もくじを開く

通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

  • あとがき

  • 武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧

資料編

武蔵文書館

  • 武蔵大学「白雉祭」案内冊子ページ

  • 武蔵高等学校中学校「記念祭」案内冊子ページ

  • 武蔵学園史年報・年史類ページ

  • 付録資料のページ

武蔵写真館

武蔵動画館

第4章 生徒の課外活動

 創立間もない頃から、僅か80 名の生徒数にもかかわらず、活発な同好会的活動が始められた。それらは、「雄飛会」、「むさし会」などと名づけられ、ガリ版の会誌が多数発行されたほか、テニス・剣道などに始まり、各種スポーツの同好の集まりが作られていった。創立から3 年目の1924(大正13)年、校友会が組織され、運動部・文化部など、それぞれの「部」の下に「部門」(現在でいうところの「〇〇部」)が置かれて、活動が広がった。下図は、1933(昭和8 年)発行の『武蔵高等学校校友会誌』第23号に掲載されている、当時の校友会の組織一覧である。

 上記の各部門は、対外的には世間の慣習に従って「〇〇部」と呼ばれたが、校友会の規約では「運動部」あるいは「文芸部」という総称の下の「〇〇部門」で、世間でいう「部長」は武蔵の規約では「主理」であった(注1)。

(注)運動部の各部門を例にとって考えてみると、このことは単に言葉の問題ではなく、個々のスポーツのグループが勝手に一人歩きできないように、一段格を下げられていたと見ることができる。当時の山本良吉教頭(のち校長)の方針として、競技ごとに固まる運動部制を表向きには認めなかった。生徒の誰彼を問わず、例えばサッカー(蹴球)がしたければグラウンドヘ出てサッカーをすればよい。特別のグループを作って毎日サッカーをするサッカー部(蹴球部)という存在は本来の姿ではなく、サッカーに長けた者は、不特定の生徒たちが望むときにサッカーをすることを助けてやれる、サービス精神に富んだボランティアである、という思想であった。これは、弓道とか陸上競技のような個人性の強いスポーツでは実現し得ても、他のグループ競技にはあてはめ得ないため、実際には蹴球部、籠球部、……といった部が次々と誕生した。

「雄飛」「むさし」表紙
「雄飛」目次
運動部の活動

 山本教頭(のち校長)はスポーツについて独特の見解を持っており、個々の競技についての好悪の差が大きかった。競技における戦術を人間の品性に直結し過ぎて考えたためであるとも思われる。その一つの表れは、創立数年後(時期には諸説あり、明確でない)から野球が禁止されたことであるが、山本が生徒に示した理由は、「くせ球」(変化球)を投げることや盗塁などがある野球は、紳士のスポーツではないというものであった。太平洋戦争開戦後、野球は敵国の競技として社会的に抑圧されたので、その期間も含めれば、終戦直後の1945(昭和20)年10月、武蔵においてこれを解禁するまでの約20年間、野球禁止は不文律として生徒を拘束した。山本校長の強過ぎる個性が表れたと言えようが、教師も生徒も、ついに正面からこれに反抗しなかったことは、旧制武蔵高等学校にとって数少ない不名誉の一つといえるかもしれない。

 野球に限らず、競技、特にその対校試合を山本教頭は好まず、試合ヘの参加や練習時間等、部活動の条件についても厳しかった。各部門には主理という名称(通例の部長にあたる)の教師が任命されたが、これらの人々の多くは生徒たちの部活動に好意的で、部生活の相談相手となり生徒と苦楽を共にする人が多かった。当時の校友会規約は、生徒の自主活動に委ねる部分のごく少ない、旧制高等学校としては異例なほど窮屈なものであるが、実際の運営は、生徒活動に理解をもってこれを信頼し、実質的に生徒たちの自由な運営に任せた教師たちの苦心に支えられた。

 生徒数の少ない武蔵では、部の数も自然限定され、籠球・蹴球・剣道・陸上競技・山岳・水泳・庭球・弓道の8 部門(部)であったが、全国高校大会(インターハイ)では1933年に籠球部が優勝したのに始まり、37 年に蹴球、40年に剣道、弓道の各部が優勝、その他にも準優勝など目覚ましい活躍を遂げた。創部から僅か10年前後の間に、しかも、恵まれているとは言えない状況の中で、全くの自力で頂点まで登りつめる歴史を築き上げたこれらの成果が、新制まで続く強固な伝統を形成することになった。

旧制時代の陸上競技部の活動
その他の部の活動

 校友会の発足以前から、各種の文化活動の芽生えがあった。学校周辺で土器や矢尻の破片を採集して歩いた同好のグループが発展して文化学部(後の民族文化部)が作られた。原田亨一教授を中心とした文化学部は、薬師寺の好意で毎年春休みにその塔頭の一つを宿舎とすることを許され、大和地方の諸寺を詳しく見学・調査する日本文化史探訪の旅を継続して、大きな成果を得た。1938(昭和13)年から、石山乾二教授の指導の下で千川上水の現状調査に力を注ぎ、1941年にはその報告書『千川上水』を刊行した。これは半世紀以上を経て、『Florula Musashinoensis』、『FaunaMusashinensis』と並ぶ武蔵野文献として注目されており、2006年には『千川上水』の調査アルバム4 冊が練馬区登録有形文化財に登録された。

 気象観測所は、1927 年、科学部の中にできた気象観測を中心とする集まりである。観測を継続するだけでなく、気象に関連する周辺テーマにも積極的に取り組み、気圧測定のための水準標の設置、校地の測量、霜柱の研究、校地内の微気象の調査などで部員の意欲を育て、優れた研究者が輩出する素地となった。1940年から中央管区気象台観測所として認められ、1942年から「中新井観測所」の名称となった。

 太陽観測所は1930 年に発足し、少人数の集まりながら日食・掩蔽(えんぺい)観測で東京天文台に採用されるデータを得るなど、基礎研究での力を示した。

 他に、1925 年から1944 年まで全51 号を数える校友会誌を編集刊行した雑誌部、多彩な講演者を招いて校友の関心を育てた弁論部、図書室の業務を引き受けて校友に奉仕した図書部、戦時中でも芸術的雰囲気を学校の中に保ち続けた音楽部・形象部(のち美術部)などが文芸部の各部門であった。

 また、購買部、集会場でその運営にあたり、校友に奉仕する委員会も部と似かよった集まりであった。

戦後の新時代

 太平洋戦争後の窮乏・混迷時代にあって、自由・解放の気風にあふれた生徒たちは、目覚ましい活発さで活動を始めた。伝統的な部以外に次々に新しい部が誕生した。文化部では物理部・化学部・生物部、運動部では野球部・バレー部である。この期間には、旧制の終わりと新制の始まりとが混在して、新しい活力はごく自然に新制の時代に引き継がれていった。

武蔵学園記念室所蔵の『千川上水』調査アルバム中に存在する、1940年7 月撮影の江古田二又の下流部分の写真。「将来かゝる風景は消えん」と説明がある。
同上『千川上水』調査アルバム中に存在する写真。武蔵学園前の千川通りにあった橋で武蔵高等学校の生徒が実測中である。
to-top