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通史編

本扉

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山川黙校長在任時代の武蔵(大坪秀二)
【編者注】

山川黙氏(1886–1966)は、1942年の山本良吉第3 代武蔵高等学校長の急逝を受けて同年7 月に第4 代校長に就任し、1945年末まで在任した。

 氏は東京府出身、府立第一中学、第一高等学校、東京帝国大学理科大学卒業。慶應義塾大学予科教授等を経て、1924 年武蔵高等学校専任講師、1925 年武蔵高等学校教授。在任中、高山植物図鑑等を記し、生徒の教養に資した。また1943年には、2 代、3 代両校長の名をつけた山川賞、山本賞の制度を制定した。日本山岳会の創始者七人名の一人で、同会の機関紙「山岳」の初期のものには旧姓の河田名で多くの寄稿が見られる。

 氏は武蔵高等学校長在任中、太平洋戦争期の困難な時期の学園を支えた一人であったが、その時代の武蔵学園の動向、また山川校長の言動やその根底にある教育観などについては、残された史料がきわめて乏しい。その主なものは、武蔵学園記念室刊行による『武蔵学園史年報』第5 号・第6 号に収録されているが、それら両号の解題において山川校長の事績に関するまとまった記述がなされている(いずれも、執筆者は大坪秀二記念室名誉顧問)。ここでは後者の抜粋を掲げる。

山川黙第四代校長。1924 年4 月に専任講師として武蔵高等学校に着任、以後教授、教頭、校長事務取扱を経て1942 年8 月校長就任。
鵺(ぬえ)の声

 1942(昭和17)年12月の『同窓会誌』4 号に新任の山川黙校長が「2602年」と題してこの年度の総括を寄稿している。前校長逝去のことから始まって、勤労作業、初めての短縮卒業、高等科に二期制導入、高等科修学旅行の復活、高等科生初めての行軍、同様に初めてに近い和やかな運動会などを年間の行事として紹介したほかに、「伝統は尊重すべきも、一々山本先生の真似をしていくつもりではない」こと、「創立以来20 年、色々良い所もあれば、又色々の点で改むべきこともないではなかろう」と、山本時代への幾分の批判らしいものを覗かせている。年間行事の紹介にしても、「うれしい」、「明るい」、「和やか」等々、積極的に評価しようとする姿勢が感じとれる。それは、前年の同じ同窓会誌で山本校長が、勤労作業に出動した生徒達の態度を褒めたくだりで、「廠内の女工も、こんな気持ちのよい学生は初めてだといったそうである。…。かれ等に喜ばれても何の手柄にもならぬが、本校生徒の教養がここに現れたと思うとうれしい」という、同じ「うれしい」にしても、一閃舌鋒の光る言葉と対比されよう。

 山本校長の文章はこのあと「こんな吉報を耳にして少し気を緩うして居ると、妙な鵺(ぬえ)のような声が学校の室に鳴き始めた。色々な変化(へんげ)が考なしに、それからそれと続いて起る」と続く。山本の言う鵺の声は、対米開戦へと傾斜して行く世の中の流れを是認し賞揚する世人の声を指すようにも取れるが、真意は不明である。山川の文では、やはり文末に、「前号に山本先生は妙な鵺の声を聞いたと云っておられる。…。しかしその鵺とは別らしい鵺の声が私の耳にも聞える。…。私の生家は源三位の子孫であるという。私も先祖に負けないで鵺退治をやろうと思う。来年度の入学試験を期として少くも一種の鵺の退治に取りかかろうとしているが、……」とあり、ここに言う鵺が、山本時代に取り沙汰されていた入試の不明朗性に絡むものであることを明瞭に示している。山川はこう書くことで関係する人たちに警告を発し、不祥事を未然に防止することを望んでいたと思われる。

 実情は、この後戦時体制はいっそう苛烈になり、入学試験もかなり様変わりして、鵺退治のことはどこかに忘れ去られたようにも見えた。しかし、この戦時体制の裏側で、山川の意図した改革は、ゆっくりとではあるが確実に、じわっと進められていたと思われる。入試の出題、採点、合格判定等の教授会内部での透明性は、明らかに高められた。以下にも記すとおり、記録の端々に旧時代との対比を読みとることができる。

