武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想

季武 嘉也

はじめに

 1921(大正10)年9月、財団法人根津育英会が設立され、1922年4月の旧制七年制武蔵高等学校開校に向け動きが本格化した。その中心となったのはもちろん初代理事長根津嘉一郎であったが、根津に学校建設を働きかけ、さらに具体的なプラン作りにも大きな影響を与えた人物として、本間則忠(1865~1938)という文部官僚がいた。その本間の構想については、すでに大坪秀二「武蔵創設の『初心』 創立前史に想う」によって紹介されている。それによれば、ドイツのギムナジウムを模した中高一貫教育と、イギリスのオックスブリッジなどのカレッジにみられる学寮制を併せ持ったようなものであり、特に学寮制については、日本の旧制高等学校のような精神主義的で「バンカラ」風なものでは決してなく、人格陶冶をめざし、教師と生徒が同じキャンパスで生活することで「広範に教育活動を展開」できるような、まさしくイギリス風の寄宿舎を考えていたという。そして、大坪はそのような寄宿舎が結局は実現しなかったことを「ちょっぴり残念な気もする」と述べている。
 この項では、この本間構想が実際にどのようなものであったのかを改めて振り返ってみたい。というのも、じつは2016年より元国立国会図書館長大滝則忠氏らの手によって、同年夏に発見された「本間則忠旧蔵文書」の整理が武蔵学園記念室で進められている。2018年8月の時点で整理作業はまだ進行中であるが、それでも少しずつ新たな事実が判明しつつある。そこで、ここではいわばその中間報告として、新事実を含めて本間の構想を再構成したいと思う(以下、特に出典を注記せずに引用する資料は「本間則忠旧蔵文書」所収のものである。また、引用文は現代語風に書き換えた)。

 

1 本間と平田東助・根津嘉一郎

 まず、本間について紹介しよう。現在の山形県東置賜郡川西町玉庭の農家に生まれた本間は、山形師範学校(当時の師範学校は授業料がないため、貧しいが優秀な生徒が通う学校というイメージが強かった)を卒業して小学校教員となり、さらに東京の高等師範学校(現・筑波大学)を卒業すると長崎県師範学校教員として赴任した。ここまでは通常のエリート教員のコースであるが、本間の場合は、こののち文部省に勤務することとなり、かつ40歳で文官高等試験(現・国家公務員試験Ⅰ種)に合格し、いわゆるキャリア官僚となった点がほかの者と異なっていた。このような履歴をみる限り、歳をとっても刻苦勉励を怠らずに教育界・官界で立身出世に成功した人物であり、勉学というものの重要さを身に染みて理解している人物といえよう。しかし、そんな努力型の彼でも、50歳頃になると官界での出世に陰りが見えてきた。本間の後ろ盾となってくれた人物として、同郷の先輩である元内務大臣平田東助(1849~1925)という大物政治家がいたが、この頃の本間は、しばしば平田に書簡を差し出し、なんとか自分を引き立ててくれるよう懇願している。
 その平田も武蔵学園に由縁の深い人物なので簡単に紹介しておこう。彼は米沢藩の医師の家に生まれ、明治維新後は藩命で上京し勉学に励んでいた。その際に優秀さが認められ、いわゆる「賊軍」出身であったにも拘らず、岩倉使節団に加えられそのままドイツに留学した。帰国後は法制官僚となって伊藤博文の憲法調査団にも加わっている。その後は、反政党意識を強く持つ山県有朋に近い官僚政治家として貴族院に強い影響力を持つ一方、現在の農業協同組合の前身である産業組合の育成に力を注いだり、教育振興にも熱心に取り組んだ。そんな平田と本間が最初に接触したのは、1894年に本間が東京の高等師範学校に入学する際に、平田に保証人になってくれるよう依頼した時であった。この時は、面識がないとの理由から本間の申し出は断られたが、その後は平田の子供たちからも本間は慕われたようで、家族的な付き合いをするようになっていく。したがって、平田も本間のさきほどのような懇願には大いに配慮したものと思われるが、それでも結局、本間の希望が叶うことはなかった。
 根津と本間が運命的な出会いをしたのは、丁度このような時であった。1915年12月、大分県別府温泉日名子旅館に静養のため宿泊していた根津を、大分県理事官であった本間が訪問し「秀才教育の施設経営」を熱心に説いたのである(本間則忠「武蔵高等学校創立に関する経過」)。ただし、これが両者の初対面ではなかった。本間は根津の出身地である山梨県で役人をしていたことがあり、その頃根津が本間に「御書面の件に付ては自分にも多少意見もあり、いずれお目にかかった際に申し上げたい」との趣意の書簡(1909年7月24日付)を送っている。この書簡は、根津が公益的な事業に私財を投じたいと考える契機となった実業視察団の出発直前であり、「御書面の件」の具体的内容がどのようなものであったのか是非知りたいところであるが、残念ながらこれ以上は不明である。
 さて、この出会いの後、「武蔵高等学校創立に関する経過」によれば、翌1916年12月、再び別府を訪れた根津は、本間に前年の提案に承諾を与えるとともに、その実行方法を本間に委嘱したとあり、学園建設に向け順調な滑り出しを切ったように見えるが、この後も創設までには様々な紆余曲折があった。じつは本間はこの頃、大物実業家の久原房之助(1869~1965、日立製作所などの創設者)にも同じような提案をしていた。つまり、二股をかけていたのであり、それを示すのが1917年6月付の久原宛本間書簡控である。久原はこの頃、自身の出身地である山口県下松に一大工業都市を建設する計画を持っており、その一部として学校の設立も含まれていた(『久原房之助』日本鉱業、1970)。そして、その校長に東京高等師範学校校長の嘉納治五郎を予定しており、その嘉納は本間を同校の幹事(校長の補佐役)に擬していたのである(1917年12月12日付平田東助宛本間書簡控)。しかし、久原の計画はアメリカの鉄禁輸の影響を受けて頓挫し、同時に学校設立も一時中断してしまったようで、本間にとっては根津が唯一の頼みの綱となってしまった。

