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通史編

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山本良吉「と」武蔵学園(その2)―〈建学の三理想〉の系譜学―:山本没後―戦後の顕彰的語りと大坪秀二の学園史研究(吉川弘晃)
4 .山本良吉と日本帝国の亡霊
【その1 から続く】
( 1 ) 仰げば尊し、我が師の恩

 1942 年7 月18 日、新校長に就任した山川健次郎の甥・黙(しずか)のもと「故山本校長校葬儀」が行われ、一木喜徳郎や安倍能成、西田幾多郎などからは弔辞が寄せられた。同年10 月19日の「故山本校長追悼会」には遺族・友人のほか、職員・生徒一同が参加し、山本が遺した功績や思い出を語った。ここで興味深いのは、武蔵の職員たちが、山本の人徳や見識に敬意を払いつつも、彼の直情的で頑固な性格を隠さずに話していることである。山川によれば、彼は生徒・教師の両方から非常に怖がられており、他人の欠点を徹底的に直してやろうという親切心から「かなり厳しい鉄槌が加へられ」たといい、また和田教授は、メートル法の導入を民族文化の破壊として猛反対していた山本と何度も激論を交わし、彼は一切意見を曲げなかったと回想している*1。山本の強烈な個性は反発を招きつつも「愛の鞭」であったという語りは(後になってそのありがたさが分かるというというオチを含め)、死後数カ月にして山本像の柱の一つを作っていたことが分かる。

 終戦後、1946 年には山川が校長を退任。後を襲った哲学者の宮本和吉は学制改革への対応に従事し、旧制武蔵高等学校は1950 年にその幕をおろした。慌ただしい改編(新制高校は48 年、大学は49 年に設置)を経てまもない51 年、故山本先生記念事業会より『晁水先生遺稿』が出版された。本書は、山本の手による各種テキスト(論説や随筆、講話・訓話原稿)を整理し、その一部を収録したものであり、大拙による序文や山本の略歴・著作物のリストなどを附す。本書は初めての山本のアンソロジーであり、出版部数は限られていたとはいえ、今なお彼の思想を知る上で第一に手に取るべき基礎文献である。また、生前の関係者が山本を語る際、本書がその土台としての役割を果たしたであろうことは想像に難くない。果たして1966 年に山本先生記念会より刊行された続編は、山本をめぐる多種多彩な声(追悼文・回想・座談会)を収めて、その分量は本書全体の半分以上を占めている。本論ではそのあまりに膨大な声を詳しく分析することはせず、全体的な傾向をつかむにとどめたい。

 まず何よりも、頑固でワンマンな強烈な人格をもった修身教授としての山本像が至るところで浮かび上がった。特に最初の10 年までに教育を受けた卒業生たちの声に厳格なイメージが強く残る。毎回、「お尋ねします」との掛け声を合図にはじまる授業中の問答から校内での身なりや振舞に至るまで、生徒たちは一人ひとり厳しくチェックされ、端からみれば理不尽な理由で落第点をつけられるケース(例えば、厳格な山本の前で緊張して黒板に正しい答えを書けなかったため)も珍しくなかったという。1964 年、旧制1~7回生を集めた卒業生座談会が開催された。ここで武蔵の第一の特徴として「落第主義」を挙げて「私自身二回も落ちている。満足に七年間で卒業したのは大秀才です」と振り返る本田正義(6 期文科、当時は最高検検事)は、山本のやり方に反発して学校を追放された集団がいたことに触れて「山本教育の地盤で、要するに花が咲かなかった子供たちというのは、相当おりますよ。これは山本教育を見る場合、私どもは常に忘れては行かんところだと思うんですが、教育というものは一体それでいいものかどうかということですね」と加えている*2。すぐ後で草創期の私学を支えるために強硬手段を取る必要があったと山本をフォローしているとはいえ、座談会が全体として山本への感謝へと向かう雰囲気をつくるなか、以上のくだりは学園の内側から出された実感にもとづく批判として貴重である。

 さらにそうした山本像がある種の神聖さを帯びていくさまを象徴する声も出てくる。64年の同じ座談会で山本の厳しい指導は生徒への愛情ゆえであったと、卒業生たちが自らの少年時代の苦い経験を意義づけようとするなか、高橋喜彦(2 期理科、当時は気象技術研究所)は、かつての学友で医学者になった梅澤濱夫が文化勲章を受章した際の祝賀会でOBたちが「武蔵の心」を語ったときに、一度も山本の名前が出なかったことを肯定し、「『山本良吉』というのは、仮の宿りなんです。つまり、山本良吉が先代から受けついだ何ものかを、我々の心に残してくれた気持ちは、その祝賀会に非常に表れてくるんです」*3 と述べる。恐怖の対象としての師は、同じ苦しみを耐えきった仲間で共有されることで、畏怖すべき対象としての父へと変わる。しかもそれは軽々しく口にすべきではない神聖な対象であるという前提こそが、この同質的な集団の結束力を強めるという、OB座談会にとって本来の機能を果たしている。とはいえ、第8~14 期生の座談会になると、山本の厳格さのイメージには色々な声が見られるようになり、それより若い卒業生にとっては厳しさよりも優しさのイメージが強くなっている。