教授会の様変わり

 山川校長の時代になって、教授会の様子が山本時代と一変したことは、当時を知る何人もの教授たちから後年の回想として語られている。しかし、当時の生の記録には当然露骨な表現があるわけではないから、記録の片鱗から読み解かねばならない。新校長になって最初の教授会の記録に、今後の会議と会食のことが出ている。従来は、昼食は会議室での会食であり、とくに、月曜と木曜とは原則として会食会議だったらしい。月曜日は会食に引き続き、第5 限には生徒指導関係の限定されたメンバーでの会議があり、6 限以後は全員の教授会であった。会食では、新任の教師が山本校長の前の席に座らされる慣習で、たいそう苦痛であったという述懐が幾つも聞かされている。だから、会議は放課後のみとし、月曜の会食のみは残して(たぶん、連絡事項伝達程度の意味で)、他の曜日の会食は各人の随意出席としたことは、明らかな変革姿勢の表明だったと見られる。山本時代の教授会は「山本による教師教育の場」であったと多くの教授たちから聞かされてきたが、山川時代になってはじめて、教授たちは発言者の立場を与えられたとも言える。とくに比較的新しく着任した教授たちが先任者と対等に議論するようになって、教授会がにわかに賑やかな論議の場になったという。新参の人たちが余りにも遠慮なく自説を述べ立てるのに、古参の人が「無礼だ」と激怒した逸話などもあるが、どのようなことが古参者の逆鱗に触れたかは伝わっていない。

 山川時代の校報が、内容・回数ともに著しく貧弱になるので、立ち入った比較はやや困難であるが、とにかく、校報を虚心に通読してみると、山本時代のそれが「伝えおく、命じる、禁じる、咎める、等々」を主流にしているのに対して、山川時代のものは、「相談する、相談させる、委せる、等々」で教授集団の合議制が形成されて行く様子がいくらかは伝わってくる。別の資料として、試験の時間割、作業や校外活動の予定など学務関係の雑多な記録類を見ても、山本時代のものには起案者の印と校長のサインのみが記入されているのが普通だが、山川時代になると生徒の関わる諸活動については、当該組主任のサインがついている物が多く見られる。この点にも、一般教師の参加形態が変わって来たことが表れている。

 いまひとつ、明白な変化は入学試験関係の記事に現れている。山本時代の記録では、『合格者判定の作業が、ごく僅かの主だった人々だけの合議で行われていたことが読みとれる。その密室性についての批判があったことも後日の証言に見られる。山川時代になって初めての入試の記録には、「全職員参集して第1 次合格者を決定。全教授にて最後の入学者を定めたり」(昭和18 年2 月5 日)とあるとおり、教師集団内部での入試に関する透明性が確立したことが窺われる。そしてこのことに関しては、新制発足後に就任した筆者も、当時を知る先輩たちから多くのことを聞かされていた。山川校長の鵺退治は、まず鵺が出現できない環境づくりから始まり、それが成功していることがわかる。武蔵という学校のあり方の基本的な変革であった。

生徒活動の自主性

 自主性と言えば、三理想に「自ら調べ自ら考える」が古くから謳われている。しかし、山本時代の20 年を通観してみると、個々人の勉学上の自主性はなるほど尊重されたかも知れないが、いわゆる生徒活動の自主性はむしろ厳しく制限されたといえる。その時代の生徒の自主性は、部活動であればその部の部長の教授、寮であれば担当の生徒主事(高等科寮の場合)が、山本校長に対する防波堤となって保護してくれたおかげで成り立っていたとすら言える。実際、保護者の立場を取れない弱腰の部長(正式名称は主理)の下では、些細なことからインターハイ出場停止の憂き目を見たことすら幾つもある。

 筆者は、生徒としての最後の1 年間を山川校長の時代に過ごした。その時に得た筆者の印象は、ここに集積した当時の記録と非常によく整合していることを感じる。冒頭の山川校長の文章にもあるのだが、18 年秋の関西旅行にしても、諸神宮参拝・橿原神宮での勤労奉仕を名目とすることでしか旅行許可は下りなかった。校長は初日早朝の伊勢神宮参拝の先頭に立って旅行の名目だけは果たし、その後の行動は生徒の自主性を尊重するように組主任に委せた。旅行の名目となった幾つかの参拝、拝観の他は、生徒達は三々五々、それぞれの目的を持って行動することを許された。従来の武蔵のしきたりにないことで、両組主任は腹をくくって居られただろうと後から感謝したものである。