 

2 「十一年制寄宿舎」構想

 さて、本間がめざした学園とはどのようなものであったのか。「本間則忠旧蔵文書」には作成時期は不詳であるが、本間が執筆したと思われる「秀才教育に関する施設経営」という史料が存在する。それによれば、「人生を通して教育上、最も大切な時期は青年時代である。青年時代は身心の発達最も旺盛にして、まさに保護者の干渉を脱し、独立の地位に就かんとする」時期なので、「青年個々の資性に応じて適切な教育を施し、特に英才俊秀の者に対してはこれを抜擢して適切な教育を受けしめ、自由にその驥足を伸ばさせる」必要があるという。これは、当時の画一的な教育を強く非難し、「個性教育」を主張したものであった。そして、これを実現するためには、まず中学校では全国から優秀な人材を集めた上で、校舎と寄宿舎を一体化し、教師と生徒が親子のごとく接することができるような環境を整え、そこで勉学の進展と天稟の才能の自由な発達を促すことが重要である、と本間は述べている。
 さらに、そのような中学校を卒業した者に対しては、「親」からの必要以上の干渉は個性の発達にとってむしろ有害なので、既に存在する官立の高等学校や大学(一高や東京帝国大学を指すと思われる)に進学させることをめざすべきであるが、その一方で、進学した学生たちには「独立自修」の便を与えることが重要なので、そのような設備がある寄宿舎に依然として留まらせるべきであるとも彼は主張する。つまり、中学校5年間、高等学校3年間、大学3年間合計11年間の寄宿舎生活を構想していたのである。そして、こうした教育を受けた者は将来、各方面における「大器」の指導者として活躍することが期待できるであろう、と本間は結んでいる。
 以上のように、本間構想の特徴は、第一に、画一的教育に対し「自由」「個性教育」「独立自修」を重んじたことであり、第二に、11年間という長期間に亘る寄宿舎生活を送ることにあった。特に第二の点は、「前古未曾有の大教育事業として、世間の注目を受けるべきものはこの学寮制度の実現にほかならず」(1918年11月6日付根津宛本間書簡控)と本間自身が語っているが、確かにそれも首肯できよう。彼は、このような形でドイツのギムナジウムと、イギリスのカレッジにおける学寮制の両立を、東洋の日本で実現しようとしたのであった。なお、「本間則忠旧蔵文書」中には、当時本間が作成したと思われる図面も残されているので、文末に掲載しておいた。
 ところで、このように長期の寄宿舎生活を強いるとすれば、その寄宿舎に「自分の家のごとき親しみを与えることができるか否か」が重要であり、それは「学寮敷地の良否により決する」(同前、書簡控)ことも確かであった。このため、本間は学校の建築場所に強い拘りをもっていた。具体的には、風教の良さや交通の便はもちろんのことであるが、「採光通風佳良にして高燥の地」でなければならない、なぜならば「近視眼と脚気が学生の最も冒されやすい病気であり、ことに地方出身の学生には脚気の用心が最も必要なので、運動を奨励し胃腑を健全にする」ことが必要であったからである。もっとも、実際に土地の選定にあたったのは、いまだ地方官として地方に在住していた本間ではなく根津自身であった。根津は不動産業者の小玉光威なる人物を通して土地を物色したが、最初に候補に挙がったのは谷中(台東区)であった。しかし、本間にはここでは工場の煙が多く流れ込むのではないかという不安があったようである。つぎには、滝野川(北区)が候補地となったが、ここも地価で折り合いがつかなかったり、陸軍の火薬庫がそばにあることが問題であったようで、本間が「いずれの点から見ても不足の無い」と表現した現在の練馬区豊玉に決定したのは、1919年の4月以降のことであった(1918年11月6日付根津宛本間書簡控、1918年12月5日付本間宛小玉光威書簡)。

