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一木喜徳郎と武蔵学園(季武嘉也)
はじめに

 旧制武蔵高等学校の初代校長として一木(いっき) 喜徳郎という人物がいた。一木は、枢密顧問官のまま1921(大正10)年12月27日校長に就任、1925 年3 月30 日宮内大臣に任命されると辞意を表明したものの、それが認められたのは1926(大正15)年3 月であった。

 枢密顧問官とは、憲法をはじめ皇室・外交・教育・官制などの制度変更のうち、特に重要な事項に関し天皇からの諮詢(質問)に対して奉答(回答)する者たちのことである。周知のように、1889 年に発布された大日本帝国憲法の下では議会に予算審議権や立法権などを与えたが、天皇にも統帥(軍隊指揮)、条約締結、官制制定、人事、命令(勅令)発布など天皇大権と呼ばれる広範な権能を付与した。しかし、それでは天皇が恣意的に大権を行使して混乱を招く可能性があるので、上記のような分野に関しては枢密顧問官たちで構成される枢密院がチェックすることになったのである。彼らは概ね週一回御前会議を開いて審議をしたが、戦前期では枢密院の奉答を天皇が拒絶することはなかった。

 また、宮内大臣は内閣から独立して皇室の庶務を取り扱う宮内省の長官であるが、実際には天皇の国務上の決定や、皇室・華族にまつわるさまざまなトラブルにも関わることが多かった。つまり、この頃の一木は、天皇という元首の側に仕え大日本帝国を支えていたのである。

 したがって、多忙な一木校長が武蔵学園のために多くの時間を費やすことは困難であり、学校運営は山本良吉教頭が担ったが、それでも一木が武蔵学園に与えた影響は大きく、特に7 年制の採用、建学の三理想の制定は彼の意見に依る部分が多かった。そこで、本稿では第一に一木という人物を紹介し、第二にその人格がどのように武蔵学園の形成に関わったのかをみていきたい。

1.天皇機関説論者

 一木は1867(慶応3)年4 月4 日、現在は静岡県掛川の大庄屋の家に、父岡田良一郎の次男として生まれた。良一郎は幕末の有名な農政家二宮尊徳の弟子で、尊徳が提唱した報徳思想を全国に普及すべく1911(明治44)年掛川に大日本報徳社を設立すると、しだいに日本各地の報徳社のセンター的存在となっていった。

 報徳思想は、簡単にいえば勤労・勤倹・勤勉しながら、私欲を去り相互に助け合って生きていくことを説いたもので、明治の時代になると内務省がこれを採用し、大々的に普及を図った(一木自身も内務官僚や大臣としてこれに深く関わった)。全国の小学校に二宮金次郎像が建設されていくのもこの影響である。

 また、良一郎の長男には岡田良平という人物がいた。良平は文部官僚から文部次官、京都帝国大学総長を経て、1916年には寺内正毅内閣の文部大臣に就任した。このように、岡田家と内務省・文部省との間には密接な関係があった。さて喜徳郎であるが、兄良平の後を追って彼も上京し帝国大学に入学した。

 卒業後の経歴は別表を参考にしていただきたいが、まず武蔵高等学校校長就任までのキャリアをみると、第一に注目されるのが帝国大学教授27 歳、貴族院議員33 歳、法制局長官35 歳、文部大臣45 歳と、昇進が非常に早いことである。自費でドイツに留学しそこで得た法学知識を発揮して、彼は瞬く間に官界・学界のトップに昇り詰めていった。この背景には、いまだ近代的制度が十分に整っていない段階のため、最新知識を持った若い人材がいきなり抜擢されたということもあろうが、一木はその期待に応えることができる人材だったのである。

