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第3章 人文学部創設と2学部体制の展開(1969-1991年)
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1965(昭和40)年4 月、理事長山本為三郎(翌年2 月に急逝)の要請によって、吉野学長に代わって正田建次郎が第3 代学長に就任した。世界的な数学者として知られ、大阪大学総長として、基礎工学部を創設するという輝かしい業績と経歴を備えた人物を武蔵に迎えることについては、教授会に異論はなかった。ようやく単学部複学科の大学へと成長したとはいえ、似通った校風をもつ学習院、成蹊、成城の各大学では学部、学科の数を増やし、施設の充実に努めていて、本学の立ち遅れが目立っていたから、その意味で大学関係者にとっては、新学長の行政手腕への期待が極めて大であった。
正田学長はこうした期待に応えるように、意欲的に学園の発展に取り組むと同時に、それまで判然としなかった学園の中での大学と高校・中学のあり方について一定のルールを作り上げ、理事会が学校経営の主体であることを明確にした。代表的な仕事としては、本館(現3 号館)に置かれていた高校・中学の教室・施設を濯川の南側に新築した校舎に移転し、本館の建物全体を大学専用としてキャンパスの中心に置いて、大学関係者の長年の悲願を叶えたこと、また、人文学部の創設という大事業に取り組み、単学部から複学部への移行を図り総合大学の実現に向かって大きく前進させたことなどがあげられる*。
正田学長は学者、研究者としての過去の栄光ある経歴にこだわらず、教職員の全てに対等かつ人間的な接触を求めて、教授会のメンバーと年齢別に対話し、大学の将来を構想する参考とした。また、教職員のコンパには進んで参加し、隔てなく盃を交わし談笑し合うのが常で、穏和な学長であった。学生に対しても同様で、敵対関係にあった学生活動家からも敬愛されていた。
(注)本百年史『主題編』に収録されている、「正田構想実現の十年間を回想する」も参照されたい。
1965(昭和40)年に就任した正田建次郎学長には、当初から学園活性化の期待がかかっていた。翌年2 月、山本理事長が急逝した。新学長が就任した4 月に発足した学園協議会では、まず学園の将来計画の策定に取り組んだ。その計画の核心にあったのが複学部構想であった。6 月には、学長による3 学部構想が教授会に表明された。既設の経済学部に理学部・教養学部(仮称)を加えて3 学部の体制とするというものである。この教養学部という仮称にも、総合的な学部増設への意向が明らかである。経済学部教授会は審議してこれを認め、早急にその具体化を図るべきであるとした。
1967年9 月には、小林中(あたる)理事長、根津嘉一郎(2 代)副理事長、正田学長らによる会談が行われ、「経済学部に加えて人文系学部、理学系学部を増設するが、差し当たり人文系学部を1969 年度に設置する」という、学園としての方針の大枠が確定した。この学部増設計画は11 月からは学園創立50 周年記念事業の一環をなすものとして位置付けられた。ちなみに同事業の大綱を示すと、
である。これに付随して、大学、高校・中学の体育館建設、朝霞グラウンドの整備、学生会館建設なども加わった。
1940 年9 月、陸軍に強制的に買い上げられ、敗戦後米軍に接収されていた根津育英会理事長の埼玉県朝霞市の所有地4 万6,368 坪が、1964 年に国に返還されることになった。1957(昭和32)年10 月の理事会で、この朝霞の土地の払い下げを大蔵省に申請することが決まった。経営学科の増設が論じられていた折でもあり、この直後の経営懇談会では二つの問題がからみ合わせられて論じられていた。しかし学科増設は急務であり、早期の結着を目指したのに対して、朝霞の土地についての交渉は別途時間をかけた大蔵省との交渉となった。
1961年6 月、大蔵省国有財産関東地方審議会で2 万2,464坪(7万4,261.5㎡)の払い下げが承認された。以前の全所有地の約半分である。関東財務局浦和財務部に最終利用計画を提出する運びとなったが利用方法によって払い下げ価格が異なった。
12 月5 日の経営懇談会で、根津専務理事から、当初の利用計画を改めて、グラウンドとしての利用計画を提出したいとの発言があったが、審議の結果、6 月に払い下げ承認を受けたときのまま「大学を朝霞に移転するということで申請書を作成する」という方針が了承された(根津専務理事は大学の朝霞移転を困難と見ていた)。1964 年2 月、上記の方針通り国有地売買契約が締結され現実に移転の可能性が検討されるが、朝霞の立地条件は、大学にとっても高校・中学にとっても、移転を容認させるものとはならなかった。
その中で状況変化があった。隣接している自衛隊用地にホーク・ミサイル基地ができるという報道がなされ、朝霞校地を学生の校舎として整備するのは適当ではないということとなった。そこで1967 年1 月、理事長、副理事長、専務理事、学長の会議により、「ホーク・ミサイル基地設置決定により現在の払い下げ地は運動場に用途変更」という結論に至った。
そして1969年5 月、「大学及び高中の綜合運動場敷地」として売買契約を一部変更し、用途変更によって払い下げ価格は当初の契約の2.2 倍の2 億5,800 万円となった。この資金は環状7 号線西側の飛び地を順次売却することと、一部は私学振興財団からの借入金で賄われた。売却地の中には大学の第一学寮(旧外国人教師宿舎・第4 章で記述)もあり、1970年9 月に売却されたが、12月には朝霞に新学寮が合宿所とともに開設された。朝霞校地(朝霞キャンパス)の利用についてはまだ問題があった。正田学長は、大学体育館を朝霞に建て正課の体育授業をそちらで行いたいという強い意向を示していた。体格に差のある大学生と中学生が渾然と同一のグラウンドを使用するには無理があり、当然その間に調整が必要となる。その対策として大学のグラウンドを朝霞に移すというのであった。しかし、大学としては主として移動の手段および移動に要する時間などの点から、正課の体育授業の一部を朝霞で行うのは不可能であった。高校・中学との調整を十分に行うという要望を残して、結局は正田学長が折れた。大学体育館を江古田校地(江古田キャンパス)に置くことを最終的に決定したのは1968年4 月のことであった。
かくして正課の体育授業は江古田でこれまで通り行われることになった(1985年度からは土曜日のみ、正課としての体育授業の一部を朝霞校地で行った)が、朝霞のグラウンドは引き続き課外活動ため整地前の諸種の整備が行われ、1968 年11 月には整備が完了し、翌年6 月からは大学バスが運行されて校地として活用されるようになった。
1967(昭和42)年11 月30 日の教授会では、高津(こうづ) 春繁(はるしげ)東京大学教授が学部長に内定したことが報告されている(正式に武蔵大学教授となったのは翌年4 月から)。同時に、新学部設置委員会の組織として、以下のメンバーが発表された。
正田学長は、これ以前から辻、桂の両教授と相談していたとされ、年明けの教授会には名称が「人文学部」に決まった旨の報告がされている。『武蔵大学人文学部 十年のあゆみ』(人文学部編1980 年刊)には、学部の名称が決まったのは1967 年12 月初旬とあり、また、翌年2 月に正田学長、高津教授を囲んで辻直四郎、桂寿一、朱牟田夏雄、上野景福らが集まり、学内者も交えて意見交換をした、とある。正田学長は独自の人脈を活かして学外からも英知を集める労を惜しまなかった。
学科構成については、数多くの案が検討されたが、1968 年9月19 日の第1 回準備教授会では欧米文化学科・日本文化学科・社会学科の3 学科構成になった。その後約30 年間続く人文学部3 学科の構成がこの時点で固まったのである。
同年度には具体的な実務を進めるため、設立準備常任委員として高津学部長候補のもとに田崎、平井(卓)、森(五)、久山、大竹、上野(正)、杉本の7 名が指名された(後に学外から着任予定の神田教授も参加)。このメンバーでカリキュラム編成、図書購入をはじめ学部設置関連の山積する問題を処理し、申請からさらに開講準備までに至った。