 

3 本間構想の挫折とその功績

 以上が本間構想の概略であるが、つぎにこの構想がどのような経緯をたどって最終的な七年制高等学校に落着したのかをみていきたい。これに関しては、本間が作成したと思われる「本校創立事情記録」と「武蔵高等学校創立に関する経過」のほかに、北條時敬の日記を掲載した『廓堂片影』(教育研究会、1931)や花見朔巳編『男爵山川先生伝』(故男爵山川先生記念会、1939)、および近年発見された小宮京・中澤俊輔編『山川健次郎日記』(尚友倶楽部、2014)などが参考になる。
まず、指摘しておきたいのは、根津嘉一郎が本間構想を全面的に支持した訳ではなかったことである。1919年3月30日付本間宛根津書簡には「敷地に付ては目下二三交渉中であり、不日相談が整うものと思われる。そして、適当の時期に発表するつもりであるが、その時期は私の考えに任せてもらいたい。また、趣意書についても他の方と相談したいので、貴台が趣意書を起草するのは暫く見合わせてほしい」と記されている。即ち、学校敷地や学校の全体的骨格については、あくまでも根津が主導権を持っていた。
 土地の目途もついた1919年9月、その根津の動きが本格化した。根津と本間はまず平田東助に正式に援助を依頼すると、平田はそれに承諾を与えるとともに、山川健次郎(東京帝国大学総長)、岡田良平(前文相)、一木喜徳郎(元文相)、北条時敬(学習院長)にも相談するよう進言した。彼らはいずれも当時の代表的な教育家である。これをうけて9月28日には山川には平田から、北条には正田貞一郎、宮島清次郎からそれぞれ依頼がなされている。
 そして、10月3日午後4時を期して南青山根津邸で平田、山川、一木、北条、佐々木吉三郎(東京高等師範学校教授)、根津、正田、宮島、本間らが会合を開き、まず根津側から二百万円の提供と一万坪の土地を既に購入したことが示された。これに対し、学校建設そのものには出席者一同みな賛成したが、どのような学校にするかで紛糾した。北条の日記には「俊才を集める中等教育」が議題であったと記されているので、これはあくまでも推測であるが、本間の前述のような構想がここで開陳されたものと思われる。しかし、これに対し、山川は「実業補習学校」案を提案した。実業補習学校とは、小学校の義務教育を終えた者が進学する中等教育程度の機関であるが、実業に従事することを想定した修業年限3年の職業訓練学校であり、本間のめざす「秀才教育」のための「十一年制寄宿舎」とはかけ離れたものであった。さらに、あとで触れるが、「七年制高等学校」案も提唱されたものと推測される。このため、結局この日は決議するに至らなかった。これ以降の状況については、これ以上判然としないが、『男爵山川先生伝』には次のように記されている。

