通堂あゆみ
経済学部のみの単科大学としてスタートした武蔵大学の基礎を創り、「ゼミの武蔵」の風土を醸成した*1 といえるのが、この項でとりあげる鈴木武雄である。鈴木の経歴を紹介しながら、創設期の教員配置における鈴木の人脈や「ゼミの武蔵」の風土醸成の背景を整理することに努めたい。記述にあたっては鈴木自身による回顧録である『鈴木武雄〰経済学の五十年*2 』(発行人・鈴木洋子、制作・社団法人金融財政事情研究会、1980年[非売品])および「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第一部〉*3 」(『武蔵大学同窓会報』30、1981年)を基本資料とし、関係者による文章など各種周辺資料を利用する。
1901(明治34)年生まれの鈴木は、兵庫県立神戸第一中学校(現・神戸高校。以下、神戸一中)を経て第三高等学校文科丙類(1919年9月入学、1922年3月卒業。以下、三高)に学んでいる。9月入学で3月卒業と在学期間が変則的であるのは、1920年に行われた学年終始時期の変更による*4 。
いわゆる旧制高校におけるクラス分けは、文科においても理科においても学習する第一外国語によって行われていた。鈴木が在籍した丙類はフランス語選択である(甲類=英語、乙類=ドイツ語)。志望者の多い甲類や乙類ではなく丙類を選んだことについて、鈴木は「実はそのころおやじから外交官になれといわれて、ぼくはそれほどなりたいとは思っていなかったのですが、そのためにはフランス語がいちばんいいんだろうというぐらいの気持ち」と「多少、文学青年的になっていたから、フランス語をやってフランス文学を」という気持ちであったと述べている。
旧制高校時代には同級生の大宅壮一(大宅は文科乙類)らに誘われて新劇運動に熱中し、『キネマ旬報』への映画評論の執筆も盛んに行うなど文学青年であったというが、鈴木を社会科学方面へと導いていったのも大宅壮一であるという。大宅のほか、浅野晃(文科乙類)、服部之総(文科甲類)らと河上肇の講義を聴きに京都帝国大学へ通っていたというエピソードも残されている。
それでも、外交官になってもらいたいという父親の希望から東京帝国大学進学時には法学部政治学科を選び、高等文官試験も受験・合格している。このため大学卒業時には法学士称号を得ており、これは後年の武蔵[旧制高等学校]着任時に経済学ではなく法制概論を担当した背景ともなっている。とはいえ記憶に残っている講義として名前を挙げているのは渡辺銕蔵の経済政策や矢作栄蔵の農政(農業経済)学、後に師事することになる大内兵衛の社会政策などであり、学部を卒業するころには経済学を学ぶことを志すようになっていたという。なかでも政治学とも関連の深い財政学を専攻することを望み、1925(大正14)年に学部を卒業すると大学院へ進学し、土方成美や大内兵衛に学んだ。このころから大内の影響で金融関係の論文を発表しており、鈴木にとって初めてのアカデミック・ポストとなる京城帝国大学法文学部講師(のち助教授をへて教授*5 )においても貨幣金融論を担当した。
京城帝国大学とは、日本統治下の朝鮮半島に6番目の帝国大学として1926年に設立された大学である(学部開学に先立ち、高等学校高等科に相当する予科を1924年に開設した)。鈴木は1928年4月に法文学部講師として着任、翌月には助教授となり財政学講座、経済学第二講座を担当した(2年間の留学を経て1935年から教授)。この大学での経験が、のちに武蔵大学経済学部を創設する際に様々な面で影響を及ぼしていることが鈴木自身の回顧からも読み取れる。
最も大きな影響は、人脈の形成であろう。そもそも鈴木を武蔵に招いたのは当時高校校長であった宮本和吉であるが、宮本は京城帝国大学法文学部で哲学・哲学史講座を担当していた人物である。宮本は「[引用者補:武蔵大学として]経済学部をつくることになったので、自分は哲学者で経済学のことはさっぱりわからんから*6 」と「五顧の礼」(実際に鈴木を五度訪問した)で鈴木を迎え、大学創設の中心に据えた。着任時の身分は武蔵高等学校講師であり、1948年度後期から高校生に法制概論を講義しながら設立準備を進めたという。
当時は新制大学、とりわけ経済学部の創設が相次ぎ、教員スタッフの確保に苦労があったというが、経済再建研究会(のち経済発展協会)における鈴木の人脈(渡辺佐平、芹沢彪衛)に加え、京城帝国大学人脈からも教員が招かれている(山口正吾[無給副手として京城帝国大学法文学部経済研究室所属、のち京城高等商業学校教授]、藤塚知義[経済思想史。父の藤塚鄰が京城帝国大学教授])。経済学分野のみならず、教養科目担当として鵜飼信成[法学]、有泉亨[民法]、船田享二[憲法]、高橋幸八郎[西洋経済史]、山田文雄[経済学]が講師として授業を担当した。助手として採用された波多野真、小沢辰男、秋山穣は東京帝国大学経済学部の教え子であるなど、むろんのこと京城帝国大学関係者以外からもスタッフが招来されたが、いずれも鈴木のネットワークによるものであった。鈴木自身が「まあ極端に申しますと、ほとんど私が個人的に懇意であり、知っているという人に頭を下げて来ていただいたと。中にはそういう人からまた推薦のあった人に来ていただいたというようなことで、[中略]ほとんど私が一人で、自分の知っている範囲の人を歩き回って連れてきたと、そういう形です*7 」と述べている。
