語り継ごう濯川

阿妻耕次郎

はじめに

 江古田校地を二分して流れる細流は千川上水の分水で、18 世紀初め宝永年間に作られたものである。歴代の生徒達の手で拡幅・護岸工事や植樹が行われ、濯川(すすぎがわ)と名付けられて学校の讃歌・寮歌・部歌などにもうたわれ、中庭の大欅とともに、学園に欠くことのできぬ景観を作ってきた。

しかし、1950 年代末までに千川がすべて暗渠となり、以来、その暗渠から僅かな分水を得ていた濯川も、1974(昭和49)年、周辺下水道の整備とともに千川との連絡を断たれて雨水の溜まり場となって孤立した。

1980年代の初めまでは、学園としては濯川の荒廃が気にかかりながらも急には手をつけかねる状況が続いたという。図書館その他学園施設の建設工事が一段落しかけた1981(昭和56)年秋、ようやく濯川蘇生事業が創立60周年記念事業として採り上げられ、多数の同窓生からの積極的な寄付が寄せられ、1985(昭和60)年に第一期工事、1986(昭和61)年に第二期工事が完成、ポンプによる還流で流れが復活し、周辺の景観も整備された。

以下、学園キャンパス内に流れる千川分水が「濯川」と名付けられ、蘇生計画の実施を経て現在に至るまでの経緯、あわせて、工事のための募金事業の実際を振り返りたい。

 

〈濯川小史〉


1922年 4 月旧制武蔵高等学校創立。校地中央部を千川分水が流れていたが、田川のままの細流であった。
1925年 運動場整備完成。上記分水を拡げ、「濯川(すすぎがわ)」と命名。
1928年 玄関前・集合場所とともに川畔に北極標設置。
1932年 濯川七橋に命名。上流から、「佐の橋」「十年橋」「出橋」「入橋」「一の橋」「欅橋」「玉の橋」
1936年 根津理事長、喜寿を記念して、中之島部分を拡げ、「喜寿島」を作る。「喜寿橋」「泉橋」架橋。
1941年 民族文化部門(文化学部)編「千川上水」刊行。
1959~60 年 学校付近の千川上水が暗渠となる。濯川への分水は、千川の増水時のみに限られるようになった。
1969年 大学体育館・高校中学校舎の建設に伴い、「佐の橋」より上流部、「玉の橋」より下流部が暗渠となる。この頃までに、学園周辺の中小河川、水路の暗渠化が進行。
1979年 「欅橋」架け替え工事。
1980年 「一の橋」「欅橋」の間で川底からの汚水が甚だしく、川は涸堀となる。
1981年 7 月22 日 観測史上最大の集中豪雨で濯川氾濫、下流近隣も冠水。
10 月22 日 台風24 号の豪雨により同様の氾濫、冠水。
1982年 太田学園長のもとに「濯川蘇生構想計画委員会」設置。専門家にも委嘱して、調査検討。蘇生計画を纏める。
1985年 4 月20 日 濯川蘇生計画第1 期工事完了、通水式挙行。
1986年 4 月26 日 濯川蘇生計画第2 期工事完了、竣工式挙行。

 

濯川の由来

 この川の名称は、武蔵高等学校の教育の中心であった山本良吉教頭の命名による。中国戦国時代、楚の政治家・詩人屈原(くつげん)の「漁父辞(ぎょほのじ)」の「滄浪(そうろう)の水清(す) まば、以ってわが纓(えい)を濯ぐべし。滄浪の水濁(にご)らば、以ってわが足を濯ぐべし」(何事も自然の成り行きにまかせるべきだということ)から取ったのである。ここで、滄浪は中国湖北省を流れる漢水(長江の最大の支流)の分流の名。纓は冠の紐のことである。

 

