第3 代校長)
外国語

 開校当初から、英語の授業では40 名の組を20 名ずつの2 組に分けて別々に行う「分割授業」が採用された。一木校長によれば、これは山本教頭の熱心な主張を容れたものであるという。分割授業という授業形態は新制時代に受け継がれ、数学その他にも及んだ。また、初学年から外国人教師による授業が行われ、学校は専任の外国人教師のために校内に専用舎宅を用意した。

 高等科では、文・理ともに英語を第1 外国語とする甲類、ドイツ語を第1 外国語とする乙類に分かれた。フランス語(丙類)は設けられなかった。この結果、文理・甲乙で自然と4 組に分割され、少人数での外国語教育の形は高等科まで一貫した。外国語に力を注ぐという一木校長の意図は、かなりの程度まで実現されたといえるであろう。なお、太平洋戦争の末期には、英語は「敵の言葉」として学校教育(特に中等学校の教育)から縮少・排除されるに至ったが、武蔵では、勤労動員や空襲などの合間の寸暇を利用して英語などの集中授業が行われた。後年、そのことに示された学校の見識に感謝する卒業生が多い。

外国人教師住宅
数学・理科

 数学・理科の分野では、高等学校への入学試験に煩わされないことの利点が、特に大きな意味を持った。創立初年度から生徒が編集発行をはじめた諸雑誌の中に、すでに、自由な発想に基づく数学の論文が次々と登場する。その中から、後年、岩澤健吉(9期、1917~1998年、代数的整数論、コール賞受賞)を初めとする国際的にも高名な数学者の幾人かが育っている。武蔵に限らず、これは七年制高校の持つ利点であり特徴でもあったといえる。

 理科においても同様に、高校入試と関連した教科課程に拘束されることのない自由な発想の尋常科教育を行い得たことが、この学校の特徴を形成した。自らの発案になる理科入門教育をひっさげて、創立の始めから理科を担当した和田八重造講師の残したものは大きい。彼の編著になる『自然科学人門』(1922年初版)は、わが国における一般理科(General Science)の最初の試みであった。身辺の動物・植物の観察や天体・気象の観測、日常生活に関係の深い物理・化学的現象についての実験を通じて生徒の科学的興味を呼び起こそうとするものであり、大きな成果を収めた。数年の間に新しい理科のスタッフも加わり、尋常科3、4 年級では物理と化学を融合した独自の課程による教育が行われた。この課程はやがて、玉蟲文一教授により理化教科書および実験書(1937、38 年)としてまとめられたが、わが国における最初の総合理科(Combined Science)の試みであった。このような、生徒自身の体験を通じて彼らの自由な発想を引き出すことに努めた授業方法は、鉱山見学旅行(日立または足尾)や地質見学旅行(秩父・箱根・日光・浅間等)などをも含めて、後年、多数の優れた科学者・技術者・医師を輩出したことと無縁ではないと思われる。

 和田八重造は、また、教育上の発想から、数人の専門家の協力者や関心を持つ生徒たちとともに、学校周辺の動植物相の調査・研究を進め、その成果の一部は“Florula Musashinoensis”(武蔵野の植物相)、“Fauna Musashinensis”(武蔵野の動物相)として発表された。

体育・保健、その他

 体育関係では、体操の他に剣道と弓道が尋常科1、2 年に正科として課せられた。また、創立から数年間、生徒たちの手で樹木が遠方から運ばれ、植樹されて学校の環境が次第に整えられた。1932(昭和7)年から作業科が正式に設置され、学校の環境を自分たちの手で積極的に改良・維持することが始められた。濯川の整備、校内での植樹など後々まで残る成果であった。

 太平洋戦争が激しくなり、勤労動員による生徒の校外作業などが行われるようになって、生徒の健康管理が問題になった。第4代校長山川黙は特にこの問題に関心を持ち、結核予防研究所との関係を結んで、いち早くBCG法を取り入れ、結核対策を強力に推進した。

上:Florula Musashinoensis 表紙 下:Fauna Musashinensis の部分
山上学校と海浜学校

 創立の年から、軽井沢夏期大学の施設を借用して夏期学校を始めた。これは、和田八重造講師の進言を容れたものと言われている。都会育ちの少年たちに自然の中での生活を体験させ、日常の起居、観察・学習、運動を通して自ら調べ自ら考え、自らを律しさせる体験学習であった。

 米国におけるサマーキャンプは第一次大戦前後に多数創始されているが、その頃に同国の教育視察をした和田は、その運動に共感して帰国したのではなかったろうか。第3 年目には、内房岩井の東京府立四中の寮を借りて、尋常科2 年生希望者のための海浜学校が行われ、以後「山上」「海浜」の名が定着した。このような活動は、わが国の学校教育の中で先駆的なものという訳ではないが、十分な日程をとり、明確な目標を持って積極的に取り組んだ計画としては、かなり早期のものといえるであろう。

 山上学校は1926(大正15)年から場所を日光湯元に移し、旅館を借りて行うようになった。戦場ヶ原など自然観察の適地に恵まれ、白根山その他一日の登山に格好の山もあって、実り多い山上学校であったが、日常の起居については、旅館泊りであることの短所が多かった。1937 年、既述のように、軽井沢に青山寮が建てられ、これを利用して山上学校を行うようになった。

 海浜学校については、これも当時の父母の寄付によって、1928年、外房鵜原の地に鵜原寮が建設され、以後、海浜学校は戦中戦後の中断を除き、2015年の閉寮までここを用いて行われている。

 山上学校は尋常科1 年生中心、海浜学校は尋常科2 年生中心ではあったが、はじめ10 年間ほどは必ずしも一定せず、参加者は数学年にわたった。1932 年頃から、原則として全員参加、学年も指定されるようになり、軽井沢に青山寮が建てられるに及んで形態がほぼ確定した。特に、青山寮での山上学校は、野外活動は従来通りであったが、寮での学習は専ら英語を行うこととし、山本校長自らも英語を講じた。寮での生活は、清掃・整頓から配膳・後片付け、食事のマナーまで日常生活のすべてに校長の指導が及んだ体験学習であり、また寮周辺の環境整備に汗を流す労働もあった。

上:山上学校における戸外研究 下:山上学校における座学
鵜原海岸における海浜学校の様子(1935 年撮影)
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