1969(昭和44)年4 月に開設された人文学部の初代学部長高津春繁教授は、新学部構想時に作成していた文章をもとに、学生に向けて「人文学部の構成理念」を起草した。以下にその全文を掲げる。
高津春繁「人文学部の構成理念」:
人文学は、ローマのキケロの言うhumanitas、即ち人間形成のための諸々の知識とその正しい応用という考えにもとづいて、文芸復興期に興ったlitterae humaniores に発している。それは文学、歴史、思想はもとより、広く芸術全般、それらを培い育てる社会そのものの把握を加えて織り成された高い叡知を求める学問なのである。人文学部はこのような基本理念に立ちながら、広い視野をもった人間を育成することを目的としているが、これは一方において方法論的にも欠くことのできない基盤を研究者に与える。
欧米文化学科と日本文化学科で、あえて哲、史、文の垣根を除いて、文化の名を付したのは、一つの社会の一つの文化的な現象を理解し研究するには、これだけを社会という構造体から切り離して理解することは不可能であって、まずその社会のもつ文化を綜合的かつ立体的に捉える必要があるからである。例えば日本の現代の文学を理解研究するためには、その背後にある現代の日本を広く全般的に知っていなくてはならない。川端康成の『伊豆の踊り子』を理解するためには、川端の立っている日本の古くからの物の考え方、感受性は言うに及ばず、あの小説の舞台となった南伊豆の情景、温泉宿、当時の一高生の社会的な位置、流し流して歩く旅芸人の姿や習慣、当時の人々の暮らし方など、すべてを知っていなくてはならない。
これは文学だけが孤立して研究の対象とはなり得ないことを意味する。一つの社会の中の現象を理解するためには、その歴史、伝統、物の考え方、芸術、それに日常の生活及びそれに関連する諸々の事柄を知っていなくてはならない。かつて十九世紀の偉大な古典学者ベックが言ったように、その社会に関する百科辞書的な知識、少なくとも同じ時代のその社会の構成員が経験的にもっているのに近いものを身につけることが肝要である。
欧米文化学科や日本文化学科で、このような文化の諸現象を綜合的に学生諸君に学んでもらおうとしているのは、一つには以上の理由からであるが、これはまた一方では、すでに述べたように、全人的な教養の基盤となるのである。専門の授業や講義のほかに、共通科目と称する場を設け、ここに歴史、文学、思想、芸術、社会に関する色々な領域の講義を投入したのは、学生諸君に一方に偏しない知識を与えるとともに、一つの文化を細分せず、一体となった姿で捉えてもらうためである。研究者はこのような広い、片よらない知識で研究方法を知った後に、さらに専門的に文学や歴史その他の方面に狭く深く踏み入って行くことによって、数段と有利な立場に立つことができる。
欧米文化学科という一学科を設けて、あえて英独仏の三学科に細別しなかったのも、やはり同様な理由からである。古典時代以来のヨーロッパの文化は、ギリシア・ローマの文化とキリスト教思想の二つの枠の中で形成されてきた。ヨーロッパの諸言語は、ハンガリア、フィンランド、エストニア、トルコ、バスクの言語以外は、すべて同じインド・ヨーロッパ語族に属し、スラヴ語もゲルマン語もロマンス語もケルト語もギリシア語も、今から数千年前に存在したと思われる或る一つの言語から分化して生まれたものである。それだから、現在では相互に理解できなくなってはいるけれども、元来は一つの言語であったから、広い意味で互いに方言の関係にあり、互いにこの系統の言語を習得するのは、全く系統の異なる言語を母語とする日本人がヨーロッパ語を習うのとは比較にならないほどやさしいのである。このように近い言語をもっている多くの民族が二千年に近い間キリスト教とギリシア・ローマの伝統の中で、相互に交わりつつ、比較的に狭い、アジアの半島とも言うべきヨーロッパという一つの坩堝の中で育ってきたのであるから、ヨーロッパの文化と人間とは、言わば一つのものの変種とも言うべきものである。それゆえヨーロッパ文化の代表的な担い手たる英仏独の三民族の文化も、これを別々に切り離すことはできない。その三つの文学にしても、これらは別々に発達してきたものではなく、その各々の文学の研究者も当然他の文学を知らなくては、かつギリシア・ローマの文学を知らなくては、自己の専攻の文学を真に理解することは難しいであろう。
このように考えると、いま一つの学科である社会学科、即ち人間の個人としての活動ではなくて、集団としての人間の動きを捉えようとする学問を行う学科の必要性が自ずから明らかとなるであろう。集団としての人間の動き、また集団内の個人の活動と集団との関係の研究は、未だ一歩を踏み出したにすぎないと言わざるをえないけれども、如何なる個人的な活動もその背後の社会と無縁ではない。不特定多数の人間が、各々個人としては異なりながらも、一つの方向性をもって動く有様は、その実体は言うに及ばず、如何なる論理に基づいて動くのかも興味深い問題であって、今後に期待するところ最も大きい学問の分野の一つであり、その成果は社会に、文化に関係ある諸々の学問研究に影響するところ最も大きいものがある。
新しい学部は、また語学を重視する。言語の所有は、言うまでもなく、人間の人間たる所以の根底であり、社会の基盤を成すもので、社会は言語なしには存在しえない。また社会の伝統、考え方その他あらゆる面が言語を媒体としている。そのために、或る社会の文化の理解や研究は、その社会の言語を知らずしては行うことはできない。日本文化についても同じであって、日本の過去と現代の言語を十分に理解する能力なしには、日本文化の如何なる面の研究も不可能である。しかも言語の理解のためには、その言語が使用されている社会のあらゆる面を知っていなくてはならない。言語は常にその言語が表すものとの関連において発達し、使用されるものであるから、社会を理解するために言語が必要なのと同じく、言語理解のためにはその背後にあるものを知っていなくてはならないのである。
人文学部には演習という制度が設けられているが、これは学生諸君が単に知識としての学問を身につけるだけでは十分ではなく、大切なのは、むしろそのような知識が如何にして産み出されるか、そのための資料と、これを如何に処理するかの手続き、その方法と理解を自ら体験することによって、その結果たる知識や学説を理解批判し、その上で自ら新しい疑問をもって新分野を開拓し、既存の資料をも自ら批判判断して処理しうる能力を養うにあるからである。これによって大学は最も有能な知識人を形成して、単に学者、研究者としてのみならず、一般の社会人としても優秀な人材を世に送り出しうるのであって、これこそ大学の大切な使命である。(終)
高津学部長は、人文学部の全学年が揃うのを待たず1972(昭和47)年秋に病に倒れ、その後間もなく死去したが、この「人文学部の構成理念」はその後も、人文学部の基本理念を示すものとして受け継がれてきた。旧来のアカデミズムの枠を超えて、「社会のもつ文化を綜合的かつ立体的に捉える」ことを通して高度な全人格的な教養を身につけた人物の育成を目指したのである。
この基本理念に基づいて人文学部のカリキュラムが編成されたが、その特色の第一は共通専門科目にあった。これは欧米文化学科の3 専攻、さらに日本文化学科、社会学科を横に結ぶ共通の専門科目であり、各学科・専攻がその主体性を維持しながらも、相互に有機的な関連のなかで、研究教育活動をなしうるきわめて斬新な措置であった。これによって1 年次より学生は、関連領域へのある程度開かれた視野のもとに、それぞれの専門知識を学ぶ機会を得ることになった。他方、他学科の専門科目の内容を持った講義を一般教育の単位に読み替えうることとして、形骸化しつつあった新制大学の教養教育の実質の保証を目指した。
特色の第二は、演習重視と、それを支える学科・専攻研究室の開設であった。人文学部の演習重視のカリキュラムは、経済学部の全学ゼミナール制の伝統とも合致して、武蔵大学の教育の特色の一翼を担うこととなった。学生はそれぞれの学科・専攻の研究室に所属し、各学科専攻の開設する複数の演習に参加しなければならないこととされた。研究室においては、教員と学生と研究資料とが常に密接に結び付けられ、同時にここで行われる演習形式による研究方法の指導と資料処理能力の開発とは、人文学部の教育理念を実現するための極めて有力な手段であった。1981 年、新図書館棟の完成とともに、3 号館にあった5 研究室は新図書館棟3 階に人文学部総合研究室(1998年以降は人文学部・社会学部総合研究室)として統合されたが、引続き演習重視の方針は変わりなく、新たな総合研究室の運営について模索が続けられた。
