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通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

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VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

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正田構想実現の十年間を回想する(大坪秀二)

【編者注:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16 期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、『武蔵学園史年報』第14号(2009年3 月刊)に寄稿されたものである。】

 

◆はじめに

 たまたま時の巡り合わせのような縁で、『武蔵七十年史』編纂を機に学園史資料に関わることになり、20 年近くが過ぎてしまった。その70 周年記念事業で設置された学園記念室では、2022 年に刊行されるであろう学園の正史、『武蔵百年史』を一つの目標とした仕事が進められている。旧制時代と、新制高校中学の18 年間(発足から1967 年3 月まで)については、概略の記録を「校務記録抄」や「記録抄」として7 回に分けて学園記念室年報に発表した。それらについては、歴史家でもない私が不遜とは思いつつ資料を取捨し、解題を書いた。対象とした45 年間のうち、筆者は生徒時代、教師時代を併せて23 年半を武蔵で過ごした。一数学教師としての管見ではあるが、大勢の同僚と気持ちを共有するものが多く、ある程度は客観的な見方を貫くことが出来たように思っている。私はこれで、武蔵の歴史をあとの人々に引き継げると思った。

 記念室の方針として、世間一般に倣い、30年以上を経過した史料は出来るだけ記録として遺すこと[30年ルール]にしており、現在【編者注:この文章が執筆された2008年から見て】それは1978年以前を意味する。未発表の分の初めの10 年間は、いつの間にかその30 年ルールに当てはまってしまった。そのとき、任じられて教頭、のち校長の職にあった筆者には、それを取り纏める資格はなく、しかし、後継の人選は決まっていない。これまで協力して仕事をしてきた記念室関係諸氏のご意見で、ごく概略の記録だけでもまとめておけば、と促されて、異例ではあるがその10年間の整理をすることにした。

 流れの大筋は、事務長が記録する「学務日誌」に拠り、これに内容的な肉付けを加える史料として、「教師会議事録」と、私自身の校務メモ(主として教師会のための準備)、私自身の日記(両メモをあわせて[大坪メモ]とした)とを援用した。他に『大欅』[学校と家庭の連絡誌]、『校友会報武蔵』の両資料を確認程度に利用した。私には克明な記録を残す習慣がなく、教頭になってやっと、書き残すべきことがあると気付いたが、長年の習慣は簡単には改善できず、今更ながら恥ずかしく思っている。

 あり合わせの資料を並べただけの変則な記録であるが、これに『解題』を書くのも烏滸がましく、記念室運営委員会のお許しを得て、主な事柄についての私自身の回想のようなものを書き並べてお許し頂きたいと思っている。

 

当初武蔵学園を挙げての移転が計画されていた朝霞校地。1968年に朝霞総合グラウンドとして整備された。

◆学園再編計画 第2 次正田構想 (1966~1967 年度)

 学園を挙げて朝霞に移転するという第1 次正田構想は、米軍朝霞基地[一部は既に自衛隊が使用中、さらに1966 年にはホークミサイル基地となることが予定された]の追加払下げ可能性が消滅した段階で振り出しに戻ったが、大学を複学部にする(当初は文系、理系各一学部増設)構想は生きていた。1966年度の終わりには「学部増設準備会」が発足して、高中からは大坪[筆者。1967年度から教頭就任予定]と島田[いずれ日本史担当として大学への移籍が予想されていた]の二教諭も準備会の委員に加えられていた。

 学部増設は殆ど大学プロパーの問題のように見えて、実はそうでない。新設すべき大学学部の居所を何処に設けるかは、大学と高中が建物についても運動施設についても混在していた当時にあっては、先ず直面する大問題であった。[さらに、東京都外の朝霞に移転する場合と異なり、江古田校地内で大学と高中が共存することになると、その住み分けの処理が、新学部認可申請の時期次第では、認可の成否にも微妙に関わる懸念もあった]