 昭和18、19 年秋の運動会については、記録中にもかなりの注記を入れた。従来は校友会運動部の発表会と称する「運動をする日」はあったが、余興的な競技があったり、応援があったりする、世間並みの「運動会」は武蔵になかった。確かにそれは1 つの見識であったが、昔からしていないことだという理由だけで議論もなく禁止されるのは、生徒の立場からは鬱屈するものがあった。その鬱屈の解放願望と山川校長の新方針とが一致して、全く未経験の行事を失敗まみれになりながらも成し遂げることが出来た。同日の平井教授日記には、この行事を好意的に受け入れ、楽しまれた感想が率直に記されている。このように、武蔵で初めて運動会が解禁になった翌年に、文部省からは体育祭を禁止する指示が出されることになった。翌19 年の運動会では、学校は文部省指示への配慮からか、応援の禁止その他いくらかの規制を行っている。しかし、生徒の自主活動という大原則だけはしっかりと受け継がれた。戦争の激化がそれらすべてを、いっとき押し流してしまったのではあったが。

 同じ18 年の秋には、野外教練の枠内で箱根越えの行軍(2 泊3 日)があった。歩兵銃や機関銃を担い隊列を組んでの行軍であったが、秋色濃い箱根路を辿る変形のハイキングであり、そんな形ででも生徒達に心の潤いを与えたいという新校長の思いは、ある程度生徒達に伝わったのではなかろうか。

 越えて19年2 月23日の項にある「再度の宣誓式」。解釈の仕方次第でどちらにも取れた事件の幕引きがこじれ、結局生徒主導の「覚悟の再確認」の式が行われた。これも、校長の理解ある容認があって出来たことであった。

対父母の関係

 記録が乏しくて、立ち入ったことは分からない。記録にあることは2 件だけである。1つは、17 年10 月5 日の項にある父兄懇談会のことで、山本校長事務取扱時代以来続いた有名料理店での懇談会を、学校内での懇談会に改める方針である。もちろん、社会状況が徐々に切迫してきたことが最大の原因であろうが、この時点では場所はまだあった。時局柄を理由に挙げていないところを見ても、従来のあり方に多少の批判がこめられているように取れる。

 もう1 つは18年4 月5 日の項にある、教師の自宅での補講禁止である。創立当時、一木校長がきっぱりと自宅での教授はしないと宣言したのに、いつの間にかなし崩しになっていた。なし崩しになったのには、もちろん、まともな理由があったことであろう。1 学年80人、7 年間を通したごく小さな、家庭的とも言える学校では、学業に蹟いた生徒に個人的な支えをしてやることは、むしろ望ましいとされた時期があったことと思われる(ただし、そのことが正式に表明されている記録は今のところ見当らない)。しかし、時が経つうちに、そのような個人教授の関係が、授業での依枯贔屓につながらないまでも、何となく不明朗な、生徒間でのとかくの噂の種になる状況を作り出した面があったことも確かであろう。山本校長死去のすぐ後にこの禁令が出たことは、教師間にもこのことを問題視する人たちがあったであろう事を窺わせる。

英語教育の強化

昭和18 年5 月3 日の項に、英語の基礎を一層強化すること、そのため、尋3、4 の英語に英作文を独立の単位として加え、解釈、文法と並んで3 単位とすることが協議され、翌週、決定している。創立当初の記録では、多くの教科について総合学習主義が求められているが、英語については1 組を二分する分割授業のことと、尋2 からは英米で出版されたテキストを使うことが書かれているほかには特別の主張はない。ただし、授業の中に文法の時間を特設することについては、かなりの期間の論争があったらしく、英語科の合議結果に山本教頭が説得されて、文法の時間が出来たらしく思われる記事がある。英語教育の歴史を回顧する場でないと思うが、旧制時代の大勢としては、訓読(英文解釈)と文法(または文法作文)が2 本の柱であった。武蔵では、世間で英語学習の時間削減が実施される中で、英語教育強化を打ち出し、しかも、作文を独立の柱としたわけである。これは恐らく、加納秀夫教授その他の若手教授の意見が用いられたものだと思う。そして、この頃から戦後の旧制末期にかけて、英語科には非常勤講師も含めて比較的若年の元気の良い新人の着任があり、短期間ながら良き時代を形成したと思われるが、その頃在校した同窓生の意見は如何であろうか。

文化講演

 山本時代には「民族文化講演」として行われたものであったが、山川時代になって「民族」の2 字がとれた。戦争も末期に近く、民族主義は一層の高まりを見せた時代に、伝統的な名称を変えたについては、かなり意図的なものを感じる。ただし、当時最高学年の生徒だった筆者がそのことを感じていたかといえば、たぶん、全く感じていなかったというのが正直なところである。ただ、安倍能成氏の「道徳と道徳性」についての話は、従来の山本校長の下での「徳」に関する数多くの話とかなり違った。発想の自由さ、柔軟さを感じさせるものであった。