第三に、文化を考える基礎としての語学教育を重視した。欧米文化学科では第1、第2 外国語それぞれ12 単位、日本文化学科では第1 外国語8 単位、第2 外国語10 単位、社会学科では第1外国語12 単位、第2 外国語10 単位を必修とした。さらに欧米文化学科では1971 年度より、ドイツ語・フランス語を第1 外国語とするクラスについては、1 年次に第1 外国語12 単位を課して集中的に語学力を高める措置がとられた。
他に共通科目の中に第3 外国語としてラテン語・ギリシャ語・中国語・スペイン語・ロシア語・イタリア語・ドイツ語・フランス語を置いた(第2 外国語として、1991年からは中国語が日本文化学科・社会学科に、1996 年からは朝鮮語が日本文化学科に加えられた)。
なお、外国語の必修単位数は、1996 年以降のカリキュラム改訂のなかで各学科ともに減少し、欧米文化学科英米専攻は18 単位、ドイツ専攻・フランス専攻は各20 単位、日本文化学科は12単位、比較文化学科は16 単位となったが、必修以外に自由に選択できるカリキュラムとなった。
カリキュラムについては、学部完成から間もない1974 年以降、カリキュラム検討委員会において学部創設の理念をより有効に実現することを目指して検討が続けられた。1980 年3 月の委員会報告をもって基本方針が固まり、以後実施委員会の手で共通専門科目が整理されるとともに、各学科においてもカリキュラムの検討・改訂が行われた。欧米文化学科では、1984 年に英米文化専攻がアメリカ人専任教員を採用したのを皮切りに各専攻がそれぞれの母語話者を専任に加えた。
1988 年改訂のカリキュラムでは、1 年次の語学クラスと2 年次以後の専攻とを原則的に固定して、専攻コースの専門性を高めるとともに語学教育の充実を図った。また、卒業論文または卒業演習を必修として、個々の学生の1 年次の語学から卒業までの学修を自覚的・系統的なものにしようとした。
1989年改訂の社会学科のカリキュラムでは3、4 年次の演習を継続とし、卒業研究レポートを全員に課すこととした。1991 年、日本文化学科は、専任教員全員が1 年次のための基礎演習を開講し、それを選択必修とした。創設当初から卒業論文を必修として最重要視してきた姿勢をいっそう徹底させようとしたものである。
学部創設時の学生入学定員は、欧米文化学科100 名(1987 年度より150 名)、日本文化学科50名(1973 年度より100 名)、社会学科100 名であったが、実質としては欧米文化学科4 クラス、日本文化学科3 クラス、社会学科3 クラスが、語学・体育クラス編成の基準として、学部完成以降長く続いていた。
経済学部の2 学科体制が整備されると同時に、大学の独自性の充実、研究体制強化のためにも大学院を設置したいという気運が高まった。これを背景に、経済学部は大学院の設置を提案し、1966(昭和41)年5 月に山口経済学部長を中心に大学院設置のための調査を主とする大学院問題検討委員会を設置して、翌年2 月には「大学院問題報告書」をとりまとめ、4 月には藤塚経済学部長を中心に、学部長経験者および教務委員長に法人事務局を加えた「大学院準備委員会」を設立した。そして同年秋には大学院設置に確信が得られたとして「学園創立50周年記念事業」の一環として、1969年度の大学院開設を目途に準備を進めていくこととなる。
大学院準備委員会は1968 年3 月時点では、修士課程と博士課程の同時申請を考えていたが、当時、大学院は修士課程2 年、博士課程3 年のいわゆる2 段階制度であったため、この年の11 月に文部省に設置申請を行うときには、経済学研究科経済学専攻の修士課程設置の申請に落ち着いた。
1969 年3 月には設置認可がおり、講義および演習担当の教授14 名、原典担当の教授4 名、非常勤講師4 名によって、経済理論および経済史系、経済政策系、財政金融政策系、ならびに経営および会計系の四つの系の講義を行っていくこととなった。ただし、開始年度には設置認可後に学生を募集したこともあって優秀な応募者を得られず、入学試験に合格者がなく、結局、開講は事実上翌1970 年度からとなった。1972 年3 月、修士課程修了者2名に、初めての経済学修士(武蔵大学)の学位が授与された。
その後、1975 年2~3 月には「大学院設置基準改正に伴う大学院規則の一部改正」および「学位規則の一部改正」があり、それによって本学経済学研究科は同年4 月から、前期(修士)2 年、後期3 年の2 課程からなる5 年制の博士課程に改変され、今日に至っている。またこの年の9 月には「研究者一覧」(博士前期課程在籍者3 名、後期課程在籍者6 名)を初めて作成し、各研究機関に紹介した。1986 年3 月には、いわゆる課程博士として、経済学博士(武蔵大学)第1 号が誕生し、これによって大学院経済学研究科のオートノミーが名実共に確立した。
1991年10月には文部省令に基づき、学位名称が経済学修士(武蔵大学)は修士(経済学)に、また経済学博士(武蔵大学)は博士(経済学)に変更。翌年3 月には本学大学院修了者によるいわゆる論文博士第1 号が、博士(経済学)第1 号として授与された。
1960 年代の後半、ベトナム戦争が本格化していく過程で、欧米各国において、また日本においても、従来のいわゆる「左翼的政治運動」には見られない形の新しい政治運動が、既成の「左翼的権威」と対決する形で登場してきた。日本では「70年安保粉砕」をスローガンとして全国の大学を拠点に吹きまくったいわゆる全共闘運動が、それにあたるとみてよい。
1968(昭和43)年、日大全共闘の大学封鎖、神田駿河台の路上のバリケード封鎖、さらに東大安田講堂の学生による占拠、あるいは国際反戦統一行動の名で行われた新宿動乱など、世間の耳目をそばだてたそれらの過激な運動は、武蔵大学にも少なからぬ影響を与えたといえる。
1969 年から71 年にかけて、武蔵大学にも学園紛争の嵐が吹き荒れ、その度に大衆団交、バリケード・ストライキ、大学封鎖が何度か繰り返された。混乱が随所に起こり、時間が空しく浪費されたが、その度に教師と学生との我慢強い対話と時間をかけた交渉により、ストライキが解かれ、封鎖が解除された。
警察機動隊による武蔵大学学生の封鎖排除という事態は、少なくともこの時期には行われることはなかった。教育活動の小さな場であるゼミや演習などで培われた教師と学生との信頼関係が、なお維持されていたとみることができるかもしれない。しかし全国的な運動の激化と全共闘運動におけるセクトの対立の激化、そして全共闘運動自体の解体と募る暴力的傾向は、本学にも少なからぬ影響を及ぼした。1972 年の武蔵学園50 周年は、ほぼその初期にあたっていた。
1972(昭和47)年は武蔵学園創立50周年を祝う年であった。学園としてはそのための記念事業を何年も前から準備していた。一つは学部増設による大学の拡充であり、もう一つは大学、高校・中学の校舎や体育館の増築や改築、それと大学の朝霞校地の整備拡充などであった。
最初に着手されたのは朝霞キャンパスの整備であった。既述したように武蔵学園全体が移転するという当初の構想は実現不可能となったため、朝霞の土地は大学運動部専用のグラウンドとして整備され、1968年11月に完成した。
江古田キャンパスについては、1969年3 月に高校・中学の新校舎が落成し、それまで高校・中学で使用していた旧校舎は、大学の新しい人文学部の校舎及び研究室として手直しされ、大学3 号館となった。さらに翌年1 月には大学体育館及び学生との交渉で難航していた学生会館も新築された。あわせて高校・中学の体育館、プール、生徒集会所も落成し、その年の末には、朝霞に合宿所と学生寮が新設された。このようにして学園創立50 周年記念事業としての整備の拡充計画は、江古田キャンパス及び朝霞キャンパスの双方において一応の完成を見たのである。新学部の発足や大学院の設置など、大学の内容の充実と合わせた施設の拡充によって、江古田キャンパスはその外貌を一変させることとなった。