 この問題は、結局、大部分が正田学長・校長の意中にあるということを、関係者みんなが暗黙のうちに了解し合う状況のなかで進行したといってよい。したがって、筆者が校長の計画の具体的な内容を正式の場で聞いたのも、1967 年6 月27 日、高中父兄会長と高校同窓会長とを校長自宅に招いての新計画への募金事業に協力を懇請したときである。もちろん、それ以前に漠とした構想の話はあった。筆者が教頭に就任したばかりのころ、正田先生に誘われて濯川のへりを散歩した折のことである。「将来にわたって、大学、高中それぞれが施設その他の更新を望むことがある筈。それが、一々学園全体の問題となって動きがとれなくなるような事態には、今こそ対処しておかねばならない。それに、学生運動はまだまだ序の口で、将来に向けて一層高まることが予想される。大学、高中が完全に混在している現状で、どちらかに何事かあれば、必ず影響は全体に及ぶ。火種は個々別々なことが多いだろう。必要なだけの対応ですませる為にも、お互いの生活域は分けておく方がよい」と、まあこんな話であった。正田先生の考えはこの点ではっきり決まっており、細部のプランが未定のままに、濯川の線が大まかな境というところまで煮つまっていた。そして、先生はこの構想の線でどんどん周囲への働きかけを行っておられた。『正田構想』と呼ばれた所謂である。

 

◆動き出した計画 (1967 年度後半)

 1967 年9 月末から計画は一気に動き始めた。まずは、教師会に校長から計画を発表することであったが、全員の同意を得ることは決して簡単なことではなかった。構想そのものへの強い批判もあった。その後の教師会では、強硬な反対意見も堂々と述べられ、論議は年末近くまで繰り返された。さんざん議論した揚げ句に、疑義は残したものの、学長・校長構想の線でとにかくまとまろうと言うことが多数の同意を得た。このあと、生徒への説明は教師会の論議をふまえて、11 月24 日、講堂に全校生徒を集めて教頭から説明が行われた。説明は1 時間半に及び、10 日ほどあとの代表委員その他有志との話し合いも含め、現段階で分かる限りの情報を尽くして話し合った。11 月14 日に父兄会委員会での説明のあと、生徒にも情報が流れて、主として上級生の間には反対行動を企てるやの噂も聞こえていたが、この説明後の全体の傾向としては、つとめて前向きに受け止め、遠慮なく要望を発言して行こうという方向に変わっていったのは頼もしいことであった。

 根本問題の議論とは別に、具体的な移転計画は時間と睨めっこで進めねばならない。各教科に現状確認の作業が求められ、新施設への要望事項をまとめるための調査、検討が始められた。総務委員のほかに建設担当の小林教諭、体育施設担当の飯塚教諭(当面代理高橋教諭)を加えて建設委員会が作られ、専ら建設のことを扱った。一部屋を無理矢理に空き部屋にして、ここを建設委員会の作業場とした。

 募金計画への対応は、父兄、同窓の間で大層好意的に進められ、学校側としては只ただ感謝であった。父兄会委員長会、委員会、総会がそれぞれ一度ならず持たれ、熱心な討論が夜遅くまで行われた。こうした率直な作業が、通り一遍、儀礼的な賛同ではなく、歯に衣着せぬ討論を経た強固な合意を形成してくれたと思っている。

 同窓会については、総会、旧制・新制それぞれの部会、卒業期ごとや部ごとの集まり、関西・中京・東北・北海道等地域での集まりと、実に様々なグループが賛同と後援の催しを行ってくれた。その他、同窓には第一線で活躍中の建築家が多く、幾つもの場面でその人たちのアドバイスを得ることが出来た。もちろんその中心となってくれたのは建築学科の大先輩太田博太郎先生であり、すべてについて気を配ってくださったのは内田祥哉先生(17 理、当時東大建築学科教授)であった。

 