 次に重要なのが山本の政治的立場についてのイメージである。旧制時代のOBたちはいずれも山本の教育に強烈な国家主義の匂いを嗅ぎとってはいたが、それは他国の良きを学びつつも自国の古きを守る「非常ないい意味の国粋主義者」といった像に落ち着く*4。それを支えるのは、彼は戦争へ向かう日本の政局に批判的であったという言説である。例えば、第15~21 期生の座談会では、山本は政局を生徒の前で語ることには禁欲的であったこと、満洲事変後の陸軍の動きを暗に批判していたことなどが語られる。本座談会には参加者から一世代離れた先輩として参加している川崎明(4 期文科)はそこで、自分たちが生徒だった時代には、山本は政友会と民政党の対立について後者を贔屓して前者を攻撃していたと回顧するついでに、山本が学園の配属将校を選ぶときに陸軍と一悶着を起こしたこと、軍への批判が当時は命に関わることであったことに触れ、「強い者を恐れなかった山本先生の勇気」を賞賛している。一方、山本は「紀元2600年」と「大東亜戦争」の初期の勝利に浮かれていた世の風潮に反し、お祭り騒ぎはやらなかったという声に注意を向けよう*5。山本が生徒たちに植林事業を行わせて気分を引き締めたという前者の証言は正しいものの、後者は「その1」の第3 節で詳しく扱ったとおり(シンガポール陥落祝賀会)誤りである。山本の国家に対する「抵抗」の神話は、旧制高校で1940年前後を迎えた者の記憶さえをも混乱させはじめていたのである。

 川崎はここで、「軍の勢力をかさに着ていばる連中を軽べつなさったので、ここから軍人ぎらいの異名をもらわれた」と述べつつも、敗戦責任を軍に全て押しつける戦後の風潮への批判を忘れていない*6。彼は『晁水先生遺稿続編』の編者として「反軍人」のレッテルを避けつつ、「抵抗者」としての山本像をバランスよく立ち上げようと努めている。ここで教員座談会(1964 年6 月末開催)に眼を移すと、興味深いことに、武蔵の配属将校(1928~31年)を務めた元陸軍将校(在任当時は中佐)の鈴木春松の証言が残されている。着任前は山本は礼儀に厳しくて反軍思想をもっているという評判を聞いていたが、武蔵では暖かく迎えられ、山本の理解も得られたと好意的に回顧する。一方、何か企画をやるときは将校団で民主的な話し合いをする陸軍軍人から見ても相当なレベルで、山本の指導手法は独断的に感じられたという旨を漏らす*7。鈴木の証言は、武蔵・陸軍関係が良好であった満洲事変以前のものであることは考慮すべきだが、それだけにかえって山本の強烈な個性とワンマンぶりを照らし出し、また「反軍人」イメージを相対化する学園の外からの声として示唆的である。

 最後に、山本と武蔵の三理想の確立をめぐる問題がある。上記の教員座談会で、三理想の原案は山本ではなく、初代校長・一木喜徳郎が作ったものであり、だとすれば山本はその成立過程にどう関わったのかという話題が提起される。だが当時はそれを確定する史料に乏しかったため、様々な憶測が飛び交った結果、「時代がどんなに変っても、私はあれは、厳として不滅だと思うんですよ」という内田泉之助(1926 年に漢文教授として着任)の言葉で締めくくられる*8。このくだりで気になるのは、山本自身は三理想の原文を起草したとは一度も発言しなかったと、各人によって強調されていることである。従って、山本と三理想を結びつける確かな根拠はこの時点では存在しない。後に言及するように、実際は山本の役割は限定的であったことが実証されることになるのだが、ここで重要なのは山本神聖化のプロセスがここに顕著に表れているということである。その強硬な領導で知られた山本は、元教員たちにとっても畏怖の存在であったが、建学時の精神について彼が沈黙していたことは、かえって(一木ではなく)山本「と」三理想を結ぶ糸を想像させ、彼を絶対的な「建学の父」として神聖視する流れをもたらしている。

 以上、山本の死から約20年のうちに、強烈で頑固な個性でワンマンぶりを発揮したというイメージから出発して、それ故に草創期の学園を指導できたのだという語りが戦前・戦中の抵抗という武勇談を交えて正当化され、またその厳格さをめぐる記憶が建学の三理想と結びついて共有されていく。こうして理念面でも実践面でも、山本は旧制武蔵の神話の主人公としての像を帯びていくのである。