1969 年の人文学部の設置は、武蔵大学の発展にとって画期的なものであった。優れた教員の参画と学生の増加によって、大学に大きな活気が生まれ、将来への期待も高まった。しかし大学の拡大は、学園全体で必ずしも歓迎されたわけではなかった。人文学部の設置によって旧制高校以来の本校舎を大学が使用することをめぐって根強い対立があり、その結果、学内を流れる濯(すすぎ)川を境にして大学と高校、中学が校地の使用を分けることとなった。そして事実上、高校・中学はそれまでの古い校舎を大学に譲る代わりに、新しい校舎をその機会に建てることになった。
ともあれ、50 周年を迎えるまでには高校・中学の新しい校舎が建ち、大学と高校・中学それぞれの体育館が作られ、大学、高校・中学の運動場の整備や高校・中学のプール、生徒集会場、それに大学の学生会館などが建設された。大学にとってはやっと一人前の体裁が整ったという状況であった。その時期の収支計算書を見ると、統一会計基準がなかったためか記念行事の収入に通常予算の経常費に入れられるべきものが含まれており、その他4 億円余の借り入れ金でようやく収支が賄われているのが分かる。これが学園にとって、とくに大学にとって後々までの大きな負担となった。
学園創立50 周年の記念募金がどのように使われ、またそれが経常の予算とどのような関係にあったかは、今となっては必ずしも定かではない。当時の学校会計は、大学と高校・中学の分離計算も明示的な形では行われていなかった。大学の学費値上げをめぐって学生が一様に不信感を大学と法人に対して持ったのはその点であった。武蔵学園が学校法人会計基準にしたがって経理を始めたのは1972年からである。
学校法人根津育英会は学園創立50 周年記念事業として、かなり早くから募金計画を進めていた。桜田武理事を代表とする募金世話人会が設けられ活動を開始したのは1968 年である。しかし、経済環境も悪く、景気の低迷が続き、募金の状況は思わしくなかった。それでも関連法人をはじめ、多くの企業や保護者、卒業生など個人の協力を得て、数億円の募金が集まり、新しい施設の建設資金の足しにされたが、もちろんそれだけで資金調達が十分であったわけではない。結局は学生の納付金に頼らざるを得なかったのである。募金の内容、建設計画、資金計画のいずれをとっても当時は十分な情報開示が行われているとは言い難かった。当時、学内の情報は学内関係者にも均整には伝わっていなかったといわれる。
そうした事実の推移の中で開催されたのが50 周年の式典であったが、学生活動家にとっては恰好の粉砕対象と映ったようである。式典が行われていた新しい大学の体育館の外ではヘルメットを被った数十名の学生が、鉄パイプを持って集まり怒号を繰り返していた。役職者を除くほとんどの教職員が警備に動員されていたが、学生活動家はその教職員の抵抗を何度も振り払い、扉を打ち破って式場内に乱入したのである。さいわい式典は終了して列席者は裏口から退出した直後であり、乱入した学生の大半は他大学の学生であったが、本学の責任は免れられるものではない。『武蔵大学五十年史』(注1)は、「武蔵大学にとって誠に恥ずべき出来事であった」と記述している。
1965(昭和40)年頃より高度経済成長、特に列島改造ブームに伴うインフレーション、それに2 度にわたるオイルショックの影響で、学園の経営は慢性的な赤字体質となり、学生納付金(以下、学費という)の改訂・値上げを繰り返さざるを得なくなっていた。1965年度に入学金4 万円、維持費3 万円、施設費2 万円(以上は入学時のみ)、授業料7 万5,000 円であった学費は1968 年度の改訂を経て、1971年度には入学金6 万円、維持費8 万円、施設費1万円、授業料14 万円となった。そこへ1973 年、第4 次中東戦争を契機とする第1 次石油ショックによる狂乱物価が襲った。その影響で、人件費を例にとってみれば、1975 年度(予算)までの3年度間に86%増となり、帰属収入に対しては1972 年度72.7%から1975年度(予算)90.2%の高率に達した。その他の要因も合わせると、累積赤字は1975 年度の予算上、学園収入12 億5,000 万円に対して5 億円近い水準まで膨脹が予測された。
こうした本学の経営困難の実状について学生に理解を求めるため、正田学園長は1975年秋に「学校法人会計基準の構造 昭和49 年度決算の状況 昭和50 年度予算の説明」と題する文書を10月24 日付けで全学生に郵送し、続いてこれに関わる説明会が大講堂で行われた。
これらの措置は学園財政の現況を詳細に公表するという性格のものであり、また学費値上げ必至という共通認識は広く学生間に存在はしていたが、その値上げ幅の巨大さまでは想像されていなかったためもあり、学生の受け止め方は比較的冷静であった。
とはいえ、自治会活動家を中心とする一部学生は激発し、値上げ問題を先取りする形の「学生部長団交」が連夜にわたるようになった。そこで対学生信義の問題から、不必要な秘密主義の結果としての抜き打ち的値上げ発表は避けたいという立場の学生部発案で、「学費値上げ検討中内容は成案を得次第発表する」という趣旨の大学公示を11月7 日付けで掲出した。
この公示案決裁の直後、学園長制創設と学長公選制により同年4 月に学長に就任していた鈴木武雄が、くも膜下出血のため学長室で倒れ、12月26日に逝去した。
この前後、学園長の決断で入学金30 万円(維持費、設備費は廃止)、授業料28万円とする倍額値上げの方針が、学園長指定範囲の幹部教職員に内達された。これは現行では四大学中第4 位であった学費が、値上げ後は第2 位に位置付けられる額を意味した。さっそく、学園長の命により、学長統裁の下、学生向けの説明書「学園財政収支の分析と学費改訂について」(分量61ページ)、「学費問題について」(分量18ページ)が作成され、11月17日付けで全学生に郵送された。
上記の文書「学費問題について」の目的・内容は、まず学費を入学志願・入学許可という形をとる「付合契約」によって提供される大学の諸活動における受益者負担として捉え、そうすることによって私学経営における学生の基本的位置付けを確認し、その上で学費問題に関する学生の発言の場を大学としてどう設定するかを明示するものであった。しかし「発言の場」としての最大の問題は「大衆団交」をどう認識するかにある。もとより、学費は学生との交渉で決められるものではない。それに、大衆団交が値上げ撤回要求の場となるのが明白である以上、これに代えて大学として用意できるのは、学生から寄せられる意見や主張に対して書面回答の形で理解を求めることである。この文章にはその方針が明示された。
一方、学費の設定は経営問題であるとはいえ、学則に明示されなければならないので、教授会も関与せざるをえない。鈴木学長は教授会で値上げ案を発表する予定の、まさにその日、急病で倒れたが、各学部長の代行によりこの案は了承された。その上で、諸々の問題処理は11 月29 日選出の岡学長代行に委ねられたのである。学費値上げについては教授会レベルでも種々の疑義や意見が出されはしたが、いずれも対案として提出・検討されるまでには至らず、学内的手続き処理を終え、3 月、根津育英会理事会で議決され、学費値上げが承認された。
(注1)本百年史『資料編』に収録されている。
1960 年代の全国的な大学紛争激化の流れの中で、武蔵大学でも1969(昭和44)年には学園本部のあった講堂棟(現大講堂)の学生による占拠封鎖などが再三生じた。1970 年から翌年にかけては、授業料値上げをめぐって10 回を超える団交が行われた。これらの折にはともかく対話といえる状況が保たれたのであるが、それでも、毎回全教員が平均6 時間に及ぶ大衆団交に出席し、日常的な学問教育からは遠いところで多大な労力が費やされ、かつ学年末試験の実施が危ぶまれるような局面もあった。しかも1972年の学園創立50周年記念式典には、既述のように、ヘルメットに鉄パイプの学生たちが、制止する教職員を排除して式場に乱入する出来事があった。