旧テニスコート附近の欅並木を伐採せずに横切るため、クランク状に曲げて作られた高中校舎渡り廊下

◆「日常+建設」の1 年半

 1967 年の年末に設計・施工会社が清水建設に決まり、学校建築専門家をまじえたスタッフが紹介された。その人たちと年末から年始にかけて幾つかの学校を見学したのを皮切りに、設計の本格的な相談が始まった。相談はすべて建設委員会の部屋で行われたが、正田校長は毎週1 度の定期会合に必ず出席されて、具体的な件にも個人の見解を述べられた。旧テニスコートの周りに植えられていた7 本ほどの欅を1 本だけは保存し、新校舎の屋上に穴を作って欅はその穴を貫いて茂らせるという設計側の案に、せっかくの欅は全部残して、それにさわらぬように校舎をプランしたいと提案されたのは正田先生だった。欅の列を渡り廊下が貫くというプランがこれで確定した。

 基本設計の相談が始まったのが1 月半ば、そして3 月半ばには大坪、小林の二人が清水建設本社に出向いて設計スタッフと膝詰めで正味8 時間を越す作業を行い、やっと基本設計を完了した。この2 ヶ月間は教師としてのルーティンな仕事も多忙な年度末であり、これに設計計画が加わって、徹夜に近い忙しさに耐えた日々であった。[筆者注:このような高中プロパーの仕事は、大学の人たちには殆ど伝わっていなかったらしい。3 月14日の学園協議会では、何の相談もなく勝手に基本設計を作ってしまったと学・校長をなじる発言が大学側から出て、「基本設計は案であること、一昨昨日、長時間かかって出来たばかり、一昨日教頭から報告を得て、すぐに学部長に渡したものであること」が学・校長から説明された。『武蔵学園史年報』第9 号「学園協議会議事録」には、この時のやりとりがかなり省略して記録されている(43~44ページ)]

 新しい学年が始まり、建設は実施設計に入った。細部になるほど素人の手に負えない事柄が多くなったが、内田教授の計らいで、34 期の澤田誠二氏が技術的問題を検討する大役を引き受けてくれた。我々教師側にとって力強い味方であった。

 この段階では、一つ一つの細部がすべて施工費算定に直結するので、きびしいやりとりが際限なく続くことになった。決着までの3 ヶ月間には、思い出として苦いものが多い。計画の基本だけは崩したくなかった。初めて経験する「値段をめぐるやりとり」も、内田教授ほかの味方になってくれる人々の助けで何とか耐え抜いた。理科関係教室の設備を一部分別枠にすることで交渉が妥結し、7 月15日に契約成立、全校生徒も出席して地鎮祭が行われ、新校舎への移転がはっきりとした未来として意識されることになった。

 予想外のことの一つに、5 月16日の十勝沖地震があった。倒壊した建物に学校建築が多く、構造上の強度があらためて問題になった。しかし、この時ただちに構造設計を見直すまでには到らなかった。此の問題は、1981年夏の校舎一部増築の時にまで持ち越された。

 記事が前後したが、1969 年4 月の新校舎への移転を必ず実現しなければならないと言うギリギリの条件をあてがわれて、それでも生徒たちの日常の活動はなくすわけに行かない。体育館、グラウンド、テニスコート、すべてなくなって、この1 年間、どこかの施設を借用して活動を続けねばならない。それは高中生だけでなく、大学生も同様であった。近隣の学校の厚意に縋り、他方で朝霞校地の迅速な整備が求められた。その工事中に遺跡が出土して一時工事中断。幸に早めに処理されて、切り抜けることが出来た。人文学部のための旧校舎の改装は先ず外壁の塗装から始まり、高中の授業終了をまって、内部の大がかりな模様替えを急ピッチで進めねばならない。これらすべてのお膳立ては、地鎮祭以後現場事務所が立ち上がるころから、先へ先へと相談が進行した。