武蔵学園記念室で学園史の編纂を行う大坪秀二氏(元校長、写真右)。写真左は武蔵高等学校で同期の上田久氏(元教諭、山本良吉の親友であった西田幾多郎の孫にあたる)。
( 2 ) 学園史家・大坪秀二による神話破壊

 大きな神話は破壊に時間を要する。そして破壊者は同時に創造者でもあるのが歴史の常である。20 世紀の終わりに山本神話を破壊したのは、武蔵高等学校中学校第8 代校長の大坪秀二(1924~2015)である。

 大坪は武蔵在校中(1942 年)、第16 回外遊生として満洲行きの機会を与えられるほど傑出した生徒であったが、卒業後は東京帝大理学部で物理学を専攻し、大学教員を経て、1950 年から新制になったばかりの武蔵高等学校・中学校で(後には武蔵大学でも)数学を教えた。67 年からは同校教頭、75 年からは校長を務め(87 年まで)、90 年に定年退職した*9。ほぼ40 年に渡って武蔵の教育・経営に関わった大坪は、その膨大なエネルギーと独自の理念をもって新しい校風を学園にもたらし、その影響は現在にも及ぶと言われる。その実態については別途の検討を要するが、本論で重要なのは退職後の大坪の仕事である。彼は退職後、武蔵学園記念室顧問として学園史料の整理・編纂に携わっただけでなく、その解題やエッセイを通じて、従来の学園史の語りを批判しながら新しい歴史像を作ろうと試みた。その成果は、原史料と解題を収めた『武蔵学園史年報』として1995年から毎年出版され、バックナンバーは20 号以上を数える。それらは武蔵学園史の研究のみならず、20 世紀の日本教育史にとっても重要な基礎史料としての可能性を秘めている。

 大坪の歴史叙述は、戦前から戦後まで、旧制高校から新制高校・中学・大学まで幅広く扱っているが、その最も重要な役割は、一次史料とその批判的検討にもとづいて山本神話を実証的に破壊した点にある。ここでその要点を整理しておこう。第一に、山本の専制体制が学園に招いた弊害を批判的に究明した。例えば「野球禁止考」(1999)は、旧制武蔵ではなぜか野球禁止令が出されていたという言説に注目し、日本での野球の社会的地位に触れた上で、創設当初は禁止ではなかったが途中から禁止になったと論証する。山本が公表した禁止の理由は道理にかけるとした上で、後半では1930 年5 月の「山本教授弾劾事件」という事件に触れている。卒業生数名が武蔵関係者や近隣住民にビラを撒き、「詰込主義、点数主義、厳罰冷酷主義」や生活・趣味への厳しい制限を批判していたという。学園内部の史料と照合したところ、叛乱卒業生側に「三分の理どころか、五分ほどの理を認めざるをえない」との評価を与えつつも、彼らの声は左翼運動弾圧のなかで消されてしまったとする*10。「たかが野球一つで大げさな」と言わず、野球問題を社会史上に位置づけるとともに、外部の声を拾い上げた上で、山本の教育体制を自由に反するものであったとする大坪の叙述は、効果的なものとなっている。そこには山本の強烈な個性・ワンマンぶりを「愛の鞭」や「リーダーシップ」という言葉で美化するのを拒み、外に開かれた学園史を創ろうという大坪の対抗的意志が横たわっているのだ。

 大坪の第二の功績は、山本の「建学の父」としての役割をある程度まで相対化した点にある。例えば「三理想の成立過程を追う」(1997)は、武蔵の三理想に関する原史料を丹念に整理・吟味した上で、開校当初(1922年4 月)は一木喜徳郎が用意していた「第1の原型」があったとする。もとは「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」であったのが、約2 年後に「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考へる力を養ふこと。」という現在のものにつながる「第2 の原型」が作られたと推定している。特に「東西文化融合」という文言を肯定する一木に対し、山本は最後までこれに完全には同意していなかったとしている。そして「第2 の原型」は山本体制下で教員たちによって権威づけられていったと主張している。「民族使命」や「世界に雄飛する」といった文言に見られる山本の「民族主義、国家主義的な理想」に違和感を唱える大坪は、アナクロニズムを改め、これからの時代に即した三理想を練り直す必要性を訴えて文章を締めている*11。山本神話を支える三理想の文献学的な精査を通じて、その内側からの崩壊を試みる叙述には、先と同様、山本の思想に対する大坪の強い批判意識を読み取ることができる。従来は権威化されていた山本像を正面から破壊するのは、学園関係者にとっても相当に勇気あることであっただろう。それでもこの大変な仕事へと退職後の大坪を向かわせたのは何であろうか。

