三澤正男(調査・研究員 45期)
前史
1986年、太田博太郎学園長(在任1978.4〜1990.3)は、「創立百周年を期して、武蔵学園の正史を刊行すべき」と定め、翌1987年には法人内に史料室が設置され、学園全体の史料の収集・整理への端緒が開かれた。
その時点まで、武蔵学園の歴史を記述した文献は、旧制高等学校時代の『武蔵高等学校六年史』(1928)、『武蔵高等学校十年史』(1932)、新制大学・高中となってからは『武蔵五十年のあゆみ』(1972)、『武蔵六十年のあゆみ』などが刊行されてきたが、これらは「歴史書」というより、武蔵を広く知らしめるために、組織、施設、教学、行事などの教育プログムの変遷・発展の概略を記した読みものだった。
1987年の武蔵高等学校教師会議事録によれば、6月末に、大坪秀二、上田久教諭が各科主任、各部顧問に、学校の歴史などに関連する資料・史料の収集の依頼がなされたとあり、
これ以降、大坪秀二氏(元校長、後に記念室名誉顧問)は本格的な学園資料のアーカイブの基礎構築に尽力されることになる。
1990年4月、学園長に植村泰忠東京大学名誉教授が就任(在任1990.4〜1998.3)、太田前学園長の「正史への思い」を受け継ぎ、1991年2月6日、「武蔵学園史料委員会」(大坪秀二委員長 1月31日規程制定)が設置された。同委員会は、「創立七十周年記念事業」の一環として、『武蔵学園70年史』(仮称)作成と学園史料展示室の設置を当面の目標に活動を開始した。同年5月、「70年史委員会」が発足、「武蔵学園史料委員会」で承認された事業のうち、『武蔵学園70年史写真集』(仮称)の編纂と大講堂2階の一部を改装して「学園史資料展示室」(仮称)を設けることが決まった。
1993年6月20日、『武蔵七十年史-写真でつづる学園のあゆみ-』刊行(1万5千部 「武蔵学園70年史委員会」編)。続いて10月に「学園記念室開設委員会」(大坪秀二委員長)が設置された。また、『武蔵七十年のあゆみ』が4月30日に刊行された。
武蔵学園記念室(以下記念室と略記)は、1994年5月10日、大学・高中の同窓生、在学・在校生保護者による学園創立七十周年記念事業の募金をもとに、大講堂2階に開設された。
記念室の目的と業務は「武蔵学園記念室規程」第2条に以下のように列記されている。
(1) 学園史の関係資料の調査、収集及び編纂
(2) 関係資料の整理及び保存
(3) 関係資料の展示
(4) 本法人の文書で各所管部署において保存期間が終了した文書の受入れ、保管及び整理
(5) その他学園長の特命事項
当初の展示は、創立初期の10年間の旧制武蔵高等学校関連の史料と、草創期の武蔵大学史料を中心とし、千川上水の記録写真も公開された。記念室の記録によれば、開室から10か月後の1995年3月末には延べ見学利用者数は約630名に達したとある。
また、記念室では学園内外の武蔵関連史料の修復・保存・整理作業も開始しており、とくに破損の著しい史料から優先して、この年に導入された光ディスクシステム(東芝トスファイル)によるデータベース化の準備も行われた。
1994年6月には上記の「武蔵学園記念室規程」が制定され、同規程に基づき11月10日、記念室の運営を審議する「記念室管理運営委員会」の第1回会合が開かれた。当時の委員構成は以下の通り。
委員長 向山巌(経済学部教授) 委員 星野誉夫(経済学部教授) 鈴木稔(経済学部助教授) 鳥居邦朗(人文学部教授) 平林和幸(人文学部教授) 鈴木理司(高校教諭) 臼井陽(高校教諭) 幹事 志村寛良(参事・記念室担当部長) ※書記 鈴木勝司(主事・企画室) 記念室特別嘱託 大坪秀二 矢代源司 ※当時の記念室は学園組織のなかで独立した部署ではなく、室長は置かれず、専任職員も所属は他部署(企画室)だった。
また、「編纂委員会」も設置され、『武蔵学園史年報』の作成が1994年11月より開始された。その目的は、主として創立百周年に編まれる「武蔵百年正史」の史料整備にあるが、同時に武蔵学園に関心のある教育者、歴史研究者などに史料を公開するものでもあると向山管理運営委員長は創刊号の巻頭で述べている。
1995年7月3日、『武蔵学園史年報』(以後「年報」と略記)創刊号(2,000部 武蔵学園記念室編)が発刊され、以後、年に1冊をめどに発行が継続していくことになる。同号では、財団法人根津育英会および旧制武蔵高等学校の創立時の史料が可能な限りの裏付けのもとに翻刻されて掲載され、これまで公開されていなかった武蔵誕生の経緯や背景が示されるとともに、創立に関わった多くの人びとの記録についてもありのままに記されている。また、大坪秀二特別嘱託の「解題」は、今後さらに調査すべき課題点もとりあげている。