 1968年4 月には、大学、高中双方の体育科の一致した意見が通って、大学体育館も江古田校地内に造ることが決まっていた。高中の体育館・グラウンド・集会所等については父兄、同窓の寄付金で造られることから、設計・管理[もちろん大学体育館も含めての]を19期卒業の山田水城氏に依頼することが決まり、夏の間にその点の調整が行われた。そのこともあって、体育館等の工事の細部決定だけが残った11 月末に、筆者が工事現場で転落、腰椎骨折の重傷を負うという不測の事故に遭ってしまった。必ずかぶらねばならぬヘルメットのせいで身長がほんの3 センチほど高くなっていたために、触らずにすむ筈の足場パイプがヘルメットに当たったためであった。「ヘルメットは必ず阿弥陀にかぶれ」という工事現場の鉄則があることを後で聞いた。私の不注意が多大の迷惑をかける結果になったが、幸運にも入院108日、コルセット生活1 年半という療養で全快することが出来た。しかし、1969年4 月から大学人文学部に移籍予定の島田先生に4 月末まで教頭代理をお願いしたことは、申しわけないことであった。

 これら、当時の事情を回顧しながら思うことは、教師会のほかに、総務委員会、学科主任会、建設委員会がそれぞれ身軽な数名ずつのメンバーで機能したことの有難さである。

 

1969 年9 月撮影、建設中の高中体育館

◆高校紛争の1 年間 (1969~1970 年度)

 1960 年代の半ばすぎから、学生運動が大学を中心に少しずつ高まりはじめた。ベトナム戦争に反対する平和運動(ベ平連)、沖縄返還交渉に於ける核の問題、1968 年にフランス全土を覆った学生の反乱、同年の日大闘争、東大医学部を発端にして全学に拡大した反権力闘争、それに1970 年6 月の日米安保条約継続問題など、幾つもの要因を抱え、指導者も様々な混迷の時代であった。反乱の波は1968 年終わりごろには高校段階までおりてきて、学校側、教師側への反権力闘争の形をとり、過激化した。武蔵でも、1969 年3 月の卒業式への異議申し立てを皮切りに、4 月には沖縄反戦、10月には国際反戦デーへの参加に関連したバリケード・ストライキ予告[不発に終わる]、他校の紛争への参加、そして1970 年3 月には他校生をまじえての卒業式阻止バリスト未遂事件に至った。これら一連の動きは、本年報において内容が理解され得る程度に事実を追ったつもりである。

 今、当時を思い出して感じるのは、われわれ教師たちがいわゆる過激派の生徒たちと、とことん対決する姿勢は決してとらなかったことが、事態を穏やかに収める大きな要因だったということである。いわゆる非行に対して、停学、謹慎という処分をきっぱりと行って来たのと異なり、思想上の対立[本当に思想上の対立があったかどうかは断定できない]に対しては、落ちついて話し合うしかないことを繰り返し説得するとともに、簡単に割り切った返事を求める彼等の要求に、それほど単純に割り切れないことの意味をよく話したつもりである。卒業式のバリスト未遂事件でも、試験の不正や社会的不正への対応とは異なり、それらと同様な処分では何も解決しないことを説明し、教師と生徒が結ぶ関係は、最終的には「人間関係」、いわばヒューマニズムとも言うべき、簡単には説明出来ない複合的思想が根本にあることを述べたつもりである。そのことにはその直後に、彼等からはげしい反発が寄せられたが、それ以上の反乱はなかった。通常の処分は行われることなく、大部分の問題は時が解決した。

 同様の考え方は「70年安保の日」の対生徒の方針にも貫かれたと思う。「高校生が政治活動を行うのは何が何でも許せない」式の文部省方針に従う多数高校とは一線を画して、生徒たちがこの日をどのように過ごすべきか、本気で十分に討論した上で行動の方針を決めたらよかろうと、一日の授業時間を生徒の自由にまかせた。大げさに言えば一国の将来を大きく支配する基本が定められるとも言える日に、自分の意志で自分を律する経験を得損なうのは、生徒たちの今後の人生にとってまことに重大な損失であることを、彼等に伝えたかった。結果として、午後に大学生と高中生とが合同で校外へ出て、整然としたデモ行進を行った。学校が承認したデモと理解され、力による弾圧はなかった。

