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第二外国語と国外研修制度の展開(柿沼亮介)
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現在、多くの学校が「グローバル」教育を標榜し、留学を含めた国際交流を学校のプログラムとして行っている。「グローバル・リーダー」の育成を教育目標として掲げたり、「多文化共生」社会の実現を教育を通して目指しているという学校も珍しくはない。しかしこうした教育は、ややもすると「英語ができるようになる」とか「外国人と仲良くする」といった表面的な理解で行われ、単なる受験勉強の延長や、通俗道徳を繰り返し説くだけのままごとになりがちである。
― 他のアジア諸国が日本よりも圧倒的に多くの良質な英語話者を供給する時代に、日本の教育機関が育成すべき「グローバル・リーダー」とは何か。
― 「多文化共生」がいかに困難であるかを文化摩擦の最前線で身をもって理解した上で、さらに自国民・外国人という二項対立を乗り超えた多文化主義をいかに希求していくか。
こうした自問を不断に続けなければ、「グローバル」教育や「多文化共生」教育は先述のようなチープなアウトプットのみを求めるだけのものとなってしまう。
では、武蔵はグローバル化とどのように向き合ってきたのだろうか。今回は主に第二外国語と国外研修制度に注目して考えてみたい。
旧制時代の高等科は、英語かドイツ語のいずれかを専修、もう一方を兼修とする制度で、新制移行後もドイツ語兼修は存続していた*1。1973 年度からは第二外国語の制度を変更し、ドイツ語に加えてフランス語と中国語も新設され*2、中3 以上の生徒が無学年制で初級・中級・上級を選択する制度となった。しかしながら、この頃の第二外国語はほとんどの生徒が選択するというものではなく、また初級も含めて放課後の7 限・8 限に授業が行われていた。
こうした状況に大きな変化をもたらしたのが、1987 年度からの教育課程*3 の改訂と、1987年度に制定された「武蔵高等学校生徒国外研修制度」(通称:「根津平田プロジェクト」)である。
1987 年からの教育課程の改訂では、高2・高3 において科目選択の自由度を高めた。改訂の基本方針として、保護者及び在校生に次のような基本方針が示された*4。
(1) 高校段階(特に高校2 年)の科目選択について、従来の方法のほかに、文系・理系何れかの方向に指向を明確にした形の選択をも認めることにして、これによって、それぞれの科目のクラス規模を縮小し、より充実した授業を行う。
(2) 従来、英語・数学と、中1・中2 の理科実験に限られていた分割授業を、他教科にも拡充し、自ら調べ考える学習への手掛りをふやす。
(3) 国際性を高めることの手段として、将来、第二外国語をより重視してゆきたい。そのため、第二外国語初級(中3)を通常時間割の中にとりこみ、選択者が途中で放棄する率の減少と、中級・上級へつづける者の人数の増加とを期待する。
具体的な改訂内容は、以下のようになっている。
[国語]
高1: 国語5 時間・漢文2 時間から、国語4 時間・漢文2 時間に減らし、国語4 時間のうち2 時間で分割授業を行う。
高3: 国語4 時間・自由選択1 時間・漢文2 時間から、国語2 時間・自由選択0~6 時間[現国2 時間・古典2 時間・漢文2 時間から0~2科目を選択]へ変更。
[数学]
高2: 文系の必修選択の時数を3 時間か
ら4 時間に増やす。
[英語]
高3: 週6 時間だったうち、2 時間を自由選択(副読本)とする。
[理科]
中学: 物理・化学・生物・地学の総時数16時間を14 時間に減らし*5、さらに中学3 学年の中での配置を変更する。一方で分割授業を拡充する。
[社会]
中3: 歴史を3時間から2時間に減らす。
高1: 政経を演習科目とする*6。
[社会・理科]
高2: 社会は日本史・世界史・地理(各3 時間)から2 科目選択、理科は生物・化学・物理(生物・化学は各2 時間、物理は3 時間)から2科目選択であったものを、政経・日本史・世界史・地理・生物・化学・物理(生物・化学は各2 時間、他は各3 時間ずつ)から3 ないしは4 科目選択(ただし社会・理科それぞれ2 科目以内)とする*7。
高3: 日本史・世界史・地理・生物・化学・物理(物理は3 時間、他は各2 時間)から2~4 科目選択(ただし社会・理科それぞれ2 科目以内)であったものを、政経・日本史・世界史・地理・生物・化学・物理(物理は3 時間、他は各2 時間)から2 ないし3 科目選択(ただし社会・理科それぞれ2 科目以内)とする。 ※時間割上、4 科目めが取れる生徒には4 科目を認める。
[保健体育]
中1: 3 時間から4 時間に増やす。
[書道]
中学: 中1 で2 時間だったものを、中1で1 時間、中2 で1 時間に変更する*8。
[第二外国語]
中3: 6 限までの通常時間割の中に入れる。
高1: 高1 から始める生徒のために初級クラスを新設する*9。(独・仏・中各1 クラス)
[自由選択科目]
高2: 社会・理科の3 科目選択者のみ選択可能な自由選択科目を設置。(時間割の制約で取れない場合もあり得る。)各1 クラス。