また武蔵大学が少人数教育・少数精鋭主義を特色としたことについて、単学部単学科からスタートせざるを得なかったことから、それは「ある意味では負け惜しみ」であったとしながらも「宮本学長なり私なりが、長い間おりました京城帝国大学法文学部というのは[中略]いろんな事情から少数で、[中略]そういう講義をずっとやってきておりましたので、言わば少数の学生を対象とした大学というものには馴れておったと言いますか、そういう経験を十分に持っておった」と述べている。京城帝国大学法文学部*8 は学生定員(一学年80名程度)に対して講座数が豊富で教員が多いことが特徴であり、教員と学生との距離が短かったことが関係者の回顧*9 からもうかがえる。武蔵大学が創立初期から父兄会(設立当初は武蔵大学父兄会、現在は武蔵大学父母の会)を持ち、学生―保護者―教員の連携を密に持った背景にも、鈴木の京城での経験がある意味で理想的な大学イメージとして形作られていたものではなかったかと想像される。
鈴木自身が「[引用者補:武蔵大学は]ほかの大きな大学に比べまして少数ですから、教授と学生のあいだが、非常に親密でして、教室内ばかりでなくて校外でもコンパをするとか、ハイキングをするとか、泊まりがけの旅行をするとか、そういうことで非常に親密にやってきたことが、後年、学内紛争が盛んになってきたときも、比較的話し合いが楽になって、断絶ということにはいまだに至っていないと思います*10 」と述べている。学生の側もこうした雰囲気を好ましいものと捉えていたようで、「いまの言葉で言いますとゴッドファーザーファミリーと言うんですか、鈴木先生ファミリーですか、秋山先生、小沢先生、波多野先生、秋山先生なんかはまだ独身だったし、その先生方と鈴木先生を中心にやっていった中で学生たちも中心になっていったという感じは、いま思うと強いですね。それがうんと盛り立てていったというような――。[改行]それともう一つ、わりあい家族的と言うか、ハイキングで鳩ノ巣ですか、あっちのほうへ行ったりしてやってきたのが盛り上がってきたんじゃないですかね*11 」との発言が見られる。学生たちも教員を尊敬しながら親しくつきあっていたのであろう。
初期のゼミ運営にも、学生への配慮と公平性確保とを両立させようという鈴木の思想が反映されている。ゼミは、必修(専門)ゼミと選択(教養)ゼミの二種類が設定されていたが、学部長と学生部長を務める教員は必修ゼミを担当しないという運用方法である。その理由は「必修ゼミを担当する先生は指導教授として自分のゼミ学生の学内における父兄に代るいわば保証人のごとき立場に立つわけで、武職(原文ママ)[引用者補:就職]の世話や学生のプライベートな問題にも親身な相談相手になる」が、「万が一何か処分問題などが起ったときには、指導教授は教授会においては指導学生の弁護人の立場に立つことになるが、その場合、学生部長はいわば検事であり、学部長は裁判長である」ため、両者は必修ゼミを持たないようにしたというのである。ただし、学生数が増えてくると学部長も学生部長も必修ゼミを持たざるを得なくなったという。
鈴木自身がゼミの指導だけではなく、コンパや旅行などを学生とともに気さくに楽しんだという回顧や関係者の想い出もたくさん残されている。親身になって学生の世話をし、就職相談に限らずゼミ生の恋愛問題の相談にさえ乗ったという鈴木を慕い、在籍期を問わず交流を持てるようにとゼミ出身者が「四月会」というグループを組織している*12 。東京大学の鈴木ゼミ生らは「七月会」(初会合がフランス革命記念日である7月14日であったこと、鈴木の留学先のひとつがパリであったことから)という集まりを持っており、これに対して鈴木の誕生日が4月27日であることにより「四月会」と名付けられたものである。会名にちなむ『あぷりーりす』という機関誌が発行されており、鈴木ゼミ生のさかんな活動や交流を知ることができる。
1957年には本務校を東京大学に移し武蔵大学では経済学部兼任講師となったが、1962年に東京大学を定年退官となると武蔵大学教授として復職した。学部増設が議論された際には正田健次郎学長(当時)の委嘱を受けて新学部の原案を作成している。それは「外国語を中心とした人文科学的なエーリア・スタディ」の学部か、「社会科学に若干傾斜するが社会科学・人文科学双方から接近するエーリア・スタディ」の学部か、いずれかが挙げられるが後者が望ましいとするもので(国際関係コース、アジアコース、英米コース、ヨーロッパコースからなる「国際社会学部」構想*13 )、実際の人文学部創設に大きな影響を与えたという*14 。その後鈴木は学部増設当審議会に委員として加わっており、大学創設初期のみならず拡充期にあっても鈴木はなお積極的に自身の役割を果たそうとしていたらしいことがうかがえる。