 この日を境に、学校への反権力行動はすっかり影を潜めた。そのかわり、以後世の中では過激派同士のいわゆる内ゲバが長期間続いた。年を越えて1971 年10 月、外部の過激派勢力が校内に侵入、大学施設内で、居合わせた高校3 年生1 名が頭部を殴られ、脳挫傷で意識不明の重傷を負う事件が起きてしまった。これがきっかけで、校内にも過激派同士の争いが再燃した。内ゲバについては、暴力抗争は絶対に許さないこと、抗争が行われた場合には必ず厳しい処分をすることを、父兄同伴の場で、問題生徒数名には申し渡した。安保の日における対応とは全く異なる方針であることを明確に出したことで、以後、生徒内での暴力抗争は起こらなかった。重傷の生徒は約1 ヶ月後に意識が戻り、その後徐々に回復した。

 

◆紛争後 (70 年代後半以後)

 70 年安保の後、世の中も武蔵高中も急速に落ちつきを取り戻していった。もちろん、外ではセクト間の抗争が引き続いていたし、成田闘争は、安保騒動が終わっても燃え尽きない学生たちの結集場として残った。一方、若者社会は急激に非政治化し、「しらけ世代」とか「三無主義」とかが言いならわされるようになった。しかし、武蔵の場合、この時代に新しい活動の気風が見え始めていたことも明らかである。自由研究発表の場である山川・山本両賞の応募が急に増えて、内容も著しく向上した。学校外の選者の批評でも、大学卒論レベルというより大学院レベルとまで賞賛される論文も多く、学校の授業の枠を越えて自己を形成しようと試みる若者活動は頼もしかった。

 論文とは別に、部活動の面でも決して「しらけ」でないことが顕れてきた。スポーツの場合、東京都の大会を勝ち抜くことは、選手スカウトが当たり前の多数有名校がある以上ほとんど不可能に近いが、その次の位置を保ち続けるのも立派なことである。そうした部が幾つも出た以外に、世間から注目されることの少なかった種目で、著しい成果を上げる部も出て来た。水泳部が水球で全国準優勝(同率2 位)をつづけ、国体でも都代表の主軸として出場し連覇したのがその著しい例である。

 

◆第2 外国語に新しい風 (1973 年度以後)

 旧制武蔵高校では、高等科の外国語は英・独2 ヶ国語で、英語を主とするものを甲類、ドイツ語を主とするものを乙類とし、文、理それぞれに甲、乙の別があって、生徒はそのどれかを選んだ。旧制一般ではフランス語を主とする丙類もあったが、丙類を置く高校はあまり多くなかった。

 1950 年に旧制は終わったが、ドイツ語の教授が引き続き武蔵大学におられたので、それらの先生によって兼修、選択科目としてのドイツ語が存続した。旧制の名残のような選択ドイツ語にも、いろいろの変遷はあったが、今号で記述した時代には高校3 学年にわたる学年制コースで、高1(初級)ではかなり多数が選択するが、高2(中級)につなげる者は激減、高3(上級)になるとほんの数人になってしまう状況が続いていた。

 1969 年に武蔵大学に人文学部が新設され、英、独、仏3 ヶ国語については、それまでの教養科目だけの扱いでなく、それぞれ英、独、仏文化コースという専門課程としてメンバーも増強された。

 新しくなったキャンパス内の生活が落ちつくにつれ、大学の専任として人文学部に就任した大竹健介教授(旧制22期)から、第2 外国語としてドイツ語だけでなくフランス語も始めてはどうか、協力したいとの話が熱心に寄せられた。そのドイツ語には、1970 年度から鹿子木先生の後任にお願いしていた池谷洋子氏のほかに、大学人文学部に就任した鈴木滿助教授(32期)が加わってくれていたので、この機会に第2 外国語の方式を一新する計画が立ち上がった。