そのような中で1975年を迎えた。すでにこの年の入学生の受験料は倍額値上げされており、授業料の大幅な値上げは当然予想されていた。入学式の4 月10 日に配布された全学自治会名のビラは、「教育学園闘争の戦列へ学費値上げ阻止」というものであり、授業料問題を契機に時代の潮流に乗って学園闘争の波を高めようという意図が明白であった。すでに前年度末から、代議員も正式に選べない自治会を全学生の代表組織とは認めないとする学生部長と、全学自治会は激しく対立していた。やがてそれが、「大衆団交実現」「値上げ白紙撤回」を主張し続ける全学自治会、団交実現全学実行委員会(以下、団実委という)と大衆団交を拒否し続ける学生部長との対立として明白化する。もちろん大衆団交拒否は、1970年の経験を踏まえた執行部の基本方針であり、教授会もこれを支持していた。そして大衆団交に代えて、全学生に郵送文書によって大学の考えるところを伝えるという方式が、学生部長により、以後の紛争期間を通じて徹底的に押し進められた。この対応を、当事者学生は大学側の分断工作と受け止めて憤激した。
秋になると、学生部長と全学自治会との学費値上げを巡る交渉は熾烈の度を増し、11 月7 日、「学費値上げ検討中」という学園長の公示が掲示されると、事態は一挙に険悪化した。公示直後、自治会グループは入構した学園長の乗用車を取り囲んで交渉を迫った。学園長は自身の健康を考慮して、代表とならばという条件付きで話し合いを了承せざるを得なかった。
これが、一連の紛争における教員に対する身体拘束の始まりである。以後一週間ほどの間に、浅羽経済学部長は入院し、石原学生部長、日南田人文学部長は救急車で運ばれた。いずれも、ときには翌日にまで及ぶ、罵詈雑言を交えた長時間の交渉の疲労のためである。日南田人文学部長が救急車で運ばれた折には、学部長退席の後もなお、蛭川学生部次長が翌日の午後1 時半まで忍耐強く応対を続けた。学生の望むまま続ければ、話し合いは20 時間にも及んだという典型例である。
1975 年11 月16 日、代々木オリンピック記念青少年センターで開かれた全学教授会(以後年度末まで、教授会が学内で開かれることは稀であった)で、教授会は授業料値上げを承認し、19日には学費値上げの説明文書が全学生宛に発送された。それが到着した21 日午後、酒井人文学部教務委員長ら2 名の教員が正門前で2 時間に及ぶいわゆる吊るし上げを受けたこともあった。事態が緊迫の度を加える中で、学生部長名の全学生宛文書の郵送、大衆団交要求の署名運動などの応酬が続いていた。
12 月12 日早朝、大衆団交を要求して正門が封鎖され、同日夕刻の代議員大会で無期限ストライキが宣せられた。封鎖解除を求める大学側と大衆団交実現を目指す団実委との水面下を含む折衝の中で、大学主催の説明集会を開くという方向が生まれてきた。12月26日から翌年1 月8 日までは一時的に封鎖解除。1 月10日、教員集団は体を張って団実委の検問ラインを突破して入構した。結局週明けの12 日、全学自治会はビラを配布してストライキの一時解除を表明した。この後は、大学の説明会を大衆団交に転化させようとする学生側と大学との駆け引きが続いたのである。
1976 年1 月21 日午後1 時、大学主催の説明会が教員議長団の司会のもとに大講堂で開催された。岡学長代行による1 時間余の説明の後、質問票を受け付けて質問者の補足説明を受け入れ、学長代行がこれに回答した。この間、一部学生の不規則発言に対する司会者の厳しい制止は会場の拍手で支えられ、学長代行の説明に真摯に耳を傾ける学生も多かった。過激な一部学生を相手にせずとして文書によって全学生に事態の認識を求め続けた学生部長の方針は、一定の成果を上げていたのである。
午後7 時半過ぎ司会者が終会を宣言すると、大衆団交へのなだれ込みを意図して質問もせず力を蓄えていた団実委は激怒したが、終会宣言と同時に学長代行以下執行部は会場を脱出していたので大事には至らなかった。そして24 日、全学自治会執行委の名でストライキ解除の声明が発せられ、この日から学年末試験が始まった。
退廃的なカンニングのすすめ闘争やハンストなどあったが、ともかく学年末試験は終わった。しかし、この間に阻止委(学費値上げ阻止委員会)などが入学試験を標的とする反発の態度を示しており、大学側もこれへの対策を立てていた。試験第1 日、ハンドマイクによる妨害行為が行われたが、特に阻止委は試験時間中の1 号館に突入を図り、大学側は教員に軽傷者を出しながらこれを防いだ。その夕刻、大学は残る入試期間中のロックアウトを宣告し、学外退去に応じないで最後まで学生会館に立てこもっていた9 名の学生が、大学の要請で学内に進入した練馬警察署の警察官によって逮捕された。これらの学生については処分が検討されたが、教授会の意見一致を見ないまま、学生部長以下の任期切れもあっていわば立ち消えになった。
学生運動は、1976年度は、福本久雄学生部長以下の努力によって前年度に比べれば平穏に推移した。しかし翌1977 年度には白雉祭を巡って再び紛争となった。
文連(文化団体連合会)系学生を中心とする第25回白雉祭実行委員会は、白雉祭を「大学形成を支える最も重要な活動」と位置付け、327 万8,000 円にのぼる援助金の提供、準備・後片付け日数の増加とその期間中の休講措置、白雉祭期間を通じての教室・施設の全面開放、142 教室(1 号館4 階の中教室)の固定机を取り外し移動させるなどの要求を突き付け、学生部長室で長時間にわたり罵詈雑言を交えての交渉を繰り返した。事態は2 年前の、学費の倍額値上げをめぐる闘争時に酷似した様相を呈した。
白雉祭は全学を挙げての学生自治活動の一環として開催される恒例の行事であり、大学側も無論その意義を十分に理解し、毎年、援助金を提供して協力してきた。1977 年度、第25 回白雉祭への援助額は前年度実績の15%増で52 万円を計上し、さらに父兄会からの援助金15 万円を加算して67 万円を見込んでいた(この額は他大学での大学祭や文化祭などへの援助額と比較しても決して低くはない。援助金なしのケースさえある)。学生たちの途方もない巨額な援助金要求に対しては、最初から検討の余地はなかった。また、白雉祭期間中でも大学院の授業は行われており、大学運営に支障をきたさないように平常の事務活動も続けられている。したがって、講師たちの私物を置いてある講師室をはじめ、教室、事務室、会議室などを全て開放するわけにはいかない。期間中の休講日数は従来通り3 日とした。
こうした大学側の態度を不服とした学生たちは10 月6 日、話し合いを大衆団交の形で行う意図があることを立看板やビラなどで急遽表明した。これに対して翌日、福本学生部長は実行委員長はじめ数名の学生を学生部に招き、話し合いに応じる条件として、同席する学生数は5 名以内とし、罵詈雑言を慎み、2 時間を限度とする趣旨の確認のための文書を手渡した。すると激昂した学生の一人が学生部長の腕に手をかけたが、学生部長はこれを振りきって学外に脱出した。
以後、話し合いの条件が受け入れられるまで学生部長は学内に入らず、白雉祭実行の実務折衝ができなくなったことに困惑した白雉祭実行委員会は、四大学運動競技大会の大会副委員長として成城大学に出向いていた学生部長に面会を強要するという挙に出た。そして成城大学学生部の制止を無視して来賓室に入り込み、1 時間余にわたり混乱させたのである。
この暴走的行為が広く一般学生からも顰蹙を買うところとなり、実行委は学生部長の条件を受け入れざるを得なかったが、その後に、話し合いでの合意事項の一つを無視して、142 教室の固定机を取り外し復元しないという違約を行った。一方で、大学は学生処分の検討に入り、12 月14 日、教授会は、1972 年の50 周年記念式典乱入時にも1976 年の入学試験場突入時にも見送った学生処分をついに決定した。懲戒処分対象行為とされたのは以下の4 点であった。
結局、処分は無期停学2 名、停学3 か月3 名、戒告3 名の計8名であった。すると処分反対闘争が起こり、年度末の入学試験は混乱を避けるためにロックアウト体勢で行われた。そして夜間に塀を越えようとした3 名の学生が練馬署に逮捕されるなどした。
福本久雄学生部長は任期終了を前に、先に第25 回白雉祭実行委に提示した話し合いの条件(学生諸団体が学生部との折衝を求める折は、学生代表5 名、2 時間以内の平穏な話し合いであること)を表示し、「来訪者確認票」として制度化した。これに署名した学生団体とのみ交渉に応じるというルールである。
以後、歴代学生部長は就任当初にまず活動家グループから「懲戒処分撤回」と「来訪者確認票廃止」の要求を突き付けられるのが常だったが、忍耐強く大学の基本姿勢を崩すことなく対応しながら、本来の学生との対話を実現させるための努力を続けた。加えて、学生運動も1980 年代になるとようやく終息に向かい、その結果「来訪者確認票」制度は数年を経ずして自然消滅となった。なお、自治会は2000年6 月に、学生総会で解体された。