( 3 ) 戦後民主主義の可能性と限界

 時は遡って1942 年2 月18 日、ひとりの武蔵高校1 年生(16期理科)が「何故それほど破天荒なことなのか良く判ら」ないまま、シンガポール陥落に沸き立つ山本校長の「何時にない上機嫌」を唖然と見つめていた*12。それは、明治生まれと大正生まれ、戦場に赴く可能性のある者とそうでない者とのあいだに生じざるを得ない認識のズレであった。43年9 月、戦局が悪化するなかで卒業を迎えるこの少年は、校友会誌の記事「卒業を前にして友へ」でこう呟く。

 

 君、死ぬ事は一番やさしいよ。殊に大君の為、国の為に死ぬ事は最もたやすいよ。只如何に生きぬくか、国家の為に如何に生きぬくか、それが一番難しいだらう。僕達は死んではいけない(中略)僕達は僕達の学業に対してもつとはつきりした自信を抱き、もつと熱烈な理想と必死の努力とをそれにかけていゝのぢやないだらうか。*13

 

 戦争で十分な勉学を果たせなかったことへの後悔と生きぬくことの決意は、後に教育者となる大坪少年にとって精神的な出発点となった。この強烈な戦争経験は同時に、老いては歴史家となる彼にとっての原点ともなる。

 大坪は学園史を書くとき、書き手としての当事者意識を明らかにしている。歴史家は実証に徹すべきで自らの政治的立場の表明には禁欲的でなければならぬという格率を、彼もまた共有していたが、それでも自らの立場性に敢えて立ち入ったのが、「『君が代』の歌と『武蔵の式』のこと」(2000年)である。日本での国旗・国歌の法制化をめぐる議論が盛り上がるところから話を起こし、戦後の卒業式では国歌斉唱が消滅していたが、その復活の是非をめぐって校内で論争があったことが語られる。大坪が武蔵に着任した翌年の1951年、文部大臣の天野貞祐が「国民実践要領」を作成し、戦後の精神的荒廃に対して道徳教育の強化を訴えた。この「天野談話」が教育面での「反動」として左翼陣営や進歩的知識人たちから猛烈な批判を浴びたことは知られているが、大坪もまた批判側の立場から同時代を描いている。創立30周年(52年)からは天野大臣の来校もひとつの引き金となり、卒業式での国歌斉唱が復活する。その方針を保持させた中心人物として槍玉に上がるのが、内田泉之助教頭(1892~1979)である。この開校以来の最年長者であった漢文教授は、山本の理念に忠実な保守派であり「かなり強面で、とかくの異義は認めなかった」が、若手教員にとって「この『逆コース』は快いものではなかった」と大坪は回想している。しかし内田退職後の67 年以降の卒業式では武蔵讃歌のみが歌われることになり、その後も学園関係者や生徒から復活を望む声があったが、結局は国歌斉唱はその後も行われなかった*14。

 ここにはまず、「個人として『日の丸・君が代』を支持しない立場をとる」と述べる大坪の戦後民主主義への強いこだわりが見られる。戦時中のど真ん中に高等学校で、戦後の混乱期に大学で過ごした大坪にとって「二度と過ちを繰り返さぬ」という意志は、この時代を過ごした多くの者と同様、身体に刻み込まれたものであったに違いない。次に興味深いのが、テキストにおける大坪と内田との敵対関係である。内田は山本の信頼を最も受けた教員であり、戦後は『晁水先生遺稿』の編集に中心的役割を果たし、その続編の序文に彼の人格について「之を仰げばいよゝ引用者注:いよ)高く、これを鑽(き)ればいよゝ堅い」*15と記した。いわば彼は、戦後における山本と日本帝国の精神の守護者であった。これに対し、明治憲法体制の破綻を受け止めて新制時代に相応しい精神を創ろうという改革者たらんとした大坪は、彼岸には山本、此岸には内田という二人の超克すべき目標を抱えていたのである。旧制武蔵の負の遺産を直視していた彼は、スパルタ教育や厳罰主義ではなく自律的な思考をじっくり育てる教育方針を取り、そして国家主義を相対化できるような広範な視野を育む機会を生徒たちに与えようと努めた。例えば、日本の受験戦争と詰め込み方式の過激化に警鐘を鳴らし、第二外国語学習の促進と国外研修制度の確立に力を尽くした。そうした点も含め、大坪に山本神話の解体を可能にしたのは、史料批判という研究手法だけでなく、戦後を生きぬいた彼自身の歴史意識であったと考えられる。

 だが、大坪が戦後民主主義に忠実であったがゆえの限界も存在した。それは概して言えば、戦後の視点から戦前の精神を一括りにして外在的に批判・拒絶するという傾向、また評価するにしても戦後の価値に合うように修正して解釈するという傾向である。