なお、表紙、とびらの題字は書家でもある矢代源司氏による。
1996年4月1日より1か月の日程で、展示室にて「千川上水写真展・旧制武蔵高校時代収集博物資料展」の併設特別展を開催。記念室開設以来の企画展となった。この年は千川上水開削から100年目にあたり、旧制武蔵高校民俗文化部が1940年前後に撮影した写真約110点に加え、職員と大学学芸員課程の学生による「今日の千川上水」の写真約20点が展示された。併せて、高中各科研究室、各部、大学図書館などの協力により、旧制武蔵高校時代の博物資料も公開された。
展示期間中の4月7日には、第2回「武蔵学園の桜を観る会」が行われ、記念室には1,300名をこえる来室見学者があった。この時点で来室者延べ総数は3,500名となった。
同年12月14日、「年報」第2号刊行(1,500部)。旧制武蔵高校の開校初期資料、戦時中の勤労動員の記録などに加え、武蔵大学設置関係資料が掲載された。
当時の管理運営委員会、編纂委員会の記録では、「年報」の内容について「創刊号は70年以上経過した史料だったが、今後は関係者が生存している史料を扱うようになることが予想されるが、編集者が閲覧、収録、保存のための複写、デジタル保存をする」ことが承認されている。ただし、個人情報の取り扱いは特別に配慮をすることも確認されている。また、3号館資料庫で保管中の文書のうち、創立期の貴重史料が散逸しないよう記念室の耐火金庫へ順次移管する旨も確認された(この移管は2018年にほぼ終了)。
一方、史料の収集が進むにつれ、記念室保管場所(大講堂2階)の収蔵能力が早くも限界に近づき、今後の保管場所、集積書庫の設置などが話し合われている。
1997年12月17日、「年報」第3号刊行(1,000部)。武蔵大学初期の教授会記録(抄)として開学直後から2年間の教授会議事録が掲載されたが、新制大学開設後の状況を知る貴重な史料であるとともに、一般に他大学では公開が原則とされていない大学教授会議議事録が「年報」のような学校史資料集に載るのは画期的であった。
ただし学生の処分や傷病などのプライヴァシーに関する内容は個人名の掲載はせず、「経済学部1年生・休学2名」のような表記にした。したがって、「年報」でのタイトルは「武蔵大学教授会記録抄」とした。この号からは新制武蔵高等学校の記録も掲載をはじめた。
同年の企画展では「創立関係者墨跡展」を開催。また、松本市の旧制高等学校記念館(松本市立博物館分館)に旧制武蔵高等学校の資料をパネル化して提供、5月末から9月まで同館で展示された。
1998年、4月、田中郁三学園長(在任1998.4〜2006.3)が就任され、管理運営委員会にも参加された。9月末、『武蔵学園 武蔵大学・武蔵高等学校所蔵 和古書目録稿』(B5判48ページ 80冊)を記念室で発行。明治以前に国内で刊行された和本、写本など、主に旧制高校時代に収集され図書館に所蔵されているもの、高校国語科研究室への寄贈本を中心に352部2,392冊を掲載。学内教員、学外図書館などに配布した。
12月14日、「年報」第4号刊行(1,000部)。単学部短学科だった武蔵大学が、開学10年後にあたる1959年4月に経済学部経営学科を設置した時期の記録が中心で、長年の目標だった学部・学科増設がようやく形になった道筋、法人および大学関係者がどのように考えて進めてきたかが記されている。そのために、理事会議事録に加え、「経営委員会」「経営懇談会」の記録も収録した。ただし、これらはすべて決議録であることから、部分的に残されていた議事録に添付されたファイルのメモなどからも抜粋して、関係者の役割や意見、議論の経過がわかる注釈が付けられた。
1999年12月20日、「年報」第5号刊行(1,000部)。この年は『武蔵大学五十年史』の編纂が進んでおり、大学関連の史料はこの刊行委員会に集中させるため、「年報」では旧制武蔵高校時代の記録に主眼が置かれた。
このころより、管理運営委員会では記念室の人員体制、史料保存場所に関する議論が活発になった。あわせて文書管理についても課題が挙げられ、各部署での保存期間と記念室への移管を含めた「文書管理規程」の作成も、法人によって開始された。
2000年12月20日、「年報」第6号刊行(1,000部)。武蔵大学教授会記録(1951〜1953)、旧制武蔵高等学校校務記録抄(1942〜1949)を掲載。「年報」における旧制時代の記録については基本的に終了した。ただし、創設期、とくに設立以前の記録の日時、戦後の新制への移行期の人事、生徒の取り扱いなどについては、さらなる調査・研究を要することが確認された。
同年3月末、管理運営委員長の向山巌教授(経済)が定年退職となり、4月からは以下の委員構成となった。