 回顧座談会での白旗教授の話では、昭和16、7 年頃から、大学教授たちが旧制高校での講演を割り当てられて、各高校で行われたという。安倍氏の話も、ごく近い過去に松山高校でほぼ同内容の講話があったという噂が後日伝わってきた。それにも関わらず、同氏の話がある種の刺激であったことに変りはなかった。氏の講演は、「形としての道徳は、時代、国、民族、階級等々によって様々に変化するが、その底にある道徳性、道徳的なるものはそれらに共通であり、不変である」というごく当然のことを、豊富な実例と巧みな話術とで説得力豊かに述べただけであった。今でこそ「当然のこと」というが、山本時代の形の上での拘束が多い雰囲気に5 年以上漬かって暮らした筆者たちにとっては、武蔵に新しい風が吹き始めたことを感じさせるものがあった。また、当時国内を支配した戦時思想の上では、「米英は鬼畜」であり、敵といえども同じ人間性を持ち、根底に於て同じ道徳性を共有するなどと主張することはタブーに近かったから、そのような講演をして廻った安倍氏は、それなりに覚悟しておられたのではなかったかと今にして思う。

 文化講演はこの後2 回あって、講師は数学の末綱恕一氏、電気工学の丹羽保次郎氏である。丹羽氏の講演は校報その他に記録があったが、末綱氏のものは年報の為の調査で発見された。末綱氏は玉蟲教頭と高校時代の同級生であり、多分その縁で講演を依頼されたものであろう。戦局も押しつまったころに、「数学の有限と無限」の話をされたのは、生徒にとって印象的だったのではなかろうか。

1943 年8 月軽井沢青山寮で行われた山上学校での体操の様子。撮影は大坪秀二氏。
体育と保健

 昭和18 年度から体操科に杉本栄講師が新たに就任、尋常科1 年生の体操を担当した。当時高3 生であった筆者は、山川校長から直接に、「武蔵の体育授業方針を一新させる目的で優秀な専門家を招いた。尋常科1 年から順次上に及ぼして、これまでのあり方を改めて行きたい」との意向を聞いたことがある。このことも、武蔵の「新しい風」の一つであった。これと時を同じくして、新しい結核対策が始められた。国民病とも言われた結核に対して、その予防と治療とに本腰を入れるべく「結核予防国民運動」が始められたのは昭和14 年秋からである。この年4 月28 日に結核の予防・治療に関する皇后の令旨が出されたため、この運動は「令旨奉体」の4 字を冠して呼ばれた。検査医師や検査費用(レントゲン検査等)に補助金が出るようになって、武蔵でもレントゲン検査の外注(第1 年目は校医委託)を始めたのは16年度からである。武蔵に於ては既に昭和3 年に作られた「健康調査会」があり山川黙教授が委員長となって病欠者の調査、身体検査の統計などを行ってきた。しかし、こと結核に関する限り、まだ的確な検査方法も予防方法も、病気そのものの解明も未発達の段階で、何らかの成果を上げるには早すぎたと言うべきだろう。物理教室に実験用のエックス線発生装置が設置され、その機械で胸部のエックス線直接撮影が始められたのは昭和10 年である[『武蔵学園史年報』第5 号、245ページ]。しかし、医学用でない物理実験用の機械で診断に有効な写真が撮れたとは思えない。事実、機械の操作を委された藤村信次教授は物理の授業の際にも極力エックス線被爆に対する安全への配慮を強調していた。診断に必要な程度の軟らかいエックス線をあてるときの安全限界が不確実である以上、責任者としては、安全率を極端に高めて、つまり、診断には殆ど役に立たないエックス線を使うしか方法がなかっただろうと思う。

 医学用レントゲン機械による間接撮影は、上述のように昭和16 年6 月に初めて業者委託で導入された。しかし、制度は始まっても現実は急に変われない。間接撮影のフィルムを適確に診察する練達の医師がそれほど多数いるわけでない状況下では、明瞭な発病者を確認する程度にしか役立たなかったであろう。理系の山川教授を委員長とする健康調査会でありながら、実際の仕事は体操教練科の教員に委され、委員長を飛び越して山本校長の直接支配であったこと、しかも、体操科の小野寺委員に対する校長の信頼が極めて厚かったことが、新しい事態への対応を遅らせたとも思われる。校長の代替わりによって初めて、武蔵の保健対策は本格的なものになり始めたと言えよう。18 年4 月、生物科新任の高宮篤教授を中心に実行チームが作られ、結核研究所で先端の研究・診療に関わっている練達の医師高橋智広氏を講師(後に校医)に迎え、本格的な結核対策が始められた。