 例えば、大坪は上記のエッセイで、昭和30年代に学内で「君が代」復活論が唱えられた時、教員たちは「私立学校の私的行事論」でこれに対抗したと述べている。もとは国語科教員だった三木孝が提案した「武蔵は私立学校、入学式や卒業式は家庭での祝い事に類似の私的な行事だから、それに『国歌』はなじまない」という論理は「学校が君が代を禁止するのはおかしい」という生徒からの反発への抵抗にも用いられたという。「公私」の区分を根拠に学園内での「公的なもの」を拒否するというそれ自体はしかし、山本にも共有されていたことは見落とされる。彼は1939 年の紀元節講話で、日本の民族文化を象徴する行事は江戸時代に比べて、現在では廃れてしまったとして、例えば紀元節には神武天皇にちなんだ人形や食べ物を設け、各家庭で肇国の日を祝い、その理念を生活のなかで共有し、民族意識を高めるべきであると主張している*16。実際に武蔵は元旦には式を行わずに、1 月8 日に年賀式を行っていた。国家(公)と個人(私)の目標を分離させる大坪とこれらを統合させる山本とは、イデオロギーの面では正反対であるが、「公的行事」に「私的団体」が関与しないという方針自体は共有している。つまり、山本にとっては忠君愛国の理念に基づいていた以上の論理は、戦後の文脈で換骨奪胎された上で、学園に「公」を持ち込まない、つまり国歌を拒否する方便として利用されたわけである。

 大坪は以上の論理を「私立学校を盾にとった」逃げ道であるとしつつも、地元住民の税金で支えられる公立学校にも適用できるはずだとさえ主張している。もしそうだとすれば、究極的には各個人が主権者として国民自らを統治することになっている日本国憲法下において「公」の論理はどこに働く余地を残すのだろうか。大坪はこれに明瞭な見解を示していないが、これに対して山本の「私」の論理は、「家族」から「団体」を経て「民族」へと徳を通じてつながっていくという共同体観を土台にした。我々は政治哲学を論じるつもりはないが、「公的なるもの」への学園の関わり方が戦前・戦後で実は継続してしまっているという点について大坪が十分に総括していないことは明らかである。

 次に、大坪は戦後的な価値観に合うように山本の行動を解釈しようとするあまり、その理念の内在的な把握に失敗している。例えば、「御真影と奉安殿 旧制武蔵高等学校の場合」(2001年)は、旧制武蔵はある時期まで御真影も奉安殿も設置しない方針をとっていたという話を皮切りに、山本の国家との関係を論じている。そうした方針を山本の「個性」を国家に対する「反骨伝説」とする言説を括弧に入れ、大坪は自らの研究に基づき、彼が三理想の成立や学校成立の過程を学園史にまとめる際に意図的な記述・編集を施していることを指摘し、さらに陸軍や文部省高官との密接な関係に着目することで「反軍」や「反官僚」の像を脱色している。ここまでは山本の国家主義への批判を貫く大坪らしいキレのある叙述である。しかし、1920 年前後から僅か数年間で「国の状勢は一挙に超国家主義の方向に動き始めていた」と述べるくだりから叙述が怪しい。さらに、二・二六事件(1936年)の犠牲者に武蔵生の父親であった渡辺錠太郎陸軍教育総監が含まれていたことに山本が衝撃を受けたのではないかと推測し、これを転機として彼の反軍・反官僚(文部省)の傾向が一気に強まり、対英米開戦後は「戦局への憂慮と軍人嫌いとが山本校長の気持ちの中で重なって、驚くほど過激な反発につながったのではなかろうか」と仮定する*17。大坪は1942 年4 月に起きた御真影問題をめぐる山本と文部省官僚・陸軍軍人の大喧嘩をエピソードとして挙げるが、以上の議論は憶測に憶測を重ねたもので説得力に欠ける。

 山本が晩年には立場を変えて国家主義に対する「反骨者」に転じたという議論は、第3節で論じたとおり、「日支事変」や「大東亜戦争」開戦後、日本の「世界史的使命」に対する山本の期待が強まったことを考えれば、再考を要する。確かに、武蔵が奉安殿を置かなかったのは、根津嘉一郎など明治をはじめから知る財界人には「大正から昭和にかけて天皇を神格化し超国家主義、軍国主義の道を歩み始めたこの国の状勢を批判的に見ていた人物」が多かったからだと述べる大坪は、なるほど、明治世代の大正世代に対する違和感そのものには気づいてはいる。しかし、山本の明治人としての論理において、「國體」(伝統的な生活と精神に基づいた皇室を軸とする民族文化)という目的への忠誠と「国制」(集権的なシステムに基づく統治機構)という手段をめぐる異論は両立する。つまり、陸軍の軍事行動の個々のやり方には反対しても、日本の対外行動には全体的に賛成することは可能である。この精神を十分に汲み取れなかった大坪は、「忠君愛国」の理想とその支柱としての「歴史観」教育の実践に死ぬまで固執しつづけた山本の思想的な一貫性を捉え損ねたのである。