高3: 自由選択科目を設置。
この時の改訂の特徴として、以下の2 点が挙げられる。
1) 教科教育の授業時間数を全体的に削減し、そこでできた授業時間の空き時間を、中3 の第二外国語初級の時間に充てたり、自由選択科目を設置する。
2) 分割授業を高1 国語にも導入し、また中学校の理科の分割授業の時数を増やす。さらに、教科教育においても国語や英語の自由選択を拡充する。
こうした方針の下、中3 において2 時間分の授業時間を空け、第二外国語初級を配置することになった。中学校の理科の教育課程の変更は、分割授業を充実させる(中学3 学年で2 時間から5 時間に増加)とともに、中3次における理科の総時数を6 時間から5 時間に減らすためのものであったと考えられる。また、中学校の社会においても、歴史を3 時間から2 時間に減らした。これにより1987年度からの教育課程では、中3 が選択する初級については授業を6 限までの通常時間割の中で配置することが可能になった。
教育課程の変更の結果、中3 における第二外国語の履修者は増加し、必修化されていない段階であるにもかかわらずほぼ全員が選択するようになった*10。さらに、各言語2 クラス編成とし、外国人講師を招聘するなど授業態勢の整備が進められた*11。
教科教育の授業時間を減らし、余裕のあるカリキュラムを作るということは、いわゆる詰め込み教育への反省から1980 年代に全国的に試みられた。武蔵では中3~高3 までの各学年で週の総授業時間を減らしており、この改訂は教育界の動向とも連動するものであったといえる。
しかし、単純に社会に合わせただけではない。大坪秀二校長(当時)は、受験競争が苛烈化し、中等教育における授業内容が受験対策のようなものになっていくことについて度々警鐘を鳴らしていたが、そのような中で第二外国語については、「年を追って世知辛くなり続ける受験社会の中で、入試の成功とはほとんど関係のない第二外国語のような科目を三年も学び続けるというのは、やはり篤志家であり希少価値である*12」と評価している。こうした背景の下で、第二外国語の重視や、自由選択科目の設置、さらには分割授業の充実などを実現する教育課程の改訂が行われたのである。これは学校のカリキュラムと受験勉強との距離を規定するものともいえ、その後の武蔵の教育の基本姿勢を決定づけるものであったと考えられる。
教育課程の改訂と軌を一にして進められたのが、国外研修制度の整備である。第二外国語を三年間続けた生徒に報いるために、何らかの制度を模索していた矢先、大坪校長と同学年で米国在住の免疫学者であった平田篤信氏(17期理)より寄付の申し出があり、1986年12 月に醵金第1 号を受けた。その直後に平田氏は亡くなるが、戦前の外遊生や、平田氏の友人の同窓生、自身も外遊生であった二代目根津嘉一郎理事長などの厚意により、さしあたり数年分の資金が確保された。そして1987 年11 月に理事会において、「武蔵高等学校生徒国外研修制度」を「武蔵高等学校中学校奨学基金団」の事業に加えることが承認され、同年度末に初めての国外研修生を送り出すことになるのである。
本制度を導入するにあたっては、教員の間でも様々な議論があった。1987 年度の一学期には、「“ 海外研修(仮称)制度” についての有志懇談会」が2 回にわたって開催された。
1987 年4 月20 日に行われた第1 回の懇談会には約20 名の教員が参加したが、教務から以下のような提案がなされた。
(前略)中3 初級の5、6 限繰り入れ、クラス規模、外国人講師招聘など、一応授業態勢が整ったので、今後中、上級の生徒が増えることが期待される。この傾向を助長し、また外国語教育の持つ他生徒への波及効果を強めるため、上級の生徒の中から、毎年独、仏、中国へ各1 名ぐらいを短期間の研修に派遣してはどうか。滞在費はそれほどかからないから自己負担とし、航空旅費を支給するとすれば、毎年度100 万円程度寄附を募れば実施できる(初年度はメドがついている様子*13)。一部生徒のために行うものであるから、この制度のための特定寄附になるだろう。
これに対しては、以下のような問題点の指摘や意見があった。
・生徒の選び方が難しい。
・第二外国語選択者だけが選ばれるというのは気になる。部活動を奨励しているのだから、サッカーの短期留学などがあってもよい。理科などで行かせてもよい。
・英語で行かせてもよい。
・スポーツ留学はそれはそれでやったらよいが、学校によってそれぞれ存立基盤があり、武蔵の場合はどちらかというと学力になろう。
・英語については個人ルートで毎年行っている。学校として考えるなら、ボストンのプレップスクール日本語科生徒の受け入れだけでなく*14、こちらからの派遣制度を考えるべきではないか。
・日本の社会はあまりに閉鎖的であるから、何人かでも留学して、文化摩擦を伝えてくれた方がよい。立ち直れないほどのショックもあり、後の指導も考えねばならないが、刺激を導入し、その波及効果に期待したい。全体が活性化する必要がある。
・三理想の一つ、国際性云々はこれまでタテマエにすぎなかった。実態を作るのはよいこと。
そしてさらに、どのような制度にすればよいか、どのように生徒を選ぶべきかなどについて議論が交わされた。最終的には、「色々と検討すべき点はあるが、大筋としておもしろいから進める方向で考えよう」ということになった*15。