1975年4月には教授会選出として初めての学長に就任したが、同年11月に脳出血により学長室で倒れ、一ヶ月後の12月6日に練馬総合病院で亡くなった。同月22日に大学葬が営まれ、武蔵大学経済学会は『武蔵大学論集 故鈴木武雄学長追悼記念号』を編み、その業績や遺徳を偲んでいる。
鈴木の死から十年後、四月会が中心となり寄付を集め(前述の七月会も協力している)、彫刻家松村外二郎による鈴木の胸像が作成された。1985年の建立当初は大学三号館正面入り口のホールに位置していたが、大学図書館入り口ホールを経て、現在では大学一号館ホールに移されている。胸像制作時には多額の寄付が集まったため、剰余金に同窓会からの援助金を加えた300万円を大学に寄付し、これをもとに学生の研究を支援するための基金が設立された。毎年度、学部学生の優れた研究論文に与えられる鈴木賞の始まりである。なお鈴木が大学に寄贈した旧蔵書は4000冊以上にのぼり、『鈴木武雄先生寄贈図書目録』(武蔵大学附属図書館、1989年)に整理されている。とくに鈴木が学外で関わった各種審議会・委員会関係資料群は貴重なもので、別途『鈴木武雄先生寄贈 審議会・委員会関係資料―昭和30・40年代を中心とした』(武蔵大学附属図書館、1984年)が作成されている。
鈴木は死後もなお、学生や大学を見守り続けているのである。
鈴木武雄 経済学部長・学長
文化放送のスタジオで「武蔵大学ラジオ公開講座」放送中の鈴木武雄教授
【注釈】
*1 鈴木の追悼記念号である『武蔵大学論集』(24-3・4・5、1976年11月)に収められた文章では「今日の経済学部の秀れた学風と伸びやかな気風は、鈴木先生によってはじめて培われた」(経済学部長[当時]・浅羽二郎)、「本学の「生みの親」、「育ての親」ともいうべき存在」(葬儀委員長・岡茂男[当時武蔵大学学長])と評されている。
*2 『エコノミスト』誌(毎日新聞社)の企画で行われたインタビュー速記録による。記事は「社会科学50年の証言」というタイトルで連載された(全50回。鈴木のインタビューは1~7回[51(27)1973年7月~51(33)1973年8月]。聞き手は高橋誠、加藤三郎)。
*3 1973年3月に丸の内銀行協会で行われた座談会の記録である。出席者は鈴木武雄、向山巌、桜井毅。
*4 島専一四号「高等学校学年終始ノ時期ニ関スル件」(大正9年10月15日に文部省専門学務局長松浦鎭次郎名で各地方長官宛てに出されたもの。「文部時報」19、1920年11月1日発行)。高等学校規定第二十四条但し書きにより従来は9月1日から翌年8月31日までであった年度を、同条本文により4月1日から翌年3月31日までとした。
*5 東京帝国大学大学院を1927年3月に退学し、大学院在籍中から勤めていた財団法人東京市政調査会研究員を1928年3月に辞任した。京城帝国大学講師として朝鮮に渡ったのもこの年で、4月の着任時には講師であったが、翌5月には准教授となった。教授昇進は1935年である。
*6 前掲『鈴木武雄―経済学の五十年』p.129。
*7 前掲「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第一部〉」pp.42-43。
*8 法科系学科(法学・政治学・経済学)と文科系学科(哲学・史学・文学)からなる。ただし京城帝国大学法文学部を卒業して得られる称号は法学士か文学士のいずれか限られており、経済学士称号は得られなかった。
*9 京城帝国大学創立五十周年記念誌編集委員会編『紺碧遥かに―京城帝国大学創立五十周年記念誌』(京城帝国大学同窓会、1974年)等参照。
*10 前掲『鈴木武雄―経済学の五十年』pp.132-133。
*11 「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第二部〉」pp.47-48。長谷川勝己[一回生]の発言。
*12 鈴木武雄「最後のゼミを終えて―鈴木ゼミ四半世紀の回顧」(『あぷりーりす』11、1974年)、向山巌「四月会あれこれ」(同)。学生数の少なかった経済学部第一回・二回生はほぼ全員が鈴木ゼミ(選択ゼミ)参加者であったことから、みな構成員として加えられている。
*13 『武蔵学園史年報』9(武蔵学園記念室、2003年)収録。
*14 鳥居邦朗「人文学部準備教授会記録解題」(前掲『武蔵学園史年報』9)、『武蔵(武蔵大学同窓会報)』54(2005年)掲載の白鳥優子による人文学部改組特集記事(pp.4-5)も参照。