 第二は、彼が官界と学界の両分野で活躍したという点である。まず、学界分野での活動をみると、ここで重要なことは彼がいわゆる天皇機関説(国家法人説)を提唱したことである。同説の特徴は、ア)国家は法人であり主権は国家に属する、イ)統治権を行使する国家の機関には内閣・官僚・軍部・議会・裁判所などがあるが、君主もその一つである、ウ)ただし君主は国家機関の中でも最高位にあり絶対である、というものであるが、これは、当時帝国大学で憲法学を担当していた穂積八束の天皇主権説(神聖なる天皇は国家そのものであり、主権は天皇個人に帰属する)と対立するものであった。のちに天皇機関説論者として有名になる美濃部達吉は、一木の直系の弟子にあたる。美濃部が1935 年頃に天皇機関説排撃運動で糾弾されたことは有名であるが、やはり一木もその時に非難され、1936 年には枢密院議長の職を追われることになった。この点は後述する。

 官界分野で特徴的なことは、まず山県・桂内閣時に重要なポストに就いたことが目を惹こう。これは、一木が山県有朋や桂太郎に連なるグループ(山県閥)に属していたことを示している。明治期においては、議会勢力の台頭を嫌う軍部や官僚政治家が山県閥を形成し政党と対峙していたが、このような中で一木は山県の法律顧問の役割を果たしていたのであった。このことは、一木の天皇主権説が山県らにも受け入れられるものであったことを意味している。つまり、一木にしても山県にしても、天皇は最高絶対ではあるが、決して恣意的に権力を乱用してよいのではなく、あくまでも他の国家機関との協調や助け(輔弼)を得て行動しなければならない存在だったのである*1。山県のような勤王家は天皇主権説論者と思われがちであるが、じつは官僚や軍部にとっても天皇機関説の方が自分たちに都合がよい訳であり、だからこそ一木の天皇機関説は当時の支配者層の中で広く認められるものとなっていった。

 第三に、第二次大隈重信内閣で文相・内相となったように、彼は決して山県のような反政党主義者ではなかった。大正期では、一木学説を勉強して官僚となった人物たちが官僚組織のトップの椅子を占めるようになっていたが、彼らの一部はさらに政治家を志して政党に接近するようになった。特に、加藤高明を中心とした憲政会(大隈内閣の与党が1916年に結成した政党)の幹部にはそのような経歴の者が多かったが、一木は彼らとも近く、一般には憲政会系官僚政治家とみなされた。ただし、だからといって彼は政党主義者でもなかった。この点については、同じ天皇機関説でも一木と美濃部の学説を比較してみれば明らかである。前述のア)~ウ)は同じであるが、美濃部学説ではさらに、天皇が大権を行使する際は国務大臣の輔弼を受けなければならないが、国務大臣には議会の信任が必要である、という点も付け加えられた。

 これに従えば、議会は閣僚のポスト、さらには天皇の国務行為をも左右するほど重要な位置に立つことになり、それは政党内閣制の理論的根拠となるものであった。

 以上のことから、枢密顧問官や宮内大臣のように天皇の側でその大権行使を補佐する人物としては、官僚にも軍部にも政党にも偏しない一木ほど適任な者はいなかったであろう。こうして、彼は枢密顧問官となり宮内大臣となったのである。

 つぎに、武蔵高等学校校長を辞任したあとの一木の動向をみていこう。1921 年11 月25日、20 歳に達した裕仁皇太子は摂政に就任し、病弱であった父大正天皇に替わって国務を代行するようになった。当時の宮内大臣は大久保利通の次男牧野伸顕であったが、1925年に老齢の内大臣平田東助が病気のため引退すると、牧野が同年3 月30 日に内大臣に就任、同日一木が宮内大臣に任命された。内大臣の職務内容はじつは曖昧で、強いて言えば宮中の顧問的な性格が強かったが、それに対し宮内大臣は実際の庶務全般に関わる実務的なポストであった。こうして、一木は大正末・昭和初期の8 年間を、宮内大臣として若き皇太子・天皇に近侍して支え、同時に宮中改革を図るという重責を担うことになった。