第2 回の懇談会*16では、武蔵大学学生海外研修規程、第二外国語講師の意見、在外卒業生からのアドバイス、第1 回懇談会での意見などをもとに、制度化のための案が検討された。聞き取りを行った講師、卒業生ともに制度化に賛成で、ホームステイをしながら現地校(または語学学校)に通学するのが有益で、滞在費も安いだろうということが共通意見となった。また、後述のように協力を仰ぐことができる卒業生についても情報交換がなされた。こうした議論を経て、国外研修制度は急速に形作られていき、1987 年11 月2 日には以下のような「武蔵高等学校生徒国外研修規程」が制定された。
1. 目的:本校の教育目的にのっとり、語学研修をかねて外国文化を体験学習させ、その成果を在校生に還元させる。
2. 対象:第二外国語上級選択者を対象とし、外国生活未経験者を優先する。
3. 人数:若干名
4. 期間:上級終了後、3 週間~2 か月程度とし、春休みまたは夏休みを含める。
5. 選考:応募により、2 学期に選考する。
6. 選考方法:目的、計画、語学力、小論文、面接などによる。
7. 支給旅費:往復旅費程度を武蔵高等学校奨学基金団から支給する。
8. 外国での身元引受、連絡先:学校または保護者で用意する。
9. 外国での生活:選択した第二外国語を母語とする地域を行先とする。一定期間現地校または語学学校に入り、現地家庭に滞在するのが望ましい。その場合の受入先は、学校または保護者で用意する。
10. 帰国後:報告会、報告書、展示会などのほか、その後の学校生活をとおして在校生に体験を還元させる。
さらに、この規程について周知する「武蔵高等学校生徒国外研修制度について」には、次のようなことが記されている。
旧制武蔵高等学校では、三理想の精神を形に表わす方策のひとつとして、高校2 年生1~2 名を選び、夏休みに国外旅行を体験させる「外遊生制度」がありました。この制度は第1 回から17 回生まで実施されましたが、戦中の昭和19 年に実行不可能になり、以後、戦後の困窮期を経て新学制に移行するとともに、復活の機会もないまま自然消滅しました。
ところで、生徒が外国文化と接する機会という面では、父兄に伴われて外国へ行く場合のほか、とくに英語圏については、AFS(American Field Service)、YFU(YouthFor Understanding)その他さまざまな留学研修制度を利用する機会があり、半世紀前とは比較になりません。しかし、これらはすべて、本校が主体となって行っているものではありません。
他方、現今、世間一般の中学・高校の事情は、大学進学との関連で大層窮屈な状態にあります。世の中全体が1 点を争う受験競争に傾く中では、自ら調べ自ら考え、のびのびと個性を発揮し創造性を養う青少年時代の過ごし方は、年を追って困難になっています。武蔵では、このような時代の中にあってつとめて三理想の精神を生かし、単なる受験学校でなく本当の自己形成の場であり続けたいと努力していますが、激流に逆らう苦しさを痛感しているのが偽らざる実状でしょう。
今年度からはじめた高校での選択制の改善、第二外国語の強化などは、将来の中学・高校のあるべき姿を念頭においての第一歩だと考えています。第二外国語は、大学受験に直接的な利益は殆どありませんが、今の若者が責任の立場に立つ時代には、現在以上に国際的感覚が求められることは明らかであり、そのためにも、第二外国語の学習は英語だけの学習とは異なる視座を与えてくれるはずです。そのような科目を重視することは、受験にとらわれすぎている現代の高校生活に対して、武蔵としての姿勢を明確にする意義があり、また実際に、期待に応えてくれる生徒が多数います。現在のこの気運を更に拡大したいという思いから、国外研修制度の規程が作られました。
当面は、第二外国語履修者に限定した制度ですが、これを土台として、英語圏を含めより広い範囲の研修制度に発展することが期待されます。また、この制度は外国の学校生活体験を中心に考えており、自然の成行きとして、先方の学校の日本語を学ぶ生徒を武蔵に受け入れる交換方式が予想されます。このため、二、三の在校生家庭にホームステイの世話をお願いすることになると思われます。
この制度が実現する契機となったのは、武蔵17期卒業生 平田篤信氏(免疫学研究者、米国アボット製薬主任研究員、1987年2 月逝去)が生前、この計画に賛同して寄せられた寄付金でした。加えて、根津嘉一郎氏には、学校法人理事長の立場からではなく、旧制時代の外遊生の一人としてのプライヴェートなご好意をこの計画にお寄せいただきました。このお二人の寄付を中心に比較的少数の同窓の方々の寄付によって、本計画は推進されることになりましたので、本計画を通称「根津・平田プロジェクト」と呼ぶことにしました*17。
以上、本計画の概略の趣旨等を説明しました。この制度を活用し、さらに発展させてゆきたいと願っています。
先に見た大坪校長の受験競争への批判的な考えや、それに対するアンチテーゼとしての第二外国語学習への思い、さらには後述する外遊生制度との連続性を強調しようとする意志が滲み出ている文章であるといえよう。