戦争の重圧

 太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼ばれた)は、緒戦のころこそ華やかな勝ち戦の様子を見せたが、開戦から1 年半ほども経つ頃には、中部太平洋、南太平洋の一角から明らかな敗戦の兆しが報じられるようになった。ミッドウェー戦での敗北、ガダルカナル戦の敗走、指揮官山本五十六の戦死などである。これらは勿論、正確に報じられることはなかったが、情報を注意深く観ていれば高校生くらいの判断力でも解ることであった。その先の考え方が各人各様であるのは当然のことである。教員たちの戦争に対する態度も各人各様であったが、ときの国家の方向に批判的、戦争について反戦ないし厭戦的な人も少なくはなかった。こうした先生の一人から筆者は日米開戦の少し前に、第一次大戦時代の厭戦詩の幾つかを教えられ感動した記憶がある。その同じ先生は、日米開戦の日の授業で、興奮してざわつく生徒を前に教卓に腰掛けて「浮かれてはならぬ、事態は絶望的だぞ」と、声を大にして諭されたと聞く。私たちより1 年上級の教室でのことである。行動の上で多少の差はあるにせよ、似た考えの先生たちが何人もいた。しかし、戦局の進行は、戦争への批判、国の方針への不服従を許さぬ方向へと圧力を強めていった。毎月8 日には「大詔奉戴日」という式典があり、宣戦の詔勅の音読が全員に課せられた。18 年度に入ると、毎週月曜日に全校朝礼が始まり、そこで宮城遙拝と戦勝祈願とが行われた。そもそも武蔵では、それまで朝礼という行事はなかったから、生徒たちにとっては小学校時代に逆戻りしたような思いもあった。元日の祝いは本来各家庭の行事であるべきだという山本教頭/ 校長の考えに基づいて、創立以来行われることのなかった1 月1 日の新年式が、昭和19、20 両年にはついに行われた。文書の語るところからみて、これらはすべて国からの指示に基づくものであり、これに異を立てることは不可能と言わぬまでも、甚だしく困難・危険であった。事実、そのような反逆を敢えてした学校はまずなかったと思われる。

 諸学校の中で非軍国主義と見倣されマークされていたのは国立大学と旧制高校だったと言われるが、その旧制高校でも戦争末期には文部省から送り込まれた校長が、こわもてに国策を押しつけたという話が多数聞かれる。武蔵では山川校長が外面は世間並みにしても、内輪では生徒の自主性を尊重すると教授会でも述べていた[参照『白雉たより』2号、杉本栄「終戦前後の思い出すまま」12~14ページ]由で、行き過ぎた軍国主義の疎ましさは最後まで存在しなかったと言ってよいだろう。一方、過去の年報で再三ふれたように、学校として奉安殿を設けず御真影の下賜を申請しなかったのは、初代理事長根津嘉一郎の意志によったことはほぼ確実である。前記杉本教授の回想文に、武蔵就任初の入学式で式場に御真影がないことに「度肝を抜かれた」とある。一般の学校からみて、これはそれ程に異常なことであった。

 根津氏没後は、山本校長が外からの攻勢の矢面に立ったと思われ、『武蔵学園史年報』第5 号、289 ページにも記録がある。軍人視学官と山本校長との言い争いの場に同席して、後日そのことを証言したのが山川校長であるから、この問題に対する山川の対応も従来方針の踏襲であったに違いない。ただし、時代はより緊迫していたし、恐らく教授会内部にも国策への忠誠を重視する意見の人が多少増えていたであろう。御真影のための奉安殿建設に委員を作り、会議では表向き実現を督励しながら、工事は一向に実現しなかった。委された玉蟲教頭と山川校長との間にサポタージュへの暗黙の了解があったと考えてよさそうである。さもなくば、発端から理事会了解、委員任命、催促の間の甚だしい時日の空白は説明できそうもない。そうこうする間に、戦況は破局へと進行を速め、奉安所どころでなくなって敗戦の日を迎えた。戦後の21 年8 月、御真影奉安所の撤去についての文部省からの問い合わせに対して、「御来旨の件については、本校にはまだ奉安所の設置がありませんので報告いたします事項がありません」と回答している。この短い文章の中に御真影をめぐる20 年にわたる葛藤が集約されているのを感じる。