委員長 星野誉夫(経済) 委員 前田貞芳(経済) 鈴木稔(経済) 鳥居邦朗(人文) 平林和幸(人文) 白水繁彦(社会) 岡俊夫(高中) 梶取弘昌(高中)
記念室の体制は鈴木勝司(専任・幹事) 伊藤誠一(嘱託) 大坪秀二(名誉顧問)
2001年12月15日、「年報」第7号刊行(1,000部)。理事会記録、高中記録を継続。武蔵高等学校認可申請書を追加掲載(前文、許可書部分は創刊号に既掲載)した。
7月の管理運営委員会では喫緊の課題となってきた記念室史料保管室の設置について「2002年6月竣工予定の大学8号館に大講堂1回北側事務室(財務部管理課)が移転した後を史料保管室として使用し、同時に書架を設置する」提案があった。
この件は1995年に委員会に提案して承認されていたが、8号館完成まで管理課が当該の部屋に移動してきているため、これまで先延ばしになっていた。これを受けて、田中郁三学園長より予算申請をせよとの指示かあり、委員会でも了承された。
このころより『武蔵八十年のあゆみ』作成、「ホームページ作成」「資料の冊子化」「史料のCD-ROM化」などの見当が開始された。
2002年12月16日、「年報」第8号刊行(1,000部)。この号から「評議員会」決議録(決算・財産目録・予算)を掲載開始した。武蔵の財務的状況を明らかにするため。この号では1944年度〜1951年度を載せた。高中記録も継続。
夏期期間に記念室が担当した武蔵学園80周年記念ビデオ「武蔵 その原点」が完成し、10月6日、大講堂での記念式典で放映された。内容的には映像記録史料となり、学園パブリシティとしても活用できるものである(後にDVD化され、現在も展示室で公開再生されている)。また、同夏には記念室のホームページを学外の無料サイトを試験的に立ち上げ、その後、ほぼ同内容のページを大学のサイトに開設した。
2003年9月30日、『武蔵八十年のあゆみ』刊行(編集委員会編 10,000部)。編集室実務を記念室が担当した。10月10日、史料冊子化企画として『旧制武蔵高等学校編年史』(大坪秀二編)刊行。
12月18日、「年報」第9号刊行(1,000部)。1968年9月から翌年3月まで、計6回開催された「人文学部準備教授会」記録、1965年4月に正田建次郎学長・校長の提案により、1966年4月に第1回が行われた「学園協議会」の記録を1969年3月分までを掲載して新学部創設の過程を明らかにした。「学園協議会」は、学長・校長を議長とし(後に学園長が議長)、協議員には学部長、教頭、大学図書館長、各学部教授2名、高中教諭2名からで構成され、学園運営に関する重要事項が協議され、2000年に常任理事会が設置されるまで開催された。
また、1936年6月20日に開催された「旧制武蔵高校創立時回顧座談会」速記録の翻刻を掲載。速記録には山本良吉校長本人、またはその指示による日時や内容に朱筆がかなり入れられているが、メモなどをもとに可能なかぎり復元した。公的史料とは異なるが、編年史を補完できる。とくに山本校長の「話しことば」は貴重。
10月、かねてより望まれていた「史料保管庫」(仮称)が大講堂1階に完成。集積移動書架は複式4連8段11台を設置、収容能力は図書館換算で約20,000冊。11月より史料の移動を開始した。
記念室ホームページに創立関係者の文献目録、千川上水関連を公開。問い合わせ、見学者が増加した。
2004年4月、東京大学総合研究博物館による「東大総長肖像展」のため、安宅安五郎作「山川健次郎肖像画」(1926)および日名子実三作「山川先生銅牌」を貸出。このときに肖像画にひび割れなどが判明し、12月に修復に出した。
この年は山川健次郎の生誕150年にあたり、地元会津若松の学校、新聞、「山川健次郎顕彰会」「白虎隊記念館」などから、問い合わせや訪問が多くあった。またホームペーシのアクセス数も増え、千川上水関連を中心に、教員社会科研修や小学校生徒などの団体による見学が多くなった。
11月9日〜15日、大学8号館8階記念ホールにて開催された「広がる伊能忠敬の世界in武蔵-大図フロア展と伊能家所蔵品特別展」(大坪秀二名誉顧問が提案、伊能洋元教諭のグループが協力)に、『山島方位記』をもとに「富士山に対する三角測量」の展示資料2点を記念室 が作成して出展した。
12月16日、「年報」第10号刊行(1,000部)。評議員会記録を継続、宮本和吉学長・校長講話集を掲載。武蔵高校父兄会記録(1929〜1949)では根津嘉一郎(初代)と山本良吉と山本校長のやりとり、プール建設や根津化学研究所開所などの経緯を知ることができる。
2005年、4月24日、本学園で開催された「第1回山川(健次郎)シンポジウム」に記念室より関連史料を展示した。夏には練馬区が計画した練馬駅前の「千川上水筋違橋記念碑」が完成。この石碑の裏に記念室より提供した「昭和15年の筋違橋風景」が金属パネルで埋め込まれた(他1か所の案内板にも写真を提供)。