山本良吉教頭によって「濯川」と命名された経緯は、1928(昭和3)年発行の『校友会誌』第8 号に掲載されているが、当時文科三年だった1 期生代表2 名(大塚弘・伊藤高の両氏)の文章も含めて、1984(昭和59)年発行の『武蔵高等学校同窓会会報』第26号に再録されている。濯川の将来を考える上で示唆に富む文章が収められているので、以下にそれぞれの全文を紹介したい。

 

「すすぎ川の記」
 
山本良吉
 
 校舎と運動場の間に谷がある。そこに以前小さい用水が流れて居た。開校の頃、生徒は運動がすめばそこで手脚を洗ひ、家づとに大根を買へば土を洗ひ落した。その後運動場の整理と共に、幅を広くし、橋をかけ、島を築き、両崖には花卉を植え、流れに沿うて小径を造り、そこにはプラタナスを植えた。ケム川の岸、それに沿うた森が幾多世界的偉人を生じた如く、この川岸からも世界の運命を支配する人材の出るのを望む積もりで、武蔵のケム川と仮称したが、更にすゝぎ川と命名した。固より屈原の漁父の辞から取つたのである。川の前身から知つて居る文科三年生に命じて、その記を作らせた。川が変つた如く、生徒の思想も文章も変つた。中には意外と思はれる佳作もあつた。
 
 川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運には時には幸があり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎むべきでもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へん。この川が自身の清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まらずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等の道を辿りたい。川沿ひの木、今は尚ほ小さいが、他日それが大きくなって、亭ゝとして天を衝くとき、今の諸生がその下を逍遥して、想を今昔の間に回らせば、必ず感にたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃には流れ流れて、いづこの果てに、どうなつてあるかを考へることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。集った文の中で最も力作と思はれるものを加藤教授が一篇、私が一篇を選んで左に出した。思ふにこれが、諸生が生徒として本誌にのせる最後であらう。この後諸生が如何なる文章を宇宙空間に織り出すか。纓もよし、履もよし、すゝぎ川はいつでも濯ぐ用意はして居る
 
八八年八月九日久雨始めて晴れた朝
山良生

【筆者注:「八八年」は紀元二五八八年で、1928(昭和3)年】

 

 

「すすぎ川の説」
 
大塚 弘 (文科三年生 1 期)
 
 その昔月の隠れ家をなすと詠ぜられた武蔵野に、千草を分けて慎ましやかに己の行くべき道をせゝらいでゐた名も無い一小川が、今しも我等の生活にとってこれ程にも深い意味をもつに至らうとは思ひだによらなかった。もとより水面を蔽ひつくすまで自然のまゝに生ひ茂つてゐた川べりの草は除かれ、大根を洗ひにと集ふ農夫等に賑はった秋の田園の趣は見られなくなつたが、取広げられた両岸の赤土の傾斜には萩、躑躅の類が植え込まれ、学園のたゝ中を貫ぬく我等の小川として、屈原の憶ひ出にすゝぎ川といふ床しい名をさえ嬴ち得た。朝毎に学び舎を訪づれる時、我等は先づ窓を開け放って眼をすゝぎ川に馳せる。若し風薫る頃ならば、色とりどりの躑躅の影をさゝ波に織込んで澄みわたり、霜厳しい頃ならば、空高く浮ぶ氷雲の相を鮮かに宿して冴えかへる。それは実に人の世の憂を知らぬ神の瞳にもたとへられよう。然し我等は川を常にかく雅びなものとしてのみ眺め、それのみを愛でゐるのではない。嵐を含む黒雲の下に、流れるとも淀むともなく濁るが儘に押黙る朝もあり、長雨の後の物ゝしい水かさを示しつゝ、灰色の渦を巻い奔る夕もある。神の世の稱ふべき美しさに欠けるとはいへ、その姿こそ人の世の生々しい力強さをもつて最も深く我等の胸に打迫る。