 前述のように、戦争も末期になると教授会の中でも国家方針への積極協力派と批判派との微妙な分裂が当然あったと思われる。山川校長、玉蟲教頭の舵取りには、そのことへの配慮が当然含まれていた筈で、御真影問題、軍事教練問題、その他国策寄りと見える対応も、無難な外面を作る苦肉策であったと思う。それは、この両先生と生徒として(とくに最上級の生徒として)接した筆者の確信に近い感想である。

 多くの学校では、配属将校の積極的干渉があったことが伝えられている。配属将校にはこのように学校を監視する役割が期待されていたはずである。丁度この頃、武蔵に配属されていた佐々木宗治大佐は、初め2 年足らずは軍の権威を振りかざす態度があったが、山川校長の時代にはかなり軟化して、物わかりのよい常識人の顔になっていたから、世間並みの配属将校ほどの要注意人物ではなかっただろうと想像される。それ以上に、末期の勤労動員中など、教授たちと協力して、生徒の付添等に尽力したようである。動員先などでは、現職の軍人、とくに大佐ほどの高官が付き添うことで、生徒への風当たりがかなり和らいだと言われている。

 当時の生徒としての感想であるが、佐々木大佐が赴任初期の威丈高から次第に軟化したについては、校長はじめ教授たちの適切な対処の効果があったことは勿論であろうが、野営とか査閲とかいう配属将校と生徒たちとの関わりが濃い場面での、生徒たちの反骨精神を込めた武蔵風、発想自由な振舞いが無言の圧力になって、配属将校の変身の一因となったようにも思われる。当時生徒であった同窓生の中には、佐々木大佐との「小競り合い」について、なにがしかの記憶を持つ人も多いのではなかろうか。

終戦直後、人それぞれの気持ちについて

 学校としての動きを記録したもので、年報に採録した終戦直後の記録は平井教授日記のものである。つまり、学校側の公式記録がこの頃如何に少なかったかということでもある。8 月の文部省内訓[8 月24日近畿地区学校集団会議への通達(旧制高校全史による)だから、会議以前に発せられていたと考えられる]には、支那事変・大東亜戦争行賞関係書類、学校工場化に関する書類の焼却があり、更に「国体護持の精神を学徒の心底に植えつけることを、皇国教育者としての責務として完遂」するように求めている。武蔵では勤労動員関係の記録が毎週学校で取りまとめられてた筈[回顧座談会での白旗教授の証言]なのに、現存しないらしいのは、この時期にまとめて焼却されたからかも知れない。

 戦後の新時代への歩みは、生活全般の窮迫とはうらはらに、堰を切ったように一気に加速された。それは、若者たちの気持ちの上で特にそうであった。将来への希望があるか、それとも絶望的かは別として、これまで自分達を縛ってきた体制が崩壊したこと、これから始まる時代は、善し悪しはともかく、これまでと異なるものになることだけは明白に思われた。当時の武蔵在校生より数年年上なだけの筆者の当時の思いでもある。

 こうした若者たちの気持ちと較べて、より年長の大人たちがつくる世の中の様子は、変革への立ち上がりがかなり鈍かったように思う。一例として、当時の新聞の大きな見出しを拾ってみよう。

 

昭和20年

8/16 玉音を拝して感泣鳴咽。畏し、御躬ら詔書御放送。

/18 陸海軍人に勅語を賜う。出処進退を厳明、国家永年の礎を遺せ。

/20 灯管[灯火管制のこと] を直ちに中止。国民生活明朗化に大御心。有難い御仁慈の灯。

9/03 勅を畏み真勇発揮。首相官[主相東久通宮のこと]謹話。国民に御訓戒。

/17 東条軍閥の罪過[この頃から戦争指導者の責任を問う記事が出始める]

10/18 畏し、百万人に恩赦。[注: 10 月10日には、GHQの指示によって政治犯約500 名が釈放された。続いて、治安維持法を中心とする取締り諸法が廃止され、大量の恩赦が行われたものであろう]

/25 天皇御退位の論議。現在考えられぬ。近衛公真意を表明。

11/07 「歩調とれ」も廃止。転換する学校体育。

/21 聖上、遺族に御会釈を賜う。靖国神社御親拝。

/24 新御服[ギョフクと読む]の御真影、学校・官街へ改めて下賜。畏れ多い事ながら、かかる時代には現在の御真影は不適当と拝察され、天皇御服制定の時から新しい御写真と御替えすることに方針を決定したわけです。(石渡宮相談)

12/04 各界知名の59 氏、マ司令部より逮捕命令。

/08 太平洋戦争史。マ司令部提供。

/14 天皇陛下と奉仕団[皇居内清掃奉仕]。温かい慰労のお言葉。

(朝日新聞より)

 