高津初代人文学部長は、人文学部創設当初からその完成年度には大学院の併設を構想していた。そこで、学部開設3 年目の1971(昭和46)年4 月には、教授会に大学院の設置についての検討を要請し、その時すでに、次年度に大学院設置のための臨時図書費を計上することについて正田学長の同意を取り付けていた。人文学部という先例のない学部を運営するには通常より遥かに大きな労力を要し、それに加えて大学院を置いた場合、学部の教育が疎かになりはしないかと危惧する声もあったが、それに対しては、現在の大学教育は学部だけでは不充分であり、少なくとも修士課程まで置くことが望ましいという結論を得た。具体的な目安として、例えば優秀な高校教員の養成を考えることとした。また、文化学科の上に語学文学の大学院を置くについても抵抗があったが、正田学長は、完成すれば専攻名称にとらわれず自由にやればよいという考えを示した。
大学院設置委員会が発足し、順調に準備が進んで、3 月には大学院設置が大学協議会に報告され、理事会でも承認された。研究科の構成は英語英文学専攻、フランス語フランス文学専攻、ドイツ語ドイツ文学専攻、それに日本語日本文学専攻を加えた4 専攻からなる大学院でスタートすることになった。
大学院人文科学研究科は1973 年度から予定通りスタートした。語学文学専攻の特殊講義、演習が十分に置かれているのは勿論であるが、関連科目として歴史、思想史、民俗学などの講座もあり、その分野を専攻する学生も受け入れた。指導できる教授がいる限りどんな科目でも自由に研究できた。人文科学研究ということで、文学の概念を広義に解したのである。大学院の講義演習は責任担当時間(ノルマ)以外で受け持つという申し合わせで出発した。学部教育にかける労力を低下させないためである。
修士課程より先の学問を志す者のなかには、初めから博士課程のある他大学の大学院に進む目的の者もおり、また、指導教授がそのように指導する場合もあった。一方、本学の修士課程を修了して他大学の博士課程に進み、その後、研究者として活躍している者もいる。
特記すべきは、四大学間での単位互換協定である。大学院がスタートしたばかりの1973 年6 月、四大学学長・学部長懇談会の席上、大学院の単位互換が話題になり、成蹊大学を世話人として検討することになった。武蔵の上野景福研究科委員長は積極的であった。しかし、学習院はすでに他大学と単位互換を行っているので直ぐには参加が難しく、成城は条件整わず、結局は成蹊と武蔵とでまず始めることとなり、年度末の3 月に調印、1974 年度から実施され、その後2 年ごとに契約を更新して現在に至っている(1998年度からは成城大学大学院も加わっている)。
正田建次郎が学長に就任してから10 年後の1975(昭和50)年、学園長制度の新設とともに正田学長は学園長となり、大学のみの学長として新たに公選の学長(任期は4 年)が置かれることになった。
学長についてはそれまで法人が直接任命していたので、この新制度は極めて大きな改革であった。問題は構成員の数が著しく異なる二つの学部からどのようにして学長を選ぶかであり、それが公選制度実施の大きな障害となった。しかしその問題は全員投票で選ばれた複数の候補者のなかから、両学部から世代別に同数選出された代議員が話し合いによって最終的な候補者を絞り込むという方法で解決した。
そしてこのような選挙の結果、鈴木武雄が同年4 月、新制度による初代公選学長に決まった。武蔵大学の創立に際して初代の学部長として苦労した鈴木は、1957 年に武蔵大学を辞任して東京大学に移籍したが、同大学を定年後、1962 年、再び武蔵大学教授に就任していた。
鈴木は大学紛争の激化する最中に学長に就任したが、その時期は同時に学費の大幅な値上げを余儀なくされていた時期でもあった。鈴木学長は学内の衆知を集めて学費値上げのための準備の仕事に没頭したが、学長就任後わずか半年余の1975(昭和50)年11月、くも膜下出血のため学長室で倒れ、入院治療の甲斐無く12月に死去した。学費値上げを巡り学生運動が激化していた最中である。鈴木学長を病院に見舞った正田学園長が学園に戻ると、蜂起中の学生たちにたちまち包囲監禁されるというアクシデントが起こる状況であった。
結局、経済学部教授の岡茂男が急遽学長代理を務めることとなり、翌年の選挙で学長に選出された。岡学長の就任早々の仕事は、一部学生による入試妨害行為に対応して、大学をロックアウトすると共に、学生会館に立てこもる学生を警察力によって強制的に排除することであった。
学内の紛争は絶え間なく続いていたが、その間も武蔵大学の発展が忘れられていたわけではない。新しい施設の拡充は急務で、施設の整備は法人の責任であるという理念に立つ正田学園長の指導力によってできた武蔵学園後援会も、その後ろ盾になることが期待されていた。正田学園長と岡学長との話し合いはすでに行われていたが、1977年3 月、正田学園長の急逝によって、その計画は頓挫してしまった。正田学園長の突然の死は学園に大きな衝撃を与え、一つの時代の終わりと感じた人も多かったといわれる。
急逝した正田学園長の新しい建設事業構想は1 年間、学園長を代行した岡学長の手で温められ、次の太田学園長の時代に具体化する運びになった。
学園創立50 周年記念事業の完成によって既設の1~3 号館の他に、大学体育館、学生会館が新設され、研究棟、図書館棟が増改築されて江古田キャンパスの景観は一変した。また朝霞グラウンドは大学専用となり、朝霞学生寮も建設され、さらに1975(昭和50)年4 月には正田学長の発議で学園長と公選の学長という制度に移行し、ようやく大学としての形を整えた。しかしこの間、1973 年には大学院に人文科学研究科も新設され、また学生数も漸増し、さらなる設備の充実が必要となった。
1975 年5 月29 日の大学協議会では、鈴木新学長から新たな大学事務機構についての提案がなされ承認されるが、その折、前図書館長の神田教授(人文学部)から「図書館、研究棟及び中講堂並びに教室などの新築検討について、……建設検討委員会(仮称)を発足させてもらいたい」旨の発言があり、学長からは「このことについては各棟の問題等併せて検討の時間を得たい」との回答があった。これが新たな「正田構想」の発端となる。しかし同年12 月に鈴木学長が逝去し、岡学長代理(翌年2 月、学長に就任)へと受け継がれていく。
「正田構想」では、場合によっては学費の大幅値上げの必要も生じるが、それは経常的支出に充当し、建物などの固定的経費は募金等を含む別途の方法で学校法人が賄うという学園経営についての原則も含まれていた。そしてこの年の12 月、武蔵学園後援会が植村甲午郎会長、大河内一男副会長の体制の下で発足した。
学内は、学費値上げ問題をも含めたいわゆる「大学問題」紛争の最中にあった。1976年の入学試験は新設された学事課の下での、本学にとっては初めての両学部統一、全学入試体制による実施であり、一部学生による大学封鎖とその排除の中で行われた。
1976 年の夏、両学部長と図書館長は学園長をその山荘に訪ねて図書館拡張等の必要を訴えた。年末(12月21日)には正田学園長は岡学長、大坪校長、浅羽および日南田両学部長、伊能図書館長に中村専務理事を加えた「学園将来の計画の会」を開き、軽井沢青山寮の移転問題等と共に大学の図書館、研究室、学生食堂等の増改築案を内容とする「新施設建設計画」について最初の話し合いを持った。翌1977 年3 月18 日には第2 回目の会合が開かれ最初の「計画」(図面)が提示されるが、その直後(3 月20日)、正田学園長は急逝したのであった。
この「計画」は、岡学長(学園長事務取扱兼務)の下で継承され、1978年3 月には「建設計画の今後の方針」(概略)が整い、4 月、太田博太郎新学園長の着任により「計画」の実行は本格的な段階を迎えることとなる。すなわち学園長はこの「計画」を長期的な視野の下に推進するために、7 月、太田学園長、中村専務理事、岡学長および西山、伊能(翌年から富岡)両学部長、大谷図書館長等に、内田祥哉東大工学部教授などの建築専門家と学園事務局を加えた施設会議を設置し、江古田キャンパス再構成のマスタープラン(基本構想)を、翌1979年3 月にまず完成させた。そして、そこには大学の将来像(いわゆる「教養大学」「質的充実による事実上の総合大学」「少数教育の充実」「建学の三理想の具体化」等)としての「正田構想」と共に、江古田校地について3 号館を中心に、東側および西側にそれぞれメインロードを設けて、東側を教育、中央を研究と教育、西側を学生生活の3 地区に区分し、各地区を再開発する、という構想が含まれていた。
