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編者注:本編は、武蔵学園創立百年現在の理事長である根津公一が、日刊工業新聞のコラム「卓見異見」に、2019年4 月1 日から9 月2 日まで、計6 回にわたって寄稿した随想を転載したものである。
今回、「卓見異見」にお話をいただいて、私が現在理事長を務める武蔵学園のことをいくつか書かせていただくことにした。今回は、私の祖父でもある学園の創始者初代根津嘉一郎が、何を考えてこの学校を創ったのかという話を書きたい。
武蔵大学、武蔵高等学校中学校を擁する学校法人根津育英会武蔵学園は、2022 年に学園創立から百周年を迎える。本学園が日本で初めての私立の七年制高等学校(旧制)として出発した1922(大正11)年は、第一次世界大戦が終息しヴェルサイユ講和体制が発足して間もなくの時代、国内ではいわゆる「大正デモクラシー」の時代であった。
さて、話はそのときからさらに十年余遡る。1909(明治42)年、米国スポケーン・タコマ・ポートランド・シアトルの4 つの商業会議所の招きにより、渋沢栄一(当時、第一銀行頭取)が団長となり、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人50名余りが、8 月31 日から12 月1 日(いずれも日本時間による日付)までの約3 か月にわたって、アメリカの主要都市を訪問した。いわゆる「渡米実業団」である。これは民間交流を図る日米の実業団による相互訪問の一環であり、前年の米国商業会議所実業団の日本招待に続き、今度は日本実業団がアメリカに招待されたものであった。根津嘉一郎は、当時四十代の働き盛り、メンバーの一員としては、まだ若輩者の一人であった。
渡米実業団は、米国側が用意した鉄道のプルマン専用車両に乗って、全米各地で歓待を受けながら、政治・経済・社会福祉・教育など、多方面の施設の視察見学を行った。その中で、嘉一郎がもっとも強く感銘を受けたのは、「今は故人となられたロックフェラー氏に会った時、同氏が多額の金を儲けて、その多くを世の中のために散ずる主義を知って、大いに啓発された」ことであった、と後に自著『世渡り体験談』の中で述べている。嘉一郎が訪米によって得た最大の成果は、「社会から得た利益は社会に還元する」という信念を強固にしたことであったといえよう。
実業家としての営利は、それだけでは完結しない。その富を世に還元することを以て、完結する。それを当時の言葉では「報国」すなわち国に報いると言った。今で言えば、社会貢献。英語で言えば、ソシアル・コントリビューションあるいはドネーションということになるのだろう。
嘉一郎が渡米実業団で学んだ、ロックフェラーの精神は、後に「美術報国」という形で現在の根津美術館に、そして「育英報国」という形で現在の武蔵学園に結実した。
帰国後、嘉一郎はすでに1915(大正4)年ごろから、「現在社会の為に尽す事としては、教育事業に奉仕するよりほかに道がないと決心して、そのことを友人宮島清次郎君に相談」(『根津翁伝』)していた。嘉一郎が武蔵高等学校の設立に向けて、寄付金360 万円(地所、株券、引金)を基礎とする財団法人根津育英会の設立に踏み切ったのは1921(大正10)年のことである。
嘉一郎は、個人の実業家として「育英報国」「美術報国」の道を行くことができた。だが、多数の株主の利益を図らなければならない今日の企業経営者にとって、社会貢献は必ずしも容易ではない。狭量の株主から見れば、配当と社会貢献は、背反するように見えることさえある。
しかし私は、「実業の道は富を世に還元することを以て、完結する」ことが、今日の企業社会でも真理であることを疑わない。学園の経営者としても、「企業寄付」にもっと寛容な社会風土と税制に期待するところ、大なるものがある。
前回は、渡米実業団に参加した、私の祖父初代根津嘉一郎が、ロックフェラーら米国資本家のフィランソロフィ(社会貢献)の精神に啓発され、自分も及ばずながら日本で「報国」の志をもって、何か公益的な事業をしよう、そしてそのテーマを教育としようとしたところまでを書いた。