 勿論、大坪が学園の歴史を担う正統な後継者として、「建校の父」の権威を完全に葬り去るのではなく、その可能性を救いとらざるを得ない立場にあったことは認めよう。けれども、大坪は国家(公)と個人(私)を対立項で捉える戦後的な社会観に囚われたため、山本にとって不可分なはずの「国家主義」と「自由主義」を無理に分断して解釈してしまった。結局、大坪の実証的な努力とその名声に支えられる形で、山本=武蔵の「反骨精神」なるものは―1936年の「転向」という伝説を援軍に―「リベラル」な校風を裏づける強力な神話となり、21 世紀に入っても機能することになる。

 武蔵という場で神話の破壊者にして歴史の創世者たらんと努め、両方の仕事を自分なりに済ませた大坪の晩年は、穏やかな収穫の秋であった。2011 年8 月には学園史研究が反映された『武蔵九十年のあゆみ』の刊行を祝い、2012 年6 月には国外研修制度でドイツ・オーストリアに派遣された(元)生徒たちやドイツ語教員との懇親会を楽しんだ*18。あの敗戦から70年目の2015年11月15 日、新しい武蔵を創った「ラディカル・リベラリスト」はついに冥府へと旅立った*19。翌年2 月の「お別れ会」では、長い土砂降りが大講堂に無数の雨音を響かせるなか、500人以上の「大坪チルドレン」たちが師の学恩を偲んだ。

おわりに

 武蔵のキャンパスには大きな欅の木が立っている。学園の象徴ともなったオオケヤキは開校以来、1 世紀に渡って教師や学徒たちを見守りつづけている。けれども「建学の父」の薫りは今やすっかり薄れてしまったように見える。

 1993 年、西田幾多郎の孫であり、旧制武蔵で教育を受け(16 期理科)、その後は新制武蔵高校・中学で物理や数学を教えた上田久は『山本良吉先生伝』を刊行した。本書は、対象の著作を読み込み、多くの同時代史料を検討し、抑制された筆致で山本の教育者としての生涯を初めて包括的に描いた優れた評伝である。それが呼び水になったのか、『同窓会会報』では3 年連続(93~95年)で山本や「武蔵らしさ」を扱う特集が組まれた*20。そこには山本のテキストの引用や旧制出身者たちの回想が収録されたが、現在確認できる限りでは、これが山本「と」武蔵をめぐる声の群れが見られる最後の機会であった。

 2010 年代以降、受験教育への批判から塾・予備校業界と距離をとっていた武蔵高中は、次第にそれまでの方針を修正し、対外発信に力を入れるようになった。そこでは、建学の三理想がブランドの史的根拠として強力に作用する。教育ジャーナリストのおおたとしまさは、綿密な取材を通して、武蔵の理念と実践を他に類を見ないものだと賞賛するが、その歴史理解には、かつての神話の影がうっすらと見られる。旧制武蔵は「特権に守られ、受験競争とは無縁の、真のエリート教育」を行いつつも、御真影や奉安殿を置かず、小冊子『国体の本義』も無視するなど「体制に与しない気骨も稜々だった」とする*21。それはまさしく、大坪が破壊しようとしたが、内在的な検討を徹底しなかったために、逆に強めてしまった「リベラルな抵抗者」としての山本像である。結局、彼の抵抗の事実だけが「自由の校風」の根拠として切り取られ、抵抗の理念としての帝国・皇室への忠誠心は葬られてしまったのだ。

 以上、山本「と」武蔵を結ぶ糸を近代以来の歴史的世界のなかで洗い直してきたが、そこから浮き上がるのは、「武蔵的なるもの」が「日本帝国的なるもの」の生成・転換・崩壊・復活のサイクルのなかで様々な語りをなしたということである。だからといって全ては仮構の言説だったのだと切り捨てることはしない。教育勅語の理念への奉仕を誓った山本と、それに徹底して反対した大坪は、政治的立場は正反対であるにもかかわらず、両者の歴史(観)を語る言葉は、明日の世界を担う強い主体性をいかに育むかという近代教育の根源的な問いに真摯に応答し、また学校教育という場で実際に作動したからである。