 水のほとり大欅の並木に沿うて歩を運びながら我等の行手に聳える理想の峯を心に描く時、思ひはともすれば我等の今の俤のさながらにまのあたり見るすゝぎ川に似る事に到り勝ちである。彌が上にも視野を広め、知識を練り最高の人間性を我が物にしようと努める我等は、それ故に偏ることをひたすら慎み不動を求めて外と内に迷ひつ喘ぐ。我等を取巻いて東洋の精神文化があり、西洋の物質文明があり、更に古典の匂い高い思想があり、現代の力強い思想がある。東西に超え古今に絶する新たなものを目指す我等は、それ故に、すゝぎ川の時に澄み時に濁り、時に滞り時に奔る如く、或ひは走り或いは停まり、右に試み左を顧みつゝ、苦しまねばならぬ。

 然しながら真理は迷ふべき数路ある所にのみその尊い光輝を増し、理想は苦しみ求める者にのみその深い啓示を垂れる。澄みつゝ濁りつゝ動いて行くすゝぎ川の水にも、やがては蒼海原の水となり渾然として全世界に満ち溢れる日があるならば、ゆらめきつゝたじろぎつゝ険しい道を辿る我等の思いが、ついに熟し固まつて全人類に行き亘る日も許されるであらう。

 澄まうとも濁らうとも、我等はたゝ永遠の確信の下に一途を守つて流れて行く者でありたい。

 

 

「すすぎ川の説」
 
伊藤 高 (文科三年生 1 期)
 
 校舎及講堂の敷地と、運動場との境界を流るゝ小川は初めは南西に、やがて迂回して南東に走り、次第にその幅を増し、遂には校地外に逸し去る。源はその一部を千川上水に得て居るが、大部分は塀の下より滾ゝと湧き出づる清水である。その水は清冽である。肥沃な黒土の掘割を流れ、中島を廻り、両涯の花卉灌木を潤ほす。一度土中に隠れ、現るゝや少しく濁り、底を蔽うて居る青ゝとした水藻の上を、子魚の影を宿しつゝ流れ行く。
 
 水の流れは悠久に亘って止まらない。常に流れ、流れては再び帰らない。忽然として浮かび、瀬を走り、淵に低廻し、やがて又忽然と消えゆく泡沫は実に人生の姿である。水は独りでに流れ、時は無関心に移り行く。時の無窮に比し、如何に儚いではないか。併し儚い生命は自己の姿である。我ゝは死ななければならない。併し何人も坐して死を待つものはない。寧ろ多数の者は不老長寿の薬を求めて、死を避けんとして居る。唯一無二の人生なればこそ、かゝる無益な、愚かしいが、いたましい試みが為されるのである。自然は人間を生きて行くやうに作つたのである。かくて我ゝはまた生きなければならない。宇宙は吾人の意志の表象であるとするも、実生活に於いて、我ゝが社会の内に生活し、相互に影響し合ふのが否定し難い事実であるからには、世を白眼視することを以って尊しとし、独り善からんとする態度は斥くべきである。社会はそれが善であれ、悪であれ、自己の人格を作り上げる最大因子を形成して居るからには、社会と吾人との間には絶つべからざる強い縁が存在して居る。社会の悪に染むにあらず、悪として捨てるに非ず、社会と全人格的交渉を保持して行く所に現代社会人の任務は存する。現代は個々人の時代ではない。組織的団体の活動の時代である。
 
 屈原の漁文辞に曰く「滄浪之水清兮可以濯吾纓滄浪之水濁兮可以濯吾足」と、即ちこの思想を言ふものである。濁と言ひ、清と言ひ共に流れの様相である。水は流れ、流れて行くのみである。悪をひたむきに憎み去らず、善に執着せず、すべてを生命の本流に託すのである。是に於て、社会と吾人とは根元的に交渉するのである。この辞の濯字を取って此の小川に命名したのは、深き意味あることゝ言はねばならぬ。


濯川蘇生事業計画


 蘇生事業計画の策定と実施をたどる上では、当時の太田学園長による事業計画趣意書・事業計画書、濯川蘇生計画の思想とデザインについては、計画の設計に携わった内田祥哉氏(高校17 期・東京大学名誉教授)による回想が有益である。以下、それらの内容を掲記する。