ところで、一般に日本の私学の創始者は、福沢諭吉(慶應義塾)、大隈重信(早稲田)、新島襄(同志社)、井上円了(東洋)、江原素六(麻布)など、創始者自らが塾長、学長、校長などとして創始した学園を自ら運営しようとするケースが大半である。そうでない場合は、宗教団体(たとえば上智におけるイエズス会)の創設した学校くらいではないだろうか。
ところが、嘉一郎は、自ら学校のデザインを描くのではなく、どんな学校を創るべきかを周囲のブレーンに委ねた。
はじめは、職業学校的なものなど、いろいろなアイディアがあったらしいが、先ず英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範をとった少数のエリート少年を教育する、本当の意味での「育英事業」を嘉一郎に提案したのは、本間則忠という人である。本間は、内務官僚として、地方の県庁などの勤務が長かった人だが、この人が根津の知遇を得て、幾度も少年期から大学までの優秀な少年たちを一貫して教育する学校の創設を嘉一郎に提案したのである。
この提案を受けた嘉一郎は、しかしすぐにそれを実行に移すのではなく、当時日本の教育をリードする人々を諮問委員に委嘱して、本間の提案をどう実現していくかを諮ったのである。
最初の相談相手は平田東助伯爵。山縣有朋のブレーンで、農商務大臣、内務大臣、内大臣などを歴任した人である。おそらくは衆議院議員でもあった嘉一郎と、政治の場面のどこかで接点があったのであろう。
この平田の推薦で、岡田良平(文部大臣)、一木喜徳郎(枢密顧問官、のちに枢密院議長、宮内大臣、武蔵高等学校初代校長)、山川健次郎(東大、京大、九大総長、物理学者、のちに武蔵高等学校第二代校長)、北条時敬(第四高等学校長、広島高等師範学校長、東北大学総長、学習院長、貴族院議員。第四高等学校時代に西田幾太郎や武蔵高等学校第三代校長となる山本良吉などを教えた)、佐々木吉三郎(東京高等師範学校教授)などが、嘉一郎の学校設立計画に参画した。これらの人々の多くは、当時日本で進んでいた大きな教育改革(私立大学の設置、旧制高等学校の制度改革=七年制高等学校の設置など)の推進者でもあり、一私立学校創設の諮問委員というよりは、日本全体の教育制度設計の中で、「理想の学校」を考える立場にある人々であった。嘉一郎との関係で、一つのエピソードを記すと、会津白虎隊の生き残りであった山川健次郎は、嘉一郎が白虎隊の墓を整備し、顕彰碑を建立したことを徳として、教育のことで根津嘉一郎が何かをするなら、ぜひ協力したいと、第二代校長を引き受けたということである。
彼ら嘉一郎のブレーンたちが考えた「理想の学校」が、日本で初めての私立七年制高等学校として生まれた武蔵高等学校なのである。全国の小学生の俊秀を集めて、中学1 年生から、7 年間の一貫教育を施し、帝国大学に直接接続するという、当時の教育改革の趣旨にかなう、画期的な構想であった。
創始者が自分で直接学校を運営するのではなく、多くの有識者の助言を生かしながら、新しい学校を創っていくという、初代根津嘉一郎のスタイルは、その後の武蔵にも引き継がれている。
私の父である、二代目根津嘉一郎の時代には、山本為三郎(アサヒビール社長)や、小林中(初代日本開発銀行総裁)などの財界人にサポートされながら、正田建次郎(数学者、大阪大学総長)氏を武蔵に招くことに成功し、この正田氏が武蔵学園五十周年記念事業として、武蔵大学の総合大学化や、江古田新キャンパスの再編などを推進して、今日では「武蔵中興の祖」と言われている。
私の場合は、自分が理事長に就任するのと同時に、物理学者で武蔵の卒業生、東京大学総長や文部大臣などを歴任された、有馬朗人氏を武蔵学園長にお迎えし、ご一緒に学園の経営と教学を分担しながら、この十年以上学園の改革に取り組んでこられたのが、望外の幸せだと思っている。
これも、初代以来の「武蔵スタイル」を踏襲しているということなのだろう。
武蔵学園には、建学以来の「三理想」というものがある。初代校長一木喜徳郎の頃に掲げられたもので、「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「世界に雄飛するにたえる人物」「自ら調べ自ら考える力ある人物」がそれにあたる。この理想が掲げられた時代を考えてみると、ヴェルサイユ講和会議や国際連盟の中で、日本はそれなりの位置を占める主要国として遇された。が、その日本の立場を世界に表明するにも、あるいは世界の大きなパラダイムシフトを国内に説くにも、日本にはそれができる人材があまりに乏しく、コミュニケーション力が全く不足しているというのが実際であった。その実情を知る要路の人々が、根津嘉一郎がつくろうとする理想の学校に、世界の人々と真にコミュニケーションできる人物を育てることを求めたのが、この三理想の所以であったと思われる。