 ここで宮中改革について一言触れておこう。第一次世界大戦で敗北したドイツは帝政から共和制に移行した。また、民族自決によって欧州では共和国が数多く誕生した。こうして、君主制から共和制へという流れが世界的傾向となったが、これに危機感を抱いたのが君主国であった。当時の日本の皇室は前時代からの伝統的な慣習を多く引き継いでおり、それらを国民が納得できる形に改革することが一木宮内大臣や牧野内大臣の重要任務となったのである。法学者でもある一木は、皇室制度を審議する帝室制度審議会に深く関わって法典の整備に尽力した。また、内務官僚を中心に外部の人材を積極的に登用し、自らは平日官邸に宿泊して女官問題・冗費節減・能率増進・内親王養育などの面で改革に努め、1928年の御大典も無事にやり遂げた。このほか、この時期は皇族・華族の家族内で思想(子弟が共産主義者となる)や恋愛に絡むトラブルが日常的に発生しており、これらを表面化させずに処理するのも彼の役割であった。

 しかし、それ以上に一木を悩ませたのが政治問題であった。昭和時代に入ると周知のように、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、満州事変、五・一五事件など天皇と政治の関わり方が争点化した。これらに対し、一木は天皇と同じく立憲主義、国際協調路線に立ちながらも、ついつい政治に口を出してしまう若き天皇を、元老西園寺公望、内大臣牧野とともに諫めようと苦労を重ねていた。彼らは、天皇が外部勢力によって政治的に利用されることを極度に恐れていたのである。

 こうした中、1932 年8 月頃に元宮内大臣田中光顕が高松宮妃に関する件を理由に、一木に辞任を迫る事件が起きた*2。これも一つの要因となって、翌年一木は宮内大臣を辞職する。しかし、彼に対する攻撃はこれに止まらず、1935 年には天皇機関説排撃運動が起こった。排撃側が表面上の標的にしたのは美濃部達吉であったが、同じ機関説論者ということで当時枢密院議長であった一木も攻撃対象となり、むしろこちらが本命であったともいわれる。この時は、昭和天皇が本庄繁侍従武官長に「天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時には必ず一木等にまで波及する嫌いがある故、陸軍等において声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべき」*3 と注意を与えたこともあり事なきを得た。また、1936 年に二・二六事件が発生し内大臣斎藤実が亡くなると、天皇は一木に「なるべく側近に侍す」*4 るよう要請し、実際に一木はこの日から3 月8 日まで皇居内に宿泊し、事実上の内大臣の役割を果たした(3月6 日には宮内大臣任命の必要から1 日だけ内大臣に就いている)。このように、天皇の信頼は厚いものであった。しかし前述のように、翌年には枢密院議長を辞職する状況に追い込まれてしまった。

 以上のように、昭和期の一木は西園寺、牧野、あるいは鈴木貫太郎らといわゆる「宮中グループ」を形成し、一木的な天皇機関説に基づく天皇制を守ろうとしたが、しだいに後退せざるを得なかった。こうして、機関説排撃運動は美濃部学説ばかりでなく、山県有朋や昭和天皇も支持した一木学説をも否定し去ったのである。

晩年の一木喜徳郎
2 .七年制高等学校制度の採用

 高等学校の七年制度は臨時教育会で私が極力主張したものであるから校長を引受けて此任に当たることは云はゞ私の理想を実現する訳である。担任者として最も苦心することは良教師を選択することだが、私の実験によると我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌つた私は、特にそれを痛感して現在の教育制度では到底「世界の日本人」を作ることは難しいと考へた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽したい。(『朝日新聞』1921年5 月11日)

 