 では、山本という存在を〈ここ・いま〉の視座からどう考え直せるだろうか。20 世紀の経験を経た我々にとって、山本の民族主義や国家主義を批判ぬきで扱うことなどできないし、理性を備えた強い主体を前提とする人間観も、数ある近代主義批判を前に修正を余儀なくされるだろう。山本(や大坪)の理念を歴史的文脈から離して評価するのは極めて難しい。例えば、武蔵の三理想を「全球化globalization」の時代に「自律的思考」でもって対応できる個人を目指すことなどと読み替えるのは、それこそ山本の盲目的な伝統破壊への批判や、大坪の価値の画一化への警戒を水に流しかねない安易な行為である*22。

 それでも、なんとかして山本の遺産を拾い上げようとすれば、そこに「型」への拘りがあることに気づく。思想家の唐木順三は戦後まもなく、近代日本の知のあり方を「型の喪失」と総括した。明治初期生まれの知識人は伝統的な形式を守ったが、明治20 年代以降の世代は個性と自由を求める。前者(修養派)は「あれかこれか」と一冊の古典を熟読し、素読や坐禅などの身体実践を通じて知を身体に刻むのに対し、後者(教養派)は「あれもこれも」と多くの書を乱読し、内面世界での思索を通じて知と戯れる。昭和に入ると教養派は、強い型を擁するマルクス主義と帝国陸軍の席巻に対抗できず、やがて軍国主義の一人勝ちになってしまった*23。以上を補助線にすると、山本が武蔵で伝えようとした知のあり方の意味も、それに生徒たちが反発した理由も明快となる。山本は、生徒自身が「筋肉」を動かすことにこだわり、選ばれた古典(古文・漢文)を精読させ、自らもまた老年に至るまで謡曲に親しんだ。そして何のために教育の「自主」や「自由」があるかを自分なりに考え抜いた結果、大正という脱「型式」の時代風潮を横目に、明治の精神を徹底的に肯定したのだった。その方針が「個人」の自律を求める新世代の生徒たちの反発を生むのは必然であったが、山本の「ラディカルな反動性」は堅固な「型」を備えていたからこそ、左右の「全体主義」という新興の「型」に対して―「リベラル」な歴史観の想定とは逆のベクトルではあるが―叛逆しつづけられたと考えてよかろう。

 今世紀に入って加速するIT 革命と情報爆発、価値多元化のなか、もはや古典どころか一冊の新書さえまともに読めず、身体的な知の感覚を働かせる機会をほとんど失った我々にとって、残された唯一の規範とは、いかなる「型」からも脱して「自由に」(市場経済の再生産のために!)生きよという、見えざる「メタな型」である。機械翻訳もウィキペディアも使える新世紀に、敢えて漢文を暗唱させたり、原史料に耽溺させたり、英語以外の語学を習得させたりする教育は「反時代的」と目されるかもしれない。だが、少なくとも、画一的な「メタな型」を照らし出し、相対化するという目的に限るのであれば、自己と世界の具体的なつながりを「筋肉」を通じて「自ら調べ自ら考える力」は新たな可能性をもつのではなかろうか。「晁水」山本良吉の遺産は、我々に大きな問いを残している。

 

(後記)

 本文に登場する史料は、読みやすさのために一部を常用漢字に改めて引用した。現代の観点で不適切と思われる表現であっても、同時代の雰囲気を伝えるためにそのまま引用した。武蔵の卒業生については旧制は「◯期文・理科」、新制は「◯期」と記した。