さて、話は突然、最近のことに飛ぶ。私が理事長、有馬朗人氏が学園長にそれぞれ就任したのは2006年(平成18年)4 月のことである。その頃の武蔵も「三理想」を掲げてはいたが、創立以来84 年が経過し、大学はいわば中堅大学の地位に甘んじ、高校中学は進学実績では次第に低迷し、いずれもユニークな教育での声価は高かったが、「三理想の本気度」というものには、いささか欠けるのではないかと思える点もあった。
だが、それを改革しようにも、学校法人という所は、企業のように経営者の方針一つで「面舵一杯、進路変更」とは行かないようにできている。要すれば、学園を構成する教員たちのコンセンサスなしには、何事もできないのだ。しかも、一人一人の教員が皆一家言あるので、そのコンセンサスに至るには、長い、長い時間を要する。当時からグローバリゼーションや少子高齢化は、目前の課題であったのだが、僅かな学内制度の変更にも奄々の議論を繰り返すのでは、それらに解決を見いだすのは困難である。
そうした中で、学校教育法の改正などを通じて、学校法人(私立も、国公立も)にもガヴァナンスというものが導入され、これまでのボトムアップ型の意思決定方式がいくらか改革されるようになったのが、我々が就任してから数年後のことである。一方、これまで自らを「学校の主権者」に近い存在と思ってきた教員たちから見れば、理事長や学園長が、新制度の下で具体的にどんな方向をめざして経営していこうとするのかは、かなり不安である。そこで、具体的にその方向を文書で示してほしいという要望が、学園内部からあがってきた。それに応えて、2014年(平成26年)、「三理想」をベースに、本学園の理事会評議員会の議を経て、学園百周年をめざして経営の方向を示したものが、私の「理事長ドクトリン」であり、それを教学の方針として具体化したのが有馬学園長の「学園長プラン」である。「理事長ドクトリン」には「まなざしを世界に向け、21 世紀の課題を担う国際人を育てる学校」、「学園長プラン」には「世界に開かれたリベラルアーツの学園」となることをめざすというタイトルがそれぞれついている。これが私たちの「三理想」の今日的な解釈である。
「理事長ドクトリン」の一つの特徴は、国際化、グローバル化の根拠を情報通信技術の革新によるボーダーレス化に求めたことだと思っている。その頃から、世間では、グローバル教育の必要性を「日本がガラパゴス化して国際競争に負けてしまう」という観点から説く人が多かったが、それはやや近視眼的な見方ではないかと私は思う。近代国家間の国境の壁が低くなり、ボーダーレスになっていく時代を生き抜いていく人物を送り出すのが、武蔵の責務だと思うのである。
その手段はといえば、「学園長プラン」に掲げられた「リベラルアーツ」に他ならない。変化と激動の時代には、「少しでもよい企業に就職して安定な暮らしを」などと言っても、それは叶わぬ夢である。大学も、高校も、武蔵の卒業生には人としての教養をしっかりと身につけ、「世の中がどのように変わっても、その中を生き抜いて新しい時代のリーダーシップをとる」人になってほしいのだ。
あれから数年、トランプ大統領の登場、ポピュリズムの台頭、英国のEU離脱の試み等、一見すると世界ではボーダーレス化に逆行するような事象ばかりが目につく。だが、この逆行の動きの先には何の解決もない。願わくは、ボーダーレス化の産みの苦しみを世界の人々と共にし、その先の新しいパラダイム構築をめざす動きに加わることができるような、そんな人物を、武蔵が輩出できることに期待したい。
前回は、武蔵学園百周年をめざして経営の方向を示したものが、2014(平成26)年に掲げた、私の「理事長ドクトリン」であり、それを教学の方針として具体化したのが有馬学園長の「学園長プラン」であること。「理事長ドクトリン」には「まなざしを世界に向け、21 世紀の課題を担う国際人を育てる学校」、「学園長プラン」には「世界に開かれたリベラルアーツの学園」となることをめざすというタイトルがそれぞれついていること。そして、これが私たちの、建学以来の「三理想」への今日的な解釈であることなどを述べた。