施設整備拡充計画はこのような基本構想を前提に、差し当たっては東側に学生食堂と中講堂棟、東南側に教授研究棟、中央南側に図書館棟の建設、それに加えて既存建物の改修という規模に落ち着いた。この規模は、しかし1977年当初の「正田構想」のおよそ2 倍に及び、実現のためには私学振興財団等からの借り入れに大きく依存する結果となった。その点ではこの「計画」は学園経営についての「正田構想」の撤廃へと連なったが、法人理事会の指南番であった桜田理事の同意もあって、スムーズに理事会の承認を得た。そして1979 年4 月には学内に建設委員会が設けられ、設計チームによって9 月末には基本設計が完了、共同溝工事に次いで10 月には第1 期の東側、中講堂棟建設に着手する手筈が整えられた。
前述のように建設委員会の下で建築専門家集団によって基本設計がまとめられ、中講堂棟、図書館棟(エネルギーセンターを含む)、教授研究棟の建設、ならびに既存建物の改修が決定された。種々な意見も出された。しかし結局、現在のような位置に中講堂棟、図書館棟、教授研究棟が建てられることとなった。
とはいえ、特に図書館棟、教授研究棟の建設は既存の建物からの移転(引越し)を伴うものであり、また既存の建物の改築を伴った。この間、講義、事務、入試等は一切中断を許されなかった。それぞれの建設期間は中講堂棟が1980(昭和55)年2~9 月、図書館棟が1980 年7 月~1981 年7 月、教授研究棟が1980 年9 月~1981年7 月、改修工事期間は1980年2 月~1982年3 月であり、この間1980年10 月には四大学運動競技大会も行われた。
結局、総工費は1977 年当初計画のほぼ3 倍に達したが、この大がかりな施設整備拡充がキャンパスの面目を一新させると同時に、大学の新たな躍進のために大いに貢献したと言えよう。
人文学部創設2 年目の1970(昭和45)年4 月の教授会で高津学部長からカリキュラム検討委員会設置の提案がされた。これは結論に至らなかったが、高津学部長としては実施1 年を経てカリキュラムを整え、研究教育体制をより充実させようという意向に基づいたものであった。その後7 月、新学友会長の人文学部学生から人文学部にカリキュラム検討委員会を設置してほしいという要請があったとして、とりあえず教務委員をもって当てることとした。学生の要請に応えた受け身の態度とも見えるが、創設問もない学部の理念をカリキュラムという具体的なものを通して学生に理解させ、勉学の意図と意欲を刺激することは、教員の側にとって重要であった。度重なる紛争の中で学生と教授が共に考える気風が見られた一時期であった。
その後1973 年度の教務委員会は複雑な人文学部のカリキュラムを、例えばコンピュータにのせられるような分かり易いものにしたいという趣旨もあって、委員会内部で検討するとともに「教務委員会メモ」として再三提出し、各学科、コースの検討を促した。何よりも学生に勉学の意図をはっきりさせて意欲的に学習させたいという要望からである。
一般教育、外国語科目などについての学生の学習意欲を低下させてはならない。しかし共通科目、外国語教育科目のいずれについても魅力のあるカリキュラム編成が容易でなく、十分な検討が必要だとして、1974 年1 月にカリキュラム検討委員会の設置が提案された。これが人文学部の長期にわたる「カリ検」の始まりである。以後、毎年度に十数回の委員会が、ときには夏季の合宿も交えて行われた。
教授会にもしばしば中間報告が提出され、各学科、コースに検討が要請された。タイプ印刷の報告書だけでも3 回(1975年9 月、1977 年3 月、1980 年3 月に)出されている。そして、この1980年3 月の報告を受けた各学科、コースの検討結果が報告され、大枠の検討は終了した。その後は教務委員会とカリキュラム実施起草委員会に委ねられた。もちろん実施カリキュラムの起草に当たって、なお論議が尽きなかった。
1984 年度の履修要項から「共通科目」は「共通専門科目」と表示され、同時にこれまで人文、社会、自然の3 系列に大まかに分かれていた科目が、人文系列がさらに言語、思想、歴史、文学、芸術に分けて整理され、社会系列も人間系、文化系、社会系と分類された。共通科目全体の構成が見えるようにし、かつそれぞれの科目の置かれている意味が分かるようにしたのである。この「共通科目」は人文学部カリキュラムの目玉であり、高津学部長の思いの込もったものであった。申請当時から文部省にも注目され、その後の他大学の人文系学部の参考にもなったといわれる。
しかし、実際にはこの「共通科目」には多くの課題が負わされていた。第一に、形骸化した一般教育の欠陥を補う狙いがあった。それを強調しようとすると、「共通専門科目」として「専門」をはっきりさせたくなる。
その場合「共通」と「専攻」の関係が問題になる。教員自身が旧来の哲・史・文に分かれた学科から育ったのであったから、学生にもまず専攻を深めさせたいという意識以前の欲求がある。それが「共通科目」を専門と呼ぶのをためらわせる。第二に欧米文化学科の「共通専門科目」の役割がある。英米文化専攻のカリキュラムを創った田崎教授は、「共通科目によって英米のみに限らぬ広い文化に触れ、狭い意味の英米文学・語学は専攻の専門科目を通して学ぶ」(『十年のあゆみ』人文学部1980年)と考えたいものだという。西洋史がその一例で、共通科目でありながら欧米文化学科の必修科目になっている。必修だから大人数になる。しかもそれが非常勤講師の担当になっていて「文化」を担当する専任者がいないことになる。
その後専任教員が就任したが、それまでに時間がかかった。カリキュラム検討は学部の共通部分に多く手が着けられたが、学科専攻で考えるべき問題は各学科専攻が全体の論議を参照しながらそれぞれに対応を考えていったのである。この期に各学科専攻が行ったカリキュラム改定は、「カリ検」で問題になった点をそれぞれに検討した結果といえる。したがって「カリ検」の成果は一度に出たわけではない。最後は大綱化によるカリキュラム再編まで持ち越されたものもある。その点では長年かけてカリキュラムを検討してきた実績が、大綱化への対応を容易にしたともいえる。また大綱化とは絶えざるカリキュラムの再検討を要求したものともいえるだろう。
武蔵大学の財政は、1970 年代には先に記したように、学費の2 倍値上げをしなければならない状態に追い込まれていた。一つには人文学部の創設が、設備拡充の点でも、あるいは教員の増員の点でも、当面の大きな負担だった。収支の均衡は可能だとしても、少なくとも完成年度までは待つ必要があった。さらに学園創設50 周年の記念事業のための支出は寄付による収入を遥かに上回り、大学にとってこの負担は特に厳しかった。また大学紛争が続いたために学費の値上げが思うようにできず、財政的に赤字状態が続いていたことも大きい。
もう一つ大きな問題は、正田学長が学生紛争時に、大衆団交の席上で「大学の経常的な維持経費については学費に依存するにしても、建物の建設など大学の設備については基本的には法人が面倒をみる」と発言したことであり、これが後々まで大きく影響した。国立大学と違い、また戦前の豊富な資金を持っていた法人と違って、戦後の私立大学は例外なくその経営を殆ど学生の納付金に頼っていたのである。正田学長の発言は私立大学の実状をよく理解していない内容のものであり、学生がその発言を重大視したため、それを訂正するには長い努力の時間が必要であった。
鈴木学長が倒れた後、就任した岡学長が最初に努力したのは先の発言の取り消しと学費の2 倍値上げであったが、長期的には学生紛争の処理とその終結であり、ついで新しい建設計画の実現であり、大学の設備の拡充であった。それはまた正田学園長が密かに温めていた構想の実現であった。そして、正田学園長が鈴木学長の後を追うように、1 年後に突然亡くなった後、岡学長はしばらくの間学園長代行として、学園の運営責任者となったのであった。岡学園長代行は、当時高まりつつあった大学の意向を汲み取り、それまで遅れていた大学の設備充実のための施策を具体化していった。大学教員の研究室、図書館など設備更新と改善が必要なところは多かった。
