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通史編

本扉

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年表

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本扉

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夫が愛した「武蔵大学」(菅又里美)

【編者注:この稿における「夫」とは、武蔵大学第27 回生として、1979 年に経済学部経営学科を卒業され、「ミスター武蔵」と呼ばれた菅又佳郎氏のことである。氏は2009 年10月に逝去されたが、今回の百年史刊行にあたって、奥様の菅又里美様から以下の文章を寄稿いただいた。ここに記して御礼申し上げる次第である。】

 夫が亡くなって5 年経った2014 年の夏、武蔵大学同窓会栃木県支部総会にお誘いを受け、出席させていただきました。同窓生でもない私に「菅又君に代わって特別会員ですよ」と、皆さんが優しくお声をかけてくださるのが本当に有り難かったです。そこでの東武鉄道取締役の坂巻伸昭氏の「東京スカイツリープロジェクトについて」熱く語る講演は、この栃木支部会の立ち上げから事務局をしていた彼がいたら、どんなにか喜んだことだろうと思いながら聴き入りました。

 当時の日記を見るとその日のことを「独特の世界観をもっていて、これほど母校に生きている人を私は知らない」と私は書いていて、それは彼が亡くなるまで変わりませんでした。この日がなければ彼と一緒になることはなかったのですが、ここに至るまでにさらに伏線がありました。卒業後は栃木に帰って就職することしか考えていなかったようで、武蔵大学の大先輩が経営する上野商事に入りました。同じ大学の卒業生ということで採用していただけたんだろうと思います。ほんの数年の勤務でしたが、当時商売をしていた私の実家に月1 回営業に来ていたのです。私は高校生で何も知りませんでしたが、両親と彼はお互いに人柄を知り合った関係でした。彼が武蔵大学に入らなければ、きっと出会うことはなかったでしょう。そう思うとつくづく縁を感じます。その後彼は保険会社を立ち上げ、会社名も「武蔵保険事務所」とします。どれほど大学が好きなのかと思います。

 出会って2 ヶ月後、私は初めて彼と武蔵大学に行きました。ケヤキの緑がとても美しく、校内には小さな「濯川」が流れていて都内とは思えないような自然を感じる大学というのが第一印象でした。大学を卒業して10年以上が経つのに「武蔵大学で僕を知らない人はもぐり」と。吹いていると思いましたが、守衛さんが「菅又さん」と声をかけてきたので驚き、大学職員のように学生生活課をはじめ各校舎を詳しく案内してくれました。親友の山田さんや大久保さんをはじめ大学職員の皆さんの笑顔に出会いました。正門を後にするときには「なんてアットホームな大学なんだろう」と思ったことを鮮明に覚えています。帰りに「ランプ」で優しそうなママさんから学生や同窓生の話を伺っていたら、卒業してもここに通う気持ちがわかるような気がしました。

 彼と出会ってから何度もドライブをしましたが、大きな川を見ると川岸に行って対岸にまで届くような声で武蔵大学讃歌を歌うのが常でした。学ランでも着ているつもりかのようにエールまで切るのです。初めて渡良瀬川で聞いたときは唖然としましたが、あまりに堂々と歌うので思わず拍手をしてしまい、彼にとってはそれが私を選ぶ決め手になったようです。彼との20 年の人生で武蔵大学讃歌を何度聞いたかしれません。嬉しいときも、辛いときも歌うので、私は自分の母校の校歌すら覚えていませんが、武蔵大学讃歌は3 番まで歌えます。

 元号が昭和から平成に変わった1989 年の1 月に結婚式をあげ、彼が日頃から大切にしている方々を200 人からご招待し、祝福していただきました。翌日新婚旅行に出発しましたが、バブルのあの時代、日本で手に入らないものは何もないという感覚がありました。

 そこで二人が考えたのは「世界の東京」に新婚旅行しようという発想でした。自分達がまだ経験していない、大相撲を桝席で観る、歌舞伎を桟敷席で観る、はとバスの夜の花魁コースに着物で参加する、ゴッホのひまわりを観る、根津美術館に行く、帝国ホテル、ホテルオークラに泊まる等々、1 週間東京を満喫する贅沢な旅行でした。その旅行の最初の目的地が武蔵大学でした。前日ご出席いただいた先生方の研究室を次々訪ねては、どうして今ここに来ているんだと驚かれ、新婚旅行だと話してさらに驚かれ、昨日のご出席のお礼を伝えると皆さんようやく笑みをこぼされていました。

 新婚旅行は東京でしたが、その夏からの20年、毎年夏と冬に海外旅行をしました。イスタンブールに行ったとき、「東西文化融合の……」とつぶやくので、聞いてみると武蔵大学建学の三理想「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、世界に雄飛するにたえる人物、自ら調べ自ら考える力ある人物」と、ボスポラス海峡に向かって叫んでくれました。そのために海外旅行をしていたわけではありませんが、彼の理想の人物像であったのかもしれません。

 結婚してからは彼と一緒に何度も武蔵大学を訪れました。「武蔵の日(平成6 年3 月4日)」では、アナウンサーの村松真貴子さんや柔道の山口香さんにお目にかかり、その2 ヶ月後の武蔵丸の講演会にも聴きに行きました。武蔵大学に行くことで、なかなかお会いすることのできない方々との貴重な機会をたくさん得ることができました。「武蔵サミット」では大学にも行きましたが、「第二回武蔵サミット」で私にとっては初の九州、大分県の武蔵町に行ったこともいい思い出です。数ある日本の地名で「武蔵」はここだけということも初めて知り、驚きました。

 50 周年の式典やゼミの石原先生の講義など彼一人で武蔵大学に行くこともありましたが、毎年文化の日には江古田で同級生と待ち合わせて小平霊園に行っていました。在学中に亡くなった同級生の六川さんのお墓参りです。私も一度連れていってもらったことがありますが、お線香を手向けた後は、近くのお店で一杯やるのが楽しみだったようです。近況を伝え合いながら、同級生ならではの楽しい酒を酌み交わしていました。

 2009 年6 月に恒例の栃木支部会を開く段取りをして、当日は懇親会までいつもと何ら変わらず楽しんでいたので、同年の10 月3日に亡くなったときは多くの方々を本当に驚かせ、悲しませてしまいました。葬儀で大好きな武蔵大学讃歌を流すことが遺言の一つでもありましたから、しめやかに流させていただきました。

 翌年の2 月には同窓会栃木県支部会の皆さんが「ミスター武蔵・菅又佳郎さんを偲ぶ会」を開いてくださいましたし、同級生や石原ゼミの方々が墓参りに足を運んでくださったり、恩師や友人からたくさんのお便りもいただきました。彼が日頃「人は宝」と言って、交友関係をとても大事にしていたからこそと思いました。

夫の心のどこかにはいつも武蔵大学があり、武蔵大学に染まった人でしたが、彼は武蔵大学に全てに染まりたかったんだろうとさえ思える昨今です。今回思いがけない依頼で拙い文を書かせていただきましたが、在学中から夫を慕ってくれて、彼が亡くなった後も変わらない誠実さで「里美先輩」と気にかけてくれる大学職員の小倉宇思さんには感謝しています。

武蔵大学賛歌「朝霧深き」 作詞者の斉藤忠三、作曲者の柴田丈夫・森住佐一郎の三名とも武蔵大学の卒業生である。
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