 

【創立60周年記念濯川蘇生事業計画趣意書】 
1983(昭和58)年4 月

武蔵学園長 太田博太郎
 
 先代根津嘉一郎翁の育英事業に対する熱意により、大正11 年我国最初の七年制高校として、旧制武蔵高等学校が創設されてから、昨年で満60 年になりました。この間戦中戦後の困難な時期を乗り越えた後、創立50 周年には、同窓・父兄その他各方面の御援助を得て、中学高校校舎、大学・中学高校両体育館、中学高校プール、大学学生会館などが新設され、江古田・朝霞両校地の施設再編成が実現致しました。また、創立60 周年に向けて、大学施設整備計画による大学キャンパスの大改造と、中学高校施設の増改築整備などが行われ、大学・中学高校それぞれの施設は、ほぼ、その形を整えることができました。しかし、それらの施設を容れる校地全体の要となる歴史的風土とも言うべき、濯川をめぐる環境整備が、工事全体の手順とも関係して、最後に残されております。
 
 同窓各位の思い出の中にも鮮やかであろうと思いますが、濯川は、千川上水の分流として校地内を貫流し、草創期の幾多在校生の手で、拡幅・護岸・架橋・植樹等が行われ、その流れは、大欅とともに、学園の象徴的存在でありました。しかし、昭和30 年代に千川上水は暗渠となり、40 年代末期に、暗渠からの僅かばかりの流入も断ち切れてから、濯川は、雨水のたまり場としての濁水の池にすぎなくなりました。学園の自然環境が教育に及ぼす影響の大きさを考えるとき、大都市内としては稀にみるこの貴重な水流の蘇生をはかり、周縁環境を整備して、濯川を昔日の姿以上のものにすることは、今や、その重要性をますます強めていると思います。ここに、大学・高校両同窓会役員諸氏のご賛同を得て、創立60 周年記念記念濯川蘇生事業を発足させることに致しました。
 
 大欅とともに草創の頃を語りつぐ、水と緑の共存する素晴しい濯川を再生させ、さらに後世に伝えるこの記念事業達成のために、なにとぞ、御支援を賜りますよう、お願い申し上げます。

 

【創立60周年記念濯川蘇生事業計画書】
計画概要
 
濯川蘇生計画の具体的事業は、流れる水の復活と周辺環境整備とであります。流れる川の復活には、川底の漏水防止・泥水の流入防止の上に、雨水・湧水・プール水などによる水源の確保と、水質保全を目的とする水循環装置の設置とを計画しています。
周辺環境整備としては、原形を尊重しつつ護岸を修復すること、全般に過密化した樹林に適切な手を加え、自然の姿を残しながら修復すること、歩行路や付帯設備を整備することなどがあります。
 
工  費
  流水復活関係      3,000万円
  護岸・架橋その他    3,500万円
  樹林手入れその他    2,500万円
  調査・設計・監修等   1,000万円
  合計          1 億円
 
募金要項
 
濯川蘇生計画への御援助は、武蔵学園後援会(1975年12月発足)を経由するご寄付として、お願いすることに致しました。
1.募金目標額  大学・高校の同窓生を対象に、1 億円以上。
2.募金期間   昭和58 年4 月から、およそ3 年間を目標にします。

 

【濯川蘇生計画の「思想とデザイン」】

 

 濯川蘇生計画の設計に携わった内田祥哉氏は、『建築文化』第496号(1988年2 月)に掲載された文章において、次のように述べている。

 

 ……濯川のイメージは、それぞれの人がここで過ごした時代によって違っている。創立当時の川は、広々とした原っぱの中の一筋の清流であったという。筆者の時代には水辺には、はっきりとした木立があり、川の一部にはふくらみもあって、池らしい様子も出来ていた。また、近年の卒業生は流れをほとんど感じさせない水面と、それを覆い隠すほどの繁みを思い浮かべるであろう。
 