この年は、さまざまな団体、教育関係者、歴史研究者などから見学、史料問い合わせが増加した。ホームページへの累計アクセス数が85,000件を超えた影響も理由のひとつと記録にある。
12月20日、「年報」第11号刊行(1,000部)。評議員会記録、学園協議会記録を継続。1959年に吉野信次学長・校長のもとに大学と高中の間の諸課題を調整するため制度化された「定例連絡会」の記録を開始から2年分収録した(この時期は学園協議会がまだ設置されていない)。
2006年、1月28日、旧制武蔵高校民俗文化部が1940年から1年間かけて撮影した「千川上水写真アルバム」(4冊・記念室蔵)が練馬区登録文化財となった。
この年もマスメディア、他大学、各地の図書館からの問い合わせがあったが、創立関係者に関する史料の複写や閲覧が主である。また、11月4日の大学ホームカミング、白雉祭に合わせて展示室を開室、学内外から約50名の見学者があった。
春から学園史料の整理と目録作成を開始したが、各部署の文書史料の保存に関する認識に差があることから、全学園的視野に立った文書保存規程やそれに伴う体制の整備の必要性が管理運営委員会で話し合われている。
同年4月に有馬朗人学園長が就任、現在に至っている。
12月20日、「年報」第12号刊行(1,000部)。第11号に続いて評議員会記録、定例連絡会記録を掲載。
2007年、3月31日付で永年勤務された鈴木勝司主幹が定年退職。4月1日より長秀敏総務課長が記念室業務を統括。大中五江学生生活課長が記念室に異動となった。また、嘱託として竹林惟允(大学12回・高校32期)が週2日、伊藤誠一(高校29期)が引き続き嘱託として週3日勤務することになった。
3月20日、『武蔵学園資料目録』(8冊)刊行。2冊を記念室所蔵。
8月31日、山川健次郎著『新選物理学』(大坪秀二編 学校法人根津育英会)刊行。400部作成し、山川家、理科系大学、公立図書館、学会などに寄贈した。
2008年、3月25日、「年報」第13号刊行(600部)。評議員会記録(決算議事録)は、初代根津嘉一郎理事長の死去(1940年1月4日)後の1940年5月から1945年10月29日までを扱っており、根津氏の遺言に基づく「根津美術館」設立までの経緯がわかる。併せて関連する決算説明書、文部省省令も掲載した。また、戦時下の財団法人根津育英会の財政状況も貴重史料である。戦時下の収入は学費が4割、財団6割(基金からの利子、配当、地代など)で、学費は値上げはしない方針だった。
7月24日、星野委員長の勇退に伴い、管理運営委員会は以下の構成となった。
委員長 前田貞芳(経済学部) 委員 鈴木稔(経済学部) 鈴木滿(人文学部)
小田正恭(社会学部) 江崎健一(高中・数学) 田中正之(高中・英語) 大坪秀二(記念室名誉顧問) 星野誉夫(記念室名誉顧問) 福田泰二(記念室名誉 顧問) 小野成志総務部長長 敏秀総務部次長兼総務課長 伊藤誠一(嘱託室員) 竹林惟允(嘱託室員) 大中五江(専任室員) 小林米三専務理事(オブザーバー)
この春、『学園樹木マップ(2008年版)』パネル(180cm�120cm)を福田名誉顧問の協力で作成展示した。この年も学内外からの見学者、史料の問い合わせ、閲覧は多数あったが、特筆すべき件としては、10月に開室予定の根津記念館(山梨市)に記念室蔵の初代嘉一郎関連の文書資料、写真、映像などを複製貸出したことや、金沢ふるさと偉人館での企画展「西田幾多郎と山本良吉」に関連資料を提供したことがあげられる。また、株式会社武蔵エンタープライズの「CI」作成の色見本用に旧制武蔵高校の佩章の貸出も行った。
2009年2月19日、第27回管理運営委員会において、記念室の今後の展望について有馬学園長が以下の概要で語った。
「現在の記念室は、外来者が入りづらく、展示スペースも狭い。ゆくゆくは記念室を拡大し博物館にしたい。ハーバードなどはすばらしい美術館をもっているが、『武蔵百年を記念する学園記念室』をめざしたい。今後の記念室の運営は株式会社武蔵エンターフライズ(以下エンタープライズ)と共同で行いたい。また、根津化学研究所もコロイドやゲルの先進的研究していた場所であるから、これも知らしめたい」
これをうけて小林専務理事から学園長の構想について説明がなされた。
「大講堂、3号館、記念室は永く残るものにしていく。3号館1階左翼に大学、高中の同窓会、右翼に記念室が入る案が大学協議会で検討中だ。移転は2011年に行い、それまでの2年は準備期間とする」
さらに例として「武蔵大学総合研究所」で専門研究者の斎藤康彦山梨大学教授を招き、「初代根津嘉一郎研究」「武蔵学園設立の研究」などのプロジェクトを立ち上げる案なども示された。