 やがて新時代の旗手の如く振舞った大新聞でさえ、敗戦の当初はこんな調子であった。若者の気持ちに較べて、学校の対応が如何にも鈍くまだるく感じられるのは仕方ないことだったのだろう。武蔵でも、月曜日始業前の朝礼と宮城遙拝とは続けられていた。さすがに宣戦の詔勅は読まれなかった。こうしたことは武蔵だけのことでなく、他の高校でも同様だったらしい。特に目立ったものとして、青少年学徒への勅語を戦後も引き続き読んでいたという学校がある。そこでは、9 月末から早々と校長排斥運動が起ったという。武蔵はと言えば、宮城遙拝は11月末で漸く終わった。戦争中、遙拝は儀式であり、多少の時間をかけて行われたものであったが、10 月の会議メモでは「遥拝式を行うも、直ちに授業す」と記されているように、もはや遥拝式でもあるまいと言う何となしの気配が感じられる。

 一方では、凶作も一因となった食糧事情逼迫と、戦中軍事費の野放図な支払いによる戦後インフレの進行とが人々の生活を圧迫し始めていた。12 月には冬休みに続く2 月始めまでの食糧休暇が決定される。学事予定表[学務記録綴]を見ると、21 年1 月1 日新年式が記入されており、加筆で「取止め」となっている。11 月から12 月にかけて、世の中全体が戦後の放心から脱して、新しい方向へやっと動き始めたらしいことが看取される。

戦後の学校の動き

 ほぼ1 年間入居していた陸軍造兵廠の部隊は終戦早々退去したが、その後片付けは大変だったらしい。後始末に残留していた学徒出身将校は、責任感強く真面目に仕事していたと回顧座談会に記録されている。その人の実弟が、その後(昭和22年)高校編入で武蔵に入学したこと、そして卒業後医師となった彼は、武蔵のスキー合宿に数年に亙って付添をしてくれたことなどの後日談がある。兄弟とも故人になってしまった。

 9 月半ばに二部授業で再開した学校は、上記校舎内整理、校庭の防空壕の埋め戻し、その他の労働に教師・生徒力を合わせながら、意外に早く二部授業を解消して通常の態勢に入っている。本校舎が焼けなかったことが大きな頼りになったのだろう。

 軍隊が解体され、行き場がなくなった陸海軍学生や、外地の学校からの引き揚げ生徒などの編入学が、文部省の要請を受けて10 月に開始される。陸軍士官学校・海軍兵学校両校への入学にはもともとかなりの倍率の競争があったことを考えると、この時武蔵での約3 倍の競争率の編入試験はかなりの窄き門であった。もちろん、戦中一時、地方に疎開転校した生徒の復校もあり、学校はそれらの対応に忙しかったことだろう。

 一方で、戦後急に悪化した食糧事情は、特に親元を離れている寮生たちを直撃した。一般生徒も含めて、食糧の買出しなどに力を割かねばならぬ一方で、正規の授業を継続することはかなり困難であった。冬休みから引き続いて2 月始めまで、1 月以上も休暇となったのは全くこの食糧事情窮迫のせいで、旧制高校の中でもとくに大都市の諸校にこのような例が多かったようである。

 こうした窮乏の中で、21 年2 月には校友会が復活している。前年9 月のところで見たように、もはや報国団ではなかった。しかも復活した校友会には化学・物理・生物部などの新しい部が加わり、運動部系でもそれまで禁止されていた野球の他、バレー、卓球などの部もやがて新しく誕生した。生徒活動はめざましく活発で、21 年度から再開した全国大会でも上位に入る力を示した。なお、校友会とは別に自治会が生まれている。自治会についての記録は学校に殆ど残されていないが、自治会と教師側との交渉が行われたという記録はいくつかある。内容まではっきりしているものは少ない。この時代の自治会・校友会のことはこの年報を当時在校だった卒業生たちに読んでもらうことを手がかりに証言を集めてゆかねばならないだろう。

 記録を見て1 つ不思議なのは、戦後早々の21 年3 月に理科1 年が大量の落第を出したことである。なかには自分から再修を願い出た人もいたというが、特に理一乙では組の人数が半減した。この学年は20 年1 月早々から3 月末まで兵器補給廠に動員され、20 年度の1 学期には打ち続く空襲で授業は滞り勝ちとなり、6 月末から1 ヶ月の援農動員の後、8 月初め再度造兵廠に動員されて終戦を迎えた。このような状況で過ごした生徒たちが、皆が皆自ら望んだわけでもないのに、大量に再修させられることになったのは、今から見ると割り切れない思いがする。