やがて太田博太郎が新たに学園長に就任すると、岡学長と共に武蔵大学のキャンパス再開発と整備計画を積極的に推進していくことになる。その計画は当初の構想を超えて拡大していったが、そのための財政措置は極めて困難な状態に置かれていた。財政をどのように立て直しながら建設計画を具体化していくかは極めて大きな課題となった。それは法人の募金に期待できる範囲内のものではなく、実現していくには基本的には学生の納付金に頼るしかない。しかし、とりあえずは借り入れという形で資金を調達する以外に方法はなく、私学振興財団などから設備投資の資金を借り入れることになった。大学は10 階建ての研究棟と地下2 階地上3 階の図書館棟並びに中・小講堂棟を造り、従前の図書館を本部棟に改築したが、その建設経費は予想を遥かに超えるものとなっていた。
以後、大学はその資金返済のためもあって、経営の安定に腐心し、学費も小幅ながら毎年上げるような方向で努力するようになった。岡学長に続く浅羽二郎学長とその次の小原広忠学長の時代は、大規模な新たな投資はせず支出を可能な限り抑制し、借入金を返済していくことで財政の健全化を図った時代といってよい。この期間に行われた学内の建設工事としては、旧理科棟を建て直し、情報化の時代に備えて新しい科学情報センター棟(地上 3階、1,732㎡)を1988 年に建設するほか、金融学科の開設に向けて5 号館(地上4 階地下1 階、1,504.19㎡)を1993 年に建設するにとどめたのである。
その甲斐あって、この期間を通じて借り入れ金をほぼ完済できる目安が付き、累積赤字はやがて黒字に転じていく見通しがつくようになった。浅羽学長は後になって、「やや消極的であったかもしれない」と述壊しているが、その後の展開の基礎を固めたという点で、浅羽学長をはじめとする学園執行部の選んだ路線は妥当であったということが可能である。
武蔵大学の特色である少人数教育を生かし、建学の理想「自ら調べ自ら考える力を養う」ことを目指す教育は、教員養成教育でも生かされ、人間性豊かな教員の育成を目指すユニークな実践が行われた。その一つとして山村生活の実態調査とそれに基づく「僻地教育実習」などの特色ある教職課程教育の展開が挙げられる。東京都下のへき地での教育実習は、学生に教育の原点を体験させるものとして、マスコミにも注目された。
1969(昭和44)年4 月に人文学部が創設され、大学院経済学研究科が設置された。それに伴い、新たに教職課程の認定を受けたものを含めて、免許教科は次の通りとなった。すなわち、人文学部では、欧米文化学科の中学校一級普通免許状(英語、独語、仏語)、高校二級普通免許状(英語、独語、仏語)、日本文化学科の中学校一級普通免許状(国語)、高校二級普通免許状(国語)、社会学科の中学校一級普通免許状(社会)、高校二級普通免許状(社会)であり、それに経済学研究科で高校一級普通免許状(社会)が加わることになった。さらに、1974 年4 月の大学院人文科学研究科の設置にともない、人文科学研究科に高校一級普通免許状(英語、独語、仏語)が認定された。
こうした教職課程の拡充に伴い、教職課程履修者数も増加し、「教職に関する専門科目」、「教科に関する専門科目」の開講科目群の充実が求められてきた。特に、教職課程履修者の多い人文学部が学年進行で完成に近づくにつれ、事務運営および指導体制の強化が強く要請されるようになった。これを踏まえ、経済・人文両学部教授会において「教職課程委員会の設置について」(1970年10 月)が承認された。委員会は原則として両学部の各学科から1 名の委員と教職課程専任教員によって構成された。これによって、2 学部体制のなかでの教職課程教育が軌道に乗っていくことになった。
さらに、教職課程事務担当者として教職課程係を設けるとともに、中学・高校の現場教育に多年の経験を有する優れた人材を教職課程嘱託(主担当は教育実習指導)として迎えて陣容を充実させ、経済・人文両学部教授会との綿密な連携の下で、全学的な指導体制を整えた。1975 年度には、教職課程は事務専任職員1 名、嘱託1 名(中学校教師経験者)並びに教職課程担当専任教員2 名により構成されることとなった。
1970 年代以降、教育現場には校内暴力など指導の困難な状況が現れてきた。それを受けて文部省は、教員の免許基準の引き上げを教育職員養成審議会(教養審)に諮問した。そうした行政側の動きに対応すべく、私立大学の教職課程担当者間の連携も求められてきた。そこで、私立大学における教員養成の社会的責務と重要性に鑑み、相互に研究を深め協力することによって、戦後の教員養成の大原則である開放制免許制度における教師教育の充実に寄与することを目指し、全国私立大学教職課程研究連絡協議会(全私協)・関東地区私立大学教職課程研究連絡協議会(関私協)および東京地区教育実習研究連絡協議会(東実協)が1980年4 月に創設された。武蔵大学の教職課程は、設立準備委員会から積極的に参加し、協議会等で重要な役割を果たしてきた。
1980 年代に入っても教育荒廃の状況は収まらず、「校内暴力」「いじめ」「不登校」「学級崩壊」など、学校における教育指導の困難な状況の克服の方途として教員の資質能力の向上が求められた。こうした状況の中で教育職員免許法の改正(1988年)が行われた。改正の要点は、免許状の種別化、免許基準の引き上げ、教職課程担当必要専任教員数の制定(教育の本質、教育の内容・方法、教育の心理、担当)等であり、ここで本学教職課程の専任教員3 名体制が実現した。また、1998 年6 月にも教育職員免許法の改正が行われた。
大学として学生を海外に派遣する最初の試みは、それまでの特待生制度に代わる制度として1982(昭和57)年度から始まった学生海外研修制度であった。2022 年現在でも続くこの制度は、夏季休暇中1 か月程度、調査研究のため希望国・地域に学生を派遣する制度であり、一定の語学基準を充たしていることを応募の条件とし、提出した研究計画に基づく面接を経て選ばれた研修生には武蔵大学学生海外研修奨学金が支給される。帰国後の報告書提出が義務付けられており、成果報告書が毎年刊行されている。
この学生海外研修制度の淵源は、1977 年、大学協議会で国際交流委員会を設置することが決定され、翌1978 年に同委員会の検討結果が『国際交流促進についての報告書』としてまとめられたところに遡る。
同報告書は、「教員の交流」「学生の交流」「文書等の交流」を主要な柱とする種々広範な提言を内容としており、同報告書を受けて、国際交流の具体化に向けて、学長、学部長、学部教務委員長等を構成員とする国際交流検討委員会が臨時の委員会として設置された。同委員会は5 回にわたる検討の後「学生海外研修制度」をまず実現すべき制度として提案し、1980 年、大学協議会でこの制度の発足が正式に決定された。
この学生海外研修制度には、発足当初から、画期的な教育プログラムとして学生、教職員の双方から熱い期待が寄せられ、自主的な計画に基づく調査研究が可能であるため、参加希望者も多かった。初年度は経済、人文両学部各6 名、合計12 名の派遣が予定されたが、厳選して7 名の派遣にとどめられた。しかし、翌1983年から1988年にかけては各年11~12名、1989年から2007(平成19)年にかけては各年19~30名とその規模が拡大されていった。しかし、2000 年代に入って、テロの頻発や国際的な規模での感染症の流行もあって危機管理の必要性が一段と高まった。そのため、派遣枠は2008年に15名、2009年に10名と漸次削減されたが、2012年までの30年間での派遣実績は542名の多数にのぼっている。制度運用の初年度にあたる1982 年は、学長、学部長、学部教務委員長、学生部長、学生部次長を構成員とする学生海外研修生選考委員会が選考にあたり、大学調査課を事務担当として実施された。翌1983 年、同委員会を改組して新設された学生海外研修委員会が制度の運営にあたることとなり、1992 年には学生海外研修業務を学生部へ移管、学生生活課が事務担当となっていた。