 校長就任を前にして、一木喜徳郎は7 年制高等学校を「理想」と表現している。そこで、ここではまず7 年制という制度と一木についてみていきたい。

 そもそも、一木が武蔵学園と関係するようになったのは、1919(大正8)年9 月であった。学園創設の準備が大詰めを迎え、根津嘉一郎と本間則忠は指導を仰ぐべく平田東助を訪問した。これ対し、平田は承諾を与えるとともに岡田良平、一木、山川健次郎、北条時敬にも相談するよう勧めた。平田は山県閥の領袖で農商務相、内相を歴任し、後述の臨時教育会議では総裁を務めるほどの政界・教育界の大物であり、一木にとっては大先輩であった。岡田は前述の通り一木の実兄で、前年までは文相を務めていた。山川健次郎は当時東京帝国大学総長の職にあり、北条時敬は元東北帝国大学総長で、この時は学習院長であった。すなわち、日本教育界の大立者ばかりであった。そして、同年10 月3 日関係者が集まって第1 回協議会が開催されたが、ここではさまざまな議論が出された。詳しくは本主題編中の拙稿「武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/a 9efca 9f-85e4-42ee-b420-e3c0e9e612bb)を参照していただきたいが、本間は5 年制の中等学校創設と11 年間の寄宿舎建設を、山川は修業年限3年の実業補習学校(小学校卒業者の職業訓練)の創設を、そして、一木は前述の引用史料にあるように、7 年制高等学校創設を主張した(この点は平田や岡田も同じであったと思われる)。そのため、この会合では結論がでなかったが、この会合後から根津の意向は7 年制案に傾いたようで、1920 年2 月29 日に開催された第2 回協議会では、7 年制高等学校とすること、陣容は総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田貞一郎・宮島清次郎、校長・一木とすること、の2 点が決定した。こうして、一木喜徳郎校長が誕生することになった。以上の経緯からも、一木が7 年制案を強く主張し、そして自らその実行役を買って出たことが分かろう。

 では、なぜ彼はここまで7 年制に拘ったのであろうか。その前に、まず学校制度について確認しておきたい。戦前の日本は複線型学校体系をとっていた。この制度は同じ中等教育機関であっても、進学や職業訓練など初めから異なる進路を想定しそれにふさわしい教育を施そうとするもので、このうち進学する場合は中等学校(5 年)、高等学校(3 年)、帝国大学(3 年)というコースを設置し、帝国大学卒業生には国家を担う人材となることが期待された。このような体系はドイツをモデルにしたものであった。日本の場合、明治10 年代に憲法の範をドイツにとって以来、特に官僚・陸軍の間ではドイツ志向が強くなったが、教育分野も同じで、平田・岡田・一木を含む内務・文部官僚はこのようなドイツモデルを採用したのである。

 しかし、この制度にまず異議を唱えたのが経済界であった。経済界は卒業するまで11年間もかかるこの制度は長すぎるとして年限短縮を主張した。これに対し、官僚や帝国大学側は年限短縮によるレベルの低下を危惧して消極的であったが、ここで登場したのが高等中学校案であった。1910 年小松原英太郎文相が中学科(4 年)および高等中学科(3 年)を置く高等中学校案を提案した。この案は、従来の中等学校と高等学校を有機的に結び付け同時に修業年限を1 年間短縮しようというもので、7 年制高等学校案と近いものであった。ここで想起されたいのは、7 年制案はドイツのギムナジウムを模したものであるという大坪秀二の指摘である。確かにドイツのギムナジウムは、日本でいえば小学校5・6 年生の2 年間と中等教育7 年間(現在では6 年間)を合わせた合計9 年間を修業年限としており、日本の7 年制案はギムナジウムの中等教育7 年間に相当することになる。したがって、7 年制案はじつはますますドイツに近づいたものでもあり、一木にとっては前述の引用史料の通り、理想的なものだったのである。

 しかし、ことはそう簡単に運ばなかった。明治後期になると初等教育就学率は100%近くに達し、さらに学歴というものが社会で認知されるようになったため、国民の間からは進学を希望する者が増加し、受験競争も厳しいものとなっていた。また、私立学校も数多く創設され広く認知されていたが、法制上の位置づけが不明確で国立・公立学校との関係が問題となっていた。そのため良案が見つからないまま時間が過ぎたが、この状況に最終的な断を下したのが1917 年設置の臨時教育会議であった。同会議は岡田良平文相・平田東助総裁の下で次々と重要な決定を下した(一木・山川も委員で参加)。このうち、中等学校・高等学校に関しては、ア)尋常科4年・高等科3 年の7 年制高等学校を基本とするが、高等科3 年だけを単独に設けることができる、イ)官立・公立・私立の3 つを認める、とされた。この案によって、ギムナジウムを志向する者たちからも、進学を希望する国民からも、そして地位向上を目指す私立学校からも、最大公約数的な了解を得ることに成功した。そして次には、このように選択肢が増えた中で、どの形態が適当なのかを実際に示す段階に入ったのである。一木が校長に就任したのはまさしくこのような時期であった(実際には、例外とされた高等科3 年だけを設置する学校や、公立・私立学校は急増したが、7 年制高等学校数は伸び悩んだ)。