しかし、経営者が改革の方向を指し示すだけで、学園がその方向に一斉に進むわけではない。学園内部の一部の人は、あるいは、こうした私たちの方針も「お題目」と捉え、何もせずに日々今までどおり過ごしていれば、頭上を通り過ぎて行くと思っていたかもしれない。そこで、小さなことからでも、私たちの方針を具体化するような、目に見えるプロジェクトを立ち上げて、学園内外に示すことにした。
武蔵大学では、経済学部の教員たちが中心となり、ロンドン大学と連携した「パラレル・ディグリー・プログラム」というものをつくることにした。このプログラムは、武蔵大学経済学部が英語で行う経済学の授業が、同時にロンドン・スクール・オヴ・エコノミクス(LSE)の通信教育課程の授業としても機能し、これらを受講する学生が、両大学が行う別々の評価を経て、武蔵大学、ロンドン大学双方の学位を取得することができるという仕組みである。要約して言えば、武蔵大学の江古田キャンパスで学ぶことによって、ロンドン大学の学位も取得できるわけである。世間の大学には、英語による授業を行うところも、海外大学と連携するところも多い。また、海外大学との一部授業の単位互換も行われている。が、一連のカリキュラムを国内で履修することによって海外大学の学位まで取得できるような仕組みは、国内の大学ではほとんどないのではないか。
もちろん、学生はこのプログラムに参加するために、一定の英語力を求められるし、入学時にその力がなければ、プログラムに参加するために、まず英語を集中的に学び、検定をクリアしてからでなければ、参加できない。プログラムに参加してからも、通常の学生が日本語で学ぶ経済学の諸科目を英語で学び、さらに武蔵大学だけではなく、ロンドン大学側が行う試験にもパスしなければならない。プログラム参加者は、一般学生以上に勉学に勤しまなければならないのだ。実際プログラムに参加しながら、途中で脱落していく学生もいた。が、幸い厳しい勉学のプロセスを経て、今年度には両大学の学位を取得する第1 期生が出る見込みである。
一方、高校生、中学生向けには、武蔵学園の主催で、武蔵高校中学だけではなく、他校生にも呼びかけて、英語で科学を学ぶ課外プログラム(リサーチ、エッセイ、ディスカッションをまとめて、REDプログラムと呼称している)を立ち上げることにした。このプログラムは、高校中学が学習指導要領に基づいたカリキュラムの中で行う英語教育と並行して、課外でいわゆるイマージョン教育を行い、このプログラムに参加する生徒が、将来いずれかの時点で海外大学の教室に入った時、その日からコミュニケーションに困らず、積極的に授業に参加していけることを目標としている。
このプログラムは、当初5 年間、テンプル大学ジャパンキャンパスとの協業でプログラムを運営してきたが、最近契約を満了して、本学園の単独主催、付随事業として再編した。当初は参加費が高額だったこともあり、参加者の募集に苦しんだ時期もあったが、次第に教育内容とその成果が評価されるようになり、安定した運営を行えるようになってきた。学園内部での効果について言えば、武蔵高校中学では、はじめこのプログラムは、世間の様々な課外プログラムの一つとしての扱いであったが、次第にプログラムの内容を評価して、生徒に積極的に紹介するようになり、いまでは、武蔵生の志望者が多過ぎて、他校からの参加者との調整に苦しむほどになった。
今回紹介した二つのプログラムは、大学、高校中学の日常の営みからすれば、小さな一歩に過ぎない。そして、それを立ち上げ成果を上げるまでには、様々な苦労もある。しかし、こうした小さくとも目に見えるプロジェクトを、一つ一つ実現することを通じて、経営者として真摯な改革への姿勢を、学園内外に示すことができたと思う次第である。
前回は、国際化への対応とリベラルアーツを標榜した武蔵学園の「理事長ドクトリン」「学園長プラン」を具体化するために、大学では江古田で学びながら武蔵とロンドン大学の両方の学位が取得できる、パラレル・ディグリー・プログラム(PDP)、中学高校生向けには、他校生も参加する英語で科学を学ぶ課外プログラム(RED)を先ず立ち上げたことを述べた。