 濯川の復活は、単純に以前のイメージの復元ということだけでは納まらなかった。
 
 太田博太郎学園長の音頭で、濯川復活の運動が始まると、われわれはまず流水実験を試みた。できるだけ水面は地表に近く、そして波音も聞こえるのがよい、という学園長の意向や、周辺には教材としての武蔵野の草木も欲しいという生徒たちの意見もいれて、川の一部に実験流をつくって水深、水量と岸の形の影響などを調べ、経常の経費の予測を立てた。
 
 ……流れは速さに抑揚をもたせるために、池の部分と下流の部分には溜りをつくり、急激な降雨に対しては貯水池の役割が果たせるようにした。
 
 上流の水源に当たる部分は、武蔵野の湧水が井戸からあふれる姿をつくり、ここに還流水を供給した。井戸枠は平城京左京四条二坊一坪から発掘された天平年間に掘削されたと推定される八角井戸を写し、木曽の「さわら」で復元した。武蔵学園は徽章に白雉を組み合わせている。白雉は、奈良時代の初めに武蔵の国に白雉が出現したことを記念してつけられた年号(650~671年)に因んだもので、八角の井戸の原形はそれよりも約90 年下るとしても、同じ奈良時代の中のものと見立てたのである。
(後略)

 

 上記の内田氏の文章にある「井戸」(直径1.5メートル)の枠には、「濯川の由来」、濯川が末永い生命を保つようにとの山本良吉の願い「すすぎ川の記」を、かつて高等学校中学校の事務長をつとめた矢代源司氏が揮毫している。

 

滄浪(そうろう)の水清(す) まば、以ってわが纓(えい)を濯ぐべし。

滄浪の水濁(にご)らば、以ってわが足を濯ぐべし。

 

 八角井戸の内側には濯川の由来が墨書された。

 

 1985(昭和60)年4 月20日に、濯川蘇生計画の第1 期工事が完了し、通水式が挙行された。当時の武蔵大学同窓会長であった石田久氏は、『大学同窓会報』第34号(1985年7 月刊)掲載の文章において、以下のように記している(一部を抜粋)。

 

濯川通水式に参列して
 
大学同窓会長 石田 久
 
 去る4 月20 日、濯川の一部(下流部分)の改修工事が完了して、通水式を行うからとの連絡を学校側から受けていたので出向いた。
 
 学校へ着いて、現場(濯川)のところへ行って見て、グラウンドへ入る橋のところから下流が全く趣を一変して、すばらしく整備されている。ほんとうに思わず、「これは良くなった」と口にだすほど立派になっていた。
 
 あいにく当日は朝から大雨であったが、雨も止み、通水式には、根津理事長(筆者注:二代目根津嘉一郎氏)をはじめ、学校関係者、工事関係者、同窓会関係者が列席し、私と武蔵高等学校同窓会武安義光会長が通水ボタンを押させていただいた。
 
 サラサラと、きれいな水が流れるムードは、都会の中から、自然の世界へ入った気分の良さを、味わうことができた。
 
 OBとして、これから武蔵学園で学校生活をおくる人達のために、このような環境整備のために、少しでも協力をと、考えていただけたらと思う。
 
 現在までの大学OB各位の、濯川関係の寄付金は、高等学校同窓会に比較して、あまりにも少な過ぎます。
 
 我々が卒業した武蔵が、良くなるために、大きな気持ちで、よろしくと呼掛けさせて下さい。
 
 この1985 年の3 月末における、濯川蘇生事業の募金状況が、『大学同窓会報』第34 号に記載されている。
 
  大学 259万円
  高校 3,308万円  
  合計 3,567万円
この翌年1986 年10 月末日現在では、募金状況は
 
  大学 1,474万円
  高校 4,570万円 
  合計 6,044万円
に増加した。(『大学同窓会報』第35号に掲載)

 

 そして、1986 年4 月の第二期工事竣工に際して、太田学園長から関係各位に送られた書面は、以下のように記されている。

 