また、記念室の人事体制について、専務理事より「本年4月より、記念室は学園長直轄の組織としたい。企画担当の植村泰佳理事に記念室関連事項について学園長を補佐していただく。記念室専任職員は現在の職員(大中)が3月末で定年退職後は置かない。記念室業務はエンタープライズにアウトソーシングする」との報告があった。続いてエンタープライズの社長でもある植村理事より、同社業務の基本的な説明と4月より新しく1名を記念室担当としてエンタープライズから配置、現在の嘱託2名についてもエンタープライズと業務委託契約を結ぶという計画が示された。
委員からは、4月からの体制が2月に報告されたことへの性急感の表明と、専任職員を置かないことへの課題点が強く示された。とくに専任職員の定員枠から、記念室に専任職員をおかないことが2年前からの法人としての既定方針だったことが前委員長も含めて委員の認識になかったことから、学園長よりの提案で、後日、委員長、専務理事、植村理事を交えて話合いをもつことになった。その話し合いが4月1日に、学園長、委員長、前委員長、専務理事、総務部長によって行われ、7月23日の第28回管理運営委員会で以下の概要で報告、確認された。
・記念室は学園長直属の組織とする。・記念室業務は総務部がエンタープライズと業務委託契約する。
・現在の嘱託2名はエンタープライズの業務委託員とする。3月末に退職した専任職員も当面の間、引継ぎのため同じく業務委託員とする。
・記念室専任事務職員は定員1名を残すものとするが、当面は欠員として運用する。
博物館構想に関しては、植村理事より「記念室展示部分は、3号館1階に『武蔵ミュージアム』(仮称)とし、大講堂2階の記念室事務室は、史料編纂「年報」制作のために存続させる」という説明があった。
その後の意見交換では、研究者の必要性、学園組織における記念室の明確な位置づけ、展示と資料編纂のバランスなどがとりあげられ、この一年の新しい体制を見ながら検討していくことになった。
7月29日、エンタープライズの協力のもと、大学8号館7階で講演「武蔵の樹木」を開催。講師は福田泰二記念室名誉顧問(生物学博士・元校長)。参加者は教職員、卒業生、工事関係者など約80名。
10月22日にはこの年3回目となる第29回管理運営委員会が開催され、植村理事より記念室の位置づけと今後についての考えが以下のように述べられた。
「現在の学園中期計画では記念室の人員配置は常勤専任職員定員枠には含まれていない。これまでたまたま適任者が割り振られていたが、その職員が定年となり、支援の嘱託2名も既定の任期に達することから、記念室継続のためエンタープライズで引き受ける形になった。今後の新中期計画では、歴史編纂整備も考え、新人員計画を提出し、学園として検討することを要望したい」
また、「武蔵ミュージアム」(仮称)計画については、専門会社による調査をもとにした企画案資料が示され、3号館中庭に面したデッキやファサードをもつ基本デザイン、展示のコンセプト(歴史、自然、未来などのゾーン)が説明された。
遡って3月25日には「年報」第14号が刊行され(600部)、理事会記録、評議委員会記録、新制高中記録の継続のほか、旧制高校時代の「校友会」記録抄、2008年に行われた「武蔵学園創立五十周年記念事業」の記録も掲載された。
また、1965より1977年まで、武蔵学園の発展と充実に尽力した正田建次郎学長・校長・初代学園長の時代を、学園再編計画、学生運動への対応などの主要なできごとの背景について述べた「正田構想の十年間を回想する」と題した、大坪秀二名誉顧問の論考も掲載され。「百年正史」の貴重な資料となった。
2010年、3月25日、「年報」第15号刊行(300)部。今号では前号に引き続き、理事会記録、評議委員会記録、旧制高校時代の「校友会」記録抄が掲載された。特筆すべきは「学校法人会計基準の構造」(前田貞芳)である。日本の教育史のなかで私立学校は、戦前より重要な役割を担ってきたが、長く公的補助はなかった。そのため会計基準も統一的なものは存在しなかった。1975年に「私立学校振興助成法」公布以降、それに対応した学校法人家計基準が設けられ、公認会計士による監査などが義務付けられた。武蔵学園では1973年より新会計基準への移行が開始されたが、この資料は移行当時、新たな会計基準を学園関係者・学生が理解を進めるべく作成されたものの再録である。学園施設・組織の継続、すなわち学園の永続に主眼が置かれた会計の構造が明示されている。こうした資料も「年報」の役割を拡張するものであった。