それらの、パイロット的なプログラムが発足したのは凡そ四、五年前のことである。その後の学園内での動きを述べると、パイロットプログラムに続く動きが、次々と出てきている状況にある。
武蔵大学では経済学部のPDPに続いて、人文学部では在学中の一年程度の課程を海外で学ぶことを想定したグローバル・スタディーズコース(GSC)が、社会学部では、有馬学園長のアイディアで、文科系では珍しいデータサイエンス分野を本格的に学ぶグローバル・データサイエンスコース(GDS)が次々と発足し、PDPとあわせて、「グローバル三コース」と呼ばれるようになった。
このような動きの背景には、もちろん学部間の競争心もあっただろうが、それだけでなく、数年刻みの中期事業計画を立てて、PDCAサイクルをまわす中で、経営方針である「理事長ドクトリン」「学園長プラン」を教学の各部門がどう受け止め、その方向に沿ってどのような新しい基軸を打ち出すかを問うていった、事業運営システムの面からの影響も大きいと思っている。
武蔵学園の第三次中期計画は、2016(平成28)年度から学園百周年直前の2021(令和3)年度までの6 年間であるが、ちょうど真ん中で3 年間ずつ前期と後期に分かれているので、実質3 年刻みでPDCAのサイクルが回っていくことになる。今年度から始まる第三次中期計画の後期では、グローバル三コースが出そろい、大学全体がそれぞれのやり方でグローバル化の課題に取り組んでいくこととなった。経営面から見ても、これらの三コースには奨学金や人件費の面で、かなり厚い経営リソースが配分されている。戦略課題に経営リソースを厚く配分するというのは、企業経営では当然のことだが、学校経営においては、「学部学科の均衡」の上に立って、どの部門にも概ね均等にリソースを配分してきた従来のやり方を変革するという意味で、学内に新しい風を入れる契機となったと思う。
一方で、高校中学においては、これまでこうしたPDCAのサイクルを回すという手法自体が、あまり馴染みのないものであったようだ。高校中学の内部からは、開成や麻布のように大学と併設されない学校では、事業計画とその評価などという所謂「文書仕事」はもっと簡易なのに、成蹊、成城、学習院、武蔵など文部科学省所管の(高中と大学併設型の)学校法人では、大学型の事業評価を求められるので、「面倒だ」、「その分のエネルギーをもっと現場仕事に割きたい」といった、不満の声も聞こえてきた。だが私は、伝統という名の下に、これまでのやり方の上に胡座をかいて、漫然と教育を続けていくことが、生徒たちにとってよいこととは思わない。教員自身が「今のままでよいのか」と、「自己を省みる」ために、PDCAは格好の機会であり、不満を抑えて、敢えて大学型の事業評価のやり方を高中にも求めていくことにしたのである。
ところで武蔵高校には、約30 年前から、主に第二外国語の教科と結びついた独、仏、中、韓、英五カ国との国外研修(ホームステイによる数週間単位の生徒の相互訪問)制度がある。きわめてユニークで優れた制度だが、どの言語も、優秀者が選抜されるので、この制度の恩恵を受ける生徒は学年の約一割に過ぎない。そこで、外国の高校や大学が主催するサマープログラム、あるいは海外でのボランティアなどを生徒が自分で見つけてきて申請すれば、審査の上資金援助をする、あるいは期末試験日程にかかっても渡航を認める等の制度を始めることにした。また、卒業生やその保護者の巨額の寄付をベースに、海外大学に直接進学をする卒業生に初年度数百万円を支援する奨学金制度も行われている。REDプログラムも含め、生徒の目を海外へと向けるように誘う制度は充実してきた。が、資金、語学力、受験リスク等も相まって、国内大学の受験をなげうって海外直接進学の決意をする生徒はまだ少ない。これからは、生徒がリスク少なく海外大学に進学できるような仕組みを、どう設計するかが課題と思っている。
いずれにしても、大学、高中とも「山」は動き始めた。2022(令和4)年4 月の武蔵学園創立百周年を超えて、この動いた「山」の先に、さらに大きな「山脈」を築くことに挑戦していきたい。