しかし教員の間では、制度の方向性はよいとしながらも、第二外国語選択者に限られることをめぐっては様々な意見があったようである。そのため大坪元校長*18 も、『国外研修年報』第1号に寄せた「計画発案から現在に至る経過」において、この点について注記し、「英語圏には個人ルートで毎年何人かが出かけていること、アメリカ東部のプレップスクールからの非公式な打診もあり、将来交換留学制度を持てる可能性があることなどから、当面は独・仏・中を先行させてよかろうとの結論になった」と述べている。当時は、中・上級選択者数が限られており*19、この段階では第二外国語を特に重視すべきであると学校全体として盛り上がっていたわけではないことが窺える。すなわち、第二外国語や国外研修が武蔵の教育理念の中で重みを増していくのは、教育課程の改訂や国外研修など1987 年度以降の制度の整備と歩調をあわせたものであったということであろう。
1980 年代は日本の海外旅行者数が急拡大し、大学生の海外旅行なども一般化していった時代であるが、この時期にあえて第二外国語を重視し、また単なる語学研修ではない国外研修制度の構築を目指したことは、武蔵らしいグローバル化への対応として評価できるのではないだろうか。
武蔵の国外研修制度の特徴として、業者などの力を借りずに「手作り」の制度を構築し、発展させてきたことが挙げられる。
武蔵では第2回目の「“海外研修(仮称)制度”についての有志懇談会」において、「学校としては企業関係の利用は避けたほうがよい」ということが話し合われており*20、外部業者やスポンサー企業に頼る形でプログラムを作るのではなく、自分たちの手で研修制度を模索することが当初から目指されていた。そして提携校を探すにあたっては、卒業生による様々な形の助力が大きな役割を果たした。
国外研修が始まった初年度からのドイツの提携校Ernst-Mach ギムナジウムは、東京ドイツ文化センター(ゲーテ・インスティチュート)に勤めるドイツ人スタッフの娘さんが同校で日本語を教えていたことが縁で、提携先となった。また、Maximilians ギムナジウムは、卒業生の鎌田康男氏(40期)が知人を介して同校の日本語担当教員に連絡をとったことがきっかけとなって提携が始まった*21。
フランスでの提携校については、ポアチエ工科大学の教員であった影山正氏(34 期)が、ポアチエで日仏交流活動を中心的に進めており、フランスの高校生・大学生の日本語学習プロジェクトや日本への留学の支援などをしていたことから、ポワチエのリセであるVictor Hugo校との提携や、ホームステイ先の選定などの一切の世話を担った*22。
中国については、当時の国際情勢から当初は学校との交流やホームステイがのぞめなかった。こうした状況下で、外国人や標準語を母語としない中国人を対象とする語学学校の短期コースへの参加経験のあった青村繁教諭(数学科・当時)の経験を踏まえ、語学学校へ通学する形での研修として始まった*23。その後、日中友好協会を通した武蔵からの提携希望の依頼と、人民大学付属高級中学(人大付中)から東京都への提携依頼がマッチングされ、岡俊夫教諭(社会科・当時)と山本誠司教諭(国語科)の尽力により、1993年から人大付中への派遣が行われることとなった*24。当初は武蔵から人大付中へ生徒を派遣するだけであったが、2000 年からは人大付中から武蔵への生徒派遣も実現し、双方向の交流が実現することとなった。
韓国については、兵役や大学進学の困難さなどの関係で提携校との交換留学の形式がのぞめなかったことから、松嶋幹夫教諭(国語科・当時)が韓国の大学教授の知人を介して高麗大学校につないでもらい、1994 年から同校の外国人向け韓国語クラスでの語学研修とホームステイという形での研修が開始された*25。ホームステイ先の選定にあたっては、猪尾和広教諭(社会科)の縁で、韓国における日本古代史・韓日関係史研究の第一人者であった高麗大の金鉉球教授(当時)の協力を得た*26。その後、ソウルの日本大使館での勤務経験のある外務省の水越英明氏(55 期)の協力の下、韓国において提携する高校の選定が進められ、豊住伸治教諭(英語科・当時)や下明浩教諭(数学科・当時)の尽力により、2002 年より漢栄外国語高校との交換留学が開始された*27。
英国Eton College(イートン校)との提携は、ドイツ・フランス・中国への派遣が始まった直後の1989 年から始まった。イートン校は1980 年代末に、2 人の息子をイートンに入れていたポール・チェン東京大学法学部教授(当時)に依頼し、生徒を派遣する日本の高校を探していた。チェン氏と研究室が隣だった滋賀秀三名誉教授が武蔵の卒業生(13期)だった*28 ことから武蔵に話がつながり、1989 年の9 月にイートンから生徒1 人が武蔵に派遣されて2 か月滞在し、1990 年4 月に武蔵生の派遣が始まった*29。
電子メールもなく、国際電話もままならない時代に、業者などに頼らずに現地校とのつながりをゼロから構築していくのは、並大抵の苦労ではなかったと推察される。大坪元校長はフランスの提携校であるJean de laFontaine を訪れた際に、同校校長のランスラン氏が武蔵との提携の経緯について不確かな様子であったことの理由として、「短期間にフランス語、英語、日本語の手紙が交錯し、電話での相談も二、三方向からいったりしたせいであろう」と述べているが*30、当時の交渉の難しさが垣間見える。