山川校長の退任

 公式記録上、久しく、山川黙校長は昭和21 年2 月17 日、健康上の故を以て辞任、玉蟲教頭が校長事務取扱となり、後任校長には宮本和吉を委嘱することに、即日教授会の同意をとりつけたことになっている。記念室開設によって新しく陽の目を見た理事会記録によって、この辞任は昭和20 年12 月に遡ることが明らかになった。公表は、後任校長が決まるまで約1 ヶ月半ほど伏せられ、山川校長は退任後の武蔵のことを考慮した人事案件を処理して、宮本新校長時代への道を拓いた後、退陣したと思われる。このことにある程度立ち入って触れているのは、『同窓会報』18、19、20号所載、「回想」(玉蟲文一)である。この回想録は事柄の前後関係に幾つもの重大な誤りがあり、そのまま史料とすることは出来ない。しかし、18号には「戦後の混乱時において校長職を去られて校門を出てゆかれた山川さんの後姿が私の眼底に焼き付いている。武蔵の卒業生諸君、どうか、全身を以て武蔵に奉仕された山川黙先生のことを忘れないで欲しい」とあり、20 号には、「高等科に編入入学した生徒たちを中心とする校長排斥の運動などが起こり、山川校長は苦境に立たれた。学制改革の問題やこのような以前には予想もつかなった状況の中で、山川校長は恐らく心身ともに疲労し、ついに辞意を表明されるに至った。根津財団もそれを容れ、あの謹厳温厚な黙さんは愁(さび)しく武蔵を去ったのである」とある。玉蟲氏の気持ちを表現している部分はこの通りで正しいであろうが、新学制移行の問題は山川校長退任後におきたことであるし、高校編入生中心の排斥運動というのも、時期的に納得しがたい。当時を記憶する卒業生の証言では、2、3 の教授たちの戦中の言動への問責運動が生徒間に起こり、校長の処断を強く迫ったというから、それが校長排斥運動のように語り伝えられたのではないか。

 山川校長の甥にあたる河田伸一氏(武蔵高校20 期)はその父君の略伝『河田杰(まさる)(上)』(平成3 年刊)の中で次のように記している。「昭和20 年の秋に私が生徒会代表から聞いた話で、生徒会幹部と校長との話し合いがあった時、山川校長は近く辞任する予定だと言う話をされ、自分には戦時教育の責任があるので辞任すべきだと思っていると述べられたと言うのである。生徒であった私から見れば武蔵という学校は時局柄たしかに反戦教育はしなかったけれども、戦争と全く関係のない、数世紀を貫いて理想としたとしても少しもおかしくないような目標を掲げた教育を実施していた学校であった。山川校長時代は戦争の終わり頃の最もきびしい時代であったが、校風も教育内容も、別に従来と変りは無かったのである。私は山川校長の辞任の理由を聞いた時、父が戦争責任を口にした時とよく似た奇異感を覚えた。山川の伯父もまた、戦時下の高等学校長として止むを得ず文部省や軍部の命令に最小限度従って来られたことについて、父と同様、深く心を傷付けて居られたのであろうと思う。(同書50~51ページ)」人柄をよく知る身内の証言には、聴くべき真実があると思う。

 戦中の動員先その他での校長の写真には、国民服・国民帽をつけゲートルを巻いた姿が多い。学校の先頭に立つ校長は敢て時流に抗わぬ姿勢を見せつつ、学校への政府・軍部からの圧力を防いでいるようにも思える。それを裏付けるものとしては別記杉本証言[参照昭和18年9 月13日の項(169ページ)]や、当時の生徒の大方の記憶にある山川校長の温厚・穏和な人柄・態度がある。

 多数の旧制高校で、戦後、校長排斥運動が起こった。その多くは、戦中に国の意志で学校を統御するために送り込まれた官僚型校長への不信任だったと言われる。武蔵において、もし、同様に校長排斥運動があったとしても、他校のものとは何かしら違うような気がする。表面だけ国家に逆らわぬようにしていたとしても、それが本心からのものでないことくらい、多くの生徒から理解されていただろう。生徒会幹部に辞意を洩らしたのが河田氏の記されるとおり20 年秋のことなのか、それとも理事会への辞表提出後のことなのか、どちらかによって、話のニュアンスは多少変わる。しかし、山川校長が戦後のかなり早い時期に辞意を固めていたらしいことは間違いなさそうである。

 (以上、『武蔵学園史年報』第6 号掲載の「旧制武蔵高等学校校務記録抄解題2(1942 年9月–1949年3 月)」より)

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