国外研修生との懇親会における大坪秀二氏(写真中央)。この日が教え子たちの前に現れた最後となった。写真前列左より福田泰二氏(元校長、30 期)、大坪氏、ドイツ語担当のビルギッタ矢島講師、池谷洋子講師、光野正幸武蔵大学教授。
【註】
  1. 「故山本校長追悼会」(武蔵高等学校報国団『武蔵』第49号(1943年3 月))14~20頁。山本は日本の伝統的にあった尺貫法の保存を擁護し、それを破壊するメートル法をトップダウンで導入することに対して徹底して反対した。関係する論文として、山本良吉「メートル制の再判」(『東洋文化』第109 号(1933年7 月))12~18頁。同「メートル法強行について再説明」(『東洋文化』第113 号(1933年11 月))13~22頁。同「メートル法問題と官僚と内閣」(『東洋文化』第123号(1934年9 月))12~19頁。ほか多数あり。
  2. 川崎明編『晁水先生遺稿 続編』(山本先生記念会、1966年)606頁。
  3. 同上、618頁。
  4. 同上、750 頁。岩田雄二(15 期文科、当時は大日本紡績綿布課長)の発言。
  5. 同上、712~713頁。
  6. 同上、713~716頁。
  7. 同上、794~797頁。ここで鈴木が「まあ、ワンマンじゃありませんけれどね」と場を和ませる言葉を挿んでいる点も興味深い。
  8. 同上、817~819頁。
  9. 大坪の経歴は次を参照。大坪秀二著・大坪秀二遺稿集刊行委員会編『大坪秀二遺稿集』(武蔵エンタープライズ、2017年)503~504頁。
  10. 大坪秀二「武蔵七十年史余話(その三)野球禁止考」(同上『大坪秀二遺稿集』に所収)166~171 頁。初出は、『武蔵高等学校同窓会会報』第42号(1999年11 月)。
  11. 大坪秀二「武蔵七十年史余話 三理想の成立過程を追う」(同上『大坪秀二遺稿集』に所収)155~159頁。初出は『武蔵高等学校同窓会会報』第39号(1997年11 月)。
  12. 同上『大坪秀二遺稿集』283頁。
  13. 同上『大坪秀二遺稿集』8 頁。初出は『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第50号(1944年1 月)。
  14. 大坪秀二「「君が代」の歌と「武蔵の式」のこと」(同上『大坪秀二遺稿集』に所収)176~180 頁。初出は、『武蔵高等学校同窓会会報』第43号(2000年11 月)。
  15. 内田泉之助「序」(川崎明編『晁水先生遺稿 続編』)1 頁。
  16. 山本校長「紀元節講話」(武蔵高等学校『校友会誌』第39号(1939年7 月)巻末1~3 頁。
  17. 大坪秀二「御真影と奉安殿 旧制武蔵高等学校の場合」(同上『大坪秀二遺稿集』に所収)181~188頁。初出は『武蔵高等学校同窓会会報』第44号(2001年11 月)。
  18. 「武蔵高等学校国外研修ドイツ・オーストリア派遣生懇親会」は2012 年6 月30日午後に当時の図書館棟1 階で開催された。武蔵で教鞭を取り続けて退職を迎えた池谷洋子講師の長年の仕事をねぎらう場でもあった本会には、63 期から86 期までの30人あまりの(元)派遣生が参加した。本論著者の吉川(高校84期・2010年ヴィーン派遣生)もその一人であった。本論中に、「国外研修生OB会」(2014 年8 月30日開催)で撮影された一枚の集合写真が掲載されている。最晩年の大坪は、自ら育てた国際交流事業を担ってきた子供たちと同志たちに囲まれ、杖を両手にもち、静かに微笑みながらも力強い視線を保っている。
  19. 根津育英会理事(2022年4 月現在)を務める植村泰佳(高校45 期)は、『大坪秀二遺稿集』刊行委員長として、かつてその教えを受けた大坪を「自由」「平等」「博愛」という近代の徳目を「原理的」に思考・実践した「ラディカル・リベラリスト」と称している。植村泰佳「大坪時代」(前掲『大坪秀二遺稿集』507頁)。
  20. 『武蔵高等学校同窓会会報』第35号(1993年11 月)~第37 号(1995 年11 月)の特別企画のタイトルは「武蔵と山本良吉先生」「武蔵らしさと山本良吉先生」「武蔵らしさとはなにか」であった。
  21. おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社、2017 年)5 頁。なお「一二歳で武蔵に合格すれば、ほぼそのまま無選抜で帝国大学に入学できる特権が得られた」という記述は不正確である。旧制高校から帝国大学への進学は原則、無試験とされていたが、大正期に中等教育を受ける人数が激増したため、1922 年から各帝国大学は進学者に統一試験を課している。特に東京帝大といった人気大学、法学部や医学部など人気学部には多くの高校生が殺到した。なお、1927~40 年のデータによれば、最難関校の東京帝大法学部への合格率は、武蔵が第一高等学校を抑えて首位であり、同大医学部への合格率も50%を越えている。旧制武蔵と受験戦争の相性は抜群であったようだ。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(講談社、2011年)132~141頁。
  22. ここまでの議論が明らかにした通り、山本が生徒たちに強く求めたのは「国際主義inter-nationalism」であって「普遍主義universalism」ではない。「国民nation」を前提とする「国際性」という概念は、「国民国家」が経年劣化を迎える今、練り直される必要があるのは確かだが、一方で「全球化globalism」の急進的拡張が、あらゆる面での不平等や格差を人類史上類を見ないレベルでもたらしているのは間違いない。日本の受験教育において東大を頂点とする「大学偏差値ランキング」が、英米名門大学を頂点とする「世界大学ランキング」へと取って代わられ、「グローバル人材」の名の下に、人間の評価軸がますます画一化する日も決して遠くはない。世界と個人とその「あいだ」で我々はいかに生きていくべきか。山本や大坪たち「と」武蔵のつながりに眠る「歴史の教訓」はまだまだ多い。
  23. 唐木順三「現代史への試み:型と個性と実存」(『唐木順三ライブラリーⅠ 現代史への試み 喪失の時代』(中央公論新社、2011年))。初出は『現代史への試み』(筑摩書房、1949 年)。
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