 従来の制度では、せっかく上級コースがあるのに、多くの生徒にとって大学進学と両立しにくい事情であった。新しい構想では学年制でなく初、中、上級の3 グレード制、中3以上の生徒がどの級にも能力に応じて参入出来る、つまり、高2 までで3 つのグレードを終えられるという利点があり、途中脱落が防げることが期待出来た。

 この計画には、国語科(漢文担当)高橋稔教諭から、中国語コースも設けてほしいとの希望があり、結局独、仏、中3 ヶ国語にグレード制、無学年制の選択科目として、1973年度から第2 外国語が発足したのである。高橋氏は翌年東京学芸大学に移籍したが、非常勤講師として1981年度まで中国語を担当した。

 たしかに、新しい制度は途中での脱落を防ぐのにかなり役立った。高2 で上級を終えた生徒たちが高3 でもまだ学びたいという希望者もあって、上級の扱い方を時に応じて工夫するなど、嬉しい意外さもあった。しかし、第2 外国語の学習が大学進学と全く無縁な、しかし異文化との接触に於ける独立のルートとしての意義を生み出すことになるのはまだ10年以上先の1987年を待たねばならなかった。

 

1970 年に竣工した大学体育館の内部の様子

◆青山寮移転問題

 1937 年(昭和12 年)、山上学校のための寮として、当時の父兄石川昌次氏の本郷弥生町にあった巨宅が寄贈されてそれを解体、軽井沢矢ヶ崎の地に移築したのが武蔵青山寮である。青山寮の敷地(約1 万坪)は、南軽井沢一帯の広大な根津理事長所有地の一部分で、青山寮のために無償で使用を許されたものだった。移築にあたり学校では父兄からの寄付(約2 万円)を得て、これを移築の費用に充てたが、別に理事長からは校長ほか付添教師のための教室の建築費を寄贈されている。

 建築が古めかしいとは言え、築後70 年程度ではまだまだ居住に耐えるはずであったが、寮のある軽井沢東端は夏期の極端な多湿気象、冬期の寒冷と積雪などの自然条件に加えて、年間約10 ヶ月ほどは無人という利用状況の故もあって老朽化がはげしく、毎年手入れのためにかなりの費用を必要とした。その上に、保健所、消防署からは新時代に相応した設備の充実が求められるようになって、その場しのぎの対応は許され難くなっていた。

 1974 年の記録に青山寮をどうするかという教師会の記事がある。議論の設定がはっきりしなかった為に、話は散漫となり、明確な論議にならなかった。しかし、正田学長・校長の考えの中では、当時の学園の財政状況―物価高騰で支出が増大する一方で、容易に学費が上げられぬ事情―の中で、青山寮問題をどう処理すべきなのかを模索しておられたようである。根津副理事長とも内々の相談をされていたと思われる。

 1976 年3 月、学園長から老朽した青山寮のためにいつまでも軽井沢の土地を使い続けることをやめてこれを根津家に返還し、新しい場所に寮を作りたいという話が切り出された。そしてその1 ヶ月後には青山寮移転先の第一候補地が奥日光であることが表明され、移転話はにわかに具体的な段階に入った。

 候補地については東武鉄道の不動産部が関与しており、東武が旅館を持っている光徳沼近辺が第1 に挙げられていた。奥日光は旧制創立後の第5 年目から昭和5 年度以外の10夏にわたり山上学校を行ったところで、立地条件としては申し分なかった。[注:この時の山上学校は日光湯本の旅館を借りて行われた。例外の昭和五年は旅館が火災で建て替えとなり、やむなく軽井沢の夏期大学で行った]ただ、山上学校の運営形態が変わって、十数人ずつの班単位で山歩きなどをする方式になっていたので、奥日光周辺の山は標高の上でも、ルートの難易度や天候条件の上でも、1000 メートルを僅かに越す程度の軽井沢周辺より危険は多いと思われた。そのことが、活動内容にかなりの制限を与えることだけは分かっておく必要があった。