国外研修制度は、1987 年の夏頃にはまだゼロ・ベースでの議論が行われていたが、11月に制度が正式に発足し、それから半年足らずで第一回の研修生を派遣している。生徒を引率者無く一人で海外に派遣するという制度を、これだけの短期間で構築し、提携校まで決定して実現に漕ぎつけたのは、驚異的なスピード感である。小規模校だからこその意思決定の迅速さや、大坪校長をはじめとする国外研修運営委員の教員の思いはもちろんのこと、卒業生や関係者の様々な協力があったからこそである。
大坪元校長は、国外研修の第一年目を振り返って次のように述べている。
このような小さなプロジェクトでも、何しろはじめての仕事で、いざとなると実に様々な用件がありました。そして、その処理のために沢山の方々から親身のお世話をいただきました。独文・仏文での手紙のやりとり、国際電話での話合い、これらは全く私たちだけの手には余ることでした。武蔵大学の先生方や講師の先生方のお力にすがりました。パリやミュンヘンに住む卒業生や知人の方々には、何かの折の助け舟をお願いして快諾を得ています。駐独大使宮澤泰氏(15 期卒業生)までが、陰ながら好意をこめて見守って下さっています。このプロジェクトの資金面を支えて下さっている卒業生の方々はもちろんのこと、ほんとうに沢山の方々のご援助でこの事業が発足しました。どうか、良いものに育っていってほしいと希望しています*31。
武蔵から巣立った卒業生や、武蔵の教育に対して意義を感じた方々が手を差し伸べてくれたところに、武蔵の教育の価値が顕れているのではないか。
武蔵の国外研修では、学校は必要以上に生徒に指示することはなく、生徒は自分自身で研修先での過ごし方を考え、準備をしなければならない。航空券だけを渡されて教員の付き添いもなく「行ってこい」と日本を発つため、事前に現地でのエクスチェンジ・パートナーとの待ち合わせ場所や時間を自分で打ち合わせ、一人で飛行機に乗り、期待と不安の中で現地へと向かう。研修先についての情報は、先輩方から直接入手するしかなく、教員から事細かな指示などは与えられない。さらに2 週間程度の個人旅行期間があり、学校へは行先を報告する程度で、あとは完全に自分で計画を立て、旅行する。
このような国外研修のあり方は、まだインターネットも普及していなかった草創期から受け継がれてきたものであり、武蔵の国外研修制度の根幹を為している。こうした形で生徒を海外に送り出すことについて、真田治彦教諭(国語科・当時)は次のように述べている。
研修生諸君からは教師控室宛おりおり経過報告があり、現地OBや関係者の援助を得てうまくやっている様子がわかりました。しかし実際を想像すると、17 歳の外国1 人旅がそううまくゆくわけはないでしょう。空港からステイ先、寄宿舎に着いてほっとしたところで、生活習慣、価値観が異なるうえに、日本語はまったく通じず、しかも礼儀上、また語学研修の義務らからも(英国は別として)英語でごまかすわけにはいきません。まして提携校の授業では、黒板の筆記体を判読して辞書と首引きというように、この間の6 週間は緊張の連続で、ああ日本にいればと、ひと知れぬため息もあったかもしれません。そのあとの個人旅行にしても、ホテルやユースホステルの予約、交通機関の利用などで思わぬ臨機応変を迫られます。頼めるものは語学力と判断、行動力しかありませんが、一応の素地のうえに、みなよく努力しているようです。
みやげ話は楽しいにきまっていますが、それを聞いて、単純に大学生の卒業旅行や大人のパックツアーのような気安い観光旅行を連想してもらっては困ります。たぶん17 歳でこれほどの経験をしたひとはいないでしょうから、贅沢といえばいえるにしろ、それは「(未知への恐怖と不安で)あそこまでやるせない気分になることもそうはないだろう」(「年報」3 号)というたぐいの、なかなかきつい贅沢です。身から出た錆、ではありませんが、なまじ語学を勉強したために負わされた義務とでもいったほうがよいかもしれません。そうでなければ、ただの観光旅行に応援をする気にはなりません。日本人の行きそうにないところで、現地語を話したときの土地のひとの嬉しげな対応なども知らせてきましたが、よい旅行をしているものだと思いました。せめてもう1 週間いたかったというのが共通の感想で、これはけっこう自信がついてきたということなのでしょう。武蔵生の潜在能力は、やはり大したものだと思います*32。
ここでも述べられているように、教員の言われるままに海外で行動していたのでは、留学といってもパック旅行と大差ないものとなってしまう。自分自身の価値観が通じない(=甘えが許されない)異文化の中で、たとえ失敗があったとしても、自分で判断し、行動することによってこそ、ただの物見遊山ではない研修となる。そしてそうした経験を積んでこそ、海外経験を一過的なものに終わらせず、次につながるものとなっていくのだろう。