「異見卓見」の私の担当は、今回で最後になる。そこで、これまでの各回で書いてきたことをまとめて、日本の教育界の中で、「武蔵学園のやり方」とは、どういうものであるかについて述べたい。
第一回では、創立者根津嘉一郎が、武蔵創立の前に渡米実業団の一員としてアメリカに渡り、そこでロックフェラーなどの富豪が、企業活動で得た富を、寄付により社会に還元している様に感銘を受けて、自らも教育をもって国に報いようとしたことを書いた。
今日の企業社会では、大企業の経営者のほとんどは「雇われ役員」で、企業が社会貢献をしようとしても、株主への還元への優先を求められる場合が多く、困難であることも述べた。しかし、政府が主導する公共事業だけが、社会的に意義のある事業であるとは限らない。一私学の経営者として言えば、教育研究においても国公立のものだけが社会的に意義があるわけではなく、私学がそれぞれ多様な理念で行う教育研究も日本にとって有用必要であることは論を待たない。そして、それを支えるべきなのは税金による私学補助だけではなく、個別の私学の教育理念に共感した企業や個人による寄付であると言える。その意味で、日本の寄付税制の偏狭さを改革し、もっと諸外国のように寄付者が優遇される税制の構築を強く訴えたい。
第二回では、旧制武蔵高等学校の創設にあたって、嘉一郎自身が教育を行うのではなく、その時代有数の有識者をブレーンとして教育の方途を相談し、その結果が当時の日本に求められる「理想の学校」の姿となったことを書いた。こうした教育と経営の在り方は、二代目根津嘉一郎と正田建次郎氏、三代目の私と有馬朗人氏の関係にも引き継がれ、ひとつの「武蔵スタイル」となっていることも書いた。もちろん福沢、大隈をはじめ、多くの私学創立者が自ら学校の運営に当たるのも、ひとつの私学経営のスタイルであろうが、「経営者と教育研究の有識者ブレーン」による運営というスタイルは、創立者の時代を超えて、継続できるという意味で、意義があることも書いておきたい。
第三回では、「21 世紀の課題を担う国際人を育てる学校」「世界に開かれたリベラルアーツの学園」という現在の武蔵学園の指針(理事長ドクトリン・学園長プラン)について書いた。世間では、「国際化」と「リベラルアーツ」という別の課題を掲げたと解される向きもあるが、この二つは一体の課題だと私は思っている。なぜなら、リベラルアーツ教育による深い教養を持った者だけが、真に国際的なコミュニケーション力を持つ「国際人」たりうると考えるからである。語学だけができれば、コミュニケーションは可能というような浅薄な「教育の国際化」には、私は与しない。武蔵学園では、今後日本や東洋の歴史、文化を深く理解して、西洋に紹介できるような教育を進めていく計画がある。これも、建学三理想の一つである「東西文化融合」の現代的な解の一つであると考える。
第四回では、理事長ドクトリン・学園長プランの理想を、実践していく手始めとしての小さな試みとして、ロンドン大学と連携した並行学位取得プログラム「PDP」や、高中生が課外に他校生とともに英語で科学を学ぶプログラム「RED」のことを紹介した。
どのような理念、理想を掲げても、それを目の前で証明する具体的な試みがなければ、人はついてこない。教育研究の現場は、企業と違ってこれまでに積み重ねてきたカリキュラムや制度を変更することがなかなか難しい。そうではあっても、あたらしい理念を具体化できるなにか小さなプログラム、プロジェクトをやってみることが、改革の「山を動かす」ことにつながると思っている。
第五回では、第四回でのべた小さなプログラムが、学園内に大きな波及効果を生み、実際に「山が動き始めた」こと、そして、その先に武蔵学園の創立百周年として大きな改革の実りが生まれようとしていることを述べた。
この先、武蔵学園がどんな学校になっていくのか、そのビジョンをひとことで言うのは難しいが、あえて言うとすれば「日本版リベラルアーツカレッジ」のモデル校というのが、それではないかと思っている。リベラルアーツカレッジの本場アメリカと日本とでは、教育制度や私学経営のおかれている事情が若干異なるので、リベラルアーツカレッジといっても全く同じものができるわけではないだろうが、武蔵学園が日本の教育界に、リベラルアーツカレッジのひとつのモデルを提供することができたら、幸甚と思う次第である。