〈濯川蘇生工事竣工の報告と御礼〉
創立六十周年記念濯川蘇生事業については、多大のご厚志を賜わり、まことに有難うございました。
 
 昨年四月に第一期工事が完了し、下流部分に流れが蘇りましたが、引き続き全面完成を期して、昨年十一月に着工、近々竣工の予定でおります。
 
 今回の工事では、講堂脇の旧「佐の橋」のすぐ下流に設けた、平城京跡出土の井戸を形どる木製の水槽の底から還流された水が湧き出して流下し、中の島附近では魚も棲める澱みを作り、「一の橋」のところで、昨年完成した下流部分とつながります。
 
 四月二十六日(土)午前十一時から、同窓会役員の方がたをお招きして、竣工式を行う予定です。両岸の植物などが落ちついた風景を作るまでに、なお相当の年月を要すると思いますが、皆様のご厚志を、将来にわたって生かしてゆきたいと存じます。以上、ご報告とともに、厚く御礼申し上げます。
 
 なお、何かの折には、ぜひとも、蘇生した濯川をご覧いただくとともに、今後のより良い環境のあり方についてもご意見をいただくなど、何かとご後援賜わりますよう、よろしくお願い申し上げます。
 
昭和六十一年三月三十一日
武蔵学園長 太田博太郎

 
濯川上流の水源部に見える八角井戸枠(2020 年1 月に筆者撮影)


山本良吉の願い「すすぎ川の記」が、八角井戸の内側に墨書されている。「滄浪(そうろう)の水清(す)まば、以ってわが纓(えい)を濯ぐべし。滄浪の水濁(にご)らば、以ってわが足を濯ぐべし」

 

おわりに


 武蔵学園キャンパス内には、「武蔵の歴史を物語るもの」が多々あるが、「知らない、伝わっていない」等々で埋もれたままになっているケースが見られるのは、いかにも惜しいと感じる。

 

 個人的な感慨を記させていただければ、筆者は2018 年度から『武蔵学園百年史』刊行作業部会員に任命され、部会に出席するようになった。寄稿に向け、大学同窓会報を創刊号から読んでゆく過程で、また『高等学校同窓会報』にも触れる中で、初めて蘇生事業の重要性に気付いた。

 

 前出の通り、『同窓会報』において蘇生事業が特集されたが、当時筆者は名古屋に勤務しており、「濯川」の存在は理解していたものの、同窓会報を目にすることが減り、率直なところ蘇生事業について全く関知していなかった。旧制高校当時からの歴史的な流れに、少しでも関心があれば、あるいは関心を広げることができていたら、蘇生事業への寄付にも、もっと貢献が出来たのではないかと、今回の執筆の際に感じた次第である。

 

 筆者は、武蔵大学同窓会の本部役員を経験した時に、大学同窓会の年会費への関心を高めるためにプロジェクトを作り、そのリーダーに就き、視点を工夫しながら、卒業生に同窓会の存在をアピールした経験を思い起こすことがある。また、運動部経験者にアピールした朝霞グラウンドの人工芝化への協力のように、学園後援会が主導する寄付では、「より身近に感じさせる事」が積極的な寄付の実現に繫がることも実感している。

 

 学園がいよいよ百周年を迎えたことから、「武蔵の歴史を物語るもの」と「学園事業への協力=寄付」の視点から「濯川」を採り上げた次第である。


【参考文献】


『武蔵高等学校同窓会会報』第26号(1984 年)
『武蔵大学同窓会報』第34号(1985年)
『武蔵大学同窓会報』第35号(1987年)
「武蔵学園濯川蘇生計画」(『建築文化』第496号、1988年2 月)
武蔵70年のあゆみ編集委員会編『武蔵七十年のあゆみ』(学校法人根津育英会、1994年)
武蔵学園70年史委員会編『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』(学校法人根津育英会、1993年)

武蔵学園史紀伝一覧
 
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