現在の教育を取り巻く状況において、学校が生徒の自由を認め、生徒に自律的に行動させることは、ますます難しくなってきている。自由を謳う学校は多くあるものの、生徒が自分たちの意志で行動することを、時にはリスクを冒してでも最後まで見守るのは、容易なことではない。特に生徒を海外に送り出すとなると、学校はどうしても必要以上に管理したがるものである。そのような中で、武蔵が生徒に多くを任せる形で国外研修制度を継続してきたことは、社会的にも大きな意義がある。
武蔵の国外研修は、交換留学の形態をとり、提携校との対等な関係を維持することにこだわってきた。
当初は高校と提携することができなかった中国や韓国との間でも、先述のように提携校を探し、交換留学の形にすることで制度を発展させてきた。
中国の人大付中との交流が武蔵からの生徒派遣の形で始まった当初に、先方から教員が来校したことについて、矢崎三夫校長(当時)は次のように述べている。
今年は北京の人民大学付属高級中学校から先生方が三人、教育視察に来日された。当方としては武蔵の国外研修制度は、その頭に「生徒」という文字がつく様に、生徒対生徒の交換を原則とし、こちらから生徒、あちらから先生という交換は正直なところ余り歓迎しなかった。はるばる来日された先生方に生徒同様の扱いは到底出来る所ではないからだ。(中略)日中間の国外研修はヨーロッパの場合とは異なり、人大付中との交流は今回は第一回目だった為もあって、形の上では、生徒対先生の交換になってしまった。(中略)どういう形でなら生徒対先生の交換でも続けられそうか、また生徒対生徒の交換は何年位先なら可能か、等々の問題を早急に検討してみる必要がある*33。
また、真田教諭(当時)も次のように述べる。
中国北京の人民大学付属高級中学が、初めて本校研修生を受け入れてくれることになり、折から研修中の2君の慰問を兼ね、3 月25日校長と岡俊夫委員が同校を表敬訪問した。熱烈歓迎を受け提携関係についても協議を行ったが、国情もあって残念ながら同校生徒の交換留学は当分望めない*34。
対等な交換留学への強いこだわりがうかがえる。こうした思いが、2000 年からの人大付中との交換留学に結実するのである。
対等な提携関係を目指す姿勢は、イートン校との提携においても同様であった。イートンは先述のような経緯で、先方からの申し出によって提携が始まったことや、世界的な名門校であることから、他の第二外国語の提携校とは武蔵との関係性が異なっていた。第二外国語の提携校については、日本語の授業を受け、日本文化への関心のある高校生に武蔵に来てもらいたいとの考えから、日本語の授業を持ち、生徒交換の目的を共有できる高校を慎重に選定した。この点はイートンについても譲れない部分であり、大坪元校長は、イートン校のアンダーソン校長(当時)との交渉にあたって、イートンで日本語の授業を行い、その生徒の中から武蔵への派遣生を選んでほしいと要請した。そして日本語コースを開始するにあたって、必要ならば適当な武蔵の教員を派遣することも伝えていた。これに対してアンダーソン校長から、2 か月後にはすべて要望に沿って対応する旨の返事が来た。イートン校は日本語講座を開始することになり、1990 年5 月8 日に住友信託銀行から100 万ポンドの寄付を受け、これによって日本語講座の運営や日本語教師の交通費、滞在費用、給与などを賄うこととなった。日本語教育の担当者は、提案の通り武蔵から派遣されることになり、1990 年から2 年交代*35で10 年間にわたり、田中勝教諭(英語科・当時)、岸田生馬教諭(英語科・当時)、山﨑元男教諭(国語科・当時)、中尾泰介教諭(英語科)、伊藤博教諭(英語科・当時)が派遣された*36。これにより、交換留学の形での提携の素地が整えられた。
イートン校は1440 年、薔薇戦争の真只中に時の国王ヘンリー6 世によって創立された英国で2 番目に古いパブリック・スクールである。それ以来580 余年、常に英国社会を主導する人材を輩出し、歴代の英国首相のゆうに3 分の1 以上はイートン校出身である。ウィリアム王子やヘンリー王子の母校であるだけでなく、英国以外の国の王族や支配者階級の子息も多く通っている。年間の学費・寮費は日本円で500 万円を超えるなど、武蔵とは何もかもが桁違いのスケールの学校である*37。このような学校に対しても、日本語講座を開設させてでも交換留学の形態をとることにこだわったのであり、世界的な名門校が相手であっても対等な関係を築こうとしていたということである。
イートンは特権的な世界であり、ここに通うことは英語の習得のみならず、極めて重要な人生経験となる。しかし武蔵では、派遣する生徒の選考の際に、「原則として英語圏での生活の未経験のもの」という条件を設けていた。この規定により応募を断念したイートン留学志望者も少なくなかったが、イートンへの留学は単なる語学留学ではなく、世界のエリート層と同じ環境で学び、交流するという極めて稀有な体験であることを考えると、この規定の評価は分かれるかもしれない。イートン留学を一般の英語圏滞在と同列に扱おうとするかのようなこの姿勢は、イートンとの対等な関係を望み、イートンだからこその特別感を前面に出さないようにしたいという武蔵のジレンマを反映しているのかもしれない。
イートンとの提携は2010 年まで続き、次の派遣教員として伊藤義器教諭(国語科・当時)が決まっていたものの、2000年夏で武蔵からの日本語教員の派遣は終了した。英国の大学入試制度に精通し、外国語として日本語を教えることができる教員による日本語教育をイートンが目指したためであった。ただし日本語教員の派遣を他の日本の高校へ依頼するものではなく、生徒の交換は続けることとされた*38。