1922 年4 月武蔵高等学校第一回入学式での一木喜徳郎(中列右)、根津嘉一郎(中列中央)、山川健次郎(中列左)
3 .「世界の日本人」

 最後に、建学の三理想と一木校長について触れておく。これに関しては、「武蔵学園百年史」紀伝編中の大坪秀二「三理想の成立過程を追う」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/d86f70be-57ca-464c-acfcfb1cd7581e79)にその詳細が語られているので、そちらを参照していただきたい。ところで、その中でも紹介されているが、『根津翁伝』には一木の発言として次のようにある。

〔牧野伸顕がベルサイユ会議の場で外国語ができる人材が少なくて苦労したと言っていたが、〕私もそれは尤もだと思い、そういう意味の学校を拵えたら、宜かろうと思って居った処へ、根津さんの話があって、七年制の高等学校を拵えることになったので、七年間一貫してやれば、語学も余程他の学校より巧く行くわけだし、この七年間にみっちり世界的に役に立つ人間を拵えたら宜かろうと考えた。それが即ち武蔵高等学校の三項目の一として世界に雄飛する人物を作ることとして現われたわけです。〔中略〕東西文化の融合と云うことは、大隈さんが頻りに言われ、これは私も良い意見だと思いました。私自身東西文化の融合を日本がやらなければいかぬと云うことを始終言って居りました。由来日本は、昔から支那の学問を入れて居るし、東西文化を融合するのは、日本でなければいかぬと云うことを考えて居った*5。

 もちろん、これは三理想のうちの「1、東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「2、世界に雄飛するにたえる人物」と関連した発言であるが、ここではこの発言を手掛かりに、なぜ彼が「世界の日本人」ということに拘ったのかという点を、特に当時の時代状況との関連から簡単に補足してみたい。まず「世界雄飛」について。牧野伸顕は前出の通り、内大臣として若き昭和天皇を西園寺公望元老、一木宮内大臣とともに支えた人物であるが、彼は第一次世界大戦終了後に開催された1919 年のベルサイユ会議に西園寺とともに全権として参加した。当時の日本は世界の「五大国」の一つに挙げられ、国際連盟では常任理事国にもなったように、明治維新以来50 年にして世界の一流列強として認められたのである。ところがこの会議では、戦争で大きな被害を受けた欧米各国が、帝国主義を排し新たな平和的世界秩序を構築しようと熱心に議論を重ねたのに対し、日本政府はこうした議論には加わらず大勢に順応することを方針としたため、他国からは「サイレントパートナー」と揶揄されてしまった。日本政府の関心はあくまでも東アジアの権益に集中しており、それは欧米各国からみれば排すべき帝国主義の残滓だったのである。勿論、これをすべて日本政府の責任に帰すことも酷であろう。それまで東洋の小国でありいわば子供であった日本が、自身でも気づかないうちに急速に成長して大人の仲間入りを果たし、周囲からは大人らしく振舞うよう要求されたのと同じだったのである。

 しかし、このような海外からの冷評は、むしろ日本国内で大きな問題となった。特に、パリ講和会議を目の当たりにした若きジャーナリストたちは日本の全権を無能と罵倒し、さらに今後五大国として国際社会で活躍するには、まず国内を改造する必要があると主張したのである*6。おそらく、彼らのこのような思いは批判された側の牧野も共有していたと思われ、だからこそ親しい一木に率直な感想を述べたものと思われる。そして、一木もそれを受け止め、教育という場で国際的に活躍できる人材を育成しようと考えたのであろう。ただ、一言付言しておけば、一木のいう「世界の日本人」とは単に外国語が堪能というだけでなく、「幼少の時より人格養成、品性陶冶と共に外国語に力を注いだならば、世界の舞台に活動すべき日本人を輩出せしむることを得」よう*7 と述べているように、7 年制高等学校による「人格養成、品性陶冶」も重要であった。

