財団法人根津美術館の発足と武蔵学園

畑野勇

 1950 年代から60 年代にかけての根津育英会の理事会・評議員会記録を見ていると、しばしば根津美術館内で開催されていたことに気づく。2021 年に設立80 周年をむかえた同美術館の設立に際して、武蔵学園創立者の根津嘉一郎(初代)の遺志がどのようにはたらいていたのか、また、根津育英会の理事や評議員はどのような構想を立てて実現したのか、本稿ではその経緯をたどることとする。

 財団法人根津育英会・根津嘉一郎初代理事長は、1940(昭和15)年1 月、根津美術館を設立する前に急逝したので、嗣子藤太郎はじめ遺族、親族は、故人の遺志に基づいて、根津理事長の志をよく知る河西豊太郎(関東瓦斯社長)、宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉会長)に遺産の処置を一任した。

 河西、宮島、正田の3 氏は、故人の遺志に応えるために、大蔵省を訪ねて相談した。このとき応対したのは、当時の主税局経理課長であった池田勇人であった。このときの池田の意見などを考慮した結果、河西らは、「美術品を育英会に寄付し、育英会が美術館を設立する」という構想をまとめた。

 なお、宮島清次郎と池田勇人とはこの時が初めての対面であった。宮島はのち、1949(昭和24)年2 月に当時の首相であった吉田茂(大学で宮島と同期であり、両人の親交が深かった)から大蔵大臣として入閣するよう求められたが断り、代わる候補として池田を推薦した。前月に衆議院議員になったばかりの池田はそのときから3 年半以上も大蔵大臣をつとめ、後年に総理大臣になっている。

  美術品等の寄付を受けた根津育英会の理事会・評議員会は、当初は「育英会が美術館を設立する」という構想であったが、当局から「それは育英会の目的事項の範囲外なので、美術館設立を目的とする財団法人を別に設立する必要がある」という指導があったことを受け、①財団法人根津美術館を設立すること、②(育英会が直接に美術館の設立者になることはできないので、)育英会の役員が個人の資格で設立者になること、③設立代表者として河西豊太郎常務理事を選任することが、育英会評議員会で8 月に決定された。

  その後、同年10 月に育英会の役員が発起人となって文部省に「財団法人根津美術館」の設立(一木喜徳郎理事長)を申請し、11月にそれが認可され、12 月に設立登記を行った。このときの美術館理事会の構成員は育英会と同一であり、以上の経過もすべて、育英会の役員が主体となって進めた。 

 『武蔵学園史年報』第13 号に掲載されている「根津育英会 昭和十五年度決算説明書」によると、育英会が寄付された5,183 万円相当の資産のうち、美術館設立のために寄付することとした資産の総額は4,963万円(美術品約4,000 万円、有価証券約780 万円、根津邸の土地約183 万円)相当であり、自らには約220万円(有価証券約54万円、土地約165万円)相当の資産を残した、という記録がある。

  また、財団法人根津美術館の設立申請や設立報告の関係書類(「根津美術館」と題する簿冊史料)が、国立公文書館で保管されていた。これまで、美術品の点数・内容など具体的な寄付物件の範囲は、武蔵学園記念室所蔵の史料や刊行物によっても明らかでなかったが、この史料にはその詳細が記載されている。

  当該史料によれば「美術品の点数は申請時には4,643 点であったが、翌年の報告書(文部省に提出したもの)では4,666 点に増加している」などの具体的事実が記されており、寄付一覧目録の詳細も収録されている。

  これらを見ると、「育英会に寄付された資産のうち、美術品で育英会に残されたものはなかった」ことも判明した。(また、美術館に寄付された有価証券約780 万円分は、美術館受入れ後の払い入れ分として約26 万円分が増加となり、再計算による資産総額は4,989万円として文部当局に申請されている)

 

国立公文書館に所蔵されている、1940(昭和15)年10 月に設立申請がなされた財団法人根津美術館の設立趣意書

 当時の新聞でどのような報道がなされたかを調べると、1940(昭和15)年3 月における、根津家から育英会への寄付を報じた新聞記事(読売新聞と東京朝日新聞、いずれも3 月19日朝刊)が存在する。

  読売新聞のものは「根津翁の全遺産 5千万円を寄付 育英事業と大記念美術館建設」という見出し4 段の記事となっている。その主旨として、「育英会に寄付される財産は、嘉一郎翁が蒐集した東洋美術骨董品と赤坂区青山南町の邸宅々地約4 千万円、市内所有の土地家屋約175 万円、東武鉄道株ほか有価証券約835万円〔正しくは825万円〕であった。寄付金の用途については、目下検討されているが、理化学研究所の新設または武蔵高校の拡大と青山南町の自邸1 万4 千坪の敷地に一大記念美術館建設が計画されている」という内容であり、「社会公共事業に投ぜられる根津翁の遺産は、(金額からすると)スウェーデンのノーベルのノーベル賞基金に匹敵し、新美術館はカーネギー博物館に比肩しうるものになる」との期待も述べられていた。

  また東京朝日新聞では、「大美術館と育英に 遺産5 千万円 花咲く根津翁の遺志」という3 段見出しの記事を掲載し、上記読売新聞の記事内容とほぼ同じ主旨を掲載している。

  ここで、「1940(昭和15)年当時の5 千万円が、現在の金額に換算していくらになるのか」という疑問が浮かぶが、正確な算定は困難であるものの、一つの指標として企業物価指数(戦前基準指数)で換算してみたい。当時の物価に対する現在の物価は、

 

710.6(2018年)/ 1.641(1940年)=約433.03

となるので、

5 千万円 ✕  433.03=216 億5,143 万円以上 

と計算される。なお、この当時の東武鉄道の資本金は5,050万円であったので、ほぼ同じ程度と考えることができる。

 育英会・美術館の両財団法人は、相互に密接な交流を行っていた。武蔵学園記念室に所蔵されている理事会・評議員会の記録を見ると、根津美術館・根津育英会の両財団法人の理事は共通であり、議題として根津美術館に関する件も挙げられている。また根津美術館の開設以降、美術館から育英会に数年間、毎年4 万円が補助されている。

 また根津育英会の法人本部も、戦後に長期間(1958 年9 月まで)、根津美術館内に置かれていた。

 

1932 年の開校十周年記念展示のために根津家より武蔵高等学校に貸し出された「誰が袖屏風」。現在は根津美術館に所蔵されている。

武蔵学園史紀伝一覧
 
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