しかしその後、英国の大学入試制度との関係から、イートン生が武蔵の学期中に来日することが困難となり、夏の長期休暇中に来日する形になる一方で、武蔵からは2 名・2 か月の派遣が維持されるなど、イートンとの関係は「片貿易」の様相を呈してきた。そして末年には武蔵からの派遣も不安定なものとなり、最終年には派遣する生徒の選考も済んでいたにもかかわらず派遣できないという事態になった。生徒交換の終了に至る本当の理由は詳らかではないが、イートン側には、武蔵生が6 週間暮らすために寮の部屋を2 部屋確保しなければならないという経済的な問題もあったようである*39。この時、武蔵の中では授業料と寮費を払って1 年間生徒を派遣する制度に模様替えする案もあったようであるが、本来の交換留学制度の目的に反するため、結局こうした案が採用されることはなく、イートン校との提携は終了したのである*40。
イートン校の圧倒的なブランド力を考えれば、学校の宣伝のためにもイートンと提携していることのメリットは大きく、年間500 万円にのぼる費用を払ってでもイートンとの関係を維持することは、経営判断としては考え得る方策であるといえるだろう。しかし武蔵は、去り往く「友人」を未練がましく追いかけることはせず、「対等」でなくなった時にイートンとの交換留学制度は終焉を迎えたのである。
イートン校との提携では、対等な関係を模索するための試行錯誤が続けられた。1991年にイートン校は創立550 周年を記念して、毎年5 名の高校生を世界各国から1 年間受け入れるInternational Scholarship という制度を設けたが、そこに武蔵は3 年連続で選ばれ、3 名の武蔵生が1 年間のイートン滞在を経験した。イートン校は武蔵の他にも様々な日本の高校と提携し、サマー・スクール等の形で日本の高校生を受け入れてきたが*41、日本語教員の受入れやInternational Scholarshipへの採用、そして正規の授業を受ける「対等」な形での交換留学を20 年間にわたって継続した日本の高校は他にはない。武蔵は対等な関係を目指したからこそ、日本におけるイートン校のパートナーとしての地位を保ち得たのではないだろうか。
国外研修制度は、当初から戦前の外遊生制度との連続性が強調されてきた。先に見た「武蔵高等学校生徒国外研修制度について」も、まずは外遊生制度の説明から始まっている。
旧制武蔵高等学校の時代、第1 回入学生で在校中に死亡した生徒の父からの寄付を基礎に、有志の醵金を積み、1924年に「外遊基金団」ができた。これを用いて高等科2 年生から1~2 名を選び、夏休みに国外を旅行させたのが外遊生制度であり、第1 回(1927年)から第17 回(1943年)まで合計25名の外遊生を派遣した。第1 回の外遊生の大瀬貴光はマレーへ、第2 回の神戸正一はシャムへと外遊し、第3 回の岩崎之隆の時になって初めて米国カリフォルニアへの外遊が実現した。第18 回目となるはずであった1944 年は戦況の悪化から候補者を指名したのみで実行できず、この制度は終焉を迎えた。
外遊生制度について、山本良吉は次のように述べている。
本校の創立に当り、東西文化の融合と世界雄飛の能力養成とがその理想の中に数へられた。その後、一父兄が本校生徒たりしその亡子の記念として、生徒外遊の目的で或る寄附をなされたので、それが基となつて武高外遊基金団ができた。固より外間に発表したわけでもなく、寄附金を募集したわけでもなく、たゞ職員、父兄や篤志者の時々の寄附によつて少しづゝ基金が増加した。それが四萬圓ともならば、その利子で生徒一人に、せめて夏休に米国まで位は旅行させられると思ひ、始はその時を待つて居たが、かくては百年河清の譬にも類し、はてしない気持がしたので、昨年から一人づゝ少許の旅費を本団基金中より支出し、厳密な詮考を以て外遊せしめることとした*42。
国外研修制度の整備にあたって、外遊生制度との連続性を強調したのは、大坪元校長であった。自身も16 回目の外遊生として1942年に満州へと渡った経験を持つ大坪元校長は、国外研修制度について周知する「武蔵高等学校生徒国外研修制度について」や研修生の募集に関わる種々の文書において度々、外遊生制度を話の枕としているだけでなく、「外遊生制度から国外研修制度へ」という文章をのこし、両者の連続性を説き続けた*43。
しかしながら、戦前と戦後では武蔵の社会的なステータスも海外渡航のし易さも、まったく異なるものである。旧制高校は全国に40 校程しか設置されなかった超エリート校であり、また海外との行き来は当然ながら現在とは比ぶべくもなかった。この時代に学年の1 人か2 人が選ばれ、帝大出身者の初任給の10 倍近い旅費を与えられて旅行する外遊生制度と、海外渡航が特別なものではなくなった現代に、学年の1 割程度が短期留学する国外研修制度とでは、性質が大きく異なるものである。
大坪元校長自身、次のように述べている。