 最後に、「東西文化融合」について(「東西文化」となっているが、大隈がしばしば語っていたのは「東西文明」であった。もちろん文化と文明は異なるが、以降では大隈に従って「東西文明」と理解しておく)。幕末に佐久間象山が東洋の道徳、西洋の技術を提唱したことは有名であるが、このような東西文明の融合あるいは調和という発想は、近代日本を通して広くみられるものである。というよりも、前述の一木の発言にもあるように、国是といえるかもしれない。日本の位置を世界地図でみれば、中国文明の東端に存在すると同時に、アジア市場を開拓しようとしたペリーがまず来航したのが日本であったように、アメリカ側からみればアジアの入口であった。そのような日本が世界の中で自らの独自性を主張しようとすれば、東西文明の接点であることを強調するのも自然であろう。すなわち、支配者西洋と被支配者東洋が対峙する状況の中で、東洋に対しては日本が仲介して西洋文明の普及とそれによる発展を手助けし、西洋に対しては東洋の代弁者として東洋特にその精神文化の理解を得ることで東西相互の理解が進めば、世界平和も実現できる、というのが東西文明融合論のおおよそ共通した主旨であった*8。

 大正時代において、このような東西文明融合論を唱えて有名であったのが大隈重信であった。大隈は1908 年に西洋思想の名著を日本に紹介するために大日本文明協会を設立し、実際に多くの訳書を刊行した。大隈は、東西両文明の差異が発生した理由を明らかにしていけば、両者は調和できるはずであると主張していた。一木は第二次大隈内閣の文相・内相であったので、当然大隈の所説を十分に理解していたであろう。

 以上のように、武蔵学園が創設された頃の日本は、ちょうど東洋の一国から「五大国」へと変身を遂げる最中であった。そして、国際社会もこの頃を境にして数多くの国際会議が開催され多国間条約が締結されていくようになり、急速に接近していった。こうした中で、根津理事長、一木校長は「東西文化融合」という日本の立場に立って、国際社会の中で「雄飛」できる人材の育成を目指したのである。これを現代風に言い換えれば、グローバル化し且つ多様な国際社会の中で、日本人という主体性を持ちつつ世界平和を目指して国際舞台で活躍できる人材の育成ということになろうか。このように書けば、現代日本人にはかなり受け入れやすいものとなろうが、前述の臨時教育会議で決定した大学令が「国家ニ須要ナル学術」の教授と「国家思想ノ涵養」を、同じく高等学校令が「国民道徳ノ充実」を教育の目的にしたことを考えれば、当時の日本においてこの建学の三理想はかなり異色なものであったように思われる。

【註】
  1. 一木の天皇機関説については、家永三郎『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967年)参照。
  2. 原田熊雄『西園寺公と政局』第2 巻(岩波書店、1950年)345頁、『木戸幸一日記』上巻(東京大学出版会、1966年)185頁。
  3. 『昭和天皇実録』第6 巻(東京書籍、2017年)747~748頁。
  4. 『昭和天皇実録』第7 巻(東京書籍、2017年)33頁。
  5. 根津翁伝記編纂会編刊『根津翁伝』(1961年)246~247頁。
  6. 伊藤隆『大正期「革新」派の成立』(塙書房、1978年)参照。
  7. 一木喜徳郎「七年制高等学校の必要なる趣旨」(『武蔵学園史年報』創刊号、1995年)。
  8. 一木にとっての「東洋の道徳」とは、天皇を中心に据えた王道主義であった。一つの階級や勢力が権力を独占する政治体制はいずれ崩壊するしかなく、それに対し天皇とそれを補佐する者たちが道徳によって自らを律することで国民全体の利益を図り、国民の文化の発達を保護するという王道主義がより好ましい、と一木は考えていた(一木喜徳郎「世界の大勢と我が帝国」(『ぬき穂』第29号、1920年5 月))。
一木喜徳郎略年譜
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