この号ではまた、「初代根津嘉一郎が好んだ言葉と生き方」(大中五江編)では、根津が揮毫などの際に漢籍から引用した文、熟語、節を紹介。同時に根津の談話をもとにした『世渡り体験談』(1938年・実業之日本社)が手に入りにくい書籍であることから、その一部を復刻して掲載している。
また、「武蔵大学学生の運動」として、1968年から翌69年に武蔵大学による経緯の記録、一般学生、全額斗争委員会当てに出された文書、学生側よりの文書などを掲載。解題を星野誉夫名誉顧問が行った。
管理運営委員会では、百周年に向けて記念室の役割の明確化の視点から規程の改定が提案、確認され、常任理事会で承認された。新規程では学園記念室長(専任職員に準ずる事務嘱託員)が置かれ、磯海暁洋氏(高校41期)が就任することになった。管理運営委員会は規模を縮小し、機動性と責任性をより高め、編纂委員会は「年報」を中心とする百年史基礎資料の編纂を行うことになった。
この年の秋には江古田校地内の樹々を紹介する「樹木マップ」が作成され、見学者用に記念室、守衛室に常備された。また、大量に保管されている写真のうちモノクロプリントからデジタル化保存が始まった。
2011年1月13日、新規程に基づく管理運営委員会が以下の構成で開催された。
前田貞芳委員長(経済学部) 小林米三委員(専務理事) 植村泰佳委員(理事) 大橋義房委員(高中) 磯海暁洋委員(学園記念室長・委員)
委員会では、大講堂の耐震工事と事務室、展示室を含めた記念室の改修案が提示され検討していくことになった。当初、新記念室は「武蔵ミュージアム」として3号館に設置が計画されてきたが、大講堂補修も含めて再検討された結果、大講堂内に作られることになった。そのための管理運営委員会は設計・施工に携わる清水建設及び関連会社も交えて9月まで毎月2回ほど行われた。
3月11日、東日本大震災が発生。当日は展示物の一部が傾いたり倒れたりしたが、破損などの大きな被害はなかった。学園では式典の日程に一部影響がでたほか、恒例の「桜を観る会」が中止になった。
3月25日、「年報」第16号刊行(300部)。武蔵大学医歯学進学課程(1949〜1962)、通称プレメディカルコースをとりあげ、当時の史料や同課程参加者による座談会記録を掲載した。また、学費改定問題(1970〜1971)について、当時の記録史料から大学の考え方、学生団体の意見をそれぞれ掲載した。
学園記念室の新装と大講堂の耐震補強は秋に終了し、10月21日に新学園記念室が開室した。展示室は大講堂2階の客席以外、旧事務室部分を全面的に使用、大小3部屋に分けて構成された。主展示室の壁面には写真と解説パネルが並び、開学以来の史料は腰高の展示ケースに陳列された。中央には年代ごとに校地と施設の変遷がわかるジオラマが4台設置されて学外の見学者、受験生の関心を高める効果となった。歴代の卒業式写真も期別に検索できるモニター、記録動画を鑑賞できる大型テレビと再生装置も置かれ、その前には大講堂改修で取り外された客席が固定された。
旧校長室・学長室だった南西側小部屋は、記念室や校友会、サークル、同窓会による企画展用のスペースとし、南東側小部屋は、千川上水関連の史料が展示され、校地変遷がわかる空中撮影写真も壁面を飾った。
記念室事務室は、大講堂1階の書庫の向いの職員組合休憩室だった部屋を改装し、事務机、会議テーブルや書棚などの耐久消費材も置かれ、独立した部署としての体裁も整った。11月には展示室入り口西側壁に「樹木マッブ」のパネルも設置された。
2012年3月29日、管理運営員会開催。次年度より、前田委員長の後任として平林和幸教授が委員長に就任することが承認された。あわせて前田委員長は退任後も名誉顧問として編纂委員として記念室に関わることが確認された。
『武蔵九十年年のあゆみ』が学園事業として刊行することが決定。新しく定められた編集委員会に学園長指名委員として植村理事、磯海室長が参加することが報告された。事務局は記念室とし、4月に委員会を開き、発刊時期は25年3月を予定に進めることが報告された。
「学園100年史」の対応として、新たに東京大学の佐藤信教授(古代史・高校45期)が指導されている大学院生柿沼亮介氏(高校78期)に調査研究員として業務委託し、当面は史料の読み込みと「あゆみ」制作の補助も行うことになった。懸案だった長く携われる若い人材の登用である。また、この月には江古田校地内の石碑、モニュメント、史跡などを示した折りたたみ式パンフレット「学園史マップ」を刊行(4000部)した。
4月18日、大講堂耐震改修のお披露目式典開催。併せて初代根津嘉一郎の第1回入学式祝辞を刻んだ石碑の除幕式が行われ、記念室のリニューアルを含む大講堂の改修はすべて完了し、記念室への来室、見学者も大幅に増加した。