外国と日本社会との繋がりは、この20年ほどの間に急激に増大した。AFSその他の機関を通じての外国留学とか、父母の国外勤務に同行しての何年かに亙る外国での学校生活とか、夏休みの短期ホームステイ・語学研修、それに短期間の国外旅行まで加えれば、国外に出る生徒の数は、この20 年間で10 倍といわず増えている。だから、旧制の頃のような、ただ国外に出て何かを見聞して来いというような外遊制度は、今では学校会計を痛めてまで実施するものではないように思える。長年、高校中学の責任の立場にありながら、外遊制度の復活を考えることに何か積極的になれずに過ぎたのは、こうした世の中の事情によることでもあった*44。
すなわち、大坪元校長も戦前と現代では社会状況が大きく異なり、海外に送り出すだけの制度であれば必ずしも必要がないと考えていたのである。
大坪元校長は、こうも述べている。
旧制時代の外遊生制度は、日本という国が第一次世界大戦後の世界の中で次第に孤立化を深めながら、破局的な戦争にのめり込んで行く丁度その時期と重なっている。国外に行くことの大変さは、時間的にも費用の面でも現今とは較ぶべくもなかったから、学校から旅費を支給され、夏休み期間を多少はみだして旅行にあてたところで、行動範囲はかなり限定されていた。17回の外遊生のうちで、ヨーロッパまで出かけた人は無く、アメリカが五回(中略)、他はほとんど中国を中心としたアジアであった*45。
このように旧制時代の外遊生たちは、国際関係が緊迫化していく時代に苦労しながら海外旅行を行っていたのである。1931 年の第5回外遊生である根津藤太郎や大堀弘は、カリフォルニアにおける日系移民排斥を目の当たりにして、それについての所感を「外遊報告」に書き残している*46。1937 年の第11 回の外遊生であった相浦忠雄と宮澤喜一は、元々は中国と香港をまわる予定であったが、出発を数日後に控えた7 月7 日に盧溝橋事件が起こり、日中が全面的な戦争に突入したことから、行先を満州へと変更している*47。さらに1938 年の第12 回外遊生である水野直は、「支那事変」に対する米国の世論や日系移民について、米国で考えたことを「外遊報告」において述べている*48。日本を取り巻く状況が刻一刻と変化していく時期に、それに翻弄されつつも対峙した旧制時代の外遊生制度が、外遊生の国際感覚を磨く上で果たした役割は大きい。サンフランシスコ講和会議に全権随員として参加し、一貫して親米派・日米同盟論者として戦後の日米関係を支え続けた武蔵出身唯一の内閣総理大臣である宮澤喜一を生み出したことは、外遊生制度の一つの成果であったと言えるだろう。
大坪元校長は自身の外遊生としての経験から、平和な時代に飛行機で往復する国外研修制度が、戦前の外遊生制度の足許にも及ばないことは十分認識していたはずである。しかしだからこそ、武蔵の国外研修をどこの学校でも実現できる語学研修に終わらせないことを願い、敢えて外遊生制度からの連続性を強調し続けたのではないだろうか。
学校が制度として生徒・学生を海外に派遣したり、留学生を受け入れたりする国際交流は、現在では全く珍しいことではない。多くの中学・高校・大学で、「グローバル」が教育目標の中のキャッチ・フレーズとして掲げられ、国際交流が行われている。国際交流が当たり前になっている現在の社会状況は、「時代が追い付いてきた」と言うべきものかもしれない。しかし逆に言えば、中等教育機関としては比較的早い段階で国外研修制度を整備したというだけでは、武蔵は「時代に追いつかれてしまった」学校ということになり、国外研修制度によって武蔵の独自性を保つことはできないということになってしまう。
武蔵の国外研修は、海外の名門校や英語圏以外の学校との、一方的な派遣ではない交換留学である点で意義深いものであるが、魅力はそれだけではない。
国際交流と称して一般的に行われているものの中には、学校側によって完全にプログラムが用意され、同伴する教員の指導のもとで現地校の生徒・学生との形ばかりの「交流」や、1 週間程度のホームステイが行われる、といったものが少なくない。また、業者に依頼すれば1 年単位の語学留学は比較的容易に行えるものである。こうした活動に意味がないわけではないだろうが、「ただ単に海外に行かせました」「語学留学をしました」というだけでは、他との差別化は難しい。
それに対して武蔵の国外研修は、武蔵が自ら構築してきた「手作り」の交換留学制度であり、かつ個人旅行も含めて研修生本人が自らプログラムを主体的に作っていかなければならないものである。必要以上に「お膳立てしない」からこそ、研修生にとっては全身で世界と対峙しなければならない厳しい制度であり、それだけ実りも多いと言えよう。
「グローバル」も「多文化共生」も、基本的なコンセプトとしては100 年前には登場していた概念である。まさに、旧制武蔵高等学校成立の背景をなす第一次世界大戦後の大衆化の時代に、すでにこうした価値観の下での教育は始まっていた。戦前にも、大日本帝国の版図を見学する修学旅行は活発に行われていたが、そうした中で学生を単身、海外に送り出していた武蔵の外遊生制度は一線を画すものであったと言えよう。
現在、「グローバル」や「多文化共生」が当たり前のものとなる中で、武蔵の国外研修制度がどのようにして価値あるものであり続けていくことができるか、大坪元校長の残した「神話」に正面から向き合うべき時が来ているように思われる。