 本間氏は〔以前から〕将来大臣大将を以て任ずる如き学生を養成する学校を設立すべきことを根津氏に進言してゐたが、第一回会合〔10月3日の会合のこと〕の折に実業学校を作るべきことを主張するもの〔山川のこと〕もあり、根津氏の意見もこれに傾いたのであつたが、時恰も七年制の高等学校が岡田文相の発案で出現することゝとなり、之が人物を養成するに好都合だといふので、〔第二回会合の前には〕根津氏の学校も我国最初の七年制高等学校として誕生することに略々決定してゐた

 即ち、第一回会合と第二回会合の間の根回しで、本間の言う「将来大臣大将を以て任ずる」ような「秀才」の養成を目的としながらも、学校としては「七年制高等学校」に変更した形に落着したようである。この「七年制」案を主張したのは、引用文中にある岡田のほかに平田、一木であったと思われる。大坪秀二が明らかにしたように、以前からギムナジウムのような七年制高等学校という制度に強い執着を持ち、実際にそれに基礎に1918年に新高等学校令を法制化したのは、ほかならぬ彼らたちであった。
 ここで少し説明を加えておきたいのは、引用文中の「将来大臣大将を以て任ずる如き学生」という表現である。おそらく『男爵山川先生伝』は、本間が以前から主張していた「秀才」の意味を「将来大臣大将」と解釈したものと思われるが、「本間則忠旧蔵文書」中の資料をみる限り、大将(軍人)を育成しようという発想は見当たらない。むしろ、当時の制度では「大将」へのキャリアパスとして、「七年制」のような学校はふさわしいものではなかった。
 さて話は戻るが、前出の第二回会合は1920年2月29日、一ツ橋如水会館に本間を除く前回のメンバーが集まり、以下のことを決定した。
  ・七年制高等学校とすること
  ・総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田・宮島、校長・一木
   とすること
  ・山川の発案で、根津が提供する資金を増額すること
 このうち、資金について付言すれば、前述のように山川は「実業学校」説を唱えたが、その理由の一つはおそらく資金面にあったと思われる。彼にしてみれば、「七年制高等学校」や「十一年制寄宿舎」では、金銭的に維持管理が困難であると感じたからであろう。しかし、根津が増額を承諾したことで、彼も「七年制」に同意したものと思われる。
 もう一つ付言すれば、前述の引用資料中に、山川の「実業学校」案に根津の意見が傾いたとの記述があったが、これも事実だったようである。「本間則忠旧蔵文書」には武蔵学園創設後、九段の中坂に宮島清次郎を校長として、実業教育を施す第二根津学園構想があったことを示す資料がある。これにも本間が深く関わっていたようであるが、結局実現することはなかった。

 こうして、本間の構想は実現することがなかった。しかし、本間は別の形で大きな足跡を残した。当初は「東京高等学校」という校名を予定していたが、同時期にやはり七年制として設立が予定されていた現在の東京大学教育学部附属高等学校もその名称を使用しようとしており、結局は根津側が「武蔵学園」に変更したが、それを考案したのが本間であった。また、現在でも武蔵大学3号館として利用されている建物が、木造から鉄筋コンクリート造りに変更されたのも本間の主張によるものであった。


 

 「十一年制」学校概略図  (「本間則忠旧蔵文書」収蔵)
※本図には、高等学校寄宿舎が記入されていないが、本間則忠は高等学校を大学の一部として取り扱っていると思われる。

武蔵学園史紀伝一覧
 
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