11月23日、「年報」第17号刊行(300部)、「理事会記録」「評議員会記録」の継続と論考「旧制武蔵高等学校財政史論」(星野名誉顧問)「武蔵高等学校中学校記録抄 その6」が掲載された。なお、高中の記録は大坪名誉顧問編であるが、時期としては大坪氏が校長在任時と重なっているため、氏の申し出でにより解題は行なっていない。また、記念室の内規的申し合わせによる「30年以上過去の記録は公開する」
という通称「30年ルール」に後半部分は触れていたが、複数の史料をまとめた記録としては残すという確認もなされた。なお、この号より数表の読みやすさ、欧文など表記上などの点から横書きとなり、表記も横書き用に変更された。判型、用紙などは変更しなかった。
このころより、井上俊一氏(アルバイト・高校63期)による所蔵写真の電子化と整理が進み、2020年現在では当数の保存が行われ検索も可能になっている。
2013年、6月13日、平林新委員長のもと管理運営委員会開催。編纂委員に人文学部、社会学部の代表が含まれていない点についての意見交換があったが、後日、委員長が両学部長と話し合った結果、「年報」の最終稿を両学部庁が校閲すること、それぞれの学部に関する重大な内容を扱う場合は、必要に応じて編纂委員会に臨時参加することを確認した。また、この会では、「百年史」編纂に向けての準備に着手する時期であるとの提案が植村委員からなされ、基本コンセプト、体制、人材などを3年から4年かけて検討していくことが確認された。
8月1日には編纂委員会が開催され、今後の課題として「朝霞、池袋の土地」について、江古田校地の変遷も含めて整理をしておく必要があること、また大学のゼミナール、演習の経緯についてもまとめるべきだとの確認がなされた。
8月29日、『武蔵九十年のあゆみ刊行』(武蔵九十年のあゆみ編集委員会編)。記念室からは編集委員会に植村理事、磯海室長(事務局兼務)、川村調査研究員、柿沼調査研究員が参加した。
この年はNHK大河ドラマ『八重の桜』が放送され、戊辰戦争、会津藩に注目が集まったことから、白虎隊隊士であり。東京帝大総長、旧制武蔵高等学校第二代校長を務めた山川健次郎の特別展を南西側小部屋で開催。会津若松から山川健次郎顕彰会、会津武蔵会などの方がた訪れた。
2014年1月20日、平林和幸管理運営委員長急逝。3月20日、『愼獨寮二十年史』復刻刊行(記念室編・50部)。
4月1日、磯海委員長が3月末に定年退職し、後任の室長に三澤正男(高校45期)が就任した。
4月10日、「年報」第18号刊行(400部)。「武蔵大学教授会記録抄」1957年4月〜1960年3月を掲載。同記録抄は、第3号と第6号で1949年4月の大学開設時から1954年3月までを収録した。しかし、1954年4月から1956年3月までの記録は所在不明(編集時も現在も)のため、1957年からの3年度分が載っている。解題は星野名誉顧問による。
5月、全国大学史資料協議会東日本部会総会に初参加(於立教大学)。それまでは資料を受け取るだけだったが、この年から総会、懇親会に極力参加する方針になた。
6月19日、管理運営員会開催。平林委員長の死去にともない空席となっていた委員長に規程に基づき学園長より委嘱された清水敦経済学部教授が就任、あわせて編纂委員長も兼務することが確認された。また、植村泰佳委員(学園理事)記念室担当理事となったことも報告された。記念室の運営体制も常勤1名(室長・事務嘱託員)、臨時職員1名(事務・受付・週3日)、調査研究員4名(業務委託・週3日2名、週1日2名)、アルバイト1名(写真保存・データ化・週2日)となった。
この春から記念室への来訪者、展示室への見学者、また教育研究機関、マスメディアからの取材が顕著に増加した。その要因としては、学園広報、高中とタイアップした発信、記念室ホームページの更新と、学園行事にあわせた土日祝の開室が主であると考えられる。さらに、近隣並びに区内の小中学生、ウォーキングのグループなどの団体による見学も来室者数増加には貢献している。
資料アーカイブ関連では、写真の復刻、電子化、属性の特定などが一層進み、8ミリなどの動画の電子化も始まった。
7月24日には編纂委員会が開催され、「年報」の今後について意見交換がなされ、単学部時代の「教授会記録抄」は人文学部が設置されるまでは継続することが確認された。
2015年4月1日、「年報」第19号刊行(300部)。「理事会記録」「評議員会記録」の継続と併せて「学園協議会記録」。「武蔵大学教授会記録抄」は前号に続き、1960年4月〜1963年3月を掲載した。
この年は第二次世界大戦終結後70年にあたり、記念室でも6月末から半年間、
企画展「写真、資料に見る戦時下の武蔵」を南西側小部屋にて開催した。今後は、テー別の企画展を年2回程度のペースで行い。その際展示した写真データ、テキストなどはまとめて保存し、「百年史」編纂に役立てることが確認された。