 実は、奥日光について、筆者はこの時から約20 年前の1955 年頃に、武蔵山岳部の山小屋を建てることについて、東武鉄道におられた先輩から候補地などの紹介を頂いた経験があった。はじめは光徳沼近辺、小田代近辺の何処でも、気に入った場所ならよかろうと告げられて実地を見て歩いたが、いざ本格的に話を進める段階になったところ、奥日光は国立公園中でもとくに規制がきびしく、原則として新築は禁止であること、さらに、附近唯一の水源地の水利権は、戦場ヶ原にある開拓村と東武鉄道のホテル[当時はまだ山小屋程度のものだったが]とが持って居り、割り込む余地がないことが分かり、計画は消滅した。そのような経験を持つ筆者には、その頃と全く同じ状況のままの光徳付近に武蔵が寮を持つことは、ほぼ不可能であると思えた。その旨を正田先生にも説明したが、先生は話の次第では道が開けるのではないかとして、なお、旧父兄の縁故を頼って交渉を続けられた。そして、この年10 月、環境庁の許可が下りないことが明確となり、計画は白紙に戻った。

 候補地探しは続行され裏磐梯の檜原湖周辺、同沼尻付近、安達太良山東面の岳温泉近辺などを岡学長、大坪校長、と事務局長、財務部長同道、東武側の案内で歴訪した。しかし、何処の場所もわれわれが考えている武蔵の寮のイメージとはまるで合致しなかった。12 月に入り、赤城の大沼湖畔に東武の旅館(黒檜莊と呼ばれた)があり休業中であること、この施設を含め周囲の県有地を借地することが可能との話があり、取りあえず都合のつく3 人(大坪、高久、志村)だけで現地を訪れた。会社や学校の寮が立ち並ぶ厚生団地から離れて、立地条件は申し分なかった。ただ、カルデラを囲む外輪山はごく小ぢんまりとまとまっていて、いささか箱庭的にも見え、避暑地としては最高でも生徒たちの活動の場としてはやや物足りぬ感もあった。学園長にはこの感想を伝え、最善とは言わぬが次善の候補地であろうと報告した。

 年が明けて、学園長、学長が赤城を視察、候補地をほぼここに定めて話を進めることになった。此の問題についての最終的な詰めは、1 月半ばに根津氏と学園長との間で行われ、両者ともに多少の含みを残しつつも、話はほぼまとまったようであった。

 この話と同時進行で、学園内では再編事業にもれた大学関係施設(図書館、研究棟、中・小講堂など)を、更に充実したいとする要望について、意見がまとめられつつあった。1975 年11 月の着任以来1 年余となった中村新一専務理事が学園長を補けて、大学側の意見を調整し、試案が固まったのが1977 年3月半ばで、その直後に私達は正田学園長の急逝に遇った。そして私たちは、その日から先生の学園葬を終えるまでの10 日間、ただ無我夢中で過ごした。それが終わって、どっと疲れが出た。

 正田学園長没後、岡学長が学園長事務取扱を1 年間つとめ、1978 年4 月、太田博太郎氏が第2 代学園長に就任した。青山寮問題は新学園長に引き継がれて、約2 年半後、1980年12月に赤城青山寮が竣工した。昭和12年、当時の父兄多数の拠金によって建てられた旧青山寮を、根津家、学園双方の事情が重なって廃棄せざるを得なかったことへの償いの意味も込めて、新寮は根津理事長の厚志により学園に寄贈された。しかし、これらのことは次の校務記録で記されるはずの内容である。

1980 年撮影、建築中の赤城青山寮
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