「百年史」については5月21日の常任理事会において、「武蔵学園百年史準備委員会特別措置規程」とそれに伴う「学園記念室規程一部改正」が承認され、同日施行された。また「武蔵学園百年史」(仮題)に関する予算は総額で8,000万円であることも確認された。
「武蔵学園百年史準備委員会」(以下「準備委員会」)は、法人、大学3学部、高中、記念室から学園長が委嘱された委員からなり、記念室長が幹事となる。また、作業部会のもとに歴史専門家を中心とした「作業部会」を設置し、具体的な研究、意見交換を行っていく。
以上の件は記念室管理運営員会、編纂委員会に報告され確認がなされた。
第1回準備会は11月26日に開催され、有馬学園長より植村理事が委員長として指名され全員一致で承認された。委員は以下の通り(順不同)。
有馬朗人学園長 池田康夫副理事長 植村泰佳理事 清水敦経済学部教授 踊共二人文学部教授 粉川一郎社会学部教授 岸田生馬教諭 小池保則教諭 南波佐間宏総務部長 三澤正男学園記念室長。
また、作業部会員として以下の候補者が挙げられ、承認された(順不同、所属・役名は当時)。
佐藤 信(東京大学大学院教授・高校45期) 季武嘉也(創価大学教授・高校47期) 神山恒雄(明治学院大学教授・高校54期) 庄司潤一郎(防衛省防衛研究所戦史研究センター長・高校51期) 高橋一樹(武蔵大学教授) 通堂あゆみ(武蔵高等学校教諭) 植村泰佳(武蔵学園理事・武蔵学園百年史準備委員会委員長・高校45期) 大久保 武(武蔵学園監事・大学20回) 柿沼亮介(早稲田高等学院教諭・学園記念室調査研究員・高校78期) 井上翔(東京大学大学院博士課程・学園記念室 調査研究員・高校81期) 三澤正男(学園記念室長・高校45期)
なお、「準備委員会」は翌年10月に第2回会合が行われ、後述の「武蔵学園百年史刊行委員会」に引き継がれた。同作業部会は翌年に4回会合をもち、基本的なコンセプト、時代区分、構成などについて協議し、「準備委員会」に報告した。
11月15日、武蔵学園史史料の整理、保存、分析に尽力された大坪秀二記念室名誉顧問(元武蔵高等学校中学校校長)が急性呼吸不全のため逝去された。葬儀は近親者のみで行われたが、「お別れ会」開催と『遺稿集』刊行が委員委方式で企画され、事務局業務を記念室で行うことが確認された。
2016年、2月20日、武蔵学園大講堂にて「大坪秀二先生お別れ会」開催。600名超の卒業生、元教職員などが参加した。同時に3月中旬までの会期で「大坪秀二回顧展」が大講堂2階南西側小部屋で開かれた。
12月20日、「年報」第20号刊行(300部)。この号では人文学部設置後の1969年4月から1973年3月までの同学部教授会記録抄を掲載した。新設学部が設置された場合は初期の数年間の記録が重要という編纂委員会での確認に基づくものだ。解題は鈴木滿人文学部名誉教授による。
また、「武蔵大学教授会記録抄」(1963年3月〜1966年3月)も継続して掲載。解題は星野名誉顧問。
2017年2月20日、『大坪秀二遺稿集』刊行(大坪秀二遺稿集刊行委員会編)。法人確認のもと、学園記念室が事務取りまとめを担当。刊行と管理は株式会社武蔵エンタープライズによる。なお、制作費は、360名におよぶ、武蔵学園卒業生、大学・高中の現旧教職員よりの篤志によってまかなわれた。
3月15日より、「天翔る自調自考――紫電改、YS11から『はやぶさ』までと題して、航空宇宙に関わった卒業生の業績を紹介。年表、写真、模型、映像などを公開展示した(期間は翌年3月2日まで)。
4月28日、「武藏学園百年史刊行委員会」(3月13日常任理事会制定「武蔵学園百年史刊行委員会特別措置規程」に基づく)が発足し第1回会合が行われた。委員は準備委員会メンバーをそのまま引きつがれ、準備委員長を努めた植村理事が学園長指名により刊行委員長に選出された。あわせて同作業部会メンバーも承認された。「刊行委員会」第2回刊行委員会は10月28日に開催され、基本プラン 外形、正史・紀伝・資料Mediaの構成を承認
作業部会メンバーを承認 「武蔵学園百年史特別サイト」構築の提案
・武藏百年史刊行委員会作業部会発足・開催(第1回H29 5/11 第2回6/27 第3回8/31 第4回10/31)
参考文献 『武蔵学園史年報』創刊号〜第22号(1995〜2019 学校法人学校法人根津育英会武蔵学園 学園記念室編)
『武蔵七十年史-写真でつづる学園のあゆみ-』刊行(1993 学校法人根津育英会武蔵学園 武蔵学園70年史委員会」編)
『武蔵九十年のあゆみ』(2013 学校法人根津育英会武蔵学園 『武蔵九十年のあゆみ』編集委員会編)
そのほか、学園記念室管理運営員会記録、